レポートReport

2015年LEMON TREE PROJECT

2015/12/16

219

 
 
LEMON TREE PROJECT
 
2015. 3. 1 Mr. Lee
 
 
 
私はどのような状態か?
原則
目的と主題【テーマ】
写真
システム
マーケティング
530
誓い
 
 
            人には乗り越えられる事だけが与えられる
 
★. 私はどのような状態か?
 
私が約束し私が守ろうとする意志が
[レモンツリープロジェクト]に参加できることができる権利を確保することができる.
1から 2を作っていく原則を提供する.
鯉という魚がいる。5~8㎝サイズに育つ観賞用の鯉だ。このような鯉を池や大型水槽で飼うと15~25㎝まで伸びて川に行くと最大90~120㎝まで大きくなる。小さなものでは、指先ほどの小さな魚が川に出ると巨大に変身する。環境に応じて自ら変化する[鯉の法則]がある。鯉と同様に、人は環境の影響を受ける。自分が持っている能力の100%を発揮する人もいて、10%に留まる人もいる。 [自由意志]は自分の環境の変化も成し遂げることを意味する。
[レモンツリープロジェクト]は自分自身において[鯉の法則]の実験だ.
物事を前に打ち進めていくことは、私の行動方式だった。前に打って出て生じる軌跡は自身と似ている。会社や組織を介して打って出ていくことが私を確認する方法であり、その過程で数多くの失敗と数回の喜びがあった。失敗は限界の他の言葉であり、喜びは可能性に対する最高の感情の状態である。数多くの失敗に露出され、限界を確認する回数が増え、数年に一度来る喜びをさらに希求する。政策が作られ、改善の意志が行動を呼び起すが継続する失敗は私の体をより小さくする。いつからか、ますます保守化されているという感覚を受ける。続く失敗と羊飼いの少年にならないようにと欲望は少しずつ[安定と予測可能性]が政策決定と実行における優先順位となっている。挑戦の中で、思わぬ怪物の発見を待っている楽しみは減り[ほら!私の言葉通りになったではないか]という操作された神話を作ろうと努力する。
 
池から川に出るために何度ジャンプをしてみてもできない。
環境を自ら作る作業はさらに切実である。
青山店から始まったライフスタジオが、[2013年体制]に続き[論文プロジェクト]まで続いている。ライフスタジオは全く幸運なことに、顧客の反応が熱く経済的な部分は自動的に解消された。安定化した段階に入った3年後から絶え間ない誘惑に苦しめられた。私の倉には米が十分にあり、[次]は何があるのかという楽しい悩みはいつでも挑戦との境界線を越えた。[自立]と呼ばれる内部の文化を作ることで方向が決定され、学習と教育、集中と習慣、哲学で突破しようという過程を経てここまで来た。ただし、[自立]という方向性とは別に自慢という誘惑は続いた。[私はどこまでできるか?]の根源的な質問は、私のポケットにあるタバコのようにいつも胸の中にある。[自立]という目標と自分の中の利己的な傾向はなくならず、ある瞬間からは宿命だと規定するようになった。人間に入って変化の過程を見守るのと同じくらい嬉しいこともないが、そのことほど遅く進行されることもない。人が変化し発展するということは、東京にいるカタツムリが沖縄に行くよりもゆっくり進行される。西に進んでいること自体がありがたい。ほとんどは東西南北を問わない。少なくない人は少し進み、停止する。赤信号が入ってきて青い光を点灯させようと思わなくなる。人がゆっくり行けば行くほど現実逃避としての自慢という誘惑は、あちこちで出没する。
私の父は、[物事には順序がある]といつも言っていた。サガナムスタジオでの失敗を通じて[概念のない仕事の拡大は、災害に等しい]ということを知るようになった。共同経営という名前で始まったライフスタジオでのリーダー会議が失敗したあとは、分断化された支店の姿だった。学習と教育という話題を持ち出して3~4年を進行した結果は、形式だけが残った抜け殻であり、リーダーは各支店に戻り、各自の生きる道を模索した。19店舗と100人近い構成員で外見は肥大したが、一つの戦いの後、残されて倒壊した建物のように存在した。このような時誘惑のウイルスが蔓延する。既存のものはこれといって価値がないようで、新しく始めるなら充分にできるという妄想に取りつかれている。挑戦と自慢が連合戦線を構築して、私に甘い悪魔の誘惑を開始する。
[もっと広い世界に進むと爽快な喜びと共に君はヒーローになれるよ!早くそこを出なよ!]
組織の方向性について話をするたびに出てくる定番メニューは[全国化]である。私をはじめ関係者は、[全国化]について、手使わずに鼻をかむくらい簡単なことだと勘違いをしている。関西地域にライフスタジオを10店舗オープンするということは、実現できる可能性が高い。簡単ではないが、予測可能である。ところが[全国化]が何であり、誰のための仕事なのかの確信が不明確だった。再びプライドと偏見という綱に入ることはないかという心配が私をつかまえた。2011年[静岡プロジェクト]は、最初に訪れた挑戦と誘惑から始まった。現在の状況からの逃避なのか、ライフスタジオが行かなければならない道として[全国化]なのかを確認する作業が[静岡プロジェクト]であった​​。約3ヶ月の期間、徹底的に隔離された静岡の海で私を客観化させることができた。[全国化]は、砂の上に城を築くようだという結論に至り、本社中心の、単一のシステムを作り、本格的な[自立]のためのシステム構築を開始するに至った。本社を中心として一つの組織体系を作り、ライフスタジオ全体がA、B、Cに分化した各チームの自律的な運営は、一種の競争を誘発した。Cチームは解体し、Aチームは[2013年体制]と[論文プロジェクト]を使用し、独自のダイエットを進行中だ。Bチームは、独自のプログラムを運営しながら、それなりの方向性を設定する中で、2つの店舗が脱退した。また、Dチームという退路が作られ、7つの店舗は自然にその位置を占めた。
 
支店が分化する過程を心配する人たちがいる。私は肯定的に、この過程を見守っている。各支店が、[2013年体制]、Bチームの[カルペディエム]、Dチームとして分離が行われるのは、積極的に自分のアイデンティティを規定していることを意味する。以前、本社を中心としたトップダウン式の事業執行は人の硬直性だけが強化され、内容なしの形式を量産することになった。表面的な姿は、何の問題もなく維持されているかのように見えても、ライフスタジオが追求する目標とは、ますます距離が離れていくしかない。本社を中心に見れば[静岡プロジェクト]以降3年の過程で、19店舗の100余名のメンバーから、[論文プロジェクト]を経て、4つの店舗から30人前後の構成員に圧縮された。
ライフスタジオの目標という観点から要求されるのは、コア人材の結集と成功したモデルが作られることだ。 [読み、書き、討論]という動力で[自立]という目的地に到達するためには、これに同意し、現実から、積極的な実践を担保することができる人材が必要である。また、このような人材よって信念が現実化されている組織が私たち皆の目の前に提示されなければならない。店舗とチームの分離を通して組織としての座標検索をしていく過程でコア人材の結集が行われている。[読み、書き、討論]の動力で[自立]という目的地に動いていく姿があちこちで確認されている。また、[論文プロジェクト]が終わり、新たに店舗が再編成される過程で、コア人材で構成された単位が作られ、これらによって変化発展プログラムの装着が予測可能となるシステムを必ず作らなければならない。
挑戦と自慢の境界線で確保しなければならない条件は、ライフスタジオの持続可能性にある。生きて動く組織の運営原則が適用され、私たちが成そうとする目的と目標を果たしていかなければならない。持続可能性とは、目標に対する持続の可能性である。生気を失い生命だけ維持する組織ではなく、組織の構成員たちが目標に対する同意と実践を通じ、少しずつ目標に向かっているシステムをいう。論文を書くように働き、哲学的に突破する、士官学校の定例化、フェスティバルを通じた美しい競争などの政策が計画通りに推進される場合、持続可能なライフスタジオの構造が作られる。山の頂上から水が流れる。そこから始まりスタートした旅は、自然の流れの中で海にまで広がっている。ライフスタジオが歩んできた8年の時間を遡っていくと、水の茎のように流れを読むことができる。今の楽観的な見通しは、ライフスタジオの歴史を根拠とする。私たちが成そうとする目標は、特別ではないが大切である。普遍性を持っているが、私たちだけの特殊性もある。あちこちで流れていた水が一つの川と合流する起点が今ではないかという予想を注意深くしてみる。最初に水路を作るためには、勇猛な将帥が必要だが、その水が苦労しながら川に到達したならば、川はその川としてそのまま流れていく。 
ライフスタジオにあったバブルがはじけながら、それぞれに合った位置をつかんでいる。
この過程で、目標を達成することができるシステムと信念で結ばれた隊列が形成された。
これからは決まっていることを黙々と行っていく状況である。今後6ヶ月が重要である。
議論の過程で、幸せについての質問をよく受ける。答えは常に同じである。
[幸せというのが私の人生の主題【テーマ】となったことはなかった。幸福はある瞬間に感じられる感情である。生きて、ある感情が現れた時、後に人との会話の中でその名前を知ることができなくて、それをひっくるめて幸せだと言っているようだ。代わりに軽くなっていたいという気持ちは度々現れる。軽くなりたいと思うのは、今重いということだ。重いのは嫌いだ。軽くなるということは自由になることと同様に使用されている。軽ければ自由になる。私に入ってくるものは、私の意志と大きく関係がないため、定期的に捨て去らなければならない。じっとしていても重くなってしまうなら捨てるしかない。重さから軽さに転換される瞬間、私は自由である。私にとって幸せとは自由という薬を服用したときである。]
軽くなっていという気持ちは、私のブログの最初の画面にも飾られている。 [4大原則の解説]にこんな文がある。
写真館をする理由は何も特別なことはない。楽しく一日一日を生きて一日を生きて少しでも人生の意味や価値を感じるほどであればいい。 [旅立て、見飽きた毎日の繰り返しから]という言葉がある。素敵な言葉だ。楽しみがなければ、旅立たなければならず、人生の価値がないと感じられる瞬間にも旅立たなければならない。誰でも旅立つことができる権利があり、戻ってきて空いた空間を満たせばいい。いつでも旅立ち、いつでも戻れる。自由なそのような空間を作りたいと思った。それが即ち自立ではないだろうか?
軽くなるということは、私がライフスタジオでこれといった役割が必要ないときである。ライフスタジオが持続可能な組織となれば挑戦と自慢の欲望を広げることができる道徳的名分を確保することができる。これが軽くなることで自慢の楽しさを探すことができる自由ではないか?
2年前に作成した2013年体制の報告書の最後の部分にこのような文がある
 
[2013年体制]も一種の自分のお茶碗探しであると考えてみた。他の人の状態とは関係なく、自分がうまくできることを最高の価値と宣伝し、人をその方向に導く魅力を楽しんでいることであることでもある。このジレンマをジレンマでなくする最善の方法は、一つである。
自分のものをすべて完全に手離すと、少なくとも道徳的な非難は避けることができる。
しかし、手離すことができないということも知っている。ただ、少しずつ手を離していくことだ。そして、他の人より手を離したと慰安するのだ。私が手を離すということは、ライフスタジオで私の痕跡を消すことだ。昨年にはそれを目標にしたが再び大きな刀を持って登場した格好となった。もっと熱心に、私の痕跡を消してくれる人と現場に変化発展プログラムの装着が予測可能なシステムを作ることが、私が手を離すということになるだろう。 [人が人を人として]
それでは、今が去る時となったのか?6ヶ月後には73%程度ではないか?おそらく27%の中には私が去ったとき、組織がぐちゃぐちゃになってしまい、私の存在感が浮き彫りになることを待っている、子供が嫉妬するときのような嫉妬心が入り混じっている可能性が高い。このような面も必要である。一人が離れると、他の人が彼の空席を埋めながら仕事とチャンスが生じるものであり、一定の部分に問題が発生した場合去った人の価値をもう一度考えながら、一杯やりましょうと電話をかけるそんなシナリオ、結局人はそうやって生きていくのではないか?
このような考えをしていた中でA社と出会った。
偶然を必然にしなければならない。A社が私が待っていたその人と組織なのか?
[4大原則の解説]で動機付与を説明した部分がある。欲求と欠乏が動機を作り出すという話である。私の欠乏は、事が成されていく原理を知っている人たちである。広がる現象を接続して追加して政策を作ることのできる。ライフスタジオの人たちと話をして同意の過程を経れば政策は現実に適用すべき至上命令となる。しかし、問題は私が考えた部分の確信である。確信がないというよりは反対があまりない。刺激を受けて修正して、より良い方法のために研究しながら、事業の歩幅を調整する必要がある。しかし、ブレーキがない。どんな事業に対する主張を並べて自己満足に囲まれていながらも、ベッドでうなされている自分がいる。自ら設定した網に魚が入ってくるのを待つ。私は私の網の範囲を知っている。今まではそれなりに魚が入ってきてくれ魚が貧弱な場合には、高強度の弁明と粉砕機で免れてきた。それが何なんだと言う人が私の目の前にはあまりなかった為、私は認識できるはずもない。ライフスタジオが大規模拡大戦略を推進していなかったのはむしろできなかったことでもある。それ以上を知れなかった私が知っているものだけを推進してきたため、怪物の襲撃を受けなかった。今までは、特別な問題が生じず幸いだが、何か大きな事を繰り広げるときは、必ず問題が発生する。事が成されていく原理は私が知っている程だけ知ることができる。  
より高い次元で事を成していく原理が私には欠乏として作用した。
この欠乏の解消は、結局能力のある人、または集団との出会いである。
私の欲求は、上記のように論じた挑戦と自慢だ。
私は知らない世界に挑戦し、私にできることがあるという自慢である。
 
挑戦と自慢への欲求は多いがライフスタジオの一抹の責任と私が今持っている条件と環境で作ることができる未来の予測がその欲求を抑えていた。その程度の未来なら、あえてやる必要がないことであり、今と同じ結果物がでるであろう。能力のある人や集団が、私の欲求と欠乏を刺激しながら動機付与を提供することができる。ここで1つ付け加えるならば、新たな挑戦と自慢がライフスタジオにとって必要であると考えるからである。[旅立て、見飽きた毎日の繰り返しから]としゃべりながら私は繰り返される人生に安住しているからである。より広い世界にさらにもっと深く思慮して経験して強くなることが、私がライフスタジオに与えることができる最高の贈り物である。
能力のある人、または集団がA社だろうか?
この質問は重要だが、その確認は自然に行われる。ライフスタジオが持っているものが10であり、A社が9〜12程度であれば、おそらく一緒に仕事をするだろう。もし8以下または13以上であれば一緒に仕事をすることは不可能である。[レモンツリープロジェクト]を行う決定的な理由は、ライフスタジオ1とA社1を合わせて2を作る為ではない。ライフスタジオが1から2になるために[レモンツリープロジェクト]を行うのであり、これはA社も同じだ。一緒に2を作成することが重要なのではなく、それぞれが1から2になって、その結合が[レモンツリープロジェクト]である。
 
現在持っている1を基盤に2を行うことができるという可能性を
A社、ライフスタジオが確認できたとき、仕事を一緒にすることができる。
固定されている状態での事の進行は、大参事をもたらすこともある。
A社が1から2になる可能性については、この文章で明らかにすることはできず、する必要もない。これから[レモンツリープロジェクト]6ヶ月間で自然と確認することができる。確認できなかったり、何もしないのであれば[レモンツリープロジェクト]は、一種のハプニングに終わる。
特に同業という関係で致命的な欠陥は、相手だけを評価の対象として見るからだ。同業をする理由は、ただ一つだ。一人では自分を正しく見ることができないからである。自分の道を黙々と進み、決められた時間と空間で互いが客観的に向き合うことである。従って、同業はそれぞれの道を黙々と行くことを前提とする。同業は自分の道を行く二人以上の多数が頂上で出会いを約束して共に道を歩くのだ。それぞれの道の横の同僚との緊密な連結を必要とする。
一人では向き合うことができないからである。しかし、一人ではできないことは、それぞれの道を黙々と行ったときに出てくる。同業の終わりが良くない理由は、各自の道を止めてしまうからである。自分の道の前に障害物があり、これを超えることなく振り返ったときに同業者が現れる。自分が行くべき道ではなく、同業者に頼るか、または不平不満をいいながら同業に亀裂が入りだす。自身の行く道を行き、休憩所でお互いの疲れた肩に優しくマッサージをしあうのが同業をする理由である。もう一度強調するが同業がよくなるためには、各自自身の道を黙々と進んで行くことを前提とする。その前提の上で話をすることは、互いに材料が豊富になり、互いに対しての信頼は強固になる。
 
[レモンツリープロジェクト]を前にして、試合に出られる体を作らなければならない。中学校の時のクラスで10位の成績に入れば野球グローブを買ってあげるという叔母の誘惑に負け6位の成績を取ったことがあった。叔母は約束を守らず、再び40位だった私のもともとの成績に戻った記憶がある。まるで補償を願うかのような子供の動機付与のような行動をすることはできない。
   私が約束し、私が守ろうとする意志こそが
[レモンツリープロジェクト]に参加することができる権利を確保することができる。
これが1から2を作る源泉となる力を提供する。
ならば、何をもって自らをテストし続ければいいだろうか?
 
