レポートReport
2012年撮影者変化発展プログラム:[ ダルシックE DALSIK-E ]はどのように作られたのか?
2012/5/7
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撮影者変化発展プログラム
[ ダルシックE DALSIK-E ]はどのように作られたのか?
2012. 3. 20 Mr. Lee
-. 始めに
今から私の自慢をしようと思う。自慢でもあり、同時に不便な真実でもある。少なくない時間の中、どんな規制を受けるわけでもなく自由な空間で、この程度しかできなかったという過去に対する懺悔の記録でありながら、それでもこの程度やったんだという慰めもある。これが自慢なり、恥ずかしい過去に対する懺悔の時間であるなり、[ダルシックイ―]が今まで発見した撮影者の変化発展プログラムの最終バージョンであることには変わりない。健康な緊張感が維持される、撮影者の変化発展プログラムと、写真が持っている真正な意味に近づくためには毎日撮影がなされる現場で答えを探さないといけない。別途、努力や教育と共に私達が呼吸する現場で、目には見えないが少しずつ変化する自身を発見する方法が必要だ。それが[ダルシックイ―]という単語で表現されたものであり、四方八方に突き当たりながら15年間私の体にできた傷の結果物である。
技術向上のために、良いといわれるたくさんの方法を提示し、教育し哀願もしてきた。その結果2勝35敗3引き分けの成績表をもらった。今まで私の頭の中では35勝2敗3引き分けくらいの自慢に満ち溢れていたが、結果はその反対であった。私の自意的な判断とは関係なく、核心は撮影者一人一人が自分達だけの[変化発展プログラムを持っているのか?]である。ライフスタジオの撮影者達が自分なりの変化発展プログラムを持っていないために、このような成績を得ることしかできない。
持続的でありながら現実的である具体的なプログラム、探していく形態から条件を作りながら被写体の美しさを追っていく傾向への転換、人に深く入っていく習慣、自身の変化発展を維持できるようにハシゴの再生産などが必要だ。
ならば、今から撮影者の変化発展プログラムを持って[ダルシックイ―]が作られた過程と、この重要な内容を説明していきたいと思う。
-. 期間区分
20代中盤、
多くの友達が大学を卒業し、次々と会社に入った。そして初めて給料をもらい焼酎一杯おごるよと言いながら、社会から受けた衝撃と希望を話していたあの時代。学生会活動の栄光が覚めやらず、会社に入ることは取るに足りないことだと考えていたあの時、偶然写真を始めることになった。名刺を作り人に配ったり、撮影の練習をするといっては公園や道をいったりきたりしていたある日、連絡がきた。私にウエディング撮影を依頼したいと。。。
撮影契約をし、一番初めに考えたのは撮影するためには、カメラが必要だということ。だからカメラとレンズ、フィルムを買った。フィルムの名前も知らず「横に長いフィルムをください」と言うくらい無知から始まった撮影も、もう15年以上が過ぎた。
15年を大体3期に分けることができる。
[シサ会]という名前でウエディング写真をメインに撮っていた最初の5年間。
[サガナム]を中心にベイビー写真をメインに撮っていた5年間。
そして[ライフスタジオ]を中心に日本での5年間。。。
各期間の間、私がしなければならず、するしかなかったことがあり、そこに対応していく過程で自分の変化発展プログラムが作られてきた。[シサ会]の時は、写真の構成要素を私の体に受け入れる過程であり、[サガナム]は、受け入れたものを個人的な次元で外部に表現する時期であった。[ライフスタジオ]は、システムを作り適用する時期だった。多分[ダルシックイ―]がある程度定着するならば、写真の構成要素を私の体の中に入れ、再びアップグレードする作業をすることになるのではないかと予想している。それが、変化発展プログラムを維持する最善の方法になるだろう。
[シサ会]
[これは違う]、[では何なのか?]に対する疑問
名刺からアルバム制作まで、誰かの手助けや教育を受けたことがない。あえて受けなかったというよりは、どうやってどこで誰に助けを求めればよいのか分からなかった。フィルムを買う店の職員と親しくなり、あれこれ聞くくらいだったため、技術発展の速度は遅かった。写真を始めて2~3年程過ぎてからやっと、他の人のスタジオを見学するようになり、写真を職業とする人々に会うようになった。全てのことが試行錯誤で行われ、変化と発展を遅く進行していたということは、そのくらい苦痛を伴うということだ。私を信じ、依頼をする顧客に信頼を崩すような写真を直接渡す時間は本当に耐えがたい辛いことであった。撮影をし、アルバムを渡すまで、約2ヶ月ほど時間が必要だった。実際の新婦の顔よりもアルバムの中にある写真の顔に慣れていて、アルバムを渡す時に新婦の顔を確認する瞬間、私の心臓は乾いたなつめのようにしぼんだ。アルバムの中の人物と実際に見る新婦の顔は別人のようであった。勿論実際の新婦のほうがはるかに綺麗だ。本当に辛い5年という時間であった。いつもアルバムの中の新婦と実際の新婦が違い、客観的に、見える外面の美しさを表現することができないということは、撮影行為を持続することに相当な疑問を持つようにした。だから撮影がある日は少し体の調子が悪くなる気がしたり、撮影が終わると理由のない疲労感につつまれた、
特にポーズを指定し、ピントを合わせるためにカメラのビューファインダーから見る映像は何か不足しており、完成しなかったという不安がいつも存在していた。喉から胃腸にいかず、間で何かが引っ掛かっている感じ。
5年間ずっと持続される霧のなかでの道探しは、私の写真において何を意味していたのか?
