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京都桂店
「opportunity」
投稿日:2016/10/26
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photo by volvo
『pintarest』という写真を閲覧投稿できるwebサイトがある。
私はこのサイトで見る事ができる写真をよく撮影の参考にしているが、中々面白い写真が多いのが特徴だ。
外国人の写真が多いのだが、自分が撮りたいイメージの単語を入力すれば誰かが
挙げてくれた写真を検索できるので大抵の写真は見つける事ができる。
『pintarest』の写真を見ているとどの写真にも共通して感じる感覚がある。それは総じて「美しい」という事だ。
よく「雑誌のような写真」という言葉を聞くが『pintarest』で見かける写真はすべて「雑誌のような写真」と言っても過言ではない。
むしろ雑誌を見ていて「pintarestのような写真」と表現したほうがしっくりくるくらいに。
私には『pintarest』をよく見る理由が仕事の中にあるが
それは私たちが75枚を渡し理由を聞かれたらこう答えるようにしているからだ。
「共に過ごした1時間の起承転結をみてください」と。
75枚がただ衣装を交換した3シーンではなく一曲の音楽のようにシナリオを組むのならば
私はどこかで「雑誌のような写真」を入れたいと企んでいる。
それは「いつものその子」から「見た事ないその子」に変わる瞬間で
日常から非日常へ、親戚の家からリッツカールトンホテルへと変わる瞬間だ。
ところが『pintarest』に載っているような写真と一般的に見る商業的な写真では本質的な違いがある。
それは「成長記録」という点だ。
『pintarest』で私が見る写真に成長記録の側面はほとんど無い。というよりはそれを目的として撮影されていない。
私たちの仕事の大部分は来てくれた家族の思い出と子供達の成長を記録する事だ。
この二つの本質的な違いは写真を残す目的の相違として現れ、仕事としてシャッターを押すにはこの二つは矛盾しかねない。
この矛盾は私たち撮影者に対して仕事の本質を問いかけるものとなり「私はこれを撮って良いのか」と自問自答するようになる。
わかりやすい例で言うと表情の見えないイメージカットなどがそれに値する。
確かに成長記録は残すべき大事な要素だが、私たちが撮影している理由はそれだけだろうかと問い直さなければいけない。
もう一度仕事の本質に戻って話をしてみると、仕事とは誰かの価値になるから仕事として成立する。
誰の価値にもならない仕事は仕事ではなくただの行為だ。
つまり、撮影をしに来てくれた家族にとって「価値」とは何なのか?という根本的な問いの答えの中に
成長記録と共に「雑誌のような写真」も含まれているのなら、それを撮る事に「価値」は存在しているのである。
その為にはご家族の事を良くみなければいけない。
友達の写真を見てから来店してくれて、どういう写真に惹かれてご来店されたのか。
冬独特の西日とドレスを着て変貌を遂げた彼女のコントラストを見て「幻想的」と言ったママさんの一言。
帽子をかぶった時の彼女の表情を見て「雰囲気がいつもと違う!」と何かを期待してくれている雰囲気。
こうした空気を感じた瞬間、私の中にあった『pintarest』の記憶がしおりを挟んだ読みかけの小説のようにめくられ
彼女のイメージと合致させていく作業が始まる。
子供の帽子の直し方が顎を上げる事を想定したうえで深めにかぶってしまった帽子を直す仕草を誘導し
威風堂々とした表情が逆光を浴びた輝く目を引き立たせた。
順光というのはその潤沢な明るさから何でも撮れそうなものだが、利用するのが意外と難しい。
例えばこの写真のように直射日光が当たっていてモノクロ設定にしていながら
彼女を爆笑させるのは写真の統一感としてあまり適切ではないように、イメージが先行しない限りうまく利用する事ができない。
彼女のドレスを着てからのすました表情、そしてこの西日、家族の期待が合わさって私の記憶にあるイメージと合致しモノクロ設定を選択した。
一期一会とはよく言うが、それを写真に残す事は容易ではない。
同じ写真は2度と撮る事はできないはずなのに、いつの間にか当たり前のように同じようにシャッターを切る事も珍しくありません。
人生で2度と訪れる事の無いその瞬間を最善を尽くして残す事、それが成されれば「成長記録」でも「芸術写真」でも最高のものが提供できると思っているし
原本にリズムが生まれると思っています。
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