レポートReport
2012年ライフスタジオはどんな状態を希望するのか?
2012/5/7
2475
2012年ライフスタジオはどんな状態を希望するのか?
2011. 9. 25.
先週ライフスクール1期の最後の集まりが行われた。皆平坦な過程だったため、特別な感興なくライフスクール1期を受け入れていた。ライフスクールは、私と世界の構成要素を習う集まりだ。私と世界の構成要素たちを学習し、討論していきながら、主観で固まっていた観念に亀裂が入り、新しく形成される空間に客観化が位置づけられる。主観は、自分の感情や経験を拡大解釈する傾向を見せるが、客観化はいつでも同じ基準を提供してみる。変わらない自分の基準と原則が変化発展の基本動力であり、変わらないこととして変化を引っ張っていく面白さがある。それなのに、ライフスクールに対する目的を討論する過程で殆どの人達の共通点は、変わらない基準と原則よりも、変化する自分に集中されていた。哲学や文学を学習しながら、その基準と原則の構成やその思想的背景よりは自分がそれをどのように考えているのかが重要であり、自分がよくわからないことを表面的によく知っていると判断することが、確認できた程度に留まっている。例えば、主題が愛だというならば、愛の構成要素や原理、範囲、適用の方法が話されなければいけないが、自分の観念の中に存在する‘愛の思い出と記憶’を基準に自分の感情状態の変化にのみ関心を持っていた。私と世界がどのように客観的に存在するのかを最大限の客観的な立場で学習し、討論しなければいけなかったのに、なぜか、私と世界の客観性は私の主観がどのように形成されているのかを確認する素材として留まってしまった。つまり、主客転倒される状況だ。
このように、目的に対する方向性の違いは、推進動力の確保だけでなく、結果にも大きな影響を与えるようになる。2012年の計画書を作成しながら、その中にある様々な事業達の実効過程でそんな間違いを犯す可能性があり、様々な事業達がお互い違う方向性をもつようになるかもしれない。だから、同じ方向性を持ち目標を達成するための方法として、2012年の本社計画が果たされた時を想像してみる。事業が持つ単位制にのみ力が入れば、始まりは広大であるが、終わりは微弱な結果をもたらす可能性が多い。数多い計画と実行は結局目標を達成するためのものだ。しかし、目標が目的にならず手段になったり、その目標が達成された状態が観念的であり抽象的な場合が多い。これは、何でもいいから作り、自分の存在を確認させる手段として事業を見つめたり、担当者が特にやることがなく仕事を作ったり、または、自分の目標としたことを漠然と知っている場合に発生する。[目標が達成された状態の正確な表現]は事業に共に参加する人たちの方向性を一致させる効果があり、全体を見つめるリーダーに調律と実験の余裕を提供するようになるだろう。
2012年の本社計画を一言で表現するなら‘生きながら動く組織を作ること’である。2012年計画書にも書いたようにライフスタジオの目標が[変化発展する人間を作ること]と明確になった。その目標達成に集中するための生きながら動く組織を作らなければならない。リーダー会議が暗黙的にライフスタジオを統括し、管理する任務を付与されたがプロジェクトチームとして戦術的な後退をするようになった。有給活動のリーダー達が何ヶ月前からそんな状態の反省を、1週間に1度の集まりを持ちながら新しく出発できる可能性を打診してみたが、限界を実感する程度で留まった。そして、支店が増えながら同時に店長も10名以上になり、彼らが持っている役割と義務の間で彷徨っており、何をどのようにしなければならないのかに対する混乱と無気力を確認するようになった。そして、そんな店長会議に対する管理と方向提示が、果たして誰からでてこなければならないのかに対する懐疑的なあきらめもあった。そして、各支店は共にする活動に対する参加や内部文化を作る努力から支店別偏差が見えるようになった。先に行く支店たちは相対的な比較の中で、若干の油断と共に常に新しい状況を作っていく構造を形成できずにいる。そして、ライフスタジオの全体活動に対する無関心と、人間関係を形成できないスタッフに対する積極的な介入もしないようになった。良好な売上と利益構造、そして私達を危機にさせる競争相手が現れない状況で様々な事業(学習休暇、ライフスクール、ボランティア、会計公開等)を展開しているが、その形態がゆるいことも反省する内容である。このような事業達は誰も積極的に反対できない単位制をもっているが、効果がすぐに現れない特徴を持っており、活動の水準を計ることが難しい。つまり、特別な基準を持っていなければ、自己満足的な事業以上にはならない。