[これは違う]という考えと[では何なのか?]に対する終わりなき質問は、私を苦しめもしたが、私の発展を引き寄せる主体になった。写真の全ての構成要素に[これは違う]‐[では何なのか?]に対する模索と行動、評価の3拍子が5年間ずっと成されてきて、ある瞬間に大転換を経験するようになる。5年間の量的な成長が質的に変わることを私の体で感じるようになった。いきなり技術が良くなったということではなく、追われる不安感から追っていく安定感に変わった。同時に写真の構成要素がお互いに関連を持っていることが見えてきた。[これは違う]‐[では何なのか?]に対する模索と行動、評価の3拍子は能動的な道探し、人に集中するという2つの方へと走って行った。
能動的な道探し…
スタジオに入社し、そのスタジオが追求する方向や方法に慣れながら、自身の行くべき方向を決めていくことは普通の過程だ。しかしフィルム購入からレンズの使用やアルバムの制作、撮影場所の選択に至るまで、全ての事を直接知っていくということは時間と費用の面からみても、とても非効率的であることは事実だ。しかし、一つ一つ自ら知っていくということは、その全ての構成要素に私のDNAを注入する過程であり長く見たときに、私の競争力の源泉になってくれた。東京から名古屋に行く時、ふつうは新幹線に乗って行くが、私はその時歩いて行くという表現を使ったことがある。能動的で自ら道を探していくことは長時間の苦痛を伴うが、そのくらい写真の構成要素を本質的に知ることのできる有用な方法である。よく基本気が良ければいいというが、ゆっくり歩いて行くことで基本に充実した時間になった。少し前に李ウォンボクリーダーが主管している撮影教育で、各自の写真とライフスタジオの写真に対して一つの単語で整理する時間があった。躊躇せず個人の写真は[圧縮された自然な姿]、ライフスタジオは[見えるものだけを押す]と書いた。5年間[これは違う][では何なのか?]に対する終わりなき質問に対する答えは[圧縮された自然な姿]として、現在まで整理された。他の人達の単語を見ると、美しさ、気分の良い時間など、抽象的な答えが殆どであった。各自見えるものを押し、その瞬間感じる一致感に依存していて、その実態が何なのかに対して具体性を持ってはいない。主題の水準は重要ではないと考える。自身の方向性を持って、そこへ黙々と歩いて行くこと自体が、5年間霧の中での道探しの過程で鍛錬された私だけの技術になった。
ライフスタジオに入って大体1年程度過ぎれば、問題なく撮影者になれる。自分の写真に対する自信は少なくとも、現実的に問題は発生せず、周りからも写真に対する特別な話しをされない。そのように慣れてきて、自身の写真に対する変化発展プログラムが可動されないようになる。光に対する本質的な理解よりも、現在自身が撮影するスタジオの光を部分的に理解することでそれを光の本質だと錯覚するようになる。光に対する本質的な理解がなければ、光に対する新しい視覚は発生しなくなり、光に対する視覚は固定される。写真を分析してみなさいと、よく話す。新幹線に乗って適当に見えていたものたちを、名古屋から東京へ歩いて帰っていきなさいということだ。そうすると、固定されている視覚に変化を与える事が出来るからだ。そして、大人の写真撮影をしなさいとよく言う。子供達は探すことだが、大人は作らないといけない。探す時は自分が持っている1つ2つの武器だけを使用すればよいが、作るためには様々な道具が必要になる。与えられたことだけに慣れていくのではない、自ら慣れないようにする努力である。これが能動的な道探しの始まりであり、写真の構成要素に自分のDNAを認識させる出発点である。
人に集中
顧客が私達と契約をし、撮影を依頼するということは、私達に良い写真とサービスを1次的に要求している。しかし当時の[シサ会]では、写真やサービスよりも、人に集中した。つまり、念仏よりも供え物の食事に関心を持っており、そっちのほうにいろいろなレパートリーを作っていった。写真を始めて約2年後に5坪あまりの事務室を借りた時、開業式にきてくれたお客様は数十人いた。来てくれた人々が多すぎて、開業式を3~4回行った。その時来てくれた人々は、私達が本当に事業に成功するだろうと信じてくれていた。理由はただ一つ。人に集中し、それが最高の競争力ということに同意してくれたからだ。結婚式の撮影に行くと、その違いが明らかに現れる。普通韓国では約300名程度の家族、友達が集まり結婚式を行う。その300名の中で少なくとも100名以上の人々と会話をし、一緒に写真も撮影し、その当時とても新鮮であった。3~40名程度が参加する1歳の誕生日パーティーでは、同じ人達と2時間くらい同じ空間にいるため、すべての人々と関係を結び、お互いを繋げてくれる写真の役割に集中するようになる。写真はあまり見れたようなものではなかったが、人に対する信頼が強くなりながら、口コミにより顧客の増加が目に見えて分かるくらい増え、ウエディングでもある程度の基盤を作ることができた。人に集中するということと、写真の技術の相互関係はあまりないように思うが、ここでも決定的な一撃があった。
