レポートReport

2015年最初からもう一度始めます

2015/12/16

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最初からもう一度始めます
 
                                                                    2015. 05. 10 李 濟旭
  
 
今、ライフスタジオと、2013年体制において、とても重要な決定を行おうとしています。
 
先に、共に笑い、涙してきたライフスタジオの構成員の人々、特に「2013年体制」に参加している友へ申し訳ないという言葉しか出ません。このような決定を行うに至った全ての責任は、私にあります。不足な点の多い私と共に道を歩んできた友へ面目ありません。「最初からもう一度始めます」という言葉を発する資格があるのかさえ分かりません。現実は冷静で理性は今でも遥か彼方にあるような己の恥ずかしさが込み上げてきますが、それでも人生を生きていかなければなりません。この決定が終わりではなく始まりであることを望みます。
 
私たちの目標は「人間らしく」生きることです。ライフ人の定義にもあるように、人間らしいというのは、変化発展の原理を理解し、自由意思に基づいた人生を志向すること、そのために関係を形成しながら共に実践することです。そのために「変化発展プログラム」、「自立した人達の経済共同体」という言葉も出ました。ところが、現在の内容と形式では、これを成すことが出来ないという考えを持つようになりました。内容が生まれない状態で新しい形式を導入するというのは、また失態を繰り返すかもしれないということに気づきました。この状態で進んでいては、ライフスタジオの目標とだんだん離れてき、むしろ私たちの存立自体が脅威に立たされると考えました。「最初からもう一度始めます」という結論を出すに至り、この文章を通して説明をさせていただこうと思います。
 
哲学入門で、自覚と言う言葉が出てきましたね。少し前にはカントが「先験的統覚」ということを教えてくれました。よりによって「先験的統覚」を勉強したその日、私にも「先験的統覚」のような出来事が起きました。「先験的統覚」のきっかけになった出来事とは、ライフブックに関する事でした。
 
4月中旬、ライフブックとフレームの販売の比率を調整することになりました。調整する理由は簡単です。商品制作は韓国で担当しています。レートの価値が落ち、「ライフボム」の財政が悪化していきました。財政状態を改善するためには、事実人件費しかありません。ライフズックの持っている短所を一つだけあげると、フレームの制作に比べ多くの時間がかかるという事。これは人件費に連動します。そのため、ライフブックの生産を30%程下げ、フレームの販売を30%程上げようという事でした。「ライフボム」とライフスタジオは同じ会社です。「ライフボム」はライフスタジオの商品販売が増加したからと言って、収益が増えるという構造ではありません。一定の収益が固定されており、売上が上がり、収益が良くなったら、商品の価格や店舗へ請求する金額を下げます。反対にレートの価値が下がると、同じくらい財政状態が脆弱になります。レートが下がることを前もって予測し請求金額を高く設定するよりも、1円=110ウォン程度で収益の構造に合わせ、レートが上がれば請求金額を下げ、レートが下がれば様々な方法で対策を考える政策をとっています。もし、レートが今よりも下がれば根本的な対策を立てなければなりません。
 
私はライフブックとフレームの販売の比率を調整することに対し、二つ考えました。
1つ目に、顧客に商品を説明する内容の順序を少し変えれば簡単に解決出来る。
2つ目に、条件変化に対する私たちの能力を実験できる機会である。
 
結果は、1、2店舗を除き、販売の比率にさほどの変化が無かったということでした。
 
「あ~説明が足りなかったのか。もう一度お願いしなければ。」と、簡単に受け止める事も出来ましたが、今回は、私の中にある全てのセンサーが大きく激しく揺れました。今まで多くの失敗と挫折がありましたが、私たちが行くべき道があったため、改善するために新しい方法を探しました。しかし、今回は違ったのです。
 
何故こうなったのだろうか?
 