[レモンツリープロジェクト計画書]
何かを書くというのは苦痛である。本当に書く必要がない限り、避けたい存在だ。リーダーシップはどこから出てくるか?書くことから始まると考えている。書くからといって、リーダーシップが出るわけではないが、始まりは書くことだ。書かなければリーダーシップは少しずつ減少するしかない。書かずに、リーダーシップの内容を補足できる他の方法がある人は国会に送らなければならない。他の人のことはわからないが、私の結論はそうだ。書くというのは良くしようという意志があるということだ。書けばその書くことを大切に思っているということであり、書かなければ既に持っているものを活用するということだ。書くことは苦痛であるが、その対象が大切なのであれば、その内容について必ず直接書かなければならない。
[レモンツリープロジェクト計画書]は、二つの意味を持っている。
第一に、私の中にあるものの総合である。人生の基準、写真館がこの社会に服務しなければならない義務、価値を生み出すことができるシステムがすべて入る。非常に私個人に限られた問題である。私が何を知っていて、何をしようとしているかに関する総合的な報告書になるだろう。[レモンツリープロジェクト計画書]は、非常に利己的な行為とも言える。否、その反対かもしれない。6ヶ月の定期的な討論の過程において明らかになっていくだろう。私の特殊性が[レモンツリープロジェクト]という普遍性に生まれ変わるためには、さらに私の中にあるものをまとめてあてはめなければなら。私が知っているものを再整理する過程であり、将来の可能性を含んでなければならない。計画書と言えばよく、時間の計画を考える。どのようにインテリアをしてホームページを作ってマーケティングはいつ開始するのかなどの具体的な実践計画を想像する。もちろん、時間と行動計画も必要である。それと同じように大切にしている部分は、写真館の構成要素に[レモンツリープロジェクト]のDNAをどのように植えられかである。企業の最高の競争力は価値を生産する能力である。価値は写真館の目的と主題から出てくる。インテリアや写真、従業員の表情など写真館の構成要素に、写真館の目的と主題が含まれているときに価値は発生し、その価値を顧客が購入するのだ。目の前に見える派手さというのは、ひと夏の商売で終わるビーチであるようなことである。
 
目的と主題が写真館のすべての構成要素に入るようにすることが私の役割だと考えている。
いや、役割でなければならない。そうでなければ私にとっては災いになる。
生きていく問題において、売上高と損益分岐点、赤字の心配は常に付きまとう。経済的な問題の解決なしにはその何も観念にしか過ぎない。しかし、経済的な部分はそんなに心配していない。最初にライフスタジオのホームページに[レモンツリープロジェクト]を紹介することで、撮影を希望する予約待ちの顧客を吸収すれば良い。この部分は、自慢ではなく現実である。最初にライフスタジオに助けを借りて、ある程度運営することができる余裕が確保されれば、顧客の再生産構造を構築する必要があるのは、[レモンツリープロジェクト]の責任である。経済的なことは基盤をつかむと自然に転がり始める。
[レモンツリープロジェクト]が初めてライフスタジオで話されたときの、人の心配は資本に振り回される可能性があることだった。企業が、特に上場を目指すならば、人より多くの利益と売上高のために走って行くという、このような形勢に逆らうことができず、それには耐えることができないだろうという心配だった。[レモンツリープロジェクト]の目的と主題は、当面の利益と売上高には影響を与えるのは難しい。また、写真館が保有する資源の相当の部分を投与する必要がある。そのような懸念に対する私の反論はこうだった。私たちが運営の主体であるため、そのような心配事がおきることはないだろう。ライフスタジオやA社ではなく、[レモンツリープロジェクト]が主体である。もしそのような懸念が現実になったら、私は一緒に仕事をすることができない。そのときはやめるかも知れず、鶏を追っていた犬が屋根に登った鶏を見ている状態になるだろう。それならばその犬になろう。ビジネスの世界を私は知らない。わからないので誰かに利用されるならされるしかない。細心の注意ははらうがどうしようもないのは仕方ない。むしろ私の能力の底を確認して退出させられることの方が心配である。自分が選んだ道は、自分で責任を負うしかない。
私の答えは、ネットワークマーケティングの世界に入門する人がする話と似ている。私も知らない世界だから覚悟と誓いしかいうことできない。
第二に、[レモンツリープロジェクト]を成す精神的根幹としての役割である。ライフスタジオに入社した人が一様に話すことがマニュアルである。マニュアルがなくて混乱すると。その後、このように質問する。人に会うときにマニュアルを持っていくのか?ライフスタジオのマニュアルは、顧客管理プログラムにある数千枚の報告書であり、ホームページにある数千枚の写真である。
写真館の業務は、特にマニュアルが必要ない。数日通ってみれば分かるようになる。新入社員は、朝の掃除の時間に、自分の掃除範囲を指定してくれという。新入社員の清掃区域があるだろうか?写真館全体が自分のエリアである。写真館のすべての構成要素と挨拶を交わして、自身が新たに入って来たことを通知しなければならない。従って、新入社員には掃除区域などというものはない。清掃区域を決めてあげた瞬間、彼の[自由意志]は制限される。誤解がないように願う。組織が構成されれば規則は必要であり、最小限のマニュアルを作成する。ライフスタジオにも存在する。無分別なマニュアル、人と人との分離を引き起こすマニュアルについては必要ないという話をしたのだ。
写真館に必要なのはマニュアルではなく、すべての構成員たちが目的と目標、主題について同意して実践することができる明確な柱である。イエスキリストを信じる人たちにとっての唯一のマニュアルは聖書である。一つの組織のメンバーが組織の目的と目標、主題についての信念を支えることができる柱が[レモンツリープロジェクト計画書]に含まれている必要がある。この計画書は、ウィキペディアの方式のように、すべての構成員が上書き修正し更新できるものでなければならない。時間と空間、経験と行動の結果物が計画書に少しずつ追加されていくことと同じくらいの価値が作られる。最初の設計は、今書いてあることであり、以降は、すべての構成員たちが共に作り上げていくべきである。
9月から6ヶ月までとするならば、2015年2月中旬まで
100ページ以上の[レモンツリープロジェクト報告書]を作成することが
自分自身にする約束であり、行動しようとする意志の表現である。
 
[日本語を完全に征服する]
成田空港で最初の入国スタンプを押されてから10年近くになるにも関わらず、まだ私の名前を日本語で書けない。4年ほど過ぎてひらがなが読めるようになり、今では3歳くらいの子供程度のレベルだ。学習と教育を主張しながら、肝心の私は自分の名前も書けない。全く矛盾の塊だ。そんな私が嫌いだ。だから[レモンツリープロジェクト]が行われている6ヶ月間日本語を勉強して通訳が必要のない人になることを決心した。これからが怖い。
日本語を勉強するということは、日本の人たちの近くに歩み寄ることを意味する。日本の人との会話で通訳という過程を経るため、一種の神秘的なマーケティング効果があった。非常に感情的で、私中心に話すため、人を敵に回す場合が多かったが、日本では私を柔らかい人として認識している。通訳を介すと柔らかくほぐされた肉のように人たちに提供される。また、直接話すべき内容を、日本語ができないという理由でチョンアをはじめとする多くの通訳者が面倒なことを代わりに行ってきたが、その贅沢も減らすしかない。残念なことだ
 
が、挑戦と自慢の世界に行くためにシールドで囲まれていた王子(?)の、地位から降りて来ることにした。期待してほしい。通訳なしでスタッフたちの前で演説するその日を。それと同時に日本語で鋭い言葉を浴びせ話す私の充血した目の姿を。
. . . . . . . . . .
ライフスタジオから一歩離れることができる条件が作られている。従って、今後6ヶ月が重要である。私が持っている力を積極的に分散しなければならない。ライフスタジオが持続可能な組織の最初のモデルが出てくることができるよう、果敢にしかし、繊細なアクションが必要である。私の人生の座標はバランスである。バランスの取れた生活を送ることはないが仕事を見る視点の最初はバランスである。ライフスタジオがバランスをとりながら、苦労してここまで来た。今自分に航海に出ていけるゆるみが生じたという感じがある。確信ではなく感じている。この感じている部分に確信を確保することが、今後6ヶ月の課題である。  
[レモンツリープロジェクト]は、より高い次元の能力を持つ人との心ときめく出会いである。
私の中の欲望と欠乏は私の知らない[事がなされていく過程]の経験である。
A社という人と組織に出会った。少しの緊張とときめきが共存する。
幻想を夢見はしないが、適切な期待感はある。
このような適切な緊張とときめき、期待を集め[レモンツリープロジェクト]を始めよう。
 
★. 原則
原則は、私たちが目標を達成するためのルールであり、
問題を最小化し、発生した問題を賢明に克服するための約束である。
一緒に仕事をするということ。
見方によって地雷畑であったり、天がくれた幸運であることができる。韓国では絶対に同業するなと言って、ユダヤ人は非ユダヤ人の共同経営者がいてこそ事業を始めるという。サガナムで共同経営をし、間違いなくお金も失い人も失った。ライフスタジオは、共同経営という気持ちで仕事をしたが、今は各個戦闘をしている。本社と加盟店と呼ばれる契約関係に基づいていたので、現実的な問題が大きく起こらなかった。もし最初から共同経営の形だったら確かに厄介な状況に陥ることもあったようだ。もう加盟事業を推進していない理由もここにある。
一人のオーナーが株式の100%を持って直接経営をしている場合と事業の開始から株式を分けて役割を分担する形の共同経営は互いに長所短所を持っている。 ([レモンツリープロジェクト]は、共同経営の基準を考えている。今後どのように決まるかも知らないが同等の株式と適切な役割分担がなされるということを基準に、つまり共同経営の形で一緒に仕事をすると考えて文を続けていく。 )共同経営をする上で最も問題となるのは不明確な区別である。いくら事業初期に明確な設定がある場合でも、株式や役割分担、目標と事業方式で争いを招く可能性は常に存在する。私が私を知らないのに、問題が発生するのは当然のことである。問題を最小限に抑えるために、それぞれの努力をする。そしてそれよりも重要なことは、問題をどのように賢く処理するかである。一緒に事業を構想して仕事をしていくていく上で、いくつかの原則を定めようとする。
原則は、私たちが目標を達成するためのルールであり、
問題を最小限に抑え、発生した問題を賢明に克服するための約束である。
異なる組織文化と明確な目標が設定されていない状態で、私たちが約束した原則は、
道に迷った私たちの羅針盤になってくれると信じる。
  1. 溜め込まない【熟成させない.】
熟成させて良いものは酒であり、その逆は夏の日の生ゴミである。ハエが飛び交い家中の香りを担当する。夏の日の生ごみのようなことが意志疎通不在の組織文化である。各種のハエが蔓延して雰囲気を溝のようにしていく。 
ある瞬間、これまでと違う顔をしている人がいる。過去の会議で感情が傷ついた彼は、少なからぬ時間の間、自分の中で拡大再生産過程を経て、そのような顔で会議に出席したのだ。熟成すればするほど強化されている発酵の過程を経て、自らの統制を拒否するような姿は、見る人を残念にさせる。なぜなら、その人は卑怯だからである。溜め込むことを自分の中で制御しているまともな行動だと考える傾向がある。そうだろうか?卑怯という言葉は、自分の感情を理性的に歪曲したときに出てくる病理現象である。してはならないことを感情はしたいと思う。理性がその事をするようにする、論理を作り、自分は卑怯な行動をとるようになる。自分に近づいてきた不合理な部分が自身の中で消化できない状況であれば、直接自分の現状を説明するのが最も理想的である。しかし、自分の中にある理性が迂回路を知らせ感情は歪んだ顔をして彼の心を伝える。卑怯は卑怯を生む構造であるため、誰にとっても良いことがない状態を作る。
コンサルティングを数回した。依頼した写真館の社長にお願いした最初の一言が[溜め込まないこと]である。コンサルティングをする人の能力と依頼する人の期待は天と地の差ほどのギャップがある。コンサルティングを依頼したということは、ほとんど構造的な問題がたまった結果である。一晩で解決することができない。しかし、依頼者の立場としては、多くの費用を支払うため、期待感は非常に高まるしかない。また、その写真館の決定的な問題は、依頼した社長から出てくる。社長が変わらなければ、何も変えることができない場合がほとんどである。時間が経つにつれて出てくる政策は、社長が根本的に変わらなければ実現することができないものたちである。社長は抵抗をしながら溜め込んでいく。自分の存在が萎縮することと比例して発酵されていつかは弾ける。この構造に勝ち抜くことのできる能力が自分にはないことを知り、コンサルティングをしなくなった。
共に仕事をしていれば理解できない部分がお互いに発生するものである。また、上記のコンサルティングのように一方に押されるという感じがすれば自分の弱い論理を強化する方向に行くようになってしまう。溜め込み、腐らせ、形が崩れおちる過程を経れば自然に[さよなら]を言うようになる。
溜め込ませず自身の中で歪曲が発生する前に外に表に出さなければならない。表に出せば、大きな問題は解けるようになっていて解けない問題が増えるのであれば、美しい別れを準備することもできる。共同経営の成功とは、美しい別れという言葉もある。溜め込まず問題はすぐに解決していく知恵が共同経営の成功の鍵だと考えている。
お互いを共生の相手と見ていないときに問題が発生する。同業は5:5の比率を合わせることだと考える。しかし、6:4、7:3に傾くのは当然のことである。どうして人の能力が5:5になることができるだろうか?結局は自身の位置の確立である。自分が最初に5だと思っていたが、知ってみると、3であれば3として存在すればいい。5から3に墜落するのは苦痛だがそのために同業しているのだ。自分が3だったことを、同業しなければ知ることができないので、私たちは一緒に仕事をしようとする。人間と人間はお互いを主体と見るべきなので5:5であり、仕事は7:3であることもある。5から3に下がる過程で溜め込み続けていくと、爆発することになる。溜め込まないということは、お互いに押してあげて、引いてあげて励まして認めるということを意味する。
小学生も知っているくらいの内容をあえて原則にする必要があるだろうか?
人間の新陳代謝を考えてみよう。人間の体は、継続して動く。食べればトイレで確認をすることになるだろう。溜め込めば、それは病気である。血が溜まり込めば、動脈硬化であり、息が詰まれば、人工呼吸をしなければならず、食べたものが溜め込まれれば便秘となる。人間の戦いは、消毒薬を一度塗れば治ることを2度3度の感染から発生させる。
特に[レモンツリープロジェクト]は、一定の規模を持っている2つの会社が出会い一緒に事業を展開する。組織は、その組織だけのコミュニケーション構造と解析機能を持っている。使う単語や論理展開の方法も異なっている。1つの政策が組織に入って消化され、結果が導出される過程が異なっている。特にかいつまんでこれだけが問題だとは言えないが、その小さな異なりが、各組織が持っている意思疎通の構造と解析機能を繰り返し通過すると、全く別のものが出てくる。
一つの小さな事件が複数集まれば概念化され、相手を見る枠が変わる。
溜め込めば溜め込むほど概念化の方向は変わらざるをえない。
一緒に仕事をしていく過程で、何か発見された場合、ためらうことなく[溜め込まない]と言うことにする。そして自身の中にあるセンサーが、なぜ作動したのかを一緒に探してみよう。探している過程で互いの距離を縮めることができる。[溜め込まない]をよく言う人が仕事を上手にする人だとしよう​​。そして賞もあげよう。
  1. 隠さない.
2年程前、ある店舗を訪問し、本社で行っていることの報告と店舗の状況を聞く場があった。一人の従業員が、このような質問をした。「何か決定されてから店舗に伝えられますが、それは誰が決めてるのでしょうか?」全く唐突な質問でありながら、誰もが持つ疑問である。質問の根底にある意図は、自分たちの意思とは関係なく、目に見えない手によって、自分たちの運命が決定されていることに対しての不満である。民主的運営原理による集団の意思決定構造も重要だが、何かを隠して加工して、偽りの結果だけを受動的に受け入れるという感覚は、まず人の感情を傷つける。誰かによって操られたり、操り人形の役割をすることは、人間の存在にまで問題を拡大させることができる。誰もが参加し、細かい部分まで伝えるのは難しくとも、少なくとも尊重されているという感覚は与えなければならない。1分が遠いと、Facebookを開く私たちは共有に飢えている動物である。組織を運営するということは、意思決定構造に全構成員が適切な方法で参加して提示された情報を一緒に議論して決定することである。しかし、すべての人が満足できる構造を作るということほど難しいことはない。
透明性を確保するということは、公開するということをいう。隠すことは意図を持っている場合と、結果的に隠すようになった状況がある。公開も意図を持って、自分に有利なものだけを示す公開の方法が下手で不足したり、歪曲されたりもする。市議会である決定が下されて、それを見るホームページに非常に小さな文字で書かれているとして透明性の原則が守られたということはできない。結局意図と方法の問題が透明性を高める重要な要素として作用する。何かの意図を持つことは、[レモンツリープロジェクト]の目的と主題からずれる場合に発生する。各自の利益が優先であるか、自身の不足を隠そうとしたときに何かの意図を持つようになる。この部分は、それぞれの人格を信じる方法しかない。嘘発見器を使用することもできないし、人が何かの意図を持っていれば、糸はからまりだすようになっている。方法は、経営学関連の本に数千種類もある。[レモンツリープロジェクト]に合わせた透明性を高めるための方法を探し実行しなければならない。しかし、何よりも重要なのは、[原則]である。[原則]とは、そのいずれの場合でも守るべき約束である。この約束が崩れると関係も自然に整理される。[隠さない]を[原則]に定めた場合は、それが私たちの約束となる。ヤクザのように指を切ることはできないが、誰も反することができない約束である。
まず、[レモンツリープロジェクト]が始まろうとする段階であるため、先に各自が持っている宝箱を隠さないと約束しよう。[レモンツリープロジェクト]の目的と目標、主題について他の見方や個人的な不快感があるならば隠さないでほしい。知ってみると大したことでもないことが、隠した瞬間、自動的に防護壁が降りてくる。
[溜め込まない]は、コミュニケーションの問題であり、[隠さない]は、透明性に関する内容である。組織というエンジンがよく回るための潤滑油の役割がコミュニケーションであり、透明性は、エンジンそのもの、すなわち目的と主題を実現していることを保証するものである。[溜め込まない]と[隠さない]は、互いに接続されていて、それぞれの領域を持っている。コミュニケーションと透明性が確保された組織…。実現不可能なように見える原則である。まず、コミュニケーションを通して透明になるほどの材料が作られることが優先だ。大部分は材料がないから、自分の中の感情が飛び出してくる。私たちはそうならないことを望む。
一つ目の原則と同じように、一緒に仕事をしていく過程で、何か発見された場合、ためらうことなく[隠さない]と言うことにする。そして自身の中にあるセンサーが、なぜ作動したのかを一緒に探してみよう。探している過程で互いの距離を縮めることができる。[隠さない]をよく言う人が仕事を上手にする人だとしよう​​。そして賞もあげよう。
 
  1. 楽しく仕事をしよう
[レモンツリープロジェクト]が三日で終わるか、私たちの人生の最も美しい瞬間の一コマになるかは誰にもわからない。通常始まりの段階では気持ちよく出発する。想像だけで存在する未知の世界が待っている。胸が高鳴らないか?特別な感じがない場合は、[レモンツリープロジェクト]に参加する資格がない。韓国の海兵隊の正門に[誰でも海兵隊員になれるなら私は決して海兵隊を選択していなかっただろう]という文がある。予想可能な道のりであれば、あえて行く必要はない。各種危険が伴い、誰が行けとも言わない道を自らによって進んで行くことが[自由意志]である。そのような[自由意志]を持っている人には、[レモンツリープロジェクト]は面白い遊び場である。
真剣だという言葉がある。真剣になれば面白い。楽しくなるためには真剣にならなければならない。笑って騷ぐ為には、その空間に真剣に接していなければならない。数日をまるまるプラモデル組み立てに陥っている人は真剣だ。ボンドで付け塗装をする楽しさに夢中になっている。しかし、真剣なだけの人たちがいる。笑笑のワイワイガヤガヤの騒いでいる中でも、自分のグラスについた水滴を真剣に見つめる人。人と人とを繋げる酒も、話もつまらないから水滴にだけを真剣に見ている。真の真剣になれないから面白くない。
想像してみよう。530は5年に30店舗オープンという意味をいう。5年の間に30回祭りが行われる。100人の新しい人と同じ目標に向かって走っていく。日本の写真文化の転換を私たちが作る。この神話を作る最初の人があなたである。あまり、どうでもいいくらいの話だろうか?
[レモンツリープロジェクト]は楽しくなければならない。自分が引き受けた仕事だから役割に最善をつくすという考え方くらいでは、なんだか[レモンツリープロジェクト]と合わない。情熱と確信、そしてお互いの信頼のもとに生きて動いている、これが真の楽しさだと思う。[新しい仕事を始める勇気の中にあなたの天才性と能力と奇跡がすべて隠れている]。ドイツの文豪ゲーテが言った言葉だ。
できると夢見ようと、まず始めることだ。
あえてやってみることが、天才を、パワーを、マジックを生むのだ。
勇気を出すのだ。そうすれば、あなたはそれをするパワーを授かるだろう。  
[楽しく仕事をしよう]には、私の個人的な願いがある。いつでもどこでも動機付与を提供する必要がある位置にいた。自ら動機付与するには限界がある。誰かから刺激を受けたいと思う。[ああ!情熱とは、このようなことなのか]を見てみたい。情熱は情熱を呼び起こす。ただ懸命にするよりも、信念と意志が結合された情熱を持つ人たちと一緒なら楽しく働くしかない。
一定期間、私たちは、月に一度会う。その日が楽しみになるなら楽しく仕事をしているということの証明だ。自分が材料を作成し、その材料を早く自慢したいと眠れないくらいでないと。また、相手が用意する材料への期待もある。お互いに対する刺激と励まし…。
楽しく仕事をしたい。
飲み屋での無邪気な猥談と一緒に情熱と信念が結合された胸が高鳴る眼差しを見てみたい。 
一緒に仕事をしていく過程で、何か発見された場合、ためらうことなく[楽しく仕事をしよう]と言うことにする。そして自身の中にあるセンサーが、なぜ作動したのかを一緒に探してみよう。探している過程で互いの距離を縮めることができる。[楽しく仕事をしよう]をよく言う人が仕事を上手にする人だとしよう​​。そして賞もあげよう。
 