人の中に早く深く入ること、
撮影者と顧客が皆願う状況を作る能力がこれだ。
一般人を対象にするスタジオでは撮影者を上手な人と下手な人、または、有能な人と普通の人程度の2つの段階で区分している。ならば、それ自体を決定する基準は何なのか?いろいろな基準があるだろうが、「自分が自ら条件を作ること」と「あるがままの条件から探すこと」では、勝負が分かれると考える。
なぜ人々の写真の技術は一定期間過ぎると同じくらいになるのか?
そして、その似たような時期が来たときに発展する速度が止まってしまう現象はなぜおきるのか?
与えられた条件で美しさを探すことは特別な能力を要求しない。いつでも同じ空間で撮影行為が行われるため、一定期間の経験があれば、自然と習慣のように体で認識するようになる。このような方法が持続されれば、与えられた条件で探そうとする傾向をもつようになる。これは、冷蔵庫を開けて、中にある材料だけで料理をすることと同じだ。いつも同じ材料だけを使って新しい料理を作らないといけないため、限界が見えてくるしかない。しかし、愛する人のためにもう少し新しく、おいしい料理を作るためには、スーパーに行っていろんな材料を見ながら新しいものを選択し、応用したりしながら時には新しいキッチン用品も買ったりするようになる。
[自分が新しい条件を作ること]は
自分の意志が積極席に介入されているということから価値が発生する。
ある条件だけで探すことは、ほとんどがコピーと同じであるが、[自分が新しい条件を作ること]は創造であり、無限の可能性を含んでいる。私達は人を対象にしている。人は、自分がどんな人生を生きてきて、どんな価値観を持っているのか書かれた本を持って歩いているわけではない。短い時間の中でその人に対する情報取得と共に分析が同時になされなければならない。そして、同意を得る過程がなければならない。あたかも精神科治療のために催眠療法を使用し、その人の内面にあるものを表に出していくことと同じだ。より多くの情報と正確な判断をすればするほど、私達が写真で表現できる可能性は高くなるようになっている。人間は普遍性と特殊性とを同時に持っている。人間が持っている普遍的価値は誰にでもあるが、一人一人違う。このような普遍性と特殊性の結合が、その人が存在している美しさであり、私達はそれを表現する義務がある。被写体が持っているものを捕らえ、外に表現することが条件を作ることであり、散らばった状況に魂を与えることは、発する言葉やポーズのような撮影者の技術である。
人に集中するということは、実践を基盤にしている。これは、単純に撮影過程で起きている人間関係に限ったことではない。私達が息をし生きているすべての部分に、いつでも同じ基準と行動が適用されなければならず、撮影過程ではより真正性が含まれた実践を必要とする。
その当時、年俸200万ウォン程度、日本円にすると約20万円程度の経済的極貧の中で生きてきた。簡単に言うと、ポケットにお金がひとつもなかった。しかし私の外部の顧客に同じ原則と基準、そして実践を継続しながら経済的難しさを超えた、持続可能なその何かを得た。それは。。。
人間を顧客として対象化しないこと。
慣れないために常に自分を新しい条件に追いやること。
人間と社会に対する勉強を面倒くさいと思わないこと。
原則と目的を失わないこと。
[サガナム]
持続的でなければならず、現実的でなければならず、具体的でなければならない。
システムが導入される時期だった。[シサ会]時代は一人で契約と撮影、物流を行ってきた。しかし、サガナムの支店が3~4店舗に増え、連絡事項も増えてきながらシステムの導入なくして営業行為ができない規模になった。特に人に対する教育、その中でも撮影者に対する教育が何よりも重要な時期であった。私が持っているもの、または、持っていないけれども持たなければならないものを他人に伝達するということは、興味深くもあり、難しい過程でもあったが、結果的には私の写真においての大転換を起こすことのできる機会になった。
