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京都桂店
Humanness〜人を撮るということ〜
投稿日:2016/6/14
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photo by volvo
codi by yui nakajima
in SOKA
草加店に来て、一ヶ月が経ちました。草加店の雰囲気は良いです。
それは何か技術的に秀でているとかそういうことではなく、なんとなく過ごしてしまいがちな毎日に
少しでも刺激を与え新しいものを受け入れていこうとする姿勢と、それを登山中のリュックに入った鉄アレイのように
重荷と捉えるのではなく、ジムで自ら対峙するダンベルのように意志と目的を持って持ち上げようとする空気が
そう感じさせてくれるのだと思います。
写真に対して、今まで私はそれを自らの内部で行ってきました。
自分の写真に対して自分自身から発するプレッシャーによって気持ちを鼓舞し、それは登山中の鉄アレイであろうと
ジムのダンベルであろうと関係なく自分に乗せ続けてきました。
冷静に考えてみればがむしゃらにやってきた目的はただひとつ、写真が上手くなりたいだけだったのだと思います。
わかってたことですが、どうやら私は負けず嫌いのようです。
私は写真ではなく仕事というものをそのように捉えひた走る性格のようで、思い返せば前職でも
最初の3年ほどは「追いつき追い越してやる」と息吐いて仕事をしていたのを思い出します。
ライフスタジオが文房具を作る会社だったとしても多分働き方は変わらなかったでしょう。
そんな私もこの会社にきて5年が経とうとしています。
5年も個人的に燃え続けるのは私にとって至難の技です。
もちろん年齢的なものもあるかもしれませんが、30歳を過ぎ、4~5時間の睡眠で次の日に
3件から4件の撮影に入る事を維持するのが難しいのは体力だけでは無いと感じています。
自分の中の火に対して、横から油を注いでくれる仲間の存在や
そういう空気感を持つ組織を作る重要性を32歳になった今、しみじみ感じています。
前置きが長くなりましたがそんな空気感からこの写真は生まれました。
「成長を目指さなければ維持さえもままならない」と私は考えています。
この写真を語る上でまずはじめに感謝しなければならないのは申し分のない被写体に出会ったことです。
7歳というのはライフスタジオで仕事をしているときは「大きい」と見る傾向にありますが
下校中にランドセル持ちをしている小学一年生を見ると「小さい」と感じます。
そんなちょうど中間点に差し掛かっている年齢だから、来店する子供達の性格もまた千差万別です。
そんな彼女は、私が今まで撮影してきた約4000件のどのカテゴリーにも当てはまらない
目があった瞬間から特別な雰囲気を持っていました。
例えるなら、ラブコメ映画でたくさんの男達に対して、口角を上げるだけで虜にする高嶺の花的存在感を放つキャラクター。
まさに「メリーに首ったけ」のヒロインを演じているメグ・ライアンです。例えが古いでしょうか・・・。
笑わなくても、声をかけなくても、カメラを見ている顔には静かで何かを訴えかけてくる力があり
かといってモデル意識高く表情を作るわけでも無いし、無表情でもない。
わざと変な質問を投げかけても、クスリともせずに冷静に少し低い声で「知らない」と答える。
普段なら「難しい撮影になりそうだ」と気を張る瞬間だったかもしれなかったけど
この時は妙にそれが魅力的に見えたので「この特徴を活かした表現をしなければならない」と逆に意気込む自分がいました。
私がこの写真を選択した理由はこうした関係性が写真に表現できたということと総合的な統一感を生み出す事ができた事です。
個人的に写真において重要なのは「統一感」だと思っています。バランスという言葉とも似ています。
統一感というのは総合的なバランス、光やポーズ、構図や色あいインテリアなど写真の構成要素が全てその被写体(写真)専用に構築されている事です。
ラブコメの主人公のような雰囲気を持つ彼女がバスの座席ではなく入口に座る事は
シネマ的な非日常要素が意味を付与し、そこに佇む事を「物語のひとつ」として違和感を消してくれます。
構図に関していうならば私は整理された写真が好きです。整理というのは「そつがない」という意味です。