日本に来て10年の過程を通し、一つの習慣が私に身に付きました。現在の状態を観察し、次を想像する習慣です。たとえ私たちが行くべき目標地点が鮮明ではなくとも、それでもイメージの状態では存在しています。そこに向かい効果的な道を探す事が私の役割だと考えました。周りの人は言います。「ずっと続けずにまた他の何をたくらんでいるんだ?」いつも事業を変えるといわれますが、私の目標地点は一つです。そのために、その地点に行ける良い方法ならば、数百回でも事業を変更し、進む姿勢をもっています。7月から展開する方向転換も同じ原理が作動しました。「論文のように働く」と、「哲学サークル」、横的な組織の活動等がある程度成果があったと判断し、これからは現実と理想のバランスをとおるための、出発ラインを設定することにしました。
 
ライフスタジオの発展のために、多くの人が、口を同じくして言う助言があります。
「現在ライフスタジオの構成員達は一生懸命仕事をし、学習をしています。自身の変化発展のために努力しています。それなのに一つだけ大きな錯覚をしていることがあります。現在の条件を当たり前の事のように受け入れています。顧客は自動的に来てくれているため、経済的に問題が無く、カメラのシャッターを押せば良い写真が自動的にとれるため、特別に考えることがありません。顧客・写真・システムを当たり前の事として受け入れ、学習と教育に集中しています。体はどんどん小さくなっていき、頭は大きくなっていきます。電気の原理を何年間も勉強している人が、自身の家の電球を自ら交換しようと考えず、業者を呼び、簡単な電球の交換をお願いしている姿とでも言いましょうか?この問題を解決しないでは、全てが砂上の楼閣に過ぎません。」
 
このような内容の会話がされる度、私が答えていたのは、
「そのような問題があるという事を、私も知っています。私たちが行っている学習と教育も自身が立っている現実であり、自らの力で正しく立てるようにするためのものなのです。また、学習と教育体制も現実です。私達は出発ラインに立とうと何年間も走ってきました。もうその出発ラインが遠くに見えています。結局は、理論と実践が良い調和を成さなければなりません。あなたの助言についてもう一度深く考えてみます。」
 
今、私が書いている論文が「次は何なのか?」という内容です。この会話の内容と同じように2015年下半期に起きる方向転換は、理想と現実のバランスを成すための内容です。7月に予定されている「強力な主題を持った店舗を中心とし、現実を変化させる」というのも、その一環として推進されている事業であります。
現実と理想のバランスを成すために、出発ラインに関する準備を行っている今。。。
 
ライフブックとフレームの販売の比率調整という小さな事件により、
その出発ラインに対する強い疑問を持つようになりました。
 
今から、これまで水面上に上がってこなかった「不便な真実」に関する話をしようと思います。これは、至極主観的な偏見であるかもしれませんが、私たちの根本的な問題を確認させる作業であると思います。
 
3つの質問をします。
 
-. 「2013年体制」とDチームは何が違うのか?
-. ならば、どのようにしなければいけないのか?
-. 最初からもう一度始めますというのは、何を意味するのか?
 
 
一つ目に、「2013年体制」とDチームは何が違うのか?
 
結論から言うと
「現実の問題が改善されない状態で、中央から引っ張る力により動く「2013年体制」はDチームと違いはない」であります。
 
「次は何なのか?」の序論に出ている文章を引用します。
 
10年が過ぎた。
恵比寿の小さな部屋から始まったライフスタジオが20個の店舗に成長するまで10年が過ぎた。1,2回の成功と数多くの挫折があった。予想することも出来なかった顧客の反応に経済的な問題からの自由が訪れ量的な拡大よりは内部的な構成員達の変化発展の為の事業に方向を決定した。4-5年の実験は方向設定を必要とし、過ぎた10年の過程で決定的な変曲点として[本社中心体系]を作るようになった。オーナーたちが守ろうとする各店舗の壁を超えることが出来ず[事業の為の事業]だけを展開していた状況の打開の為に[本社中心体系]に方向を転換してから3年が流れた。
3年という時間の間に本当に多くの事が起きた。まずライフスタジオをA.B.Cチームで分離、各チームを中心に独自的な運営体系を作った。しかしCチームは無くなりBチームは2年余りの実験の後に各店舗に分化された。Aチームは[2013年体制]を経て論文のように仕事をするという事につながった。中間にDチームが作られ10店舗がDチームに移動した。本社所属の店舗が7個に増え、営業チームとの分離過程を経て[論文プロジェクト]から[論文のように仕事をする]に綱っていった。
 