教育のためには、必ず構造化、論理化が成されなければならず、伝達装置が重要だ。教育は進行しながら一定のパターンができてきた。始めは撮影技術に対する話がメインに行われた。レンズは何を使えばよいか、光の調節はどのようにしたらよいかなどの話をした。そして、撮影者達に共通して見える問題と限界の解決に焦点をあてるようになった。解決方法としては、循環勤務などの新しい条件の処置、自分の写真の客観化作業、成人写真の必要性などを説明しながら新しく使用する筋肉など使うようにした。しかし、これもだんだんと効果が落ちてきながら、動機付与の方向で店長や創業などの新しい条件を提示するようになった。結局はイベント性の教育事業として終えながら、持続性に対する疑問を持つようになった。各支店を回りながら写真と撮影技術や新しい職責、創業に対する話を聞く人の立場とは関係なく、やたらと話を大きくし、うなずく姿を見ると、安堵のため息と共に、満足感も訪れた。客観化させなければいけないと決意したが、主観化の間違いにはまっていく私の姿を見ながら結局[サガナム]をやめることになった。
あなたたちのためだと話してきたが、自己確認を超えることができなかったということは、日本に来て知ることになった。皆のためのシステムや教育プログラムを作るという名分は、つまり自分の限界を設定するための試験台の役割であって、多くの人々はテストのための材料になった。言葉ではあなたと私達に向かっていたが、本質は私のためのパーティーであったことを自ら認めるしかなかった。 [シサ会]時代の5年間、暗黒の時代を過ごしながら知ったことを、少しの言葉や方法で他の人にも伝えるということ自体が成立しないのである。サガナムの約5年間の時間はこのように経験を通し知ってきたものをシステムで作らなければならなかったが、失敗の連続であった。私が持っているものを見せ、食べさせ、着させたが、人々は理解できず消化できず、体に合わない服を着させてしまった。
日本に来て過ぎた日の問題を考えてみた。答えが出た。この答えを得るために[サガナム]の5年間が必要だったのだ。
持続的でなければならず、現実的でなければならず、具体的でなければならない。1:1で写真の教育をすることは持続的にできないことの方が多い。1:1の方法は1カ月に1回ほど、写真を見て方向を提示し、常にでるエラーを指摘していく程度で、よい効果を得ることができる。そして、いろいろな課題を出し、それを行うことで、教育を進行することもあったが、これは持続的なことと、現実的なこと、そして具体的なことすべてにおいて役にたたない。課題だけだすことが問題であり、その課題が現実と連結されることが重要だ。そして、一定期間写真アカデミーの形態で進行された事業も短期的な教育で終わりながら、持続性に疑問を持つようになった。勿論、空間が離れているため時間を作り、やりたいと要求する人達に教育をすることは、一定の効果を発揮するが、ある限界を超えることは簡単ではない。結局写真をよくするためには持続的であり、現実的であり、具体的でなければ効果を発揮することは難しい。
自ら自然にならないといけない。
サガナム時代に漠然と技術にたけてないとならず、競争業者に対する相対的な優位を持たないといけないという執着があった。しかし技術の発展速度が人間の適応力を超えることができないということを知った。良く、高いものではない、[違い]を追求することが、自然な変化発展の道だということが少し明確になった。[違い]の根本は自ら自然になった時可能になる。各自が持っているものを外に表現されること自体が[違い]である。
サガナムができてから初めて、顧客の関心を引くようになった背景は、既存の社会の秩序を変え始めたインターネットの革命であった。既存の、地域を拠点としていた写真館では、若干独占的な性格を持っていた。写真を違いやサービスの差別化ではなく、その場所に写真館があるということを知らせるだけでよかったのだ。しかし、インターネットが普及し、写真の質を判断できる条件が作られながら、選択肢が顧客に移っていった。それに続いて地域の境界線が崩れ始めた。もう少し良い写真とサービスのためならば、わざわざその場所まで尋ねていこうとする顧客が現れはじめ、そんな情報がインターネットで活発に共有されながら差別化された写真館へと傾いていく現象が発生した。運の良いことに、その傾いた現象のメリットをサガナムが受けながら、早い速度で成長するようになった。新しい写真や商品ができたら、市場でその時その時反応があり、その反対の場合も発生した。だんだん顧客が優位に立つ状態になり、共に技術発展速度が速く進行されていった。同時に経済業者たちが1日が遠いといっては、建っていく韓国のベイビースタジオ業会は熱い競争自体に突入することになる。一つの業者が新しい衣装で人気がでれば、1か月過ぎないくらいに業界に同じ衣装が普及されるような水準であった。