  1. 最終決定はAさんが
損失回避バイアスという心理学用語がある。人は得るものの価値よりも、失われるものの価値をより大きく評価するというものである。1万円を路上で拾う喜びよりも1万円を失ってしまうことへの切なさのほうが大きいというものだ。仕事をする上でも、いくつかの問題提起を通して能力を認められていくといよりも、問題をさらに大きくしてしまうかもしれないという不安からただじっとしている場合が多い。だから[大人しくしていても途中までは行く]というような意味のことわざもある。
サラリーマン務めをしたことがないので決済書類はテレビのドラマぐらいでしか見たことがない。組織での決定は、曖昧さを排除しなければならず損失回避バイアスを脱した人の責任だった。私の行ってきたことは、ある意味見方によっては本当に仕事の仕方を知らずともいられるような組織を構成した。組織が大きくなっても、この部分は解決がされずほとんどの意思決定は、特定の一、二名を通して行われた。水平的リーダーシップと話しているが、具体的な実体については特に言及してこなかった。自分が引き受けた領域は、自身の裁量でしなければならず、個人の問題として片付けてきた。中央からの明確な意思決定を通じた責任と権限がなされなかったので、各店舗で同じことが繰り返されるのは当然のことである。損失回避バイアスが発生するしかない組織文化では、曖昧さを克服することができない。
[レモンツリープロジェクト]は、曖昧さを土台に敷いている。目的と主題はまだ彫刻を前にした石ころに過ぎない。彫刻をしていく方法もそれぞれの異なる世界観に依存している。ツールと順序は、争いへと広がる事件·事故可能性を孕んでいる。論理構造と行動隊員がまだ決まっていないその過程では誰かが排除されることがあり、むしろ反対勢力に落ち着くこともある。A社とライフスタジオ、[レモンツリープロジェクト]に参加している各個人はお互いに機嫌取りをすることもあり、前に進む人の妬みや嫉妬の人間模様が繰り広げられるだろう。お互いが考えている[レモンツリープロジェクト]が似た方向であればありがたいことだが、そうでなかった場合、決定的な転換の時間が必要になる場合もある。
損失回避バイアスは、現実には強力な力を発揮する。[レモンツリープロジェクト]のように、異なる組織文化と人が集まって初めから目的と主題を作らなければならない場合に損失回避バイアスは、組織の癌の塊となる可能性が高い。内容は無視され、形式だけが残って殻だけに過ぎないことを決定して実行することもできる。結局は誰かによっては決定されて方向転換の瞬間は訪れるようになっている。
最終決定権者が必要な理由は、あいまいな事業形態の予防だけではなく、未来予測を担当する人材の必要性にある。当面の事業も重要だが、全体的な方向を設定するための将来の見通しは、永続する組織においては必須としてついてくる。未来予測は、通常社長やリーダーがすることと知っている。しかし、将来の予測は、天から降りてきた能力というよりは、組織における一つの役割ということが正しい。会計を担当した人は、お金の計算をし、営業を担当した人は、取引先を訪問することのように未来予測をする人は、少し離れて見ようとする努力をすればよい。もちろん構成員皆は、未来の予測を基本としなければならないが特定の誰かが将来予測を自身の役割として規定し、定期的に現在の懸案から一歩引いて未来に対する予測を通じて、現在の意思決定構造に反映しなければならないだろう。
最終決定権者は、組織に弾みをつけて運営するために、接続と切断を適切な時期に運営しながら、未来予測を通じて、組織の意思決定に影響を及ぼさなければならない。特に[レモンツリープロジェクト]のように、異なる道を歩んできた二つの組織と個人が、まだ実体が表に出ていない事業の推進は、最終的な決定権者の役割がますます必要になる。
それでは誰が最終的な決定権者となるべきだろうか?
ライフスタジオが組織として[レモンツリープロジェクト]に参加するのは確かだが、準備段階では実質的にはイチェウク個人が、唯一参加する。理由はただ一つ。参加できる人員がいない。自分でやることを準備した人だけが[レモンツリープロジェクト]に参加する資格を付与するとしたときに、ライフスタジオで何かを準備できるだけの人が現時点ではいない。無理に人数を合わせるために2〜3人程度引き込むことはできるがそうはしたくない。したくないということもあるが、できない側面もある。また、私は小さな街で店を運営する範囲を超えたことがない。幸いなことに、お客様の呼応があり、自分でも知らない間にここまで来たのだ。[レモンツリープロジェクト]という事業と膨大な組織の最終的な決定権者としての資格は自分にはない。
A社とライフスタジオは、内容と規模では比較するのは不可能である。A社がホームセンターならライフスタジオは、近所の金物屋と表現すると、合うだろうか?
したがって、最終的な決定権者は、Aさんが行うのが適切である。もちろん決定権者の権限や原則は、今後会議を通して決定していく事項だが、現在の私の主張としてはAさんである。
…………………..
熟成させない[溜め込まない]、[隠さない]、[楽しく仕事をしよう]、[最終的な決定は、Aさん]4つの原則は、私が提示する原則である。今後、会議を通した修正と補完を経て、私たちのすべてが約束して守らなければならない原則として位置づけなければならない。原則とは一貫して守らなければならないルールや法則をいう。何か成し遂げようとする目的や主題ができるとき、それは人間が作っていく。組織を作る理由も一人でできないことを同じ利害とニーズを持つ人が集まって目的と主題【テーマ】を実現するためのものである。組織を構成する人間すべてに適用される原則がないということは、成し遂げようとする目的と主題に対し、してもしなくてもよく、またはあってもなくてもいいくらいのものとなる。特に[レモンツリープロジェクト]のように何かをしたい人がお互いを知っていく計画を実践する過程では、一緒に約束した[原則]この無秩序の混乱を最小限に抑えることができる強力な武器となることができる。
役所に意味なくついているスローガンは、市民との乖離をさらにあおる。原則も現実との距離が遠くなれば、むしろ副作用を心配する必要がある。現実で話をして行動する全過程に私たちが一緒に定める原則が生き、息づかなければならない。
このため、会議の最後に原則を一つ一つ列挙しながら、自分のセンサーが作動した内容を
話そう。もし無い場合は次の話しをしよう。その場で話されるべきでない内容は、
口から出さないようにしよう。もし、会議の場でないところで原則に反する発言を
する人がいるなら、その人を[虫さん]と呼ぼう。ただし酒の席では、どんな話でもできる例外条項を置こう。
 
 
★. 目的と主題【テーマ】
 
経営に少しでも興味を持っている人であれば、ピーター·ドラッカーを経て行かないことができない。膨大な著書の量以外にも、最近まで、彼が主張する内容が説得力を持っている。何冊かの本を見ながら何のインスピレーションがなかった頃に[経営者の条件]に出てきた目標を達成すること、目標達成に対する能力の主張に一発殴られたような記憶がある。結局のところ核心は、目標を達成することだが、それまで私は目標、方針、計画、推進、評価などの遊び道具を持っているだけで楽しく遊んでいただけだと反省をするようになった。重要なのは、目標達成であったのに本当に私がしようとしたのは、目標ではなく、私の能力に満足している程度にとどまっていたのだった。目標を達成することが私になかったことを認識したことが恥ずかしくもあり、仕事に対する転換を可能にした。
[ピーター·ドラッカーの経営者に贈る5つの質問]という本がある。 [我々のミッション【使命】は何か]、[我々の顧客は誰か]、[顧客にとっての価値は何か]、[我々にとっての成果は何であるか]、[我々の計画は何か]という5つの質問をする。使命<顧客<価値<結果<計画のプロセスを通じて、組織と自身のリーダーシップを振り返ることができる。この5つの質問を通して[レモンツリープロジェクト]を見てみようと思う。
この5つの質問を追っていくと、[レモンツリープロジェクト]の目的と主題【テーマ】が鮮明になるだろう
全体的に[レモンツリープロジェクト]を一望することができそうだ。それでは今から行ってみよう。
 
 
人間尊重を土台に[日常の余裕]という人生の態度を維持する。
 
小学校の頃、家の中で私に託された使命は、花壇に水を与えることだった。父は、寝坊をしていたい日曜日の朝6時に私を起こし花壇に水を与えなさいという命令をした。なぜ私の父は、朝の睡魔がないのかを20年にわたって考えた。夜明けと共に起きて花壇に水を与えなければならない使命はかわいい使命である。ところが、[私の人生の使命とは何だろうか]に進むと、まず複雑になる。[なぜ私が生きているのかを聞くと笑うでしょう]という詩があるように、一言では説明が不可能である。この不可能は、私たちの人生の幕が降りるまで付きまとう問題である。だから、イギリスの哲学者ホワイトヘッドはこう言った。[人生の答えを知っている人は、問題をよく理解していないのだ。]
学校を卒業して社会に出てきた人にとって会社とはどのような存在か?
会社が私の人生において、真の目的、使命とは何だろうか?
誰もが眠っている夜明けに起きて瞑想と読書をして出勤をする、ごく少数の朝型人間を除き、ほとんどの人が疲れた体を布団から起こすようになる理由は、会社に行かなければならないからだ。帰宅して何かしようとすると、眠気が押し寄せてくる。会社生活の疲れがだるさとして眠気に表現され、他のやるべきことは脇において眠る。統計上でも、経済活動をしている人は約8時間寝て、8時間働いて8時間は通勤電車に乗って下りてシャワーして、見たり飲む時間だ。睡眠時間と乗って降りて洗って食べて飲む時間も8時間働く時間に影響を受ける。自分の生活の中で働く時間が占める意味は絶対的である。社会福祉がよく整っているヨーロッパのいくつかの国を除いて、生活の中での労働が持つ意味は、疲れ、だるさの連続である。
労働といえば仕方なくでもするもので疲れてだるいという認識が強い。しかし、労働の本質は、人間と自然の間の過程であり、この過程で自然と同時に、自分も変化する。自分の欲求を満たしながら意識に内在している自己実現までを包括する。人間と自然が出会い成される相互作用は、創造の源泉であり、その過程で人間は自分自身を発見する。労働を介して出てくる結果物は、他の人間との連結を意味する。労働とは神聖なものだという。私たちは、労働を通して私以外の自然と人間を具体的かつ積極的に出会う。私たちが生活を営むことができる条件も人間の労働の結果として作られている。
資本主義が発達し、労働が資本蓄積のツールとして使用され、より多くの搾取がより多くの利潤を保証させるという論理が世界中に広がっていった。労働者自身が労働から疎外されるとされればされるほど、労働が作り出すことの社会的価値は減少していく。生活に必要な物品の購入のための肉体の提供を労働だと定義することは理論的に合わないだけでなく、搾取構造の中で、自身の人生のほとんどを資本に献納するようなものだ。労働が持つ使命に忠実であるとき、労働の真の意味が発揮される。労働の使命は簡単である。労働が自身の欲求を充足させながら、自己実現までを包括すればよい。月給を受け働く機械ではなく、自身の欲求を充足させながら、自己実現までを包括する労働をするためには二つの方法が考えてみることができる。
第一に、同じ利害とニーズを持っている人が、自分の組織を作ってメンバーたちの欲求を充足させることができる組み合わせの形態である。生活協同組合やNPOなどの団体がこのような形をとる。
第二は、企業の使命があり、その使命に同意する人たちが面接と同意過程を経て、会社という形態の組織に参加することができる。会社での学習と教育を通じて意識の統一と深さを向上させ、より良い方向へと展開することができる。
会社の持つ使命は、[私の人生は何であるか]と同等の重要な意味を持っている。経済活動をする人は、大部分の時間を会社で過ごす。自分の妻よりも、同じ部署で働くキム部長に自分の感情をより多く消費する。労働を通して自分の欲求と共に自己実現されている空間が会社だとするなら、会社の使命は非常に重要である。会社の使命は、労働の意味を提供し、[私の人生は何であるか]という問いに対する絶え間ない答えである。
使命は、文字通り任された仕事である。使命感は任された仕事をうまく遂行しようとする心である。幼き日に父が私に任せた仕事は花壇に水を与えるものであった。勉強という言葉は無かったが、私が私たちの家で生きていくにおいて必ずしなければならない仕事として規定された。後で分かったことだが、誠実でなければならないということ、私たちの家を自身の体のように保護し培わなければならないということ、自然と対話する方法の象徴として花壇に水を与えなさいという使命を父は私に提示したのである。
会社が持つ使命は、会社の永続的な発展以前に、各個人が持つ労働の意味と連結されている。
労働の意味を付与して信念と意志の結合過程に会社の使命が介入をする。
会社を構成する要素を頭の中に思い浮かべてみると、資本、経営、人、技術、商品、生産手段、労働力、顧客などがある。私の関心は人に集中している。会社で労働をしている人が始まりであり終わりであり、残りはその下に位置する。マクドナルドを構成する要素はとても多い。どこに行っても見ることができるマクドナルドのロゴに象徴されるブランド、マクドナルドだけの店舗形態とインテリア、最短時間内に商品を生産するシステム、その中で同じユニフォームを着て同じ口調と抑揚で忙しく動く従業員、世界中のどこへ行っても同じ味を出すハンバーガーとフライドポテト、どこかにある事務所、マクドナルドを全世界に知らせる各種広告、今日も株価が上がることだけを待つ数十万の投資家、今でも空腹の胃をなだめるために注文台に長く並ぶ顧客…。これらすべての構成要素は、それぞれの利害と要求に応じて、マクドナルドという会社を見る。会社を構成する要素をサッカー場ほどの広い空間に全部広げたときに最も核心的で貴重で価値を創出する決定的な要素は、その会社で労働する人間であると考える。理論的に人間がなぜそのように重要なのかは説明できないが、私の関心はそこに集中している。[レモンツリープロジェクト]で、私が担当したい役割も会社で労働する人間である。だから[レモンツリープロジェクト報告書]についてのかなりの部分も人間についてである。
[レモンツリープロジェクト]に参加するすべての人たちが夢見る世の中を会社内で実現することができるなら、これほど美しい瞬間があるだろうか?
会社が追求する使命と私の信念と意志が結合されているならば、これが労働に対する[黄金律]ではないだろうか?
会社の使命を話すためには、会社とは何かの規定が必要である。
まず、会社や企業は、利潤追求を目的としているという固定観念を持っている。赤字が出れば、企業は維持できないからだという。利潤を追求しなければ賃貸料や従業員の人件費を与え、投資した金額を回収することができない。ところが、現実には利潤追求という固定観念が変質した状態で、資本家と経営陣の貪欲の論理で作動している場合が多い。新自由主義は世界中で行われている資本の横暴であり、商店の社長は、論理不在から来る小さな欲心である。
 
小さな会社を運営しているとしてみよう。100円で納品されたお菓子を150円で売る。50円残る。お菓子を一ヶ月に100個を売れば5,000円が残る。賃貸料やローンの利子などを出した後、自身に100円が残る。近くにお店をもう一つ開いて同じプロセスを経る。自身に200円が残る。最初の店で従業員の月給に50円、第二の店でも従業員の給料に50円を支給し、自分は200円を持つ。会社は二つの店舗を持って200円の利益を出す間、従業員は50円を持っていくのは同じだ。100店舗をオープンすると、会社は10,000円の利益が出るが、従業員は100人増えて一人当たり50円の月給を支給する。このような計算によると、会社の拡張と従業員とは関係のないことになる。これは何を言わんとするか。会社の目的は、利潤追求というが会社の構成員とは大きく関係がないということだ。それでは誰と関係があるようになるか?上層部の幹部や資金を投資した人は1つの店舗では100円だが、100の店舗では10,000円の利益が生じることになる。店舗が1つの場合、100%の持ち分を社長が100円持っていくが、100個を所有したときに10,000円を持っていくことになる。会社は利益追求が目的であり、利潤を追求するようになれば、その利潤は、所有者の分け前になるということが資本主義の基本的な論理である。このような論理なら、従業員は、生活に必要な財貨を購入するための50円の給料を受け取るために労働を提供する者となる。賃金労働者は、自身の労働力を賃金という形態で会社に商品として売っている。会社の利潤と関係なく決められた賃金によって労働力を売るために、労働者は、自身の労働から疎外が発生する。労働の疲れだるさと会社の発展は互いに相関がないことになる。労働力は、必ず交換が可能な商品であるため、労働の疲れだるさを主張する者は大切な扱いを受けられない。マルクスの労働価値説を話していなくても会社から出てくる利潤の分配には、何か不快な論理が働く。資本利得は不労所得に該当し、社会的不平等を深化させる。国家の役割が介入する必要があるが、国家の上層部を占領した資本の力は強大だ。
私たちの生活の大部分を占める労働から疎外されるということは、私たちの人生の大部分で疎外されているということだ。
疎外とは無力感(自分の運命は自分自身の制御によらず、外的な力や宿命、または運や制度の作用によって決定される感じ)、無意味性(世の中または対人関係などのすべての活動領域での利害可能性、または一貫性のある意味の不在、または人生の全般的な目的喪失感など)、無規範性(共有された社会的行為規範を守らないことにより、広範囲な不信、無制限な個人の競争などをもたらしていること)、文化的疎外(社会の既存価値から遠ざかっていくような感情として、例えば慣習的な制度に対する知識人や学生の抵抗で見ることができる感情)、社会的孤立(社会的関係で感じる孤独感や排斥感、即ち少数集団の構成員の間で表れる孤立感)、自己疎外(定義が難しい概念でありながら、どのような意味では、中心主題になる。様々な自身に感じる乖離感)をいう。(ブリタニカ)疎外を簡単に定義すると、何かから遠ざかって無関係になること、さらに、排斥されることをいう。見方によって疎外は、いくつかの形態を帯びている。
資本主義社会で労働疎外を最初に提起したマルクスの労働疎外論を簡単に紹介するとこうだ。マルクスは、資本主義社会の特性のために、人間疎外が発生すると主張した。私的所有と分業、そしてこれによって、階級的社会関係は、自由な労働を抑圧し、歪曲することで、[類的存在]として、人間が自身の本質を実現することを阻むものである。疎外とは、人間が作った生産物が人間から分離されて自立しながら、人間に対立的な存在となって、さらに人間を抑圧して従属させる力として作用することにより、人間が主体性と自主性を喪失することになる現象である。類的存在としての人間は労働を通じて自己を実現するが、資本主義社会では、労働疎外のために自己実現の機会を喪失して非人間的な人生を生きる。マルクスは、労働疎外が発生する原因は、私的所有と分業だとしながら、[経済学 - 哲学草稿]で労働疎外の形態を四つ述べた。
マルクスによると、労働生産物は、労働が対象化されたもので、資本主義社会では、私的所有のために労働者がその対象物を専有できず喪失する。即ち労働者は賃金を受けて雇用されるため、労働生産物を自分が享有できず資本家に奪われる。故に、自分が生産した生産物が見知らぬ存在に自立しながら、自分にはむしろ対立するもので現れるが、これが[労働生産物からの疎外]だ。このような疎外は、[生産過程からの疎外]に起因する。生産手段を所有していない労働者は生計を維持するために仕方なく資本家に雇われ、資本家がさせる仕事をするしかない。その結果、労働は自発的なものではなく強制的なものとなり、それ自体が欲求の充足ではなく、他の欲求を満たすための手段に転落する。故に労働者は、労働過程で幸せより不幸を感じて非人間化される。
このような2つの疎外から[類的本質からの疎外]が発生する。労働が身体的欲求を満たすために仕方なくしなければならない生計手段に転落することにより、人間は労働のために自分の類的本質を自由に実現できない。また、自身の労働生産物を喪失し、それと対立することにより、労働生産物を通じて類的存在としての自分を意識できない。自由で意識的な活動がされていないことで、労働は類的本質を実現するきっかけがなく、むしろ非人間化を助長する。そして、このような疎外から人間が他の人間と対立して対立する[人間の人間から疎外]が発生する。労働者と資本家が対立する敵対的な人間関係、即ち階級関係が形成される。
マルクスは私的所有だけでなく、分業からも、労働疎外が発生すると批判した。……。マルクスによると、分業は労働の生産性と社会の豊かさと洗練性を高めるが、労働者を機械に転落させたりする。分業が労働生産性を向上させ、生産物を豊富に作ることで社会を発展させるのに寄与したのは事実だが、分業の過程で労働者は、機械的な作業を繰り返すことにより、労働疎外を経る。また、分業が社会的富を増進させるのに寄与するが、個人的次元では、個人の能力をむしろ退化させる副作用を生む。
……。このように、資本主義では、私的所有と分業のために労働疎外が発生し、労働が個人の素質と能力を発揮して自己を実現する活動ではなく、生計を維持するために仕方なくしなければならない強制的、抑圧的な活動となっていった。だからマルクスは、労働疎外を克服するためには、私的所有と分業を廃止して、すべての人が自由で創造的な労働を通して自己を実現できる共産主義社会を建設しなければならないと主張した。 [著者:ソンチョルソン(ヘーゲル&マルクス:歴史を動かす力)]
ここまで企業の利潤追求と労働からの疎外の話をした。誇張と論理の飛躍だと考えることができる。ところが、このような論理は、資本主義の構造を批判する本からではなく、10年以上にわたり、会社を運営しながら、私についてまわる誘惑を表現した文である。会社が拡張すると、それは私がしたことだと勘違いをする。その勘違いの中に従業員の50円と10,000円の利益を自分の中で合理化するために無制限の努力をする。従業員には家族と同じように仕事をしようと言いながらも、決定的な瞬間には、すぐ目の前にある利益に弱くなる私を発見する。このような誘惑は、失われることがない性質のものである。企業は利潤を追求する組織であり、利潤は所有者の分け前であり、従業員は、正当な給料を受け取っている論理は、現実から常に衝突を起こす。会社の目的を利潤追求で眺めながら現れる典型的な姿である。このように考えてみよう。酸素は人間にとって必ず必要である。しかし、酸素を吸うために生活を営むことは何かちがうだろう?会社は利潤追求があるからこそ持続することができる。しかし、利潤追求が目的にはなれない。利潤が発生し会社を運営するのに問題がない瞬間からは酸素のように会社を維持するための手段となる。しかし、ほとんどの会社は利潤追求が目的であるため、利潤拡大のための事業を絶えず展開する。所有者が錯覚する部分は利潤創出が、資本によってのみ行われているという誤りに起因する。一つの店舗をオープンするために銀行から1,000万円を借り入れた。5年間に渡り、会社の利益から銀行に返済する。資本を借りて資本を返済する。その後、有形無形の店舗という価値が発生する。一つの支店を0として始め、数千万円以上の価値を生み出した。また、その店舗は、継続して利潤を発生させる。ところが、有無形の価値と利益を発生させた源泉が資本家にあると私たちの社会は信じている。0から始めた一つの店舗が有形無形の価値と毎月稼ぐ利潤は、誰が作ったのだろうか?資本家も作って経営者も作り、従業員も作ったのだ。会社ごとに違うだろうが、大部分は人間の労働によって作られた。この点に対して、資本家と経営者の寄与が絶対的だと錯覚する。有形無形の価値と毎月発生する利潤のほとんどを従業員が作ったが、ほとんど、いやほぼすべてが資本家に帰属されるため、労働からの疎外が開始される。
もし目的が利潤追求ではない他のものであれば話はたくさん変わる。会社の目的に人間を入れてみよう。会社と共通の利害と要求を持つ人が特定の目的を達成するために、秩序があるように一つの集団をなしている状態だと考えている。ここで注目すべき文は共通の利害と要求を持つ人たちである。今まで多くの人を雇用して知ったのは、人の共通の利害と要求は[尊重]である。給料や福利、勤務環境も重要だが、これと比較にならないほど重要なもの[尊重されていると感じる]である。社会はお金ですべてのことが説明されているようだが、人間として尊重されながら働くことが人間の持つ原初的な本能的なもののようだ。むしろそのような[尊重]が立つ場所が狭くなっていくごとに給料や役職の報酬心理が働く面が大きい。カントは、[人間そして一般的にすべての理性的存在は、自身の目的として存在し、様々な意志によって任意に使用される存在ではない]と言った。続いて[自分自身も他の人も人間を単なる手段として扱うな。人間をいつも目的に対するように行動すべきだ]とした。新約聖書に[あなたがたは、何事でも人々からして欲しいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ ]という言葉がある。何でも他人からもてなしを受けようとするように、あなたがたも人をもてなしするようにという教えである。何事もこれに勝ることができない、またはこれだけは必ず確保しなければならないという黄金律を述べている。
人間を目的ではなく、手段として接する時、疎外が発生する。
私たちの生活の大部分が労働であり、労働からの疎外が発生すれば
私たちの生活の大部分が疎外された状態という話になる。
[尊重]ということは単に気立ての良い社長が自身の利益を従業員に少し分け与えることを意味するものではない。だからといって革命を通じて資本家階級をなくし、労働者が主人であるという社会主義をしようということでもない。会社は共通の利害と要求を持った人が特定の目的を達成するために、秩序あるように一つの集団をなしている状態だと規定した。共通の利害と要求を持った人たちが主体として立てばいい。主体は従業員のすべてが所有者になるということではない。所有者になるとして主体になることではないからである。主体は実践する実体を意味する。共通の利害と要求を持っている人は、すべての主体になることができる。
会社を構成するすべての人は、特定の目的を達成するために
実践する実体とならなければならず、会社の主体に立たなければならない。
会社の主体として立つための根幹が、即ち[尊重]である。
   