このようなライフスタジオの状況で[本社を中心とした単一な体系]を作り、目標に集中することが、2012年の計画として設定された。事実、2012年の計画は大きな方向転換だと見ることはできない。誰かの役割を縮小するのでもなく、大きな枠から構造が変わるのでもない。既存のものを維持した状態で、現在ライフスタジオで必要としている役割を担う組織を新しく作るということであり、それが現実的に本社以外には代案がないからだ。
2012年の計画でまず順位を決めてみると、
1つ、ライフサークル、
2つ、本社直営店、
3つ、店長会議
★. ライフサークル
ライフサークルが重要な理由は、ライフスタジオの目標と一番近くで連結されているからである。ライフサークルは変化発展プログラムを持った人を作ることが目標だ。これは、ライフ人を意味しており、変化発展する人を作ることだというライフスタジオの目標と一致される。ライフサークルの中心は現場での実践作業である。
また、2011年ライフスタジオを評価してみると、現場と教育の分離が一番の問題として現れる。ライフスタジオが一番必要とすることと、ライフサークルの現場での実践のような内容でありながら、機会と危機を同時に持っている。ライフサークルでは、現場での実践作業を強要することになるだろうし、現場での数多くの試行錯誤と予想もしなかった敵の出現でおもしろい状況が演出されるだろう。既存の秩序を壊し、新しいシステムを導入するということは、その何よりも難しい挑戦になるだろう。もしかしたら、挑戦を超える無謀な冒険になるかもしれない。既存の秩序はその力をずっと維持しようとする慣性が適用され、人々に深く入らなければ、何も成せない種類のことだ。皆初めて行うもので、公開し入ってくる敵に対する防御体系が作られていないことが大部分である。
まず、リーダー達との対立が予想される。ライフサークルが側面から支援するといっても、現場でのリーダーの権力は想像以上に多いものがある。リーダー達は、初めは観望するかもしれないが、運営の未熟が持続されたり、リーダー達の権威を脅かすことが発生すると、介入してくる可能性が多い。リーダーによって防御と攻撃に分かれるだろうが、改革をしようとするスタッフのエナジーが持続していくのはそう簡単ではない。そのエナジーを補充してくれる人は誰でなければいけないか?長く話さない。リーダーがその権利と義務を同時に持っている。動こうとする人たちに電気を連結し、ガソリンを注入してあげ、時には現実とかけ離れた主張に対して代案を提示してあげる成熟さが必要だ。反対の主張だけし、留まっていたり、無視したりするなど、ただ力尽きていくことを待っているリーダーはライフスタジオの公共の敵として、水面上に浮上してくるだろう。リーダー達の積極的な手助けが必要だ。知っているのに知らないふり、知らなくても知っているふりをする姿勢が必要だ。スタジオの内部文化を作ろうという努力がどれだけ難しいことなのかをリーダー達はよく知っている。内部文化のために、スタッフ自らが何かをしようとするその瞬間、めったに訪れない機会になるかもしれない。
ライフサークルの現場適用は討論の文化を作ることだ。ライフサークルで学習した内容を現場で共に討論し、他のスタッフに自ら準備できる条件を作ることがポイントである。討論の文化が定着するということは、単純に毎月本を選定し、討論を持続させることを意味するのではない。討論するということは、変化に対する準備をするということだ。そして、まもなく行動に移っていく。変化のための論議と行動、そして、現場で安着する過程は意思疎通と合意、問題解決と運営能力の調和をいっているのであり、これは、討論文化を中心に成していくしかない。普通討論というと、現実とかけ離れた観念的考えの交換だと考えやすいが、これは、現場適用のための事前作業だと理解しなければならない。会議を通してでてきた事業が長く続かない原因として、共にするという意識が無いという事、自身の限界を仕事の限界として設定し、中断される場合がよく起きる。しかし、組織からでた事業は構成員全てに該当することだ。結局みんなが綱で繋がっていて、こっちから力を与えるとあっちから反応がこなければ事が成立しない。しかし、反応が無かったり、意図しない反応が来た時に、討論文化以外で解決できる方法を探すのは難しい。持続的に人々との通路の連結がされていなければならず、この状態で運営の命が発揮されないといけない。討論の文化が定着されるということは、日本の写真文化を変えることにおいての序幕にすぎない。写真館の価値が構成員達の価値からでてくるということが、日本の写真文化を変えることであり、討論文化はその始まりであり、必ず通過する関門である。