技術発展の膠着状態を解消するために、規模を広めたり、海外に直接行き新しい衣装やアクセサリーを購入したり、新しいアルバムやフレームを出資したり、小さなスタジオのグループ化を通した新しいブランド出資、マーケティングの新しい接近を通した新規顧客創出などのできごとが発生してきた。しかし、問題は何カ月の内にそのような努力が業界の一般的な現象になるということだ。この時[サガナム]では、技術発展の限界を認め、新しい領域の拡大を決定するようになる。フィリピンにデザインセンターを作り、日本に進出、全国のスタジオを一つに集め力をあわせ主導権を行使するホームページ構築、フランチャイズ事業の開始などを推進した。ある程度の成果もあったが、持続的にエラーが発生しながらサガナムが平凡なスタジオに転落し、パートナー達の同業関係が崩れるようになった。
問題は大きく2つに分けられる。
まず、外部的に量的拡張に重点を置いたが、質的に内部が競争力を備えることには関心外事になった。これはパートナー達の祭りごとに過ぎず、規模が大きくなったことに比べて内部がついて行くことができない結果を見せた。これは、私たちになぜ量的拡大が必要なのか認識することが出来なかった状態で、自分ができると考えられる新しいことだけをすることになった。戦略と戦術、または、持続可能な内部文化の観点ではないパートナー個人の欲望や忙しさの中での怠けから起因される。
2番目に、先に競争相手や業界の傾向を経営活動の基準に置きながら、内部の方向性を失うことになった。もちろん直接的な競争をしている状態であり、全く同じ顧客を対象に、偏った現象に対する憂慮は現実的に近づく圧力である。しかし、内部競争力の重要性を分からないわけではなかった。重要性は認識しているけれど、それが何を意味し、どのようにしなければならないのかに対して基本知識すら持っていなかった。
すべての競争力の根源は内部の競争力にある。そして内部競争力は人にある。人の競争力は、目標に同意し変化発展のための直接的な行動から出る。これら全てのものは、目標を達成しようとする情熱と絶え間ない条件変化からくる。条件変化は個人の努力も重要だが、自ら自然にならなければならない。したがって、自ら自然になるために絶えず条件を変化させなければならない。私たちの正確な服になる時まで。。。
スタジオのリーダーは、自ら自然になるための条件を作る役割を与えられた人である。内容と形式のバランスを考えながら私たちが乗るに相応しい車を作らなければならない。そのためには毎日変化しなければならない。自ら自然になるための条件を作る事は、一貫して持っていなければならないが、常に変化しなければならない。すなわち、一貫性と変化のバランスが必要だ。スタジオで撮影者が自ら自然になるためのプログラムが必要だ。自分だけのプログラムで変化の帆を上げて、風が吹く方向に自ら自然に流れていく想像を現実に適用することはできないだろうか?
[ライフスタジオ]
ライフスタジオでは少し前まで、写真に対する話をあまりしてこなかった。サガナムをしながら写真教育に対する懐疑的な記憶があり、特別な代案を持っていなかったからだ。何度か撮影教育がなされたが、そんなに効果を期待しはしなかったし、特別な技術に対する説明の水準を越えなかった。そうしている間、私に重要な契機になる事件が起きた。韓国で[サガナム]を一緒にしていたパク室長がサガナムの看板を下ろして独立するという話を聞いてすぐに走って行った。韓国のそのスタジオに行って写真を見た瞬間、はるか遠く忘れていた、しかし写真館において決定的に重要な[写真]に対する自覚であった。何の教育も受けず、見えるものだけを撮影しながら、自分の写真に対する恥ずかしさも分からない状態の写真を見ながら、一瞬ライフスタジオを考えた。日本にきてライフスタジオの写真等を見ると韓国とそんなに違わなかった。当惑感と共に組織が私に付与した義務を放棄したという罪悪感がでてきた。
いつも話していた。写真館で写真は20%に過ぎないと...今でもそのように考える。ところが20%も重要なのだ。20%にそれなりのシステムが作動しないということは、残りの80%も同じ状況だということだ。良いインテリアと大きく不便でない条件を作るならば、人は勝手に発展すると思った。組織の内部文化が撮影者の撮影意志を折らなければ、自分の速度で発展するだろう。特に、ライフスタジオでは学習と教育、変化発展が重要だと話してきたではないか?しかし人の変化発展のために人文学的な教育プログラムを進める間写真に対することは停止状態になっていた。
どのようにしていくのか?