[尊重]は、実践する実体となった時に自ら付与し、他人からも付与される。会社は人で始まり、人で終わりを結ぶ。【人で始まり人で終わる】会社が生み出す生産品は、人と人とを連結する媒介として作用する。価値や商品、システムを構想して作り創造する主体は人間である。[尊重]とは話をするとき相手の目を見つめて言うこと、相手がしている話に耳を傾けてあげることだ。尊重とは高めて大切に接するものである。人間を高めて心から接することは[人間尊重]である。
人々が持つ共通の利害と要求の根本には[尊重]がある。
[尊重]されていれば特定の目的は下の概念になり、
特定の目的は共通の利害と要求である[尊重]に服務するようになる。
トルストイは、[3つの質問]という小説の中で、私たちに質問している。人にとって[最も重要な時はいつだろうか?]、[最も重要な人は誰なのか?]、[最も重要なことは何だろうか?]。トルストイが提示した答えは、最も重要な時は、まさに[今この瞬間]であり、最も重要な人は、まさに[自分のすぐそばにいる人]であり、最も重要なことは、まさに[その人のために良い事をすること]と言った。この答えに、会社を当てはめてみて少しひねってみるとこうなる。今最も重要な時は、労働をしている現場、つまり会社であり、最も重要な人は一緒に労働をしている私の前にいる人であり、最も重要なことは、今私の前で労働している人を[尊重]することである。[尊重]という言葉以外にも、配慮、信頼、愛、献身、信じる、幸福など、この世のすべての良い言葉を付けてもいい。[尊重]とは、人と人との間にあるべき一番の基本であり、最後の結果物に値する。
会社の構成員達に、現在の問題や希望の話をすると、10人に9人は[人間関係]という。人間関係によって苦しんでいる人、人ともっと楽しく働きたいという人、特別な関係がないため退屈だという話がほとんどである。人間という動物は、私たちの人生の重要な部分を超えた、人生そのものと言っても過言ではない。トルストイの話は、自分の前にいる人と一緒に何かを作っていきたいという人の欲望であり、人生の原理である。私の存在を他者から確認し、他者という存在も、自分の行動から確認しようとしている。私も主体であり、他者も主体である。主体と主体がお互いを認め、共に人生を生きていくことができる根拠が[尊重]である。
会社という構造はどのような土台の上に作られるのか?世の中になかった技術、商品が生産から最終消費者に届くまでのシステム、資本の形成とお金の流れ…。この全てのことには、各自の役割がある。野球は、打って走って投げるゲームだというが、その土台となるのは野球をする人である。会社も人がするのであり、人と人との間で起きる[尊重]という化学作用を基にしている。
[尊重]という普遍妥当な価値を強調している理由は、それだけこの時代が[人間尊重]が消えているからである。共同体という意識はだんだん消えていき、各個人に分断されていく傾向を見せている。また、会社は、新自由主義と資本の無限の競争の中にさらされ、ますます人間を事物化させる。誰も望んでいない状態へと吸い込まれている。[レモンツリープロジェクト]は、このような社会の流れに挑戦しようとする意志を持っている。普遍妥当な価値でありながら、私たち誰もが望んでいる[人間尊重]を現実に具現化させようとする。[人間尊重]を[レモンツリープロジェクト]の最も最前線に配置する理由は、[人を最も優先する]というところにある。[レモンツリープロジェクト]の開始と同時に最終帰結点は人間である。なぜ人間なのかについての説明は不可能である。ただ、人間なのである。
それでは、これからは特定の目的について話をしてみよう。
[レモンツリープロジェクト]が追求する目的は、私たちの人生において、どのような意味を持っているのか?
[レモンツリープロジェクト]を簡単に定義すると、5年の間に30店舗の写真スタジオをオープンし、
その過程で[レモンツリープロジェクト]の目的と主題を実現する人々と共に
人生の価値を探していく旅程である。.
5年の間に30店舗のスタジオをオープンすることは、計画上の目標であって、それほど重要なことではない。目的と主題が実現されているならば、店舗は1店舗であっても、100店舗であってもよい。 [レモンツリープロジェクト]の拡張性は今知ることはできず、知っていたとしても重要な部分ではない。ライフスタジオで8~9年の間に20店舗を作った経験に基づき、設定した大体の計画である。株式市場に上場することを私たちの目標に設定するならば、530プロジェクトが重要になるが、まだ私たちの関心の対象ではない。
次に、目的の主題が出てくる。この部分は、人生に対する根源的な質問からしなければならない。
 [レモンツリープロジェクト]をはじめるにあたり、[なぜ私は生きているのか?なぜ働くのか?]という答えをださないといけない。
その答えを現実に、具体的に実践することが[レモンツリープロジェクト]なのだから。
 [オールドボーイ]という映画がある。土屋ガロンという日本の漫画化の作品を、韓国で映画化し、世界の映画界で好評を受け、カンヌ映画祭審査委員大賞を受けた。最近では、ハリウッドにまで進出し、スパイク·リー監督によってリメイクされた。自己管理がうまくいかない平凡なサラリーマンが拉致され監禁される。そして、実に15年の歳月をその部屋で過ごし、解放され、自分を閉じ込めた人を見つけるところから映画が展開される。何もすることがなく、ぼぉっとテレビを見ていた時、妻の死と自分が殺人犯として追われるニュースを見る。自殺を決心するものの、簡単に死ぬこともできないことを知り、復讐するために体を鍛え始める。四面壁に囲まれている空間で、気が狂わなかった理由は、自分自身を閉じ込め、自分の妻を殺害した者への復讐心があったからだ。
酒を飲み、ほらを吹くことが好きだった1人の男が突然拉致され、四面壁に囲まれている格安の旅館の一室に閉じ込められた。もしかしたら私たちの人生もこうなのではないか?華やかだった初恋の記憶もあるが、私たちの人生はたいしたことがない。なぜ生きているのかと聞くと、私たちは[ただ生きている]という言葉しかいえない。幸せ、愛、自由。このような言葉は、今まで教育を受け、無意識的に入ってきた梱包材に過ぎない。ご飯を食べたいというよりは、お腹が空いたから食べる。雨が降ればうたれ、雪が降ると滑りやすい。始まりは本能であり、次は包装である。オールド·ボーイの主人公が、格安旅館の部屋のようなところに閉じ込められ、何の理由も分からないまま、正方形の部屋で15年間生きたように、私たちも世界という空間に、投げ出され人生を生きなければならない。死なないためには、生きなければならない。なぜ生きるのかと聞かれるならば、死なないから。という言葉が合うのではないか。自分で望んで生まれたわけでもなく、自分の遺伝子を決めることもできない。父の精子と母の卵子が命を作るために努力したこと以外に、何の目的なしに、数え切れないくらいの細胞分裂を通して私が生まれたのだ。世の中に放り出されて生きて行かなければならない運命が人間にはある。
動物と人間は生きて行かなければならない運命というところでは、一緒である。決定的な違いは、本能と理性にある。動物は本能に頼り、人間は本能を抑制することができる理性を持っている。生きて行かなければならない運命にある動物は、生存と繁殖という本能に人生のすべてを捧げる。生きて行かなければならない運命にあるという面では人間も動物と同じだが、どのように生きて行かなければならないのかということを、人間は自ら考え決定し行動する。サッカー場に動物を放し飼いにすると、新しい空間への不安と自分を脅かすものに対する警戒をたてる。人はサッカーの規則によりどのようにしてゴールを入れ、ゴールを守るかについて努力する。
なぜ生きているのかと聞かれたら、[ただ、生きている]としか言いようが無いが、どのように生きていくのかにおいては、生きている人の数だけ答えはある。人は皆同じでありながら、異なる。人間が見て触って経験することで感じる感情は、数千年前から変わらない。火に手をかざすと熱く、太陽の日差しを浴びると汗が出る。人類は同じ経験や感情、理性が働く枠の中で進歩してきた。人生というものにも、一定の規則があり、その規則の中でどのように生きるのかを決定する。アメリカのドラマを見ながら笑うことができ、日本で作られたユニクロの服がニューヨークの店舗で販売される理由は、人生の規則が同じだからである。人は同じでありながら異なるため、どのように生きなければならないという教えや論理にあふれている。多くの宗教の教えや国家や民族から伝えられてきた伝統、正規の教育課程は、結局はどのように生きなければならないのかという内容で満たされている。
世界という枠の中に投げだされ、人生の規則を知っていきながら、自分の人生を決定して生きていく。どのように生きることが良い人生をおくっているのかは、人生の規則をどのように認識し、規定して生きていくのかを言う。15年間部屋の中にいながら復讐のために体を鍛える道を選んだ男のように、私たちみんな、人生という枠の中で、各自の方法で一日を生きていく。上記の文で、軽くなりたい。という表現を使った。この世の中には、多くの価値があふれている。愛することもしたい、幸せでありたい、認められる人生を夢見る。しかし、そのような価値を追求する前に、自分の人生の全体を規定していると、[軽くなる]がある。受動的というよりは能動的に、否定的より肯定的、不安より希望、悲しみよりは喜び、不幸ではなく幸せを描いている人生。一言で何と表現すればよいのかわからないが、宝島に行くよりも、宝島に向かっている人生という態度が重要であると考えている。宝物を自分の手にするよりも、宝物を探していく自分の状態が、どのように生きていくのかということい対する根本的なもののように思う。[あなたの人生の目的は何ですか?]という質問をすると、愛や幸せの話をしてくる。しかし、私たちの人生に積極的であり、広範囲に影響を与えることは、ある瞬間に感じる感情の状態よりは、いつでも私と共に呼吸をしている人生に対する姿勢であるように思う。人生が、追求する価値の前に人生に対する態度の話をしてみよう。
短いが強烈な一遍の文章を紹介する。
一人のアメリカ人事業家が、メキシコの小さな海岸の村で一人の漁師に会った。漁師は小さなボートで大きな魚を何匹も捕らえ、埠頭に到着したばかりだった。その姿をみたアメリカ人は、多いな船にのり、魚を沢山捕らえるのはどうかと聞いた。しかし、メキシコ人の漁師は、この大きさで十分だと答えた。そこでアメリカ人の男は暇な時間は何をしているのかと聞いた。
 [寝坊もするし、子供達と遊んであげ、妻と一緒に昼寝をして楽しみます。夜になったら友達と会ってぶどう酒を飲みながらギターを弾きますよ]。漁師の答えにアメリカ人の男はあざ笑いながら言った。
 [もっと多くの時間を投資して一生懸命働いたら、船団も得られるし、金持ちになれるのに]
[そうなるためにはいくら必要ですか?]
[大体15年から20年くらいかかると思いますよ]
[そしたら、その次には?]
[お金をたくさん稼いだ後は、引退して小さな漁村で寝坊したり、子供達と遊び、昼寝を楽しみ、友達と一緒に高級なぶどう酒を飲みながら遊べるでしょう]
アメリカ人の話を聞いた漁師が笑いながら言った。
[私はすでにその全てのことをしていますよ]。
[著者:コジンハ(1分の知恵)]
過去や未来でもない現在、今の重要性を思い出させてくれる文章である。未来の幸せのために、現在を犠牲にするほど愚かなことがあるだろうか?私たちの社会は、明るい未来のために、現在を犠牲にしなさいという。また、家の快適さのために、現在行っている労働の辛さに打ち勝てという。しかし、私たちが望む世界は、このように労働をした後、家に帰ってきて寝坊もし、子供たちと遊んであげ、妻と昼寝も楽しみ、夜は友達と一緒にワインを飲みながらギターを弾くことではないのか?食べて飲んで寝坊をするのも必要だが、労働を通して自分の欲求を解決しながら、自己実現をすることも、人間には切実なことである。家に帰って快適なソファーで子供と余裕のある生活をおくるために、仕方なくやらねばならないこととして、労働を見つめる私たちの姿は、何かがずれている。
メキシコの漁師が言った最後の言葉。[私はすでにその全てのことをしていますよ]を、会社で労働を通して実現する方法はないだろうか?
労働と人生が分離されることにより生じるズレを正すことができる方法はないだろうか?
ここで、特定の目的が出てくる。
家に帰ってきて寝坊もし、子供たちと遊んであげ、妻と昼寝を楽しみ、夜は友達と一緒にワインを飲みながらギターを弾くことができる背景には、[余裕]がある。寝坊して幸せというよりは、寝坊ができる環境だから幸せなのであり、子供たちに遊んでと言われたら楽しく遊んであげることのできる背景には、[余裕]が位置している。このように自ら労働できる条件で[余裕]がなければならない。会社での生活も家のように何かを自然にしながら、快適さを追求することができる。くつろぎの種類は異なるが、[次]を予定し、現在の仕事に充実になれる条件、つまり[余裕]が会社にとっても必要である。
軍隊を退役し、家で休んでいたある将軍がいた。暇つぶしに家の前に木を植えていると、それを見ていた庭師が言った。
[将軍。今植えている木は非常に育つのが遅い品種です。ちゃんと大きく育つまでにはおそらく100年はかかるでしょう。むしろ、他の木を植えたらどうでしょう]。すると、将軍が庭師に大きな声で言った。
[そうか?そしたらぐずぐずしてたらだめだな。もっと早く植えよう]。
フランスの陸軍将軍だったラヨテの話である。 (マックスムース)
[余裕]は、どのように生きるかという指針である。[余裕]というと、遊んで食べることを連想させる。だから、持った者の余裕という言葉が頻繁に使われる。しかし、[余裕]という言葉は、木を植える将軍のように、時間が余っているからやるのではなく、どのように生きるのかという、自分の世界観を行動に移す過程で真価を発揮する。イギリスの歴史家フラーは[木を植える人は、自分ではない人を愛する人である。]と言った。彼はその木が豊かに大きく育った姿を見れずに亡くなるだろうが、100年後には多くの人に心の安らぎを与えることができると信じている。自分ではない他人を愛する心で木を植える。
[いまを生きる]という映画でキーティング先生が生徒の後ろから[カルペディエム]を叫ぶ。1人の学生がその意味を尋ね、[現在を楽しむこと]と答える。映画がヒットし、一時[カルペディエム]が流行っていた。私もこの映画を4~5回見ながら、キーティング先生が中世の時代の修道士のような口調で[カルペディエム]を叫ぶたびに、私も一緒に口にしていた。ライフスタジオのBチームも、数か月の議論の末、Bチームのアイデンティティを[カルペディエム]と決めた。ところが、なぜか[現在を楽しむ]というと、食べて飲んで楽しむ快楽主義を連想させる。良い大学に行くために、抑圧された教育政策をとっている有名な私立学校の生徒に[遊びたいだろう、彼女もほしいだろう?若さはもう戻ってこない。食べ、遊び、飲みなさい]と受け入れる人が多い。しかし、真の[カルペディエム]とは、自分が置かれている条件の中で、最善を尽くし、その過程で発見する日常の美しさを楽しみなさいということだ。一日一日一生懸命生きていれば、知らない間に変わっている自分を確認することになるだろう。誰かが決めてくれた道を行くのではなく、自分の道を確認し歩いてみると良い日が来るということだ。
 [現在をたのしみなさい]とは、ふんだんに楽しみなさいという言葉ではなく、自分の人生を真剣に見つめなさいという言葉なのだ。
[余裕]とは、退屈で暇な人生として見つめなさいという言葉ではない。真剣に向かい合いなさいという言葉である。大切なものであるほど、[余裕]を持つ必要がある。私の人生が大事なら、私の人生に対する[余裕]がなければならない。[余裕]とは、辞書的な意味での精神的、物質的、時間的に余裕で残りがある。つまり、余裕が心の余裕スペースを作る十分な条件である。[ゆっくり生きることの意味]という本にこんな文がある。[ゆっくりとは、より速いテンポに適応できないという意味ではない。ゆっくりとは、時間をいそいそと忙しなく扱わないという意志、時間に追われ慌てて生きていかないという意志、世界をゆったりと受け入れ、人生の道で自分を見失わない能力を育てていくという意志の確認である。]ここでゆっくりを、余裕に変えてみよう。
余裕とは時間を焦って扱わないという意志
時間に終われ慌しく生きていかないという意志、
世界をゆったり受け入れ人生の道で自分を見失わない能力を育てようとする意志の確認である。]
今、[会社の特定の目的]について話している。特定の目的というと、[顧客の究極的な感動]や、[あなたの人生の最高の瞬間]、または[写真と出会う甘い人生]のように何か途方もないものを出すべきだろうが、[余裕]といっていることが、おかしいと感じるかもしれない。余裕とは、何か成した時に得られるプレゼントのようなイメージを持っている。ならば、その何かを成し遂げることが、特定の目的にならなければならないのに、なぜ特定の目的を話す前に[余裕]といっているのか?ここで、小さな告白をしなければいけない。
ライフスタジオで、学習と教育を行ってきた結果、[2013年体制]が作られた。[2013年体制]とは、[読み、書き、討論]を動力とし、構成員達に[変化発展プログラム]を装着させるということを目的とする。このような結論に至るまでに9年という年月が流れた。自分と社会が作り出した壁の前に、どうしていいかわからない人があまりにも多い。[自分自身に対する無気力]をベースに、不安と倦怠が繰り返される日常を送っている。この問題を解決しない限り、顧客満足だの自己実現だのという話は、パンをくれと言う平民に[パンがなければケーキを食べればいいじゃない]といっているようなものだ。人々が苦しんでいる首に刺さっているとげを取るために、私、あなた、私たちで構成されれいる人間に入っていく、学習と教育を始めた。一定の成果と限界の中で、多くの単語や命題、さまざまなプログラムが登場した。選択と集中の結果として[2013年体制]が作られ、現在は[論文プロジェクト]を通じた集団的な鍛錬と共に、独自のダイエットが完了した地点である。
全体的な事業の形はこうだった。まず、遠く微かに見える目標地点を言う。それが正確に何かわからないため、曖昧に話すことしかできない。[自立]という言葉を繰り返すが、それが正確に何であるかは誰も知らない。現在行っている過程を通過すると、私たちが目標としていることが分かるだろうという呪文を唱えるしかない。今まで特別な成果がなかったのにも関わらず、持続することができた理由は、組織のための手段ではなく、各個人を目的として対しているという信頼からである。だが、このような信頼も少しでも成果があったときに、持続することができる。この峠を越えたら何かになるだろうという漠然とした希望により、今まで耐えてこられたが、もうこのような方法では長続きしないかもしれないという不吉な予感が漂ってきた。私たちが望む世界は、[読み、書き、議論]ではない。[読み、書き、討論]は、そこに行くための電車の切符を手に入れるための活動だったが、いつからか私達が望む世界ではなく、[読み、書き、討論]が目的になってしまう状況があちこちで目撃された。
1年前、人々が難しがっている部分に対し、耐えるように言い、少し粘れば、私たちが望む世界が見えてくるだろうという、事業のパターンから少し方向転換を模索した。代々木店をオープンしながら手段と目的が共存する状態を計画していたが、現実には適用できなかった。代々木店オープン報告書の一部にこのように書かれている。
私達は、2013年体制を話す時、大体が学習に関する話をたくさんする。普段関心がなかった哲学や時事問題や、生まれて初めて聞く言葉が溢れる状況になるため、2013年体制の関心は、学習や教育に重点が置かれている。例えば、私達が食事をするとしよう。おいしいとんかつを作るためには、お米も必要で、肉も必要で炊飯器も必要だ。そして、お腹がいっぱいになることが目的ではないように、おいしくなければならないし、豪華な器も必要で、一緒に目を合わせて話せる愛する人も前にいなければならない。とんかつを食べるための行為と、食べる過程の意味が一緒にバランスをとらないといけない。このように、2013年体制で重要に思われる学習と教育というのも、結局は、私達に余裕があり豊かであり何かを得て分け与えて過ごす事を前提とする。ライフスタジオ、2013年体制、各店舗の構造が、結局は余裕があって豊かであり、何かを得ながら分け与えるために存在するのだ。そのために、学習と教育が重要になるが、私達が生きていくための大前提である「余裕-豊か-得る-与える」が前提とならなければならない。そのため、ライフスタジオ-2013年体制-各店舗の関係の中で、現場の構造を「余裕-豊か-得る-与える」の原則の下、絶えず変化し続けるべきである。その構成要素は、出勤と退勤、給与、インセンティブ、撮影時間、予約、1ヶ月の流れ、福祉、学習と教育、関係、顧客、写真、地域等、私達を取り巻く関係網のためのものだ。
ところが、豊かな組織のモデルが出てこない一番大きな理由は、2013年体制で言われていることを全てしないといけないという、強迫観念と硬直性にある。固定され硬く見ていることにより、自分の中での選択と集中が発揮されていない。そのため、全体的に低い標準化の方向に向かっているのも、ある程度事実だ。「違う」、「だから私達はこれだ」と言えないといけない。代々木店では、読む、書く、討論に対する効率性と共に、「余裕-豊か-得る-与える」を、一つの軸として、その構成要素に対する理解と共に状況変化を目的とする。
「余裕-豊か-得る-与える」は、まず硬まった心と体をリラックスさせることから始めなければいけない。そして、条件自体をそのように作らなければならず、そのためには、各自が感知するセンサーの小さな動きに忠実でなければならない。代々木店では、多くの変化が起こるだろう。だから、私の役割は、外部の視線からの風除けになるということと同時に、代々木店の構成員のセンサーが作動するように風を駆り立てることなのだ。自分自身の条件を継続的に変化させる作業が必要であり、それを2013年体制に吹き起こさなければならない。
会社でやらなければならないことが本当に多い。写真の技術も向上しなければならず、顧客サービスに関するアイデアも作らなければならず、定期的に一緒にお酒も飲まなければならない。[2013年体制]では、哲学もやらなければならず、論文も書かなければならない。たくさんの事があり、それには、それなりの理由がある。しかし、このように多くのことを行いながら、その事をする真の目的を見失い手段が目的化される、[目的転置]現象が起きる。最近[2013年体制]の中で[読み、書き、議論]に対する疲労が蓄積し、[読み、書き、議論はさまざまな面で良いが、これが現場でどのように適用していけばよいのか?]という質問が増えている。手段と目的が共存しなければならないのに、そうできないために起きた出来事である。むしろ手段に対する疲労度が高くなると、目的自体を見失ってしまうこともある。その中に[水面論]として、このような質問に対応してきた。今、私たちは水面下にいるため、蓄積されず常に不安に脅えている。水面上に上がってくれば、すべてのことがすらすら解けていくというのが、水面論である。しかし、水面はいつ現れるのか?数年前にブログに書いた文章があった。
……
私が出発した所があっただろうか。どこに帰らなければならないだろうか?
2ヶ月ほど前から、私がある転換点に立っていて、本当に向かう目的地について考えている。現段階での結論はこうだ。
「ああ、目的地はどこにもなかったんだな!!!」
何かを決めておき、そこに向かっているという希望をもち生きてきた。虚像と弁明の繰り返しからこのように生きてきた。こう生きてきながら私の存在のかすかなささやきを外面してきた。。。
人生は、このように見えるようで見えないような具体的でないため、生きていくこともでき、つらくもある。ある面から見ると、目的地の変更はあまり重要な問題ではないように思う。目的地は結局海になり、その中に様々な形態として存在することだ。
私が集中して見なければいけない事とは、どんな海で何をするかというよりは、その海を見つめる態度なのだと思う。
目標に向かう能動的な行動や未知の世界に対する挑戦は、今まで私を守っている人生の方式であり、態度であった。
……
相模湖に暖炉がある。薪を焚きながらいろいろなことが交差する。木を持ってきて火遊びを始めながら燃え上がる赤い気運を感じる。時には、小さくなり、時には大きくなる。ここそこと木を移しながら、彼らが繰り広げる宴会を見物する。位置を少し動かすと、怒りもし、良いと明るい笑顔になりもする。とても熱かったと思うと、下の火も残らない。そして、もう一度木を持ってきて始める。
客観的になるということだ。客観的にこのように変化の過程を長い間見てきたのは、本当に久しぶりだ。彼らが繰り広げる姿は私と私達に似ている。少しの忍耐もなく、回りの条件に対してすぐに反応する。自分ができることはそのまま立っていることか、燃えて灰として残る方法しかない。一定の武器と形が材料に変わる過程は存在と意識の長いトンネルに入るようになる。
私は誰なのか?という前からの質問をもう一度するようになる。転換をしないといけないという圧迫と、海と合流しなければいけない視点に「私は誰なのか?」という自らの質問がでるのは自然なことだ。しかし、この質問は私の命が続く瞬間まで持っていかなければいけない永遠の課題であるため、結論を出すことができず、だしてもいけない。
転換とは、目標や計画の変化や修正のことを言っているのではない。人生に向き合う態度と方法の転換を意味している。計画し経験し、得た心理の一部分として、私に合う服を作った。過ぎた時期を振り返ってみると、それは姜尚中さんが言っている青春であった。あちこちぶち当たり砕けながら息がつまり、私を確認する時間であった。我慢できない存在の軽さを忘れようともがいている世の中と合わせて伝説を作りたいという欲望の力を信じた。
そんな欲望が私の中の偽りから始まったということを少しずつ知るようになりながら、その推進動力は消耗されてきている。伝説は生きているが欲望は泡である。欲望の位置に謙遜が入らねばいけない。歩きながら出会う山奥の山荘のように、私の中のエナジーを自分の中で生産する謙遜な態度が転換を可能にする。謙遜は皆知っている、またはある程度は知っているため、この程度で大丈夫だ。という程度を超える主題だ。今まで外部から来る刺激に対する反応が、1次的な人生のエナジーであったなら、もう私の中で私をゆっくり見つめながら、その変化を認識する人生の態度が必要だ。想像できないその広い海で、私の存在は砂漠の砂粒のように小さい。いくら、もがいても救助隊や偶然通り過ぎる船を発見することはできない。発見できたとしても、光に反射する瞬間的な銀の光の波模様のようなものだ。私が私であることは、私が私を見つめること、そしてその過程で発見する存在の美しさである。
動機付与やリーダーシップの話をする時にこういう話がたまに出てくる。[仕事をちゃんとしたら給料を上げるのと、給料を上げて仕事をちゃんとさせるのと。あなたの人事政策は何ですか?]数人の社長と、このような質問と答えをしながら、自分がとる人事政策に対して合理化していく話がメインを占めるようになる。ところが、ある日わかった事実が、仕事をちゃんとしても給料は上がらず、給料が上がったからといって仕事をちゃんとするわけではない。ということ。給料に対する根本的な転換が必要だ。給料は会社が作り出す価値に比例して設定されている。動機付与の手段として作用されているように思われるが、社長の権力を持って給与でおふざけしている側面が多い。会社が生み出す価値は、人々が作り出すものであり、その価値のすべてを人に分け与えるというのが正解である。社長は会社が作りだした価値に対して公平に分配する責任がある。
このように、既存のパラダイム(理論的枠組み)を転換することは、本当に困難な事でありながら、根源的な問題に関する考えるという過程で出てくるしかない。基本のパラダイムをレッドオーシャンになぞらえて話をする。レッドオーシャンの相対的な概念で、ブルーオーシャン戦略が10年以上前に流行した。ブルーオーシャン戦略を簡単に紹介すると、ブルーオーシャンは現在存在しないすべての産業を表し、まだ私たちが知らない市場空間である。ブルーオーシャンは、未開拓の領域に新たな需要の創出と高収益に向かう機会として定義される。したがって、ブルーオーシャン戦略は、ゲームのルールを自分で作るものである。ブルーオーシャン戦略は、競争相手との勝負に勝つために集中する代わりに、買い手と会社のための価値の飛躍を遂げ、新しい非競争的な市場空間を創出することにより、競争自体から外れる。これを[価値革新バリューイノベーション]と呼ぶ。
特定の目的を話しながら、[余裕]を特定の目的の、最も上位の概念として説明した。一見、新しい会社を作り、この社会に第一歩を踏み出すプロジェクトの目的を、[余裕]という言葉で、説明することはぎこちなくもある。しかし、私たちが会社を作っている理由を根源的に問うていき、私たちが持つ固定観念から抜け出そうとした。既存の概念と価値として、[レモンツリープロジェクト]を行う理由がない。適度に売上を上げる写真館を数十店舗オープンすることは、従来のライフスタジオでも可能なことである。いやむしろ効果的である。ただし、[レモンツリープロジェクト]をあえて作る理由は、他の所にある。
事が成されていく原理を知っている人達が価値の戦略的移動を行うということが
[レモンツリープロジェクト]である。
これは既存にもっていた私たちの固定概念自体から抜け出し、
[価値の革新]をしていこうということである。
なぜ私たちは、会社を作ろうとするのか。本当に会社を立ち上げる理由を忘却したまま固定観念と現実の論理による事業をしているのではないだろうか?会社を作る本当の理由を現実で実現できる方法はないだろうか?に対する質問と回答を繰り返しながらここまで来た。
会社の特定した目的以前に、目的に対する態度に注目しなければならない。世の中を十分に受け入れ、人生の道で自分を失わない能力を育てていくという意志が会社を構成して、プロジェクトを進行するための前提でなければならないことを強調したい。ここで一歩進んで、[余裕]というものを私達の特定した目的と設定することができるという考えをしてみる。
上記でも取り上げたが、人はみな同じであり異なっている。旅行を生きがいにする人たちのインタビューで必ず出てくる質問と変わらない答えがある。旅行をしながら出会った人たちはどうでしたか?と質問すると、[人はみんな同じであり、みんな異なります]と間違いなく答えるだろう。当然のことながら、哲学的な意味を内包している。1つの組織で構成員たちが持っている目標は同じでありながら違う。同じことを追求し、他のものは推奨しなければならない。[別々に、一緒に]の原理は、これを表現した言葉であり、組織を柔軟かつ強く作っている根幹だ。撮影者は写真を、編集者はデザインを、会計担当者は正確かつ繊細さを追求する必要があるが、構成員たちはみな、一つの目的に服務しなければならない。
各自はそれぞれの目標に向かって走って行き、私たちのすべては[今最も重要な場所は、労働をしている現場、まさに会社であり、最も重要な人は一緒に労働をしている目の前の人であり、最も重要なことは、今自分の目の前で共に労働している人を尊重することを目的]としなければならない。 [余裕]は、このすべてが実現されることができる環境を説明する言葉である。[余裕]の精神は私たちの社会と会社で実現されず、特定の時間と場所でのみ適用される。固定観念と現実の論理に押されて[余裕]が確保されていないということは、結局は会社を構成して一緒に仕事をしている理由が現実ではなく、理想にとどまっているということだ。
 