[本社中心体系]に方向転換をし3年の時間を一言で表現するならば
[自立的運営を通じた各店舗の運命を自ら決定する時期]であり
結果は[2013年体制]と[Dチームの様相]であった。
 
ライフスタジオが2006年初めから作られて日本の写真市場で生き残って行かなければならない2-3年であった。この時期を過ぎながら加盟店事業が展開され10個以上の店舗が作られながら組織として体系的な運営に対する必要性が定義された。その為に共同運営という名前で加盟店のオーナー達が参加するリーダー会議がライフスタジオの中心に位置した。2-3年の平坦な運営は組織の安定をもたらしたが反対に各店舗は[慌ただしさの中の怠惰]という毒キノコが育っていた。何かをしてはいるが現場で結果が出ない現象が反復されながら本社を中心に体系変化を模索した。越谷店を始めとして本社所属の店舗がオープンし同時にライフスタジオがA.B.Cチームに分離された。Cチームは無くなりBチームは独自の戦略で形を作ろうとしたが動力が無くなりながら解体された。中間に[聞きも問い詰めもしない]Dチームが作られながら大部分の店舗がDチームに移動した。現在の組織は[2013年体制]とDチームのみだ。
ライフスタジオが作られて学習と教育、選択と集中、変化発展プログラム、人が人を人としてという言葉と事業が進行した決定的な理由が4大原則で言った[自分自身に対する無気力]であった。自身がなぜこのような環境に生きているのかも分からずにその環境に適応しようと踏ん張るその過程で自分自身に対する無気力は発生して強化される。自ら条件変化をせず与えられた環境を宿命のように受け入れながら徹底的に孤立した人生を生きる人たちがとても多い。偶然に出会う小さな幸せを約束なしに待っている。[自分自身に対する無気力]の作動原理を知るために学習と教育で選択と集中をし、その結果物を[変化発展プログラム]で提示した。各個人の[変化発展プログラム]の為に様々な事業をし今現在[論文のように仕事をする]まで進行している。
荒れ地で地を開墾して森を作ろうと一緒に努力をした。ある程度の苗木が作られ各店舗とチームは自身だけの方法で木を育てると決定して自身の領域に苗木を植えた。育ちながら死んだ木、変な形に育った木、初めから木を育てる気を無くしてその地を去る人もいた。各自が経験した試行錯誤はオーナーや仕事を推進した責任者たちに良い経験になったかもしれないが森を作り仕事は失敗した。
しかし残った一つがあった。荒れ地だった地が沃土まではいかなくても木を植える事が出来る普通の土地だった。水をどこから引いて来ればいいのか、教育と学習はどのようにするべきなのか、各々違う性質の木に対する対処方法等を知るようになった。大切に育てた苗木たちは無くなったがその木を育てていた人たちと経験はそのまま残っている。今その人たちと経験を一つにして共に森を作ることのできる最小限の条件が作られている。我々の観念の中でのみ存在した[豊かな森]ではなく我々が出来る、そしてやらなければならない[我々だけの森]が作られる環境が2015年に造成されている。
しかしここで一つ疑問が起こる。ライフスタジオという名前で共にする理由があるだろうか。
行こうとする方向は本当に違うのだろうか。
行こうとする方向が違うのに経済的な理由で名前だけ同じく使っているだけではないのか。
それならば共にしなければならないのか。
共に出来る能力を持っているだろうか。
この疑問に答える為には3つの論点がある。
一つ、ライフスタジオ構成員すべてが同意する具体的な目標があるだろうか。あるならば共にできる可能性があるのであって無いのであれば分離は加速化されるだろう。この部分は7月から展開される方向転換に糸口がある。
二つ、具体的な目標があるならばある方法で科学的な結合をするだろうか。全てが合意する内容に対する共感と経験を共に共有する方式を取らなければならない。共にしなければならない当為と共にする能力を必要とする。
三つ、共にできなければどのような美しい別れを準備するのか。感情的に仕事を処理できない問題であり基準と適用の過程を経て判断の根拠が出なければならない。
この3種類の論点に対する規定が必要だ。[次は何なのか?] という主題で作成される、この報告書は上で列挙した3つの論点を話すことのできる基本材料を作る為である。私の独断的な判断であるかもしれないが2015年7月から展開される事業が3年前にあった[本社中心体系]で転換されたこととは比較することのできない破壊力を持っている。方向転換はライフスタジオの持続可能性に対する実験である。経済的な手段として会社が持っている役割と共に自身の人生と一致する運命共同体としてのライフスタジオでなければならない。生存の時期を経て共同経営という名前で共に決定して事業を執行した時期から各自の責任と権限で自律的な経営をした結果は[2013年体制]とDチームである。[次は何なのか?] の内容はライフスタジオがいくべき方向に対する話である。今までの過程と結果を総合してライフスタジオが持続可能な組織として規定する作業である。
 