持続的でありながらも、現実的で具体的な撮影者の変化発展プログラムを作らなければならなかった。それで出てきたのが約2年前に発表された空間撮影だ。当時の計画書を移してみれば区域別空間撮影は、単純に撮影の区間を大きくしてセット別の撮影をなくすのではない。
写真の構成要素を豊富に活用しながら空間が持っている多様性にポイントがある。
これは皆に良い方向性を示している。
撮影者は決まったことの繰り返しからの倦怠から、創造のエネルギーを輸血することであり、アシスタントは空間で撮影前に被写体の美しさを想像しながら事前に予想することであり、デザイン室は2次元的な写真から3次元的な写真のデザインを考えることになる。
これが同時になされながら‘私たちができる最高の美しさは何か?’が私たちの基準になる。
顧客は私たちがつくる美しさに喜んで価値を認め一緒にやりたいという意志を見せるその瞬間が私たちが指向しなければならない姿だ。
区域別空間撮影は誰かが決めて‘このようにして下さい’といわれてそうなるのではない。
区域別空間撮影は部門別成長のための最善の方法だ。
各支店で区域別空間撮影に対する討論と研究、学習を進める。このような努力が各区域を規定し、ますますライフスタジオの写真規定へと向かうことになる。
そして、全体会議でその過程が公開されれば互いに競争しながら互いに手助けできる共生の変化発展の原理を体験することになる。
空間撮影を発表した後、各支店別に空間撮影の概念と活用に対する計画が樹立された。空間撮影は持続的でありながら現実的で具体的であることができる事業であった。ところが、これも持続的できず、クレームが発生しながらイベント性事業に転落することになった。持続的に直していきながら空間撮影に対する熱意を継続することができる推進勢力は1,2回のクレームにより、自分の中にあるその意志が縮小され、次第には平凡な姿に戻る形態になった。また、写真アカデミーも約1年間進行したが、これもシャンパンの泡のようにさっと上がってきてすぐ消え失せた。そして一定期間の間、写真に対する特別な事をしないという自責と共に、現在は5つのチームで構成されたライフ写真研究所が開設され進行されている。ライフ写真研究所は成人写真、ドキュメンタリー、写真分析、写真の基礎、存在の確認としての写真の役割に対する個別的な要素を構成員が自由に参加している。
今まででわかった重要なものを整理してみると
[これは違う] [では何なのか?]に対する絶え間ない質問
能動的な道探しを通じて写真の構成要素に自分のDNAを注入する
人の中に短い時間内に深く入ること
撮影者と顧客、皆が望む状況を作る能力
探すことから条件を作ることへの転換
持続的であり、現実的で具体的でなければならないこと
自ら自然にならなければならないということ…
被写体と撮影者が自由になれる空間を利用
これら全てのものを合わせることができる撮影者の変化発展プログラムは何か?
だから出てきた。[ダルシックイ―]
ダルシックイ―プログラム
[ダルシックイ―]は、個人、集団、実践という三つから構成されている。
撮影者個人
個人は、写真分析とシナリオ作成の二つから構成される。まず、写真分析を通じて自分が持っているものを羅列する作業をする。そして、その羅列されたものを構成することにより、シナリオが作成される。シナリオによる撮影は再び写真分析を通じて応用の範囲に拡大されるだろう。
まず、写真分析を1ヶ月に3つ以上。一つあたり2ページ以上. 一年なら40個、80ページ以上.
ある程度撮影経験のある人々に技術的な水準の差が発生する時は主に[感覚]を語る。感覚がある人とない人で分けようとする傾向は、その中に自分の怠けや目標を達成する能力がないということを遠回しに隠そうとしているのだろう。自分は熱心に写真技術の発展のために行っているのに、あまり良くなったものがない時、上手な人は感覚があって私は感覚がないと自らを慰安する。 果たしてそうなのか?写真が上手になるためには写真の構成要素に対する完璧な統制から始める。例えば、撮影者に紙一枚ずつ与え[望遠レンズ]という題名で作文を書きなさいと言ってみよう。単純に遠くあるのを近く見えるようにして、後ろが曇る効果を与えることができる程度を書く人と3~4ページにかけて望遠レンズに対する技術的な接近と共に、その効果的な使用が私たちの欲望と固定概念の相互関係にどんな影響を及ぼしているのか深く入ってみよう。ここで欲望と固定概念の相互関係というものも感覚の領域ではない写真の技術に該当するならば誰の写真が良いだろうか?