ライフサークルを単純な知識を積み上げ、自身が持っている限界を少し高めることだと理解することもできる。しかし、ライフサークルは、教養や趣味の集まりではない。明確な目標があり、その目標の達成のためには現場での実践を通してのみ成すことができる。その実践が現段階では、討論の文化の定着である。つまり、ライフサークルが成功的に進行されたということは、各支店で討論文化が定着されたということを意味する。現場で新しい秩序が導入されたということは、各自に変化発展プログラムが少なくとも1つ以上が定着したこを意味する。これは、個人の発展が組織の発展に連結される理想的な状況を目撃することである。
討論の文化が定着されるということは、支店で民主的な運営体系が作られているということであり、各構成員達が「別々に一緒に」共に働くシステムが稼動されているということだ。討論の回数や水準はそんなに重要な問題ではない。支店で何か問題が発生した時に、どんな行動様式を見せるのかで評価するのであり、自ら動き判断し、実行することを前提としている。全体が1つの方向性を持ち、各自は自由意志に根拠した自立的な組織運営が始まったと規定することができる。他の言葉で言うと、これは、システムが作動を始めたと表現することができる。
討論の文化が定着されたならば、各支店別に様々なプロジェクトが進行され、少しずつ成功事例が出てくるだろう。少し前にあった水戸店の顧客感動プロジェクトのように、各支店で自ら選定し、行動で結果を導き出す内部文化により、ライフスタジオ全体が情熱に満ちた常態を私達は経験することになるだろう。これは、2012年の目標と同じ[生きて動く組織]と一致する。
★. 本社直営店
直営店オープンは内部文化の基準を提示するために企画された。変化発展する人間は、自分の人生の基本単位である現場から始まる。どんなに中央で良い事業を立案し、実行したとしても現場で適用されなければ効果を喪失するしかない。教育と現場の分離とこのような状態の持続は、効率という前に不均衡からくる組織の根幹を揺るがす重大な事案にもなるかもしれない。今まで現場で価値が再生産される場合はめったになかった。また、決まっているシステムの中で別の努力なく成果がでてくる状態に満足し、むしろ自慢の文化が起きたこともあった。自ら作った価値でないことは、いつか実態を表す。また、見えないその伝染病がライフスタジオ全体に感染するかもしれない。良い条件が与える空間で蓄積されるシステムを作らないといけない。
内部文化は結局その組織が追求する目標を達成するための条件である。そして目標は常に動く。初めて設定された目標は時間が過ぎても同じ目標であるはずがない。新しい情報が入り、既存の内容が間違っていたということが持続して照明されないといけない。昨日の戦略が戦術になり、新しい戦略が樹立されなければいけない。方向は維持するが、行く道はずっと違わなければならず、違わざるをえない。信念は維持するが、内部は持続的な闘争を展開しなければならない。それが、目標をより明確にする唯一の方法だと考える。なので、内部文化も持続的な発展をしなければならない。むしろ内部文化自体が持続的な発展のためのシステムであるかもしれない。
ライフスタジオが追求する内部文化は何か?[生きて動く組織]それ自体ではないか?
‘生きて動く組織’が目標とすることは、ライフスタジオの目標と一致する。生きて動いているということは、各自の存在を認識し、外部世界との絶え間ない関係の中で価値を探し出すことだと考える。そのためにいつでも学習する姿勢を維持しなければならず、人との関係を形成しなければならず、自信の限界と克服に焦点が合っていないといけない。ライフスタジオのお客様はそんな人と新しいエナジーからでてくる価値に同意している。それが写真であるかもしれないし、人の匂いかもしれないし、習慣かもしれない。流れない水は腐る一方であり、そんなところでは価値が作られない。これは、お客様から目を逸らされ、倦怠と機械的な繰り返しだけが残るようになる。
生きて動くということは、各自が自ら細胞分裂を通して価値を作り出すことである。そして、各自はその過程を楽しみながら責任を持たないといけない。人間が人間らしくあることは、人間の内面からでてくる声に堂々としていることである。堂々であるということは、認めるということ。これは、そのままを受け入れて、より良くなろうとする行為を私達は人間らしいと表現する。
ならば、そんな生きて動く組織という内部文化のために、何をどのようにしなければいけないのか?