だからこそ、[レモンツリープロジェクト]の特定した目的を[余裕]に設定し、
[レモンツリープロジェクトの目的を達成しなければならない。]
 
[余裕]が実現されるためには、精神的、物質的、時間的にゆとりがなければならない。精神的には自分の信念と世界観の形成を必要とし、物質的には生活を営むために必要な経済的支援と福祉、時間的には自分を取り巻く環境と内面を見ることができる時間が必要である。この部分は、[私たちの計画は何か?]で詳しく説明する。
[私たちの使命は何か?]のまとめの時間になった。
 
[私たちの使命は何か?]に対するものを、文章として定義することは容易ではない。考えを表現するのに文章をいくら書いても足りないのに、考え自体はそれより短いので残念だ。今まで[会社は私たちの人生の何であるべきか]に答えをだすための過程であった​​。会社は利潤を追求する集団という固定観念が、現実で歪曲され表れている。だから私たちの人生は苦しくなる。会社を運営する過程でも、数多くの誘惑と妥協の落とし穴があった。誘惑に負けたり、数少ない信念と妥協もした。
 
[レモンツリープロジェクト]は誘惑と妥協に立ち向かっていくという意志である。
そのためにはより根源的で本質的な接近が必要だ。
会社は人生の大部分を占めている。労働と会社は自己実現の空間であり、私、あなた、私たちをつなぐ媒介として機能しなければならない。人生と労働、人生と会社は分離することができない。資本主義が頂点に駆け上がっている現在の社会では、ますます労働と自分、会社と自分の分離が加速している。生活の不均衡は、非正常を正常にさせ、それを宿命的に受け入れることを強要する。本当に他の方法がないのだろうか?
会社は共通の利害と要求を持った人たちが、特定の目的を達成するために集団を成しているものと規定した。共通の利害と要求は[尊重]である。労働現場で一緒に仕事をする人の間の相互尊重と、私が生きているという暖かな感じは、会社を構成する基盤である。その土台をベースに、蜘蛛の巣のような人間関係が形成されなければいけない。[尊重]をベースに集まった人たちが特定の目的を実現するためには、[余裕]が必要である。遊んだり食べたりという話ではなく、苦しい労働の後、ほんの束の間の休みのような狭い概念の[余裕]を言うわけでもない。
私たちの特別な目的は人間らしく生きることだ。人間らしく生きるということは、自分の内面の声に耳を傾け、自らによって自分の道を行くことだ。人間と人間が相互に尊重しながら、自分の道を行くことだ。私、あなた、私たちはお互いに違いながらも、同じ何かに向かって集団を形成している。
衒学的なビジョンや目的を作り、人々に同意を求めることは、それほど難しいことではない。しかし、誰も逆らうことができない、普遍的なスローガンの中に隠された現実の苦しさが浮き出るかが怖い。あいまいな未来の推測ではなく、目的を実現する今が重要である。従って、特定の目的自体を[余裕]、[日常の余裕]に設定する。
人生に対する態度、組織を取り囲んでいる内部の文化自体を特定の目的のために置くということだ。あいまいな目的ではない今日、今が重要だという認識の下に、[レモンツリープロジェクト]の構成要素にこの文章を移植する必要がある。
 
人間尊重を土台とし、[日常の余裕]という人生の土台を維持する。
 [私たちの使命は何か?]は、[レモンツリープロジェクト]の目的に対する質問である。[レモンツリープロジェクト]は、私たちが夢見る世界を現実に具現することを目的とする。会社は私たちの人生のほとんどを占めている。会社は余裕があって豊かであり、分け合って味わう空間でなければならない。しかし多くは会社を単に経済的手段にし、仕方なくしなければならないという苦しさの連続という固定観念を持っている。人間を尊重し、尊重されるのは仕事の始まりであり終わりである。人間尊重の土台の上に私たちの人生の価値は開始される。どのように生きるか?は人生の態度を言う。どのように生きるか?の問いに私たちができる健康的な答えは、生活の手段と目的がバランスをとっている状態である。バランスをとることができる条件が、まさに[日常の余裕]である。人生の目的は、皆が同じでありながら違う。このように同じでありながら違うという相違を、弁証法的に統一させることができる言葉が[人間尊重の土台の上に、日常の余裕という人生の態度を維持する]に含まれている。あまりにも言葉を作っている側面がある。これからは[言い張る(言い通す)という作戦]に入らなければならない。言い通していると、人生の実体と出会うことだろう。少しずつ整えながら、私たちだけの宝石を作っていこう。
 
  1.  私たちの顧客は誰か?
    客が価値があると思うこととは何だろうか?
私たちの顧客は、美しさを表現し思い出を記しようとする人であり、
この過程で生する[]は、顧客と写真館が同時に追求する値である。
人間尊重と日常の余裕は[]を形成する基本的な件であり、人生そのものである。
 