我々が出来る事としなければならない事を結合してやりたい事に作って行かなければならない。我々が行かなければならない道に対する規定は鮮明な基準と共に選択を強要する。
自身の運命を自ら決定していくべき時間がだんだん近づいてきていることを感じる。
現実を判断する正確な基準を作る為の報告書が[次は何なのか?]である。
 
方向転換を前に今一度[我々は何をしようとするのか?] に対する根本的な質問をしなければならない。また皆が同意して認める事の出来る基準が作られなければならない。人生と組織の根本的な質問に対する答えと我々皆が同意して共に行くことのできる道に対する具体的な方法としての方向転換に対する糸口がこの報告書に込められた希望である。
 
ライフブックの出来事が起きたその日の夜、家に帰り「次は何なのか?」の序論を読みながら私の中にあったバブルが一瞬で無くなる感覚を得ました。上記の文章は、私の想像の中でだけ存在する「2013年体制」と現実のDチームを二分法的に分離を行った状態で作成された文章です。
 
果たして「2013年体制」で何が作られたからといい、出発ラインの話をしているのか?
何を根拠に出発ラインに立てる状態になったというのか?
そのようになりたいという事であり、そうであるということではない。
 
論文はうまく進んでいるか?と質問すると、10人に9人が大変ですと言います。7月から変更される自身の店舗を決めたのか?と質問すると10人に9人がわからないと答えます。店舗で人間関係について尋ねると特別な関係はないと言います。今一番楽しいことは何か?と尋ねると不安な事だけを話します。
論文は、自分自身のために書くものであり、その過程で事が成されていく原理を探すためのものです。7月からの店舗変更は、自身の決定権を行使するお祭りのような出来事なのです。現在、私たちの条件の中で最善の方法をとり、構成員達が集められ、各店舗が構成されています。形式は新しくとも、内容はそのままです。論文は50ページ以上作成され、6月末に提出し、7月に新しい店舗で新しい人と新しい話しがされるでしょう。新しい形式に慣れてきたら、時間が過ぎればすぎるほど、再び問題が起き、そうなったら、また新しい形式を導入するようになるでしょう。
このように、内容は特に変わることなく新しい形式を再び作りだす悪循環が繰り返されています。このような悪循環の繰り返しを認識できずに「次は何なのか?」を書きながらもう一度新しい形式を通してバラ色のような未来を設計していました。
 
「2013年体制」とDチームの違いは、やる事とやらない事しかないのではないでしょうか?
 
中央で掴んでいる紐を離したら、どのような事がおきるでしょうか?
 
私が「次は何なのか?」の文章を読みながら一種の自覚をしたのは、やる事と、そうなったということを混同し、ただやっている事でそうなったと錯覚をしていたということでした。与えられた形式に合わせて、ただやっている事をそうなったと思っていたという事です。内容が変わらなければいけないのに、内容はそのままにも関わらず、そうなったと錯覚し、再び新しい形式を作ろうとしていました。
私たちは皆、高校という形式を通過したでしょう。しかし、各自に残っているものは何ですか?
 