まず、ライフスサークルで話す[討論文化の定着]が1番目に実行されないといけない。討論文化は、量よりも質を基本単位とする。各自が一緒に集まり何かを論議するということの意味を、正確に知っていなければならない。共に決定し行動し評価することが、人類が発見した一番優れた価値生産方式であるということを理解しないといけない。そして、そのために口だけで行う討論ではなく、頭と心が同時に動かなければならず、何を準備しなければいけないのかに対しての訓練が必要だ。
そして、クモの巣のような人的ネットワークが形成されなければならない。これは、単純に一緒にお酒を飲んで、全てのことを一緒に行うということではない。韓国の大型書店の建物の外壁に良い文章が書かれている場所がある。定期的に変わるが今回韓国に行ったときにあった文章がこれだ。
[人が来るということは実はものすごい事なんだ。一人の人生が来るということだから。]
その通りだ。人的ネットワーク形成は、このようにものすごいことの一部に合わせる作業である。少しずつ合わせていくと、その中で人生の秘密と向かい合うようになる。その瞬間だけは、自身に対して客観的になる。これは、お互いを保護してくれ、決定的瞬間には雷のような教えを与えてくれる。多くのことが人との関係に対する緊張と外面を持っている。心を解き放ち、話すことに等級を定めることもある。しかし、重要なことは、自分とその人の間にある環境であり、その人自体に問題がある場合はほとんどない。また、そんな環境は社会が作り出した側面が強い。そんな環境の無条件的な適用により、自身の個人的な話ができないと訴える。そのため、一定期間は慣れているそんな環境から脱出するための特別な処置が必要だ。全てのことを引き出すことのできる環境を作り、方向性の確認のみできれば、人的ネットワークは自然に形成される。
そして、判断-計画-実行-評価の4段階の発展プログラムが必要だ。このプログラムは、支店の全ての構成員達が頭と心で同時に理解し、実行することをいう。つまりこれは、プログラム開発の問題ではなく、訓練を通し習慣化する一連の行動の繰り返しを意味する。支店全体で進行することもあるだろうし、個人的にプログラムの実行もあるだろう。重要なことは、討論する文化と人的ネットワークが絶妙に結合される状態でなければならず、この全てを公開することを原則とし、全ての構成員達は全ての構成員達の関心の対象にならないといけない。
また、直営店は本社の職員であることを意味し、本社の職員はライフスタジオ全体のために働くということを意味する。各自、組織内での目標が無ければならず、その組織はライフスタジオ全体である。これは、活動領域が広がり、目標意識も高くなるという長所を持っている。これから本社から加盟店に強要することはないだろう。実行と結果で見せていけばよい。事業の導入は加盟店が自ら判断する問題になる。そのため、目標設定と実行は、即ちライフスタジオ全体に向かっているという使命感を持っていなければいけない。このような健康的な使命感が、内部文化を作る良い素材であることは確かだ。また、目標を設定し、実行する過程を支店の構成員すべてが注目しなければいけない。各個人の人生に直接的な介入をするくらい、胸高鳴ることが他にあるだろうか?一人でやるとおかしな人という言葉を聞くかもしれないが、支店の構成員皆でやればそれが道になるのである。
このように、[生きて動く組織]という内部文化を作るためには、討論の文化を作り、人的ネットワークが形成され、判断-計画-実行-評価の4段階の発展プログラムを繰り返し、個人の目標がライフスタジオ全体に向かっており、それが全ての構成員の関心の中で進行されることが重要である。
ならば、[生きて動く組織]という直営店の内部文化が作られたと言うことを、何で証明できるのか?
まず、直営店で運営されるシステムが加盟店でも導入されるならば、それが証明だといえるのではないか?
そして、直営店のスタッフ達が加盟店の主要な位置にスカウトされる状況が発生するならば、それも証明だといえるのではないか?
全国化のための事業に直営店のスタッフが相当数布陣し、主要な役割を受け持つならば、それが証明だといえるのではないか?
直営店のリーダーになれる能力を持った人が2012年中に3名以上出てくるならば、それが証明だといえるのではないか?