10年前、映画一本をインターネットでダウンロードしようとすると3~4時間がかかった。今は、2ギガ程度は2~3分あればダウンロードが可能だ。撮影は1秒の判断でなされる。その1秒の中に1メガ程度の情報を受けるのと10メガ、100メガは次元が違う。1メガの情報では1メガ程度を表現し、10メガは10メガ程度を表現する。写真分析は、情報の速度と量を瞬間増やすようにする筋肉を作ることだ。そのように多くの情報で表現されたのを感覚というのだ。
写真分析を持続的にすれば、写真技術に対する部分よりは無意識の中で演出される認識の流れに対する話をすることになる。主にイメージや感情、状況に対する洞察などで表現することになる。これは一種の話の流れと同じだ。実在として存在する自我と希望の間の間隔を確認しながら、この二つを繋いでくれる作業を繰り返すことになる。実在で撮影行為がなされる時は、写真の技術的な部分が重く作用するようだが、写真分析を行えば写真技術の下に自分の実体と出会うことになる。自分の実体と出会うことが写真分析の真の目標だ。
越谷店では8時に出勤し、1時間を文を書くことに決めた。写真分析、ブログ、シナリオ作成、教育プログラム、記者活動などに必要な文を書くことを、毎朝1時間に集中して書くことにした。もちろん初めは大変だろうが、何ヶ月か持続してみるとそれが習慣になって、自分でも分からない間に欲望と固定概念の相互関係も瞬間の1秒で表現できる段階に入ることだと信じる。
シナリオ作成では、探すことから条件を作ることに傾向を変えようとする積極的な活動に該当する。先日、越谷店で撮影された写真を見て[スナップ]だと表現をした。普通ウェディングスナップといえば、結婚式で起きたことに対する記録の意味が強い。撮影者がその結婚式に介入することはできず、広がる状況をよく捕捉し、やり遂げることがカギになる。状況をよく捕らえるためには適切な自分の位置を探すことと、撮影のタイミングが重要になる。すなわち、探して待つ行為の連続だ。しかし、スタジオは撮影者がすべての状況の責任を負う人でもある。自分の撮影意志が被写体に伝えられて、自ら動くように作らなければならない。すなわち、条件を作る作業になる。探すことは、条件を作ることに比べてカテゴリーの配置では下位に留まらなければならない。探すことと条件を作るということは、質的変化の側面からみるととても大きな差がある。絶えず条件を作るということ自体が変化発展の始まりでありながら、質的変化のための画期的な転換点になることができる。シナリオは条件を作るスタートラインを意味する。まず、与えられた空間で想像することから始める。その中には多くの話と感情状態があるだろう。それを現実的に脚色をし、写真の構成要素とともに被写体をそのシナリオに合うように配置することになるだろう。
赤ちゃんの写真だけを撮ると想像する習慣を持つのが難しい。ずっと動きのある子供たちを対象に条件を作るということはかなり難しい作業だ。時間が過ぎながら条件作りをあきらめ、子供の動きについきながら、美しさを探すことになる。そうするうちに、条件作りの筋肉が作られず、家族写真やプロフィール撮影に対応できないのだ。より問題なのは赤ん坊の撮影も、成長の限界に直面することになる。探しに出るということは全面的に被写体に依存しているからだ。赤ん坊の状態によって撮影の質が決定されるという悲しいことが起きるということだ。それよりも悪い状況は、被写体の状態とは関係なく自分の固定された枠組みに赤ん坊を合わせる場合だ。すべての子供の写真が同じになる結果が発生する。自分の写真を見てみなさい。条件を作るのか? 探しだすのか? 自分の枠に子供を合わせるのか? 恐らく探しに出て疲れて自身の枠組みに子供を合わせているではないか?