窓越しに写す事で得るメリットは反射を利用した前ボケと、全体的にコントラストが下がってフィルターを通しているような
「わざと作る被写体との距離感」の2つがあります。
前ボケはライフスタジオの代表的な撮影技法のひとつです。
その意味も1つや2つではありません。
左上にある大きな前ボケは「写真の重心」の整理を担っています。
写真に写るものを質量で考えてみると、絵画的な理論になりますが一般的に質量の大きなものが上にあるほど不安定になります。
例えば被写体が上の方に配置されていたら写真がグラグラする感じに見えると思います。
左上の前ボケは右下に配置されている被写体である彼女と対角線上にある事で
質量が右下と左上に均等化され、写真全体的な量的なバランスをとろうとしています。
私のイメージではこの二つが互いに引っ張り合う感じです。
また、左右にバスの辺を入れる事によって「場所の説明」と「質量の均等化」そして
「フレームの中のフレーム」として被写体への集中力を高めるねらいがあります。
そして統一感を出すにあたって、特に重要な核心部分は被写体の姿勢、ポーズにあると思っています。
私は「自然さを人工的に作る」ことをできるだけ心がけていますが
それは中々簡単なことではないのは写真を撮り始めて5年が経った今でも感じています。
「写真を撮る」という非日常的な空間においてこたつでみかんを食べるような
自然さを出すのは俳優ならまだしもいち写真館で叶えるのは簡単ではありません。
個人的にポーズを取る時に自然さを出すポイントは「重心の理解」と「伝わる力」の2つだと考えていますが
最も重要なのは「伝わる力」だと考えます。
ここからは少し哲学的になってしまいますが、伝わる事とは、結局は人間関係、人に深く入る事と同じ事だと思っています。
愛の告白がうまくいくためには三日三晩言葉を考えるように、人に何かを伝える時、それが伝わるためには
当たり前ですが伝わるように話さなければいけません。よく新入社員を教育する時に「なんで新人は分からないんだ」と
嘆く上司を目にしますが、これは例えば被写体が指示通りにポーズを取れない事を「なぜポーズがきちんと取れないのか」と
怒る事と同じで「伝わる」事が為されなければならないはずがいつの間にか「伝える事」が目的になっていることがあります。
私達は写真に悩んでも被写体にポーズを取らせるために三日三晩考えたりはしません。
「伝える」と「伝わる」は主体が私からあなたへ移動する事を意味します。
カメラマンと被写体という関係においてこの2つを取り違う事は
結果だけを見れば「被写体にポーズを付けられない」ということに留まりますが
本質的には撮影をするうえでの姿勢が決定的に違う事を意味します。
それは、被写体に深く入ろうとしているかどうかです。
「伝える」に留まることは撮影を主観的にのみ捉え、自分がしたい事を直接的に投げかけているだけの状態です。
「伝わる」事を成していくことは、被写体を一度客観的に捉え、自分に取り入れ、再度主観化する作業が為された後にシャッターを押すことです。
具体的に言えば、このポーズを取るためにただ「体育座りしてよっかかって」と言うのではなく
「あなたは人を待っている。だけど中々来なくて待ちくたびれて疲れてきたんだ」と伝えると
それによってポーズの力を抜き、表情に物語が現れます。
この表現を可能にしたのはメグライアンという私の中での彼女の観察結果があったからです。
新入社員も写真の被写体も同じ「人」です。
しかし皆違う「人」です。
こちらの伝えたい事はひとつでも伝わり方は千差万別です。
だから伝わるためには相手の特性を知らなければならず、写真とは人を深く知る事と同じであると言えるのだと思います。
1時間という短い撮影時間の中でどれだけの「意思疎通」が成されたか?
これが私たちがこの会社で重要としていることであり、結果として写真に現れるのだと感じます。
そんな彼女と対話を通して撮影をし、抜けそうな歯をなんとか抜けないようにしてきてくれた事や
モニター後に落ち着いた声で「ねえ、次はいつ来るの?」という言葉を発している姿を見て
「あぁ、そういえば7歳だったな」と我に返る自分がいました。
結局いつも関係性の話になってしまうのは、良い癖でしょうか。
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