直営店の内部文化は他の言葉で[人が人を人として・・・]を現場で実現することだと考える。生きて動く組織も、人が人を人として作っていく作業が実現されているその瞬間を表現する言葉だ。良い写真と顧客感動はこのような作業の結果物に該当する。指で月を指差しながら美しい月を見てごらんというが、人々は指している指に注目しているという状況が私達の周りにはあふれている。数多くの報告書と計画書、そして様々な政策は、その政策自体に目的があるわけではない。組織を生命体のように作ることが、私達の目標ではないのか?自ら決定し自ら革新する自由さを共にやろうということではないか?内部文化が作られたということは、私達みんなの胸の中に[人が人を人として作ること]が信念として定着されていることだと考える。
-. 店長会議
2011年現場適用が問題になったことと、リーダー会議の方向転換は、ライフスタジオの組織体系からその答えを探すことができる。現場適用の中心に誰がいないといけないのかについて、リーダーの役割分担が自然と成せずにおり、これは、上と下を連結させる部分が狭まりながら組織の新陳代謝が円滑に成されなくなった。
リーダー達が、リーダー会議や中央で起きていることに対する説明や、立案された事業の現場適用に対する熱意と能力が不足していた。これは、怠けとは違う次元の話だ。リーダーの役割は、人々に目標に対する同意を要し、目標達成のための資源を配分する人である。ライフスタジオ全体の仕事と支店を連結する作業は思っているより簡単なことではない。熱意がなければならず、能力も必要だ。また、連結する過程での試行錯誤が熱意と能力を高める手段として作用しないといけない。それなのに、その連結がリーダー達の優先順位から抜けてしまい、やってもやらなくても良いことになってしまった。優先順位から抜けたということは、本当に残念なことだが、リーダー達の水準がそこまでであったことを確認することになった。また、優先順位から抜けたのは偶然や、間違いで起きたことではない。そして、優先順位の一番前に配置しようとしても、すぐに解決できる問題でもない。
リーダー達は大体、店長の役割を支店の活動として提案する傾向を見せている。リーダー会議はリーダー会議であり、現場は現場だという断絶された思考を持ち、全体のことが支店でどのように現場で作用されるのかに対する関心よりも、支店に別の問題が起きなければよい程度で留まっている。これは、そんな状況を特別に願っているというよりは、現場でどのように適用しなければいけないのかに対する能力が不足しているからであり、自然に店長の役割を支店の活動として提案する傾向ができた。
また、ライフスタジオ核心運営者達が現場で起きている数多くの問題と改善に対する必要を感じることができなかった。これは、店長に対する役割規定と店長が活動できる条件が作られなかった結果を持ってきた。現場で他の問題が発生せず、スタッフの勤労意欲も良好な条件の中で、その間は上層部の運営体系を作ることに集中していた。センター・リーダー会議を経ながら上層部の権力構造や管理体系に対する主題はリーダーから先に変化しないといけないという、正当性から始まったからである。リーダー達が活動を通して成長し、その成長のエナジーが現場に伝達されるという設定は一種の成果もあるが、明白な限界を持っている。リーダーの変化は条件変化されることだ。しかし、自身が置かれている条件はそのままにし、リーダー会議の出席や最小限のことだけをやるという義務感から始まった活動は限界も持っている。
店長の役割については、実は微妙な部分がある。条件をよく作っても彼らが自ら活動力を高め、自ら権威を付与することは簡単なことではない。また、リーダーの権限を付与したり、みんなの認識が大転換を起こさない限りは期待する活動力がでてくるのは難しい。例えば、リーダー達はオーナーというだけで半分以上は権威を付与されている状態から始まる。そして、リーダーシップを発揮しながら起きる多くの間違いを過程として認識する。または、構成員達がリーダーの限界を組織の限界だと黙認する。リーダーを変えるということは、組織がなくなることだと考えるからだ。店長は自身の問題を自身の限界として認識し、自ら限界をみないような傾向が現れながら、自身の可能性を自ら縮小する。そして、立場はスタッフでありながら、マインドはリーダー以上にならないといけないという境界線で大体簡単な選択をするようになる。そして、自分自ら動機付与し、結果を作らないといけない圧迫も相当存在する。また、現実は1人のスタッフとして1日の多くを消化しなければならず、物理的に店長としての時間がない場合が多い。店長に条件を与えないといけないと考えてあげても、1週間に数時間程度しか考慮できずにいる可能性が多い。ライフスタジオで店長の存在感が微弱に見える理由はこのような条件の中で自ら動機付与し、自らリーダーシップを行使しないといけないのに、現実派はリーダーとスタッフの間に挟まれどうしようもない状況が繰り返されながら、現場で簡単な管理のみを行うようになる状況が起きる。ならばどうすればよいのか?