運営委員会、論文、シーズン1準備、各店舗の現状、フェスティバル等を最大限客観性を持ち見てきました。やったことをそうなったものとし、内容は同じなのに形式だけ新しいものを作ろうとしたということを確認することになりました。
「次は何なのか?」の序論を読みながら真に私自身が恥ずかしくなります。やったことをそうなった事として錯覚し、再びやることを探すために新しい形式を作っている私の現実を知りました。勿論、この全ての責任は私にある事も知っています。何が間違っていて何処に向かうべきかについての不眠の夜をおくりました。
 
やったことをそうなったと錯覚した決定的な理由は、現実は以前と変わった事がないのに
新しい形式で取り囲み塞ぐという持続する方式にありました。
 
私たちは家庭において、国家が決めた教育制度により、やれと言われる事をやり、結局現体制に順応する人として成長しました。自ら条件を作りだす能力は喪失したまま、誰かによって作られた枠の中で決められている仕事をる方式で生きています。だから私とあなたの関係を設定することができず、条件変化を自ら作っていくことが何なのか、経験できませんでした。この問題を解決するために、学習と教育に集中しましたが、その体制がまた一つの決められた枠になり、その枠の中で安住する私達が生まれています。論文、哲学、自立等の巨大な話で飾られた形式に酔っていました。形式の中にいるということだけで、その形式が要求する基準を表面的にのみ、達成したからといって内容が作られるわけではありません。自分がまいた罠に自分ではまったのです。
 
結局、自ら内容と形式を作らなければなりません。
各自の形式で判断し、決定し、実践する過程で内容を作らなければならないのです。
つまり、自身が内容と形式を作り、自らの存在を顕さなければなりません。
 
決められた形式の中で最善を尽くしている構成員の人々には、申し訳ない気持しかありません。「2013年体制」で、今までには見られなかった多くの成果がありました。肯定的なサインが至る所からキャッチされました。これを基盤とし、7月からの方向転換を考えるようになったのです。構成員達は誠実に決められている形式で最善を尽くしました。
多くの成果があったにも関わらず、現在私たちが形成してきた構造では持続可能ではなかったのです。内容と形式がバランスを成さなければなりません。もう内容が発生しない状態から形式だけを強化する方式に対して転換が必要です。そのために今まで一生懸命走ってきましたが、私達の方法が間違っていたということを認めざるを得ません。自身が内容と形式を作り、自らの存在を顕さない限り根本的な問題は解決されません。
 
 
二つ目に、ならば、どのようにしなければいけないのか?
 
 
この決定を下すための会議の場で朴泰赫が下した診断がありました。「自ら存在を顕すために学習と教育という方法を使用した。また、より効果的な学習と教育のために、各種の福利厚生や環境を作った。内容を作るために形式を作ったが、その形式を維持することは当たり前な事になり、内容はだんだん自身とは関係ないものになった。形式は保ちながら内容は関係ないというような現状況を変えることのできる方法が分からない」という意見でありました。朴泰赫の方法は放牧型であり、私の方法は飼育型に近い気がします。放牧型は、上記で言っている形式は保ち受けながら、内容は関係なくなるようになる現象が少し早く表面化される条件であり、飼育型は、それでも表面的な結果物が少し顕れ、形式をより強化する傾向にあります。根本問題が治癒されない状態で、鎮痛剤で耐えようが、慢性的な痛みに襲われようが、どっちもどっちではないでしょうか?
 
ならば、どうしたらよいのでしょうか?
 
自らの存在を顕すためには、2つの大きな争点があります。
 
先ず、出発ラインの意味をもう一度説明します。読み書き討論を通し、世の中の作動原理を理解したら、自身の道を自ら設定できると思いました。2015年7月、たとえ足らないことばかりでも、その出発ラインを設定できる根拠を用意したと思いました。しかし、その出発ラインの意味は、結局誰かが設定した形式の中で大きな問題なく来たということを意味します。再び、より大きな形式を備えた出発ラインは、私たちが進もうとする目標とは関係なく、砂の上にお城を作る結果が見えます。上記で自身が内容と形式を作り、自らの存在を顕していかなければいけないと言いました。今まで私たちが来た道は、自らの存在を顕すための準備運動であったと思います。新しい出発ラインの意味は自ら存在を顕すための出発ラインでなければなりません。つまり、出発ラインを設定し、中央はその過程を助ける役割をしなければなりません。
 