顧客の立場から一度考えてみよう。顧客は写真館で、果たして何をしようとするのか?
顧客が写真館を訪れる理由は、大きく見れば[記録]と[かけがえのない美しさ]の二つである。ここにライフスタジオは[思い出]を追加した。以前から写真館の写真は、[記録]の意味で始まった。何かを残すということは、人間の基本的な欲求である。生まれ育って成人し結婚をして子供が生まれる。その子供も成長し、大人になって結婚をして、いつかは世界と離別する。この間に間に写真はゴマ粒のように介入する。記録記憶のための行為である。ユネスコが1992年から世界記録遺産事業を開始し世界の遺産を未来に伝えて後世に記憶できるように保存し容易に接近できるようにとの趣旨で始まった。人間は今、この瞬間を記憶するために記録する。しかし、すべての瞬間を覚えようとするものではない。自身の悲惨な姿には忘却を要求し選択的記憶のエラーを容認する。この要求から[美しさ]が登場する。
美しさを記憶したくて写真として記録する。iPhoneの迅速さで、美しい瞬間を記録したりもし写真館を探したりもする。ここにライフスタジオは美しさを記録するという古典的な写真館の機能に[]というコードを追加した。 美しさを記録する瞬間が追憶[思い出]としても位置するのならば、ピタゴラスの定理が完成されるかのようである。子の結婚式を終えて家に帰ってきて、いつもより寂しく見えるリビングに座り、過去の日の思い出が込められたアルバムをとり出した親を想像してみよう。 3歳だった子供は、【大切な美しさ】そのものである。アルバムをめくりながら、3歳の時に写真館で撮影した写真を見る母は先ず何を感じるだろうか?その当時の子供の【大切な美しさ】と共に写真館で笑い騒いだ[思い出]が部屋に広がるのではないか?写真館での香りと、撮影者のたどたどしい話し方も覚えているかもしれない。パスポートを作るために3歳の時に撮影された証明写真と比べてみると、その違いを知ることができる。
だからライフスタジオは写真館の概念を新しく定義しながら始まった。
[美しさを表現し、思い出をともに記録する楽しい遊びの空間]
ライフスタジオが日本の写真市場に定着することができた理由の一つが[思い出]という新しい概念を導入したことである。既存の写真館は、お客様のニーズを読まずに記念写真にだけ自らを閉じ込めていた。 【大切な美しさ]を[記録]で留めず【大切な思い出】となることができる時間空間にするということ自体が価値の戦略的移動を可能にした。少なくない金額を支払うのにも関わらず一年に数回予約するということは、【大切な美しさを記録】するとともに、写真館での数時間が【大切な思い出】として残るために可能なことである。
 写真館を訪ねる顧客の普遍性は、[記録]、[美しさ]、[思い出]である。少し長く解いてみればこうだ。人間は存在に対する確認と、その存在から出てくる大切な価値を発見しようとする欲求を持っている。自身にとって大切なことを美しく記録するために写真館を探す。顧客はもちろん、写真館も大切な美しさを共に作り出す主体である。二つの主体が出会い写真という媒介を通じて美しさを表現して思い出を記録する。顧客との写真館は、[記録]、[美しさ]、[思い出]という価値を共に作り出そうとする共通の理解と要求を持っている。
美しさを表現し思い出を記録しようとする人たちが私たちの顧客であり
美しさを表現し思い出を記録することが顧客が望む価値だ
それでは、[記録]、[美しさ]、[思い出]はいつ作られるのだろうか?当たり前の話だが、写真館に入ってきて家に帰るまで作られる。写真館の構成要素は、この3つの価値が作られる過程に積極的に作用する。小物の上にのせられたほこりからカメラとレンズ、インテリア、人が作り出す香りに至るまで写真館の構成要素は、この3つを組み合わせにするために存在している。ところで、この中で最も重要なことは何だろうか?多くの人は写真と撮影技術を先ず思い浮かべる。はたしてそうだろうか?
写真館運営しながら、ることになったとある事実がある。
[写真館価値はリ99る。ここで1%は、撮影時られる。
たちが写真館をする決定的理由は、その1%にある。その1%の99%は関係である]
オーナー兼リーダーが資本金を納入して会社を設立し写真館は始まる。会社設立と同時に写真館をする場所を調べる。不足している資金を借りるために友人に電話もしたり銀行を行ったり来たりする。賃貸契約が完了したら、施設工事をする。事前に計画したインテリアをしてホームページを作成し、サンプル撮影をする。そして、最初の顧客が来る喜びを感じながら太平洋より広い赤字の海を航海する。約1年ほど経つと底を打って上がって、自分の給料を少し持っていく状態になる。この程度まできたとき、その時間が来る。
写真館ったオー兼である自身と真に向き合う時間る。
写真館自身を同一視する。自身の生き方が客観として表現されているすさまじい現実目撃する
写真館の価値は99%リーダーが作る。インテリア、衣装、写真、システムに至るまで、リーダーの価値観や能力によって写真館の99%は作られる。写真館を最初に設計したリーダーの経験と事由の結果が現実に実現することが写真館である。写真館の形態や内容は法律で定められたものではない。リーダーが志向する写真館が現実として作られ順番に入ってくる従業員との融合で形が少しずつ変化していく。良い従業員は、天から降りてきた幸運である。しかし従業員によって写真館のその何が変わる場合をほとんど見たことがない。もちろん、小物を交換したり業務プロセスを変える程度はある。しかし、基本的な枠組みは変わらない。条件を変えるということはそれだけ難しいことである。写真館の売上高が問題であれば、それはリーダーによる結果であり、写真が特別な魅力がなければ、それもリーダーの責任であり、残業の日常化もリーダーによる未必的故意である。したがって、日本の写真市場の新しい旗を掲げようという[レモンツリープロジェクト]が構想される6ヶ月の期間が重要である。この6ヶ月の期間中に99%が作られる。この99%は、写真館で作られる価値が準備されることを意味する。売上高やインテリア、マーケティングは価値を生み出すための準備過程である。
しかし、【なぜたちが写真館をしているのか?】という問いをすればってくる。
りの1%がられる撮影時間【なぜたちが写真館をしているか?】
に対する究極的な答えを出すことができる
写真館存在する理由は、顧客写真直接瞬間られる結果物をようとすることにある。
写真館で作られる写真の99%は、写真館がオープンするときに設定された条件に影響を受ける。写真館が追求する写真の感じ、撮影形態、インテリア、計算された光、システムなどが合わさって写真が作られていく。このすべてのものは、リーダーによって設計された結果である。こうして作られた写真は、一定の基準が形成され、その写真たちでホームページが作られる。ホームページに上がってきた写真を基準とし、顧客はその写真館で【大切な美しさを記録】するかを決定する。撮影者は、最初に設計された写真を基準にして撮影を行なう。概ねその範囲を超えない。 写真館が提示した写真を作ることが、撮影者の撮影意志を制約する場合は稀である。むしろ写真館が提示した基準を超えれずにいる。これは撮影者の能力や意欲を卑下するものではない。撮影者たちが作り出す写真が写真館の構成要素に絶対的な影響を受けることを強調しようとうする言葉の意味である。ほとんどの撮影者は自身が創造の源泉であると勘違いをする。写真館の構成要素は、当然のことと考えて被写体の美しさをカメラとレンズ、光というツールで創造していると考えている。写真は創造というよりは発見である。
「与えられた条件の中で、被写体が持っている美しさを発見すること」と。「創造」とでは目に見えない距離感が存在する。写真学校を卒業したCという人が最初に写真館に入社をしたとしよう。 A写真館に入社をしたなら、10年後にその人の写真は、ACとなりBという写真館に入社をすれば、BCという写真を作る。全てがそうだとは言えないが、これまで数百人の撮影者を観察した結果がそうだ。 A写真館に入社してBC、DC、ZCというような写真を作り出す撮影者をいまだ見たことがない。 ACがZCになるためにはZという空間でZを発見する必要がある。日本に初めて来たとき、日本の結婚式の写真がすべて同じであることに驚きだった。今韓国では、政府高官や政治家たちが学位を受ける過程で、論文盗作が問題となっている。学校にまともに通いもせずに他の人の論文をそのままコピーすることが慣行的に行われた。論文を盗作している過程で、誤字までもまったく同じコピーしながら証拠を残す面白いことが発生した。日本のウェディング写真もウェディングではタブー視されるポーズやアングルがまんま使用されている。間違いも同じであり、演出も全く同じだ。ウェディング雑誌や写真館のウェディングの写真が全く別のものになってしまう理由がここにある。日本のウェディング写真の傾向という条件の中にいればミスや技術のレベルが見えない。当たり前のことを当たり前に受け入れる問題点がここでもそのまま再現されている。
撮影者は何をする人なのか?本当に自身が創造の源泉であろうか?
写真を初めて始めた時から今まで変わらない撮影者の定義がある。
撮影者とは、条件である。
条件強力は、[被写体かす]である。
撮影者が条件を変化させないということは、自らの限界を運命として受け入れることを意味する。上記でも取り上げた写真館の基準を超えられずにいる理由も、自らの条件を変化させられずにいるからである。同じ場所で条件の変化なしに、数年を撮影するということ。それが人間がすることか?条件変更の最も大きな範囲は、インテリアや光ではなく、被写体である。人はみな違っていてまた人として同じである。すべて異なっているので、被写体を動かす力が重要であり、皆同じであるため、被写体を動かすことができる。ところが、現実には逆に適用される場合が多い。すべて異なっているので条件の変化が難しく皆同じだから条件変更が必要ないという考えをしている。
一人の人間がカメラの前に立っている。その人間を写真で表現することができる方法は、数百万個以上である。一般人がその数百万を、いくつかの象徴的に表現できるならば、おそらく写真館は、この社会から消えることになる。十年以上前に場所だけ貸して被写体自らが撮影をするセルフスタジオが流行したことがあった。写真関係者がセルフスタジオを注視しながら観察したが、湯のみの中の台風に過ぎなかった。決定的な理由は、自分自身を美しく表現することができないということにあった。撮影するときは、一味違った楽しさがあるが、写真の質が高くなかった。家や街で撮影したものと特別な差別性がないから、顧客に見向きされなくなった。撮影者がすべきことは、被写体が自身の美しさを表現することができる条件を作ることである。その条件の中で被写体が自身をカメラに投げれば撮影者はシャッター押せばよい。スタジオ撮影者が錯覚することが大きな課題である。自分が瞬間発見した美しさを自分が作ったと思う。それは、自分が作ったというよりは写真館が作り、被写体が見せてくれたのだ。単純に角をつかんだ瞬間で補足したことを自分が作ったと勘違いをしながら、状況の変化をしない。条件変化をせずに、カメラを持ってあちこち探しまわってアシスタントに追及する姿は、今も写真館で毎日行われるギャグの一場面である。
[被写体を動かしている力]は、[記録]、[美しさ]、[思い出]との緊密な関係を結び、一枚の写真を作莉出す。写真非常人工的装置精巧配置して、非常自然状態表現する行為である。大切な美しさを記録するということは、自然にある今の状態が表現されることを前提とする。 8年前かの博覧会で講義したときの写真関係者にこのような話をした。
「私の目で見ると、5歳の子供が着せられたドレス姿はキャバクラのお姉さんたちを連想させます。いや、キャバクラのお姉さんたちでも古臭くて着ないでしょう。ところが、なぜ写真館では、数十年前の雰囲気を今写真館で再現しているのでしょうか?写真館のスタッフに、なぜこのようなドレスばかり着せるのか?と何度も聞いてみました。ほとんどの従業員は、「顧客がこのようなドレスを望んでいます。皆様満足されています。」と答えました。
「それでは、あなたの子供にも着せたいと思いますか?と聞いてみるといや、それはわからないなぁというような笑みを浮べました。日本のすべての写真館にそのようなドレスだけあるので、その中で選ぶしかない条件なのではないでしょうか?日本で発行されている雑誌を見てください。そのようなドレスを着て出てくるモデルがありますか?]
5歳の子供とその子供を見つめる母親は、自分の目の前に[存在する美しさ]と[存在してはいるが、まだ確認されていない美しさ]に対する欲求を持っている。日本の写真館にあるドレスたちは、まだ確認されていない美しさを表現しようと人為的に作られた装置である。ところが、人為的な装置がアンバランスをおこしながら、非常に不自然に表現されている。現在アリスがとる営業と撮影モードが最も代表的である。漫画の中の主人公を現実に再現しようとする意図は良いが漫画が持つ人為的な装置を精巧に配置して自然な状態として表現されるのではなく、人為的な装置が粗く配置されて不自然な写真が作られている。漫画の中の主人公のような服を着たという特別な経験だけある。このような条件では、大切な美しさも楽しい思い出も作ることができず、ただ[記録]だけが残る可能性が高い。だからアリスは、撮影行為ではなく、[記録]のための準備作業に写真館が保有する資源の相当部分を配置する。
撮影者は、人為的な装置たちを精巧に配列する役割を担っている。光だけを見ても強さ、方向、露出比、色のバランスを考えなければならない。ところが、このような技術的な配列は、写真館で数ヶ月撮影すると大体は知ることになる。重要なことは、被写体を動かせるようにならなければならない。硬く固まった体を弛緩させながら空を飛ぶようにも作り、恋愛映画の主人公にも作り、ネズミの穴にでもあれば隠れたくなるような感情を抱かせなければならない。このような過程が、被写体が持っている大切な美しさを記録することができ、そのようなものたちが集まって思い出になる。
被写体を動かす力はもしかして「関係」ではないだろうか?
「大切な美しさ」「記録」「思い出」を貫通する単語が「関係」ではないだろうか?
写真館といえば思い出すのが写真、照明、アルバム、衣装である。松屋は牛丼、マクドナルドはビッグマックで写真館は写真が思い浮かぶ。ところがなぜそこで[関係]を話そうとするか?
この文章の導入部に[写真館の価値はリーダーが99%作る。ここで1%は、撮影時に作られる。私たちが写真館をする理由は、その1%にある。その1%の99%は関係である。]と述べた。
 
本当に写真館をする理由の99%が[関係]なのだろうか?
[関係]がなければ、写真館では価値を作ることができないのだろうか?
誇張を超えて間違いを犯しているのではないだろうか?
それでは[関係]について今から調べてみることにしよう。
人生には、多くの人間関係がある。父母との出会いが一番最初であり、生まれて初めて猥褻な動画を隠れながら見る10代前半の友人もいれば、女性の唇として初めて私の唇と出会う経験を一緒にする二十歳の女性もいて、借りたお金を返さず連絡が途絶える関係もある。
フロイトは人間が行うすべてのことは二つの動機から出てくると言った。性の衝動と偉大になりたいとする願望である。また、米国の哲学者ジョン·デューイは、人間性の内部に存在する最も強い渇望は重要人物たろうとする欲望だと述べた。偉大な、大切な人になりたい欲望の塊が人間である。偉大な、重要な、には[何について]が常に付きまとう。偉大で重要な人になりたいと思う欲求は誰かによって評価され賞賛されて激励と叱責の過程の中で満ちている。これが人生の動機として作用する。人間関係で行われるもので、私たちは、刺激と励ましを受ける。私と私、私とあなた、私たちが作り出す関係の中で認められ確認して努力して達成しようとするあがきもがく苦闘が「生」が持つ肯定の力である。
バーベキューのためには、肉や野菜、携帯用バーナー、コンロを準備する段階が必要である。リーダーが作成する99%がここまでである。大切な美しさを表現して思い出を記録するために写真館の構成要素を作り配置することは、リーダーの使命である。火をつけ、肉を網に入れて焼き、サムギョプサルパーティーは開始される。この部分は、撮影者が作る。被写体を少しずつ動くように作り、彼の美しさが光の粒子にレンズを介してカメラに入ってくると、シャッターを押す。雰囲気は高まって緊張と余裕、笑いと各種表情が一体となり一本のドラマが作られる。それはそっくりそのまま時間が流れる速度に合わせて私たちの生活の思い出になる。この全ての過程が即ち[関係]だ。
撮影者は被写体を偉大な人, 大切な人に作らなければならない。それでこそ被写体は自分の美しさを少しずつ見せてくれるようになる。
被写体は売上げをあげてくれる撮影の対象ではない. 行動する実体として主体的な自分を確認して撮影者は発見をするだけだ。 被写体は自分の主体的な動きの中で, 撮影者はカメラに入って来るまた他の私を見つけることで生きていることを感じる。
 
被写体は美しさを投げて, 撮影者はその美しさを技術として受け出す過程が [関係]である。
 
[関係]に集中することは私の特殊性である。写真館に顧客が入ってきて最初に感じることは[この人はどのような人なのか]である。[美しさ][記録][思い出]である前に人に対する関心が優先である。むしろ[美しさ][記録][思い出]はその人と[関係]を形成するための素材に過ぎない。そのためにライフスタジオでは写真の技術に関する話をあまりしない。写真は素材であり、ある程度の経験があれば一定水準以上の撮影は可能になる。撮影技術の発展を技術としてはかることは原理にも会わず非効率的な側面を持っている。人間を撮影するために人間を理解せずに楽しみや感動はなくなる。人間を私の中に入ってくるようにすればするほど技術は自然に発展する。
 
撮影経験が2-3年になった撮影者の大部分は写真館が[人と出会う場所]であることを認識することができない。写真が優先でその次が顧客だと考える。したがって現実での衝突がおこる。ライフスタジオでは学習と教育[読み・書き・討論]を通じて人間について話をする。これをライフスタジオだけの特性だと考え自身は写真をやりたいという人たちがいる。[写真館は人と出会う場所]ということが写真館の本質だ。ライフスタジオはそれを強調しているだけである。人を理解して知っていくことがすなわち写真を変化発展させることである。[関係]は人間と人間が関係を形成する狭い意味の[関係]もあり、写真館の門を開けて入り出て行くその瞬間まで作られた[記録][美しさ][思い出]の総合であるという広い意味の[関係]もある。このすべてのものは人間と人間が作りだすものであるため[関係]という単語を使用している。
 
何年か前のブログに書いた文章がある。顧客と職員、被写体と撮影者の理想的な[関係]に関する文章だ。
 
韓国に[愛してもいいですか]という歌がある。
♪ 門が開きます。あなたが入ってきます。一目で私の人手あることがわかりました。
  私の横に来て頭を下げて見えた顔がとてもまぶしかった。
  なぜかよそよそしくありません。どきどきしています。私の心をすべて持っていったあなた。
  注意深く話します。勇気を出してみます。私 今日からあなたを愛してもいいですか。
  初めてです。はっきりしたこの感じを失いたくありません。愛がきているのを感じます。
  あなたにはいつもいいのもだけあげます♪
 
ヒョンチャンという人が始めてスタジオに入ってきた日。その日はスタッフも少なく、予約電話も多くて撮影が長くなったあわただしい日だった。ヒョンチャンが100日撮影をするために相談に来たのだがその短い相談時間10分を準備することができず1時間以上待たせてしまっていた。お父さんと一緒に葉箱を吸いながらお母さんに吸いませんといって汗を滝のように流しながら過ごした時間が今も鮮明に思い出すことができる。いつでも笑っていたヒョンチャンのお母さんと路地裏のチンピラのにおいのするお父さん。
 
よそよそしくなく同じ考えを持ちながらすごしてきたような平穏感。
 
心が温かい人に会いたいと願っていた幼稚なこと場をたくさんいっているのに、おそらくヒョンチャンの家族にあってから使うようになったと思う。結局契約をして撮影をして1歳の誕生日記念も撮影をして一緒にご飯を食べながら家に遊びに行って飲みに言ったりもしました。ヒョンチャンがおばさんの結婚式の写真でまた何回かあってその間におばさんが子供が生まれたと二人連れてきて、100日の記念写真、1歳の写真2回に、ヒョンチャンのお母さんのほうの大家族も撮影して、遠い海辺に住んでいるおじいさんの家にサガナム全体で2泊3日遊びに行って、間、間にヒョンチャンの友達も同じコースで。。。
 