このような状況で核心は、まずリーダー達が持っている相当の権限を店長に以降しないといけず、店長の権限と義務の規定と共に、ライフスタジオの体系の中で店長会議の位相を高めないといけない。また、現場に対する意識の転換が必要だ。現場でリーダーと店長が一緒にいるのは論理にそぐわない。名目的な店長にすぎない可能性が多い。または、リーダーの無能力さに対する保障かもしれない。現場にリーダーがいればリーダーが店長にならないといけない。現場にリーダーがいない場合は殆どの権限を店長に移行しないといけない。内部文化を作るなかで、店長を支援するということを、リーダーの一番重要な役割にしないといけない。もし、現場にリーダーがおらず、新しく規定された店長の権利と義務を今の店長に遂行できない場合は、一旦店長の席を空席にし、リーダーの活動力の一部を現場に移動させないといけない。現場にリーダーがおらず、店長が単純な管理のみ行っているならば、いつまでたってもこんな質問がついてくるだろう。[何でライフスタジオをやってるんだろう?]
まず、リーダー達が持っている権限の中で人事権、一定部分の財政執行権、内部文化の執行権を店長に以降しないといけないと思う。人事権は支店の構成員に対する採用、懲戒、賞罰に関する権限を店長単独で使用できる権利をいう。財政執行権は支出の相当な部分、例えば、インセンティブの配分、毎月積み立てられる環境改善(カメラ、衣装、小物の購入、インテリア等)に対する執行権、内部文化建設費用を新設し、店長の権限として使用できるようにすることを挙げることができる。内部文化を作る権限は、その支店独自の内部文化を作るためのシステム変更までを含んだ様々な政策の権限を言う。そして、各支店ごとに店長の能力と付与された権威に違いが見えてくるため、柔軟に適用しないといけない。
リーダーと店長の役割分担は、店長の役割が決まり、リーダーがこれを補助する形態にならないといけないと考える。リーダーは基本的に自由が与えられている存在だ。そして、付与された役割も多様である。店長がやるべきことを、リーダーが請け負いながら他の仕事をしないことが、一番よくない状態だ。大々的に権限を譲ると共に、店長の役割を遂行してみながら自身の役割を探し出す形体が一番理想的だ。店長達に役割を与えるということ事態が店長には多くの手ごわいことであり、その難しい状況がむしろリーダー達には機会になる。
現場にいないリーダー達が店長の活動にどのように介入するのかに対しては、難しさを持っている。介入すると干渉になり、距離を置くと傍観者になる可能性を持っている。結局疎通という道をどのように作り、維持し発展させるのかにかかっている。事実、ある意味簡単な問題かもしれない。毎月報告書で全てを判断するという原則をたて待てばよい。報告書にはリーダーと店長がやりたいことや、やらねばならない内容を入れる。リーダーが不実な報告書に対して話すことがあまり無いならば、そこで満足すればよい。問題は、あまり内容の無い報告書に対して話すことがないのに、漠然とうまくいっていないという不安を表した時に発生する。毎月の報告書を基準に店長とリーダーは頭を向かい合わせ話し、代案を考えお互いの考えを直す作業を最低6ヶ月程維持するならば、基本的な疎通の通路が設けられ、店長とリーダーの適切な役割を探すことができるだろう。報告書の内容は内部文化、各種プロジェクトの進行過程、構成員達の計画と進行過程、ライフスタジオ全体の活動と支店の結合などの内容が入る。お互い雪だるまを作るために、小さな雪を作り、一緒にその丸い雪だまを転がすと、どんな形体にも雪だるまは作られるようになる。その最初の雪がないために、目に見えることだけをやることになり、現在毎月初めに作成される店長報告書がその証拠である。
全体会議の時に、リーダー会議を行わないことを提案したい。現在プロジェクトチームに別れ、その単位でリーダー会議の基本的な案件はプロジェクトチーム別に処理されている。そして、必要な場合は全体のリーダー達を収集する形体が良い。大体2ヶ月に1度くらい全体を統括し、意見を統一させる作業なのであれば十分だ。それなら全体技術会議にリーダー達も各自の領域で細分化し、活動することがよいと考える。