引っ張られながら、何かに追われながら、他人が作り出した基準と枠から抜け出そうとする、私達の考えと行動方式を、これ以上見たくありません。自身は、10であるにも関わらず、他人が作り出した100を達成するために不安と義務感による考えと行動の方式では、いつまでたっても、変化発展の原理を達成できないと思います。自身が10であることを自覚し20を計画し、11、12、13を作っていかないといけないのです。これからは、自身が判断し自身が決定し、自身が実践し、その過程と結果に対する責任と権限の原理を作動させなければなりません。
 
2つ目に、妥協してはいけないということです。私達は今まで可能性に対する大きさを見て待ち、待って、待ってまた待ってきました。このような過程が累積されながら怠惰していき、基準がだんだんと低くなりました。放置し、弁明し、見ないふりをしてきました。やらずにできずに知らないという事が慢性化していきながら、今ではそれを当然のことのように受け入れます。今までは、経済的に豊かな状態にあり、現実を見ないようにし、理想を追求した時期でした。待つということは、待っている人に対し、道徳的名文を与えると共に、妥協することを日常化させます。同時に現実では、今すぐに活動をしなければいけない多くのことがあります。待つという事が、放置に変わり、新しい形式に合った行動をしながら組織は肥大化されました。組織は重くなり非効率を黙認する慣行が繰り返されています。つまり、誰も責任を持たずに各自「自立」と唱えている矛盾の状態です。
つまり、「慌しさの中の怠惰」が生活化され、それ自体が組織を危機的段階に陥るようになったと判断するようになりました。
これからは、違うことは違うと言わなければなりません。妥協の結果物として肥大化した組織に対する大々的な構造調整が必要です。不必要な店舗は整理していき、合わない役職は果敢に降ろさなければなりません。今まで作り出した各種の政策に対し、再検討すると共に、自身が内容と形式を作りだし、自らの存在として顕れる形体へと転換させなければいけません。
 
出発ライン自体を自身が設定しなければなりません。そして、妥協することにより、肥大化した組織に対する手術が必要です。中央は中央で、各個人は個人として計画し判断し実践し、存在を自ら顕さなければならないのです。巨大な形式に隠れ、未必の故意のような無賃乗車をこれからは中断しなければなりません。
 
私は、いろんな人達と相談し、この文章を整理しながら一つ重要な決定をしました。
 
これからは、中央で掴んでいた紐を放します。
 
中央から始まった事業を全て中断します。
 
日本の社会で、常識として通用する普通の写真館を作ります。
 
そして、最初からもう一度始めます。
 
現実的に言います。
-. 論文のように働く、店舗構成権、フェスティバル、シーズン1、哲学サークル、つくば店オープン、旅行プロジェクト、まっしろ、まっくろ等。中央で行っていた事を、この文章が発表された時刻を基準とし、中断します。
-. 全スタッフの給与を10%削減します。
-. 7月から、週4.5勤務を施行します。
-. 中央からの行政命令を通し指示していきます。
-. 7月から施行される、各店舗の人員移動に関して、中央で決め通知します。
-. 各店舗で発生する特別事項に関しては報告する義務があります。
 
中央で掴んでいた紐を放すというのは、中央で引っ張っていく形体ではなく、自ら存在を顕すという発想の転換を行動に移す最初の出発です。中央が何もしないというのではありません。中央は中央で存在を自ら顕さなければなりません。勿論中央の基準は各個人の基準よりも高くあるべきです。中央で掴んでいる紐を放したときにどんなことが起きるのか気になります。何も起きないのであれば、私達が今までやってきた全てのことがバブルであったことを証明する出来事になるでしょう。むしろ、動きが活発になり何か水面上に結果物が上がってくるならば、私達が今まで辛いながらも行ってきた事に対する補償であり、そのような確認を経て、その次を模索することのできる動力を確保するようになります。
 