もう10年前の話です。一回、インターネットでサガナムに対して批判の文があがったことがあります。まったく論理があっておらずおかしい話にその該当サイトに電話して事故収集しながら騒動になったことがありました。そのときサガナムのファンたちは立ち上がってサガナムは絶対にそのようなことはしないとサガナムに変わって文章をあげてくれました。その時ヒョンチャンのお母さんが始めて文章を書いたのですが、長文の文の中にサガナムに対する考えをあげたのですがなんと言うか。。。涙を流しはしないけれど。。。何というか。。。
 
顧客と撮影者が出会い友達になることはそんなに多くはないでしょう。
 
  人を愛すればその写真がすぐいい写真になるその平凡な心理をライフスタジオのすべての構成員達が知ることができればうれしいです。
 
スタジオののドアが開いて一目で私の人になることがわかるでしょう。なぜかよそよそしくなく、今はどきどきする人をカメラで見ながら愛の気分を感じる事は撮影者だけができ権利であり義務のようです。ヒョンチャンが妹のハウンの1歳記念写真で家族が同じ服を準備してきました。この服を探して選んでスタジオに持ってきながらヒョンチャンのお母さんはどれほどうれしかったことでしょう。その期待の半分でも写真で表現することが課撮影者の運命です。お父さんはその服に着替えながらぐずぐず言っていたが、今ヒョンチャンの家に大切にしまっているアルバムにはヒョンチャンのお父さんの宝物1号になったことでしょう。ヒョンチャンが軍隊にいくとき一回出してきてみてハウンが結婚するとき2階見て、夫婦喧嘩の後にも見るでしょう。
 
どきどきする気持ちでヒョンチャンの家族に告白します。愛してます。。。
写真館と顧客、顧客と撮影者の関係がすべてこのようであれば私たちの世界はどのように変わるでしょうか。
みんなではなくても一ヶ月に1,2名の顧客とこのような関係が作られるならば私たちの人生で何が変わるでしょうか。
このように顧客と撮影者が出会うことが[なぜ私たちが写真館をやっているのか]に対する答えを提示してはいないだろうか。
[私たちの顧客は誰でしょうか?] [顧客が価値があると考えるものは何でしょうか?]に対する答えをこの文章が提示してはいないでしょうか。
 
[私たちの使命はなんだろうか?]で[人間尊重を土台として[日常の余裕]という生きる姿勢を維持する]を[レモンツリープロジェクト]の目的に提示する。または写真館を[美しいを表現して思い出を記録]するところとして規定した。
 
[記録] , [美しさ], [思い出]に同意する人々が私たちの顧客で私たちの提示する価値は
[記録] , [美しさ], [思い出]を通じた [関係]だ.
[記録] , [美しさ], [思い出], [関係]は
[人間尊重を土台として [日常の余裕] という生きる姿勢を維持する]を通じて実現することができる。
 
普通計画書というと各種チャートが登場して、顧客の性向や分布等を把握して、戦略と戦術を展開するのが一般的だ。しかし私はその方法を知らない。特別に知りたいとも思わない。したがって仕事がなされる原理を知っている人との出会いに飢えているのかもしれない。私が知っている顧客は普通の人間だ。人間が人らしさを求めている。人と人がぶつかってその間ででてくる汗のにおいが価値を作っていく。
 
私たちの顧客は美しさを表現し思い出を記録する人たちで
その過程で発生する[関係]が顧客と写真館が同時に追求する価値である。
人間尊重と日常の余裕は[関係]を形成する基本条件で人生それ自体である。
 
 
2.私たちの結果は何であろうか。
 
結果は過程を選択するようになり過程は結果を達成させる。
結果と過程はお互いを引っ張り合い押してくれ変化と発展をはかってくれる。
私の目の前の木と全体の森をかわるがわる見ることのできる知恵が必要だ。
 
人間の心は気まぐれだ。暑ければエアコンをつけ、寒ければ服を着る。お腹がすけばいらいらしてご飯を食べれば眠くなる。縄跳びの弾性のように言ったり来たり反復する人間の心を満たす欲求と心を開くことでできる余裕を反復する。私たちの短い日々はそのように流れている。計画なくソウル駅に行って何かを感じる地域に行く汽車に乗る。私の中にある多くのことを超えられず逃避したこともあり何もなく空虚感の心を満たすために旅立ったりもする。旅行は神秘的な体験だ。意図があるにしろ無しにしろ旅行は神秘的だ。仕事や現実が人の力や知恵または普通の理論や常識では到底理解できないほどの不思議で妙な場合に[神秘]という単語を使う。日常生活では解決できないような知ることのできないときに神秘の妙薬を探すために旅行に行く。旅行は結果を予測することができないために神秘的だ。愛も神秘的であることは同じであるが結果を知ることができないために約束が乱舞して各種事件事故を誘発する。旅行は私の中で起こることであるが愛は相手がいるために神秘的であるのと同じくらいに混乱する場合が発生する。それでも愛を探すためにフェロモンを撒いて歩く。
 
神秘さを探していく旅行のように[仕事]をしてきたように思う。
結果を知ることのできない神秘さがある結果と関係なく目の前に来る仕事を処理しながら生きてきた。
[来る仕事]をする方式に慣れてしまったために[この道ではない!!!]によくぶつかるようになる。旅行は自身の中で[この道ではないならまた戻ろう]を自然に叫ぶ傲慢さが増えていく。過程も重要だが結果も重要だ。迅速な仕事の処理が必要な人は飛行機に乗って福岡に行かなければならないし自信の内面と対話が必要な人は歩かなければならない。
 
結果は過程を選択するようになり過程は結果を達成させる。
結果と過程はお互いを引っ張り合い押してくれ変化と発展をはかってくれる。
私の目の前の木と全体の森をかわるがわる見ることのできる知恵が必要だ。
 
[私たちの結果は何なのか]を論ずることは私たちが果たそうとする目的と主題を鮮明にして過程をけっていずける論理である。[レモンツリープロジェクト]の結果について話をすることは散らばっている神秘さを予測可能にして交通手段を決定させることだ[顧客][内部顧客][内部文化]の側面で理想と現実、実現可能性の神秘さを想像してみよう。
 
[顧客]
顧客は人間だ。何人かの人を経て友達で地球というひとつの固まるで共に生きている。顧客だからといって王様にはべるかのように平常時とは違う言葉遣いと行動を見せることなれない光景だ。条件と業種、サービスの種類によって差を見せることはあっても[人間尊重]の基本パターンを超える作為的な行為は危機感を呼び起こす。
 
顧客の立場になってみたことがそんなに多くない。食堂と居酒屋が顧客としての唯一の経験だ。日本に来て自ら靴下も買ってみてスーパーで買出しもした。その中で恐ろしい金額を使用するところは東京の西側にあるジョイフルホンダである。おそらく100回以上はいった。店舗がオープンする時期には100万円以上の資材を購入して一ヶ月集中して10回以上行くために職員たちと顔なじみになる。一定の空間でよくあうようになると会釈するようになる。しかしやらない。本当におかしい。計算をするときに同じ人なのに同じことを言う。カードが無いといっているのに10回同じことを聞く。2,3回程度であれば[カードを作りますか?]とか「今日も現金ですよね」とか聞く方法もあるのにマニュアルになるように同じ過程を踏む。木材を車に運ぶ過程で知り合った職員もいる。いつも会うようになり少ない時間でもお互いについて聞く。その人は簡単な韓国語を教えてくれといいながら関係を形成する。駐車をしてジョイフルホンダ入れば一番初めにその人を探す。遠くにその人が見えればただそれだけで気分が良くなる。私も知らずのうちにその人の近くに行くようになる。ジョイフルホンダを考えればその人が一番最初に浮かぶ。それはジョイフルホンダとの唯一の関係だ。
 
写真館は写真を素材としてネットワークマーケティングをする事業と言ったことがある。ネットワークマーケティングの原理は簡単だ。人をネットワークマーケティングとして作って価値を創出する行為である。共に同じところを見ることのできる深遠で結ばれた人たちを持続的に連結する事がネットワークマーケティングの核心だ。これはうまくいくと後ろからついてくるものは金銭的な保証である。ネットワークマーケティングが社会で物議を起こす理由は人より紙幣が優位にあるためにである。人を目的とする教育に熱を上げるが手段として転落したときに問題が発生する。人に接近していくときに[あなたが私のネットワークに入れば私には一月に100円の利益がある。お願いです、私のネットワークを助けてくれる?]とは言えない訳である。このような提案をすればすぐに帰ってくる答えが『私が毎日100円上げるから今すぐにそのネットワークマーケティングから出ろ』という。
写真館のネットワークマーケティングでなければならない理由は意外に単純である。写真館は人を撮影する。人に深く入る宿命を抱いている。人を対象化する瞬間、単純な販売員から抜け出すことはできない。写真という結果物で技術がもっている役割はだんだん少なくなっている。派手な写真を提供してくれる雑誌とキャノンが作ったカメラとレンズが相当部分の技術を担当する。特に情報化している今の時代は撮影技術というものはあまり重要な要素ではない。果物と牛乳を一緒にいれてミキサーのボタンを押せば果物のジュースが造られる。撮影技術というものはこのように材料をいれてミキサーのボタンを押すように簡単な事だ。現在の撮影者達は違うというかもしれないが現実はそうである。写真館で一年程度熱心に仕事をすれば問題ない写真を撮ることができる。誰でもできる仕事を提供することはそんなに魅力的ではない。一日に何回も利用するコンビニの店員の中に記憶に残る人はいない。同じように仕事をするからだ。そのためにコンビニの競争力は時代を一歩進んだ商品で、人ではない。写真館の従事者たちもだんだんコンビニと似通ってきている。撮影者というよりはシャッターを押す人に転落することもある。コンビにで仕事をする方式では[美しさを表現して思い出を記録]することはできない。
 
人に入って人を連結するその過程で出てくる価値を共有することは
写真館が持っている宿命にも似たものである。したがって出てきた概念は[ファミリー顧客]である。
 
撮影者は条件を作る人であり条件を作る最も強力な力は[被写体を動かす力]であると主張した。条件を作って被写体を動かす力の作用で出てくる最高の状態が[ファミリー顧客]である。[ファミリー顧客]は顧客が撮影者を指名する小さな嬉しさを言っているのではない。[ファミリー顧客]は生きる理由と写真の究極的な本質とつながっている。
 
認定実現の論理的帰結:特殊性が生きている普遍性とはという文章を見てみよう。
 
人間の欲求が他人に圧力をかけ支配する構造に変質しないようにするためには、相互認定を通じて普遍性と普遍的自己意識を創出しなければならない。お互いの欲求、意思、考えが衝突する中で‘一方が持っている特殊性が普遍性に対置’するとか、‘普遍的な自己意識が優越要求をもったほうのもの’というような結論に到達してはいけない。一方の特殊性と個別性を他のほうからも同一に貫徹させようとすることは一種の暴力である。一歩の特殊性を絶対化する暴力は昨日今日の話ではない。
 
普遍的な自己意識を実現しようとすれば私的な利害関係や特殊性に埋まってしまう自己への執着を捨てなければならず、共同体に貫徹している抽象的な原理と普遍的な目的に対して自覚が要求される。この時の原理は個人に付属する原理ではなく個人が属している普遍的地盤での上胴体の原理である。その原理をヘーゲルは慣習または習俗といった。誰でも共同体の中で生を始めるために、人間はいくら私的欲求に没入するとしても、共同体的生の地平が与える共同体的原理と普遍的精神を保有している。そのためその中で自身の私的利害関係が共同体の普遍性と抽象的原理に媒介されるようにしなければならない。そのようにすることによっての個人は私的次元を屈服するようになり、共同体または抽象性を屈服した具体的な原理を出すことができる。
 
共同体的な地平で起こってくる生の普遍性をヘーゲルは[人倫性]とよんだ。人倫性は普遍的な自己意識が実現しようとする理念である。これは特殊な生の方式を包括しながらなされる普遍的な目的である。すなわち単純に抽象性にとどまることなく対立する特殊性に対する考慮の中でなされ、‘具体的区別’‘具体的内容’を含めた‘普遍性’を意味する。禁欲主義が抽象的なために内容と区別をもった思考になるために懐疑主義または不幸な意識に移行するように、国家の原理は個人の特殊な意思を反映して媒介される原理で[具体性を持った原理]に移行する。
 
。。。。。
 
このような難しさの中でも両者が立っている共同体的地盤の中で真の認定、すなわち相互認定を実現しながら人倫性が具現されるように持続的な努力が必要だ。そのため相互認定を経た統一では構成員たちの[区別]と[独自性]が生きていなければならない。普遍性の実現が一般的で圧力的な統一に転落しないためには[個人と個人の間の区別][集団と集団間の区別]が生きていなければならない。もう一度いうと普遍性を実現して普遍性に移行する中でも構成員たちが持っている特殊性と特殊な意思を保存することのできる統一でなければならないということである。
 
真の認定を受けるためには他人を[特殊性をもった存在]として認めながらも同時にその中から[私の普遍性を直感]することのできる[具体的普遍]を実現しなければならない。これは特殊性を排除するのではなく両者の特殊性を認定することである。[他人と私の区別]と認めながらも他人を通じて自身に対する規定を獲得して自己啓発をして自己と知る人間になるとき、真の自己意識を実現する。ここでお互いの特殊性と個別性を拡散させ自由と自己意識を拡張することができる。
 
顧客が写真館で撮影を要請して写真館は顧客の要求に合わせてみなが願う結果物を受けることができる。このような過程を[契約][サービス提供と取得][効果と費用][需要と供給]等の話で説明することができるが[相互認定の論理的帰結]で説明をすることもできる。顧客が願うことは美しさを表現して記録して思い出を作る事だ。これは顧客の特殊性と人間の普遍性を同時に持っている。私、私の子供、私の家族の特殊な厚く示唆を表現して記録したい人間の普遍的欲望である。写真館は顧客の特殊な状況を普遍的に説いてあげなければならない。特殊な状況を特殊にといていくことはエラーを内包することになる。被写体が美しくないと考える撮影者が美しくない写真を作るのであればそれは撮影者ではなく自動販売機と呼ばれなければならない。
それでも自身が見て感じたままに写真を撮る撮影者が多い。その時顧客の不満が始まる。写真館と撮影者は顧客の特殊性に対する理解を基盤としてその中に抱えている美しさを外に実現しなければならない。または時間と訓間が持っている物理的な条件を思い出という言葉で創造しなければならない。顧客の特殊性は普遍性が自分化している状態を言う。真の認定を受けるためには顧客を[特殊性を持った存在]であると認定しながらも同時に顧客の特殊性を私の普遍性で媒介しなければならない。その過程で顧客と私だけの具体的な普遍性で様変わりする。お母さんが子どもを見つめる時美しいと感じることは私が持っている普遍性で証明しなければならないという事だ。ホームページに出ている写真たち、イメージ、インテリア、カメラをはじめとする装備たち、システムは顧客の特殊性を具体的な普遍性で作るための手段だ。手段を適切に活用して結果物を作る過程で確信的な事が[関係]である。顧客と写真館、顧客と撮影者が同等な主体として[記録][美しさ][思い出]をともに作っていくことを[関係]といった。
 
顧客の特殊性が撮影者の普遍性と出会い具体的な普遍がつく割れることが[関係]であり
それ自体が価値を発生させ、この[関係]の結果物が[ファミリー顧客]である。
顧客と撮影者が相互認定の論理的帰結によって作られた現実的な結果物が[ファミリー顧客]である。
 