全体技術会議を店長会議と撮影会議の2つの部分に分ける。そして、店長会議をシステムと顧客感動に分け、撮影会議は技術とコーディネーター、顧客感動に分ける。10時から昼食前まで、店長会議では各支店で起きたことに対する意見交換を主に話し、撮影会議では、現在撮影評価団で行っている毎月の主題に対する話をする。午後にはシステム、顧客感動、撮影技術、コーディネーター、顧客感動別に進行する。各チームに担当者を置き、会議の準備を進行する。
このように分ける理由は、
1つ、みんな集まると7-80名程度になり、会議のための適切な人員配置が必要だ。
2つ、各部分にリーダー達が分散配置され、会議を活性化させ調整する能力が必要だ。
3つ、各部分ででたアイディアを現場で適用しないといけない。
4つ、水平的な体系を作り、組織力を強化しなければいけない。もし、このようにリーダー会議と全体技術会議調整されれば、内山リーダーの提案である店長会議は店長達とリーダー達の混合が成されるようになる。この時リーダー達は店長という位置に参加し、店長会議を責任持って引っ張っていかなければいけない。また、店長会議が政策生産と執行において、重さが傾き、推進力が発生するようになる。
店長会議を内山リーダーが受け持つことになり、その活動を期待している。店長会議を受け持つということは、単純に店長会議を進行するということではない。店長の権利と義務、店長活動の側面支援、店長会議の次元のプロジェクト進行、ライフスタジオ全体で店長会議の位相定立などの内容が店長会議で行われなければいけない。店長会議の重要性をよく論ずる理由は、ライフスタジオという健康な体を作るためには、店長会議が腰の役割をするからである。リーダー会議のプロジェクト活動、ライフサークル、ライフスクール、学習休暇、本社拡大などの多くのことが、2012年に予定されている。しかし、店長で構成されている店長会議が正しい役割をすれば、組織運営が均衡を保つことができる。また、現場適用も店長中心にならないといけない。だから、内山リーダーを含む店長達の努力が切実に必要なのである。
店長会議がライフスタジオの中心体系に入るということは、人間の腰のように組織の中心が丈夫になったということであり、生きて動く組織になったことを意味する。上から下へ、または、下から上に情報とエナジーが循環されるということが、組織が生きて動き自ら価値を作り出す再生産構造が定着されたということをいう。
そして、店長会議が定着したということは、ライフスタジオの全ての事業が店長会議の会議内容になるということを証明することができる。店長は現場の責任者であり、ライフスタジオの全ての活動が現場で起き、その活動が現場の責任者である店長の指示の下、動いているからだ。ライフサークルは、そのサークルで活動している人だけのことだとか、ライフスクールは上で決定された事項であり、無意識的に参加するだとか、支店の開発プロジェクトは支店ごとの仕事だからなどという考えが、未だに存在するならば、店長会議はずっと反省会からでることができない。全てのものはつながっていて、その過程で自身の活動があるという原理が適用されなければ、店長会議は失敗するしかない。
店長達が全体会議の集まりだけでは不足だとし、毎月の集まりを1日増やすならば、これは自身の条件を作り出したということとして受け入れても無理はないのではないか?私達は不足なことが多いが、現場で適用してみると同じ状況で露出されている、店長達自らの疎通の必要性を切実に望むようになっている。勿論集まること自体が重要なのではない。しかし、集まらないといけないという要求は、店長達が変化しようと身もだえすることが確認されるのだ。
店長になり、大きな責任とスタッフとの摩擦により、会社を辞めたり傷つけられたりすることが多い。重要なのは方向だと考える。会社と店長がお互い良くなれる、そんな方向で事業が進行されないといけない。生きて動く組織のためには、店長達が必要であり、自身の発展と共同の利益のために活動する組織員としての店長が結合しないといけない。そのためには、条件を作らないとならず、その条件を観察し、調整し、激励しないといけない。特に、店長会議に参加するリーダー達は、店長会議の目標を達成することに集中しないといけない。今よりも優れた能力を発揮しろということではなく、良い方向に集中することが必要だ。
ライフサークル、直営店、店長会議はお互いが歯車のように回る。
結局 2012年のライフスタジオはお互いを連結する作業になるだろう。断絶されず、お互いにエナジーを与え受ける過程自体が、生きて動く組織である。もう少し高い場所からその動きと変化する過程に注目しよう。