現在行っているさまざまな事業が一段落し終わる前に、急に中断する理由に対して疑問に思うでしょう。有終の美を飾りたいという未練もあります。中央で行っている事業を中断する理由は幾つかあります。7月から新しく店舗を再編成するという現実的な問題があります。店舗の再編成は、以前の出発ラインを基準とするものでした。7月に店舗再編成が成され、この文章が発表されると、それ自体が大きな混乱となります。
また、現実の認識に対する大きな転換を決定したこの時点で、現在行っている事業を持続する動力を相当な部分失ったのも事実です。もう一つ、決定的な理由は、一種の衝撃療法が必要だったからです。慣れてしまった、さまざまな事業が中断されたとき、各自に響く鐘が重要です。自覚が起きることもあり、特別何もなかったというように、それ自体も当たり前のことのように受け入れるかもしれません。その結果自体が私達の現実であることを知るようになるでしょう。
 
日本社会の常識として通じる、普通の写真館を作るということは、それが私達の新しい出発ラインだという考えから表現した文章です。一種の「否定の否定の法則」を使用しようということです。現在ライフスタジオの環境が、果たしてどのような状態なのかに対して、客観的な判断が必要です。今まで作り上げた各種の制度とシステムを当然のことのように受け入れることから問題が始まり、その問題を学習と教育を通して、糸口を探そうとしました。ところが、現実の変化は微々たるものであり、中央で作られた学習と教育に重点を置いたシステムに、あまりにも慣れすぎています。各自に適用していた各種制度と、システムの無い環境を、自身を顕す出発ラインにするためです。
 
みなさん驚いたことでしょう。しかし、時間を持ち、ゆっくり考えてみると、そんなに驚くことではありません。自らの力で自らの存在を顕せばよいのです。哲学サークルをずっと続けたい人は、方法を探して行えばよいのです。論文を完了したい人は完了させ自らを顕せばよいのです。横的な組織を作りたい人々は作り、活動したらよいのです。希望する店舗があれば自身の力でそのようにするように作ればよいのです。自身が自ら作らなければそこまでがその人の人生です。その人生をずっと続けていくか自ら作り出すのか2つに一つです。
これからは、可能性に対する投資は慎重に行っていきます。可能性が現実性になるという証明を自ら行った時に投資します。それが、今までと違う点です。例えば、これからは、店長を任命しません。今までは店長の役割を施行できるだろうという、可能性を基準に店長を任命し、その責任と権限を付与しました。多くの店長たちが辛い経験をし、その場から降りました。店長の任命は、店長の役割に対する可能性が現実性になるという証明をした店長にしようと思います。
 
自ら存在を顕すために、中央で引っ張っていた紐を放すと、これから私達の未来がどのように展開していくのかが気になります。極端に進むと、ライフスタジオが無くなるかもしれません。良い方向に見ると、連続的な自覚を通し、実質的な内容が作られながら正しい方向転換になります。私は特別な出来事がは起きないのではないかと予想しています。理由は簡単です。既存に行おうとしたことを中断したときに起きる喪失感と、これから何をしなければいけないのかに対する不安が同時に出てくることでしょう。喪失感は時間が解決してくれ、不安はいつでもついて周るため、そんなに大きな衝撃ではないと見ています。だから最初からもう一度始めようと思います。
また、このような処置により、様々な副作用、または、傷が予想されます。共に全てのことを行ってきのに結局は、権力者の一言で決定されるという挫折感があるでしょう。やれと言われたことは全てやったのに今更この道ではないと、それが自身の問題であると追い込むことに対する裏切られた気持ちもあることでしょう。組織に対する信頼がなくなり、人に対する信頼はより低くなるでしょう。どうしようもなく、私を始め「2013円体制」とライフスタジオが背負っていかなければならないのです。
 
中央で掴んでいた紐を放し、現在の事業を中断するということは、事実ライフスタジオ、「2013年体制」の一部分だけを変化させることです。私達はこれからも、顧客と出会い、撮影を行い、共に働く同僚とご飯も食べ、話もするでしょう。変化発展プログラムを装着しなければならず、学習と教育を維持しなければならず、各個人が持っている特殊性も配慮しなければなりません。以前と一つだけ違う点は現実を基盤としようということです。
今までは、現実を変化させるために学習と教育を行ってきたならば、これからは実践を通し、直接自らの存在を顕すことを基準に設定しなければなりません。中央で形式を作り、その枠の中で提示した内容を忠実に遂行した方式から抜け出し、自身が内容と形式を作り、自らの存在を顕わそうということです。ある人には、チャンスとして作用し、ある人には脅威であり、危機として受け止められるでしょう。私達が今まで共に学んできた内容で実力発揮をする時期だと考えます。各個人と店舗は、自らを振り返り、判断し、最初からもう一度始めるという、決意の時間になってくれることを望みます。
 
3つ目に、最初からもう一度始めますというのは、何を意味するのか?
 