シナリオ作成は、このような悪循環の輪を断ち切ることができる効果的な武器になるだろう。想像し、自分の撮影意志を現実に適用しようとする努力は、固定概念の垣根から自ら自然になろうとする私たちの本性と繋がっている。シナリオ作成は写真分析と緊密な関連がある。シナリオは全く新しい内容を要求しているわけではない。現実を分析し、限界地点が設定された土台から生まれるためだ。写真分析はシナリオの材料になりもし、シナリオは写真分析に生命を呼び込むだろう。
集団
越谷店では撮影と業務を終えて1時間集団的な会議をする。この時間には私たちを構成しているすべての要素を短く整理する。写真の側面から見ると、その日撮影されたすべての写真を一緒に見る。写真を見ながら撮影者の全体的な流れに注目する。
個別的な写真の技術に対することと共に自ら健康な緊張感を与えること。
他の人の変化を見ながら自分の現状態を照らしてみること。
互いに経験で積んだ良い習慣を共有すること。
何か一緒にしているんだという共同体意識を作っていくこと。
写真等を見ながら二種類の基準を中心に語る。
あなたは何を想像したか?(シナリオ)デザインとの関係は?
シナリオは上で話をしたし写真とデザイン共生プロジェクトに対して説明する。
追われる不安から追いかけて行く安定へ、探すことから条件を作ることへの転換が最も重要だ。ならば基準がなければならないが、それがシナリオで他の一つはデザインだ。普通良い写真を見ながら自分の写真を比較してみる。これと共に一つの場所で撮影された写真を一つの単位で見るならば話は大いに変わる。 ワンカットに含まれた写真の技術と共に一つの場所で撮影された写真を共に見るということは木と森を同時に見るということだ。
1カットはいくつかの写真の構成要素があるが、一つの場所で撮影された20枚程度の写真には自分が保有している写真の構成要素がほとんど使われる。全体として見た時に最も弱い輪が何であり自身のレパートリーがどのように適用されたかを分かることができる。このように一つの衣装と場所で撮影されたのを縛る単位は、ライフブックの製作過程でできるデザインに合っている。完成度も高いデザインを選定し、それを全く同じように撮影してみるプログラムは私たちの技術向上のためにも良い道具になるだろう。写真とデザインの共生プロジェクトという名前からもわかるように、デザインを通じて写真を向上させ、向上した写真は再びデザインで再誕生することになる。
一枚の写真ではなく、一つの衣装とセットで撮影されたもので単位を移すということは、シナリオに基づいた撮影になるだろうし、それは、デザインで確認することになる。ストーリーに基づいたデザインは、写真と写真を連結して一つのイメージを導き出すことになる。このように導出されたデザインとシナリオを比較分析してみれば、各自には作品を作っていく一種のプログラムができるだろう。これは目標ができるということであり、新しいエナジーが撮影行為ででてくるだろう。シナリオを作成し、撮影をしてそれがデザインで確認するということを、繰り返す過程の中で自分だけのレパートリーはより一層増えることになっている。すなわちシナリオ、撮影、デザインが連結される作業は集団がしなければならない作業だ。
実践
実践においては空間撮影が正解だ。空間撮影は被写体、空間、撮影者が同時に動きながら撮影に関係するすべての人々が参加することをいう。撮影者だけが動きながら被写体の美しさを探しに出るのは2次元的でしかない。皆が動きながら3次元的な写真を作って、同時に撮影者が自ら変化発展できる条件を作ることができる。空間撮影は私たちが持っている全てのものを使わなければならない。被写体、被写体の家族、多くの話、インテリア、デザイン、撮影者、アシスタント、各種道具が総合的に動いて私たちが作ることができる最高の美しさを表現するのを目標にする。
空間撮影は3つの長所を持っている。
最初に、被写体を1つのセットに限定せずに、被写体と撮影者が同時に動く。多くのスタジオでは、1つの背景に被写体を固定させる傾向がある。被写体はそのままいてカメラがずっと動きながら熱心に探して撮る。このようになると単調な写真は避けることはできない。このような現象が少し激しくなってくると、全く同じ枠に後背景と衣装だけを変えたような状態になり、すべての写真が同じようになり、似てきながら生命力を喪失することになる。被写体を動かすようにするということはそれだけ生命力を持つようになる可能性が高くなるこを意味する
2つ目に、撮影者の技術が発展すること。空間撮影は写真の構成要素がずっと変化しなければならない。そのために撮影者は変化とともに全てのものを統制しなければならない。変化と統制の繰り返しは数多くのセンサーを必要とし、撮影者を生きて動くようにする条件を提示することになる。これは撮影者の変化発展を導いていく原動力になるだろう.
3つ目に、ダルシックイ―プログラムの現場適用において、適切な条件を持っている。写真分析、シナリオ、ストーリーがあるデザイン、日常的な成人撮影、持続的であり現実的で具体的でないといけないということが、皆が空間撮影で適用しなければならない事項だ。これは生きて動く組織という越谷店の内部文化とも繋がっている。
-.終わりに
良い言葉だけを言ってきただろうか?