 
何をどのようにまた始めるのかという事はその誰も知ることはできません。ただ一つだけ、現在の方式では持続可能性を担保出来ないという事であり、自ら自身の存在を顕さなければならないという事は知ることが出来ます。現実と理想のバランスと人間らしく生きていく構造と方法は今から探していかなければなりません。
 
また、始めると言う事は、まず私達がどこから道を見失ったのかに対する評価が必要です。その評価を基盤として10年を見据える総合報告書が作られなければなりません。この為にライフスタジオの全ての構成員達の知恵を集めなければなりません。このような過程が自ら自身の存在を顕していくことだと考えます。
 
現実的には、早いうちに本社所属の店舗に適応される基準を作らなければなりません。7月から店舗改編が始まれば、新しく適応された基準によって店舗運営が成されなければなりません。自らの存在を顕していく為の最小限の基準でなければならず、何よりも現実と理想のバランスを土台としなければなりません。
 
最初からもう一度始めると言う事の意味は、結局、各個人と店舗を基本単位とするしかありません。各個人と店舗は自身たちの論議構造を基盤として内部分化、教育プログラム、人間関係プログラム、余裕と楽しみでなるシステムを自ら作らなければなりません。各個人と店舗単位で成せない事やさらに高い水準の文化の為には横的な連結をしなければなりません。各個人と店舗での成功事例が出ることが「最初からもう一度始める]をするために一番重要な部分だと考えます。自身の存在を顕していく単位が各個人と店舗である為です。
 
時間順で予想可能な事業展開はこのようになっています。
7月1日  ‐ 草加・新横浜・浦安・代々木・青山・湘南では新しく再編された人員で運営
7月1日  ‐ 本社の枠組みを完成してその中から店舗運営に関する最小限の規則を確定
7月1日  ‐ [2013年体制改革委員会]を構成して論議を始める
12月31日 ‐ [2013年体制改革委員会]1次報告書完成
 
最初からもう一度始めると言う意味は現在の私達の状態を正確に判断して
達成可能な具体的な目標を設定し、各個人と店舗がこれに同意して
具体的な行動を通じて自らの存在を顕していくものです。
 
そのために、現在の活動を中断して各個人と店舗は自らを振り返ってみる時間を通じて、集団的な自覚と決意をするためにです。この過程で何も起こらなければ壮絶な現実を経験するようになるでしょうし、本当に最初からもう一度始めるようになります。それも私達の現実であることを受け止めるしかありません。
 
 
 
まとめます。
内容と関係なく中央で作られる形式で維持する方式では、これ以上発展を期待することはできません。むしろ組織自体の根幹が脅威を受けています。今試行している事業の中断という衝撃療法を通じて、最初からもう一度始めなければなりません。自身が内容と形式を作り、自らの存在を顕していかなければなりません。これは各個人と店舗から事例が出て来なければならず、これを基盤として「2013年体制」の内容を作らなければなりません。
 
この文章を書きながら、私が感情的で客観性を維持できずにいるのではないかと心配をしました。もちろん今は感情的で主観的な考えです。その間やってきた数多くの約束を一日で破り、全く違う話をしている状態が感情的でないといえるでしょうか。非難の矢も心配になり、このように急に事業中断を決定しなければならないと言う事に対する疑問もあります。権力を乱用すること事態がライフスタジオが持っている根本問題という考えもして見ました。
 
皆さんが選択してくれることを願っております。
この問題は投票で決定する試案ではない為「決定」という単語を使用しました。「決定」という方法と「決定」の内容から発生する結果は、私達全てに該当するからです。この決定に怒り、私にテロを起こすことも出来ますし、労同組合結成を通じて集団的な交渉力を高めることもできます。
このような一方的な「決定」に対する皆さんの判断と行動を待っております。