Dr. Norman Bethuneをよく引用する。病気の世話をして人を世話ない医師は小さな医師といい、人の世話をするが社会の世話をしない医師は通常の医師といい、病気と人、社会を統一的に把握し、そのすべて治す医師を大きな医師という。Dr. Norman Bethuneは、それが細菌でも社会システムでも、人間の健康と生命を蝕むのであれば、対象を選ばず全身で立ち向かった真の大きな医師だった。病院に行ってみれば、あらゆるタイプの医師がいる。患者を手段として見る医師から、ある地域にいるすべての人たちの、主治医としての役割をする医師もいる。撮影当日だけ自分の技術を顧客に一方的に適用する撮影者もいれば、顧客と本当の出会いをし、持続的に関係を形成していく撮影者もいる。撮影者の力量に応じて[ファミリー顧客]が作られる形式は、質的な差を見せる。おそらくカメラを買いたいのだが、何を買うべきか分からないときに撮影者に気軽に電話やメールで尋ねることができる関係が[ファミリー顧客]の始まり程度になるだろう。日本といえば寿司や相撲であるように、写真といえばその撮影者が思い浮かぶ顧客が[ファミリー顧客]の始まりである。この段階からより高い段階を求めるとき、撮影者個人の力量と組織の目標が結合すれば、量的、質的にも異なる[ファミリー顧客]のタイプが出てくるだろう。同じ信念と持続可能な組織運営で人生のパートナーになれる。重要なのは、単純な地名にとどまらず、より高い次元の関係を作っていこうという意志にある。[ファミリー顧客]は両方向で行われる相互認証の結果物だ。
通常の場合、顧客管理の次元で【ファミリー顧客】を話している。 【レモンツリープロジェクト]では【ファミリー顧客】が手段ではなく、それ自体が目的であり結果である。一時期写真館の根本的な問題について悩んだことがあった。顧客が希望する時にのみ会うことができるということが、写真館の決定的な限界であった。顧客が予約電話をしなければ、顧客と写真館、顧客と撮影者の【関係】は続けられない。【関係】がとても重要であるとしながら、顧客が希望しなければ会わないというのはつじつまが合わないだろう。そのため、相模湖にギャラリー店を作って顧客がいつでも訪れることができ、会うことができる空間を作ろうとした。しかし失敗し、今年12月に長期間閉鎖をすることになった。ギャラリープロジェクトは顧客と写真館を繋ぐ作業であり、今述べている[ファミリー顧客]は顧客と撮影者が中心だ。
顧客と撮影者が繋がって [ファミリー顧客] が作られ
同時に写真館がこのすべてを抱くことができる目標と政策へと進むことが理に適う
100人[ファミリー顧客]がいる撮影者は何を意味するのか?
自分の専属カメラマンがいる顧客は何を意味するのか?
【レモンツリープロジェクト】が成功したという確認を[ファミリー顧客]でできるのではないだろうか?
【人間尊重】、【日常の余裕]、[美を表現して思い出を記録]、[関係]の結果物として、[ファミリー顧客]を述べている。人生をどう生きるのかについての質問には、[人間尊重を土台に[日常の余裕]という人生の態度を維持する]だと答えた。写真館をする理由は、[美を表現して思い出を一緒に記録する関係]だとした。【レモンツリープロジェクト】の現実的な結果物として[ファミリー顧客]を提示する。
 [私たちの結果が何であるか?]に対する答えは [ファミリー顧客] であり、
【レモンツリープロジェクトの成功可否を判断することができる唯一の方法として
[ファミリー顧客] を提示する。
[内部顧客]
顧客が購入を決定する瞬間を[真実の瞬間(MOT - Moment of Truth)]とする。顧客が企業の職員と接触する瞬間、15秒という決定的瞬間に購入するか、もしくはまたこの企業に行くかどうかを決定する時間をいう。数年前、トヨタに行って車に対する色々なことを聞いて購入しようか考えながら、前にいる従業員に尋ねた。 [あなたからこの車を買わなければならない理由は何ですか?車で5分だけ行ったとこにも同じ車を売っているのに、ここであなたと契約をする理由は何ですか?]その従業員は一般的な答えをし、そのままその店から出たことがある。 【真実の瞬間】に決定的に作用する部分は、[内部顧客]だ。 [内部顧客]を実践している代表的な例がディズニーランドである。
写真館をする理由の99%が[関係]から出てくるとした。もちろん誇張混じりの表現だが、それぐらい[関係]は大切だ。この[関係]の結果物が[ファミリー顧客]で[関係]を生み出す主体は[内部顧客]である[レモンツリープロジェクト]が進行されて出てくることができる[内部顧客]の結果について話してみよう。
人間尊重を土台に、日常の余裕という人生の態度を維持すると、[内部顧客]はどのような状態になるのか?
本当に難しい質問である。ユートピアを話すと現実性が落ち、現実的な話をするとやる気がなくなる。 [私たちの過程は何ですか?]から[内部顧客]に提供する条件と過程を詳しく説明し、ここでは[伝説の意味]についての話をする。
【レモンツリープロジェクト】の目標が達成されさば、[内部顧客]たちに残る結果は人によって異なりもする。経済的な豊かさや自分の能力の確認を通じ、生の意味や喜びなどを持つことができる。もちろん、個別の成果や成功によって得られる果実は重要である。しかし、そのような個別のものよりは、少し他の部分に関心を持っている。 【レモンツリープロジェクト】の構成員たちと一緒に作りたいと思う結果物を想像してみると、真っ先に思い浮かぶ言葉は[伝説]である。
[伝説]を作りたいという欲求は、理想を現実にしたいという心から出発する。自分が夢見る世の中への美辞麗句が増えるほど、現実はそのままである。自分に堂々としたいが、常に試行錯誤の状態から抜け出すことができずにいる。少し前に、[レモンツリープロジェクト]を、なぜするのかと誰かが聞いてきた。 [ライフスタジオでしようとしたが、できなかったことをしようとする。もう試行錯誤はもうやめたい。これ以上嘘つきにはなりたくない。 【レモンツリープロジェクト】でもできなければ、私はもう無理だ。できないことを認めているのも私の人生の道である。ライフスタジオの成果をもとに、ジャンプをしなければならない。能力のある人とジャンプすることがライフスタジオの目的を実現するものである]。
【レモンツリープロジェクト】は、理想を現実にする作業である。A社の目的も[感動を現実に]だ。現実は感動にケチである。本当にまれにだけ姿を見せてくれる。それも偶然に、私の意志とは関係なしに姿を見せる場合が多い。感動が現実から日常的に起こるという想像は、政治家が国民のためだと言う言葉ぐらい現実的ではない。
【感動を現実にすることを目的にして、今日一日も懸命に仕事をしている理由は、
その目的が達成されるという信念だ。信念が現実に実現された時の言葉が[伝説]である。
[内部顧客][伝説]の主人公になること、これが私たちの結果である。
ライフスタジオが教育に集中していた時期に作成されたレポートに[伝説]が引用された。
もう一つの大きな意志は伝説を作りたい人間の属性にある。
ジョンさんとギャラリーで本も読み、酒も一緒にしながら良い時間を過ごしていたので、このような質問をした。 [ギャラリーで顧客と内部構成員みんなが生きているという実感を持ってほしいのですが、どのような方法があるしょうか?]という質問に、ジョンさんの口から3年に一度出るかどうかの言葉が飛び出した。 【甲子園に出場する選手は多いが、プロに入団する選手は1%かないかです。高校の登録選手に例えれば0.1%の選手がプロになります。残りの選手たちは、その後社会生活するか大学に行って勉強をするでしょう。学生もそれを知らないわけと思います。プロ選手になってお金と名誉を持以前に、野球自体に集中するでしょう。走って転がって倒れながら人生を知っていっているのでしょう。彼らがグラウンドで流す涙はとても感動的です。 TVで見てもそれを感じることができ、一緒に涙を流すことができます。ライフスタジオの構成員たちの経済活動に、甲子園のような激しさが生まれること、それが私たちの目的はないでしょうか?]
同じ考えと行動から出てくる無限の多様性を発見した瞬間だった。 [甲子園の情熱がライフスタジオにも...]、自分自身を発見することこそがライフスタジオが望む切実な願いだ。売上高をいくら上げて、いくつかの店舗をオープンすることには、あまり関心がない。負けたけれど、泣きながら甲子園球場の土を盛る選手の真正性をライフスタジオでも確認したいと思う。そうなった状態を、まだライフスタジオで想像するのは容易ではない。
それでも、到達できないような伝説を人々を通して作りたいという虚栄はいいだろう。
【夜と霧】という本で広く知られるヴィクトール・フランクルは、ナチスの強制収容所で経験した生死の分かれ目の中で、人生の意味を失うことなく人間の尊厳の勝利を示してくれた。彼は自分の独特の精神分析の方法であるロゴセラピー学派を創始した。ロゴセラピーは、ロゴスというギリシャ語の[意味]という言葉である。過去の精神分析学は、人間は幼い頃に経験したトラウマが無意識に深く定着し、現実でもそれによって苦しんでいるので、過去のトラウマを癒すために努力する。ロゴセラピーは、それより一次元を超えて、今後生きていくすべてのことに意味を見つけて、過去の傷を癒して、これからはより真の人生を生きる助けとなることを目的とする。未来に焦点を当てて、自ら人生の意味を探そうとする努力を、人間の原初的な動力と見る。フランクルは、人は誰でも人生に付与された使命を達成する責任感を持っているべきだと言う。この責任感を、彼は人間の存在の核心とみなしている。この責任感は、人間が自分個人の内面に没入することなく、世界を眺めるようにさせる。彼はこうした経験、もしくは行動を[自己超越]と呼ぶが、[自己実現]は、このような自己超越の自然な副産物だということだ。人が人生の意味を発見することができる3つの方法を提示した。第一に、何かを創造したり、またはある行為をすることによって仕事を達成する。第二に、何を経験したり、誰かに会うことで善や美しさを経験するか、または誰かを愛するようになる。第三に、避けられない試練に対してどのような態度を取るべきか決定することにより、人生の意味に近づくことができる。つまり試練は、その意味を知る瞬間、試練であることを止める。フランクルの[人生の意味を探して]という本にこんな文がある。
【本当に重要なことは、私たちが人生の中で何を期待しているかではなく、
人生が私たちに何を期待しているのかという点である。】
【レモンツリープロジェクト】の目的に同意し、[伝説]を作ることに意味を付与する[内部顧客]と働きたい。本当に重要なことは、私たちが[レモンツリープロジェクト]で何を期待しているかではなく、[レモンツリープロジェクト]が私たちに何を期待しているのかという点である。 〔レモンツリープロジェクト]は、[内部顧客]が作られていくものであり、自ら意味を付与して[レモンツリープロジェクト]を作っていかなければならない。〔レモンツリープロジェクト]が意味することを共に作ることが[伝説]であり、その[伝説]の主人公になることが[内部顧客]が望む結果である。
ライフスタジオでは、自立するために[読み、書き、討論]を強調した。数年の試行錯誤の中で構成員たちがある程度は人生に対する態度や核心的価値への理解をした状態になった。今後、2015年は理論と実践が並行される事業計画を持っている。〔レモンツリープロジェクト〕も学習と教育の根本は同じだ。しかし、準備された人々の計画された行動が要求される。〔レモンツリープロジェクト]は、単に定めらた仕事をを反復する人を不要としない。私たちが設定した目的を具体的に現実で適用しなければならない。仕事を達成しなければならず、出会いと経験を通して価値を作らなければならない。また、試練がやってきたときは突破しなければならない。
〔レモンツリープロジェクト]が意味するものを達成することが[伝説]であり、
その[伝説]を作ろうという意志を持っている人々が[内部顧客]である。
〔レモンツリープロジェクト][内部顧客]の結果は、[感動を現実に]することである。
これこそが、まさに[伝説]である。
 
[内部文化]
文化の辞書的な定義はこうだ。自然状態から脱して一定の目的や生活理想を実現しようと、社会の構成員によって習得、共有、伝達される行動様式や生活様式の過程、及びその過程で成されたた物質的、精神的な収入をひっくるめて言う言葉。衣食住をはじめ、言語、風習、宗教、学問、芸術、制度などのすべて含んでいる。
文化は私たちのすべての生活に大きな影響を与える。毎日摂取する米の価格から、幸せの基準まで共同体の維持、強化に文化の力は人間のすべての領域に関与する。組織が作られると文化が形成される。軍人には上官の命令には絶対服従の徹底した位階秩序の文化が必要であり、Googleは自由な組織文化を作っている。軍隊は1を入れると1が出なければとならず、Googleは1を入れると何が出るのか予想することができなくてはならない。組織において文化は過程であり結果である。組織の文化的慣習は、最初から完璧な形を整えてスタートするわけではない。内部では、構成員たちが外部環境に応じて展開される相互作用によって形を備える。一つの組織の文化的慣習は、その集団が存在する間、選ばれる選択によって決定される。
〔レモンツリープロジェクト]に適切な​​[内部文化]は何だろうか?
書籍「ビジョナリーカンパニー2」で述べている[規律の文化]は、組織文化の重要性を効果的に説明する理論である。〔規律の文化]の核心ポイントは、ハリネズミコンセプトが徹底的に貫徹された3つの円の中で、規律ある行動をする規律ある人でいっぱいの文化を作ることだ。ハリネズミは一つの決定的なものだけ執着する、非常に古くさくて陳腐な動物である。このような特徴が企業の成長の推進体になることができると考えた。情熱を持って仕事、一番得意なこと、経済的成長の原動力になること、この3つに通に含まれている部分をハリネズミコンセプトとする。[規律の文化]の詳細には、1)システム内での自由と責任の概念をもとにして文化を作れ。 2)その文化を自分の責任を果たすためになら地の果てまでも行く用意がある、自律的な人々でかためろ。 3)規律の文化を全体的な規律強要と混同しないこと。 4)ハリネズミの法則の三つの円が重なる部分には、ほとんど宗教的と言ってもいいくらいに焦点を合わせろ。
まず、ハリネズミコンセプトの3つに対する話をしてみよう。A社とライフスタジオがどのような形態の結合力を見せてくれるかという憂慮と期待が共存するが、現在提示された条件で予測してみよう。情熱を持った仕事は、ライフ人を規定した言葉にそっくり含まれている。情熱を持った仕事は変化発展の原理を理解し、自由意志に基づいた人生を目指し、そのために関係を形成しながら一緒に実践する人を作ることだ。その人と一緒に[感動を現実に]する作業である。一番やる仕事は、時代と顧客が要求する写真とシステムを作ることである。まだ開拓されていない写真とシステムは無尽蔵である。経済的成長の原動力となる仕事は、美しさを表現して思い出を記録する写真とITを結合して新たな顧客を創出することだ。
〔レモンツリープロジェクト]をハリネズミコンセプトでまとめてみるとこうだ。
自立しようとする情熱と能力を持っている人々が[感動を現実に]するために
写真とIT技術を融合、顧客と時代が求める写真館を創造することが
[レモンツリープロジェクト]である。
これは、[人間尊重][日常の余裕]という核心的価値に基づいている。
人生の理由と写真館の持つ本質という側面から見れば、
[人間尊重を土台に、日常の余裕という人生の態度を維持する] が
これら3つの円に合わさった時点で発見される。
 [レモンツリープロジェクト]の目的を達成するための[規律の文化]を一言で表現するなら何だろうか?
自由と責任、自律的な人、三つの円に入ることに対し、集中は構成員一人一人が運営の主体になることを意味する。 [レモンツリープロジェクト]の[内部文化]は、[内部顧客]が主体となるものである。主体となるためには、[規律の文化]が作られなければならない。 [規律の文化]は、動機付与のための教育が必要な人ではなく、自ら動機付与をして目標を達成する人で構成する必要がある。そのような人たちは、自由と責任の原則に基づき、[自立しようとする情熱と能力を持っている人が[感動を現実に]するため写真とIT技術を融合、時代をリードする写真館を作る仕事]だいう信念で団結しなければならない。
 
 [レモンツリープロジェクト]の[内部文化]は[内部顧客]が主体になると述べた。[内部顧客]が主体になるために必要なこととはなんだろうか。一見してみると[自立]という言葉が思い浮かぶ。また、このすべてのことを可能にすることが[人間尊重]と[日常の余裕]ではないかと思う。[レモンツリープロジェクト]の[内部文化]をこの文章で確定することはできないが、[内部顧客]が主体になるための方法として、瞬間的に思い浮かぶことは協同組合だ。協同組合の形態は、[レモンツリープロジェクト]の目的を達成するために注目されるべき部分である。協同組合について少し説明しようと思う。
 
最近、協同組合に対する関心が高まってきている。UNは2012年を[世界協同組合の年]に指定した。グローバル経済危機によって協同組合がもう一度注目を集めているというデータには大きな理由がある。協同組合は市場と国家が解決することのできない社会の経済的な問題を市民の自発的協力を通して解決することができるからだ。特に今のように市場の貪欲さと政府の無能力さがもたらした問題によって市民の人生が苦痛を受ける時に、市民自らが自助的努力の必要性に気付いたということは、特筆して驚くべきことではない。そして、このような努力がこれ以上Dollar Voting(ドル投票)の市場原則や利己的個人という主流の経済学的な行為者ではなく、1人1票の民主的原理、そして相互的個人と言う社会的な行為者を主体とするという点で、協同組合は大きな魅力として迫ってくる。協同組合は投資者(株主)の所有企業ではなく、事業の利用者達が出資して所有するという利用者所有の企業だ。すなわち、株式会社が投資者である株主の利益を極大化するために事業を運営するならば、協同組合は利用者である組合員の利益を極大化させるために事業体を運営する。そして株式会社は資本が中心なので、1株1票の議決権を持つが、協同組合は出資額に関係なく1人1票という人中心の議決権を持ち、民主的に運営される。したがって一般的に株式会社の実際的な意思決定が、少数の大株主によって決定されるのに対して、協同組合は多数による平等な統治が可能である。このような点から組合員の総会、または代議員総会がとても重要な機能を行使し、実際そのようにならなければ、しっかりした協同組合と言うことはできない。その反面、民主的に意思を決定しなければならないため、少数の支配的株主中心の意思決定構造よりも合意を導き出すためにより多くの時間と費用がかかる可能性があり、時には葛藤も生じえるだろう。協同組合はお金だけを供給する投資者ではなく、企業を実際利用する労働者、消費者が主人の企業だ。すなわち、組合員によって共同で所有され、また民主的に運営されなければならず、組織運営と関連して人的結合がなされている属性を持つ。組合の収益は、主として組合員の権益増進や福祉、利益分配に使用される。協同組合は目的自体が収益ではなく組合員にあるので、組合員が得ることのできる恩恵と福祉、そして銀行の金利に基づいた利益分配によって収益処理がなされる。また事業推進も構成員の共同決議によって組合員すべての福利のための事業推進として民主的に意思決定を行うことができる。
 
協同組合の運営原理を[レモンツリープロジェクト]に導入することは理想的なことだろうか。
 
今から何らかの原則を列挙して見る。自発的で開放的な顧客制度、[内部顧客]による民主的管理、[内部顧客]の経済的参与、自律と独立、教育、訓練、また情報と提供、協同組合間の協同、地域社会に対する寄与・・・。すべて良い言葉で、この内容が[レモンツリープロジェクト]の[内部文化]に装着されれば、これ以上なく良いことである。上に列挙した原則は国際協同組合連盟の7つの原則だ。[レモンツリープロジェクト]の[内部文化]は[内部顧客]が主体となって立つということだ。協同組合の原則も組合員を主体に立たせるための原則として羅列されている。
この報告書で主張していることは[レモンツリープロジェクト]を協同組合にしようということではない。しかし、[ファミリー顧客]、[内部顧客]と[内部文化]、[人間尊重]と[日常の余裕]という側面から見ると、協同組合が追求する価値と方式は、私たちが進まなければならない方向を提示しているのかもしれない。
 
[レモンツリープロジェクト]を整理するとこうだ。[レモンツリープロジェクト]の核心価値は、[人間尊重]と[日常の余裕]だ。この価値をつくるために写真館の概念を[美しさを表現し思い出を記録]する場所として設定した。[レモンツリープロジェクト]の核心価値と新しく概念を設定した写真館を作ることは、[関係]を通して成すことができる。この[関係]の結果物が[ファミリー顧客]だ。これを他の言葉で言いかえると、自立しようとする情熱と能力を持っている人々が[感動を現実に]作るために、写真とIT技術を融合し、顧客と時代が要求する写真館が[レモンツリープロジェクト]である。これは[人間尊重]と[日常の余裕]という核心価値を基盤とする。ビジョナリーカンパニー2[良い企業から偉大な企業へ]にこのような文がある。[私たちの成功要因の20%は、私たちが採択した新技術だが・・・、80%は私たちの文化でした]。以後、展開する[私たちの過程は何だろうか]の大部分の内容は[内部顧客]を主体に立てることだ。これは結局のところ[内部文化]だ。
 
3.私たちの計画は何なのか。
今、具体的な現状の話をする時がきた。観念の世界は希望を語る。楽しい時間ではあるがすぐ退屈になってしまう。現状は生きているが、その分疲弊している。希望と感動が現実で再現されるという[伝説]を期待して始めてみよう。
 
通常、計画書は時間の流れに沿って作られる。時間の流れは縦的なものだ。縦の行で続くあいだあいだに積み重なる横の行が見えない成功のカギである。縦の行は簡単に目視でき、おおよその結果は予想されている。横の行は、簡単に確認することはできないが、目標を達成させる土台を提供する。ピータードラッカーは効果的な計画の5つの要素を提示し、[放棄]、[集中]、[革新]、[リスク許容]、[分析]という5つの要素を入念に見張れと助言した。この5つの要素を利用して[私たちの計画は何なのか]に対する答えを探してみることにする。
 
[放棄]
やらなければならないことは溢れている。むしろやってはならないことに対する果敢な決断で知恵が発揮されなければならない。[放棄]するということは集中と選択が作動した結果である。私たち向かっていこうとする戦略に従って戦術を配置しなければならない。[放棄]は自己否定から始まるので難しい。自分自身を正確に見つめることで可能になることだ。私たちが行こうとする道が切実なほどに自分との戦いに妥協してはならない。妥協しながら悲劇は始まる。
 
[レモンツリープロジェクト]で放棄しなければならないことは何だろうか。
 
1つ、オーナーとリーダーの自尊心または所有欲
多くの人々と同業の形態で仕事をしてきた。ライフスタジオの加盟店オーナーとも基本的に同業の形態で仕事をしており、.withもそうだ。同業をするにおいて一番の問題は、能力に応じた主導権争いである。各自任せられた仕事に対する権限を持ってよくやれば良いのだが、それは言葉で言う程簡単なことではない。能力の差もあれば、仕事をどのように捉えるかといった観点を調節することは簡単ではない。本当はバスから降りなければならない人が同業するオーナーである場合が多く、これを認定するには多くの時間と精力を消費する。ライフスタジオでは10名以上のオーナー達がいて、それぞれのオーナーは経営能力に対するばらつきを見せた。2~3年の過程の中から[所有と経営の分離]が論議されて、ひとつの支店を所有する権利が50万円に決定した。以後、3名のオーナー達が経営から身を引きながら、現在50万円を毎月定期的に受け取っている。[所有と経営]の分離を通して、変化に適応できず、経営に復帰しようとする動きも補足される。ライフスタジオ本社は加盟店オーナー達が見せる自己合理化と根拠ない所有欲による結果を見守り、これ以上加盟店制度は行いわないという決定をした。
 
能力のないオーナーやリーダーであればあるほど周りを疲弊させる。オーナーやリーダーは絶対的な権力を持っている。何もしないことも問題だが、能力なく剣を振り回すことは、もはや災害に近いといえる。職員は役職や空間の変化を通して解決することが出来るが、オーナーやリーダーは自分で自分の居場所を探し出さなければならない。そして結果的に同業関係を整理して会社が分離される手順を踏むことになる。この過程が長ければ長いほど一緒にいる人々の苦痛はもちろんのこと、会社の資源がどうでもいいような所へ使用され、競争力を失う。
 
【レモンツリープロジェクト】のオーナーやリーダー達はどうしなければならないのか。
 
方法を提示してみることにする。同業契約を1年単位でする。【レモンツリープロジェクト】で自身がやる仕事と権利、会社運営に参与するという形態を予め明記し、それを毎年更新していくのだ。これは【レモンツリープロジェクト】を離れろと言っているのではない。自身が条件を変化させていくことが難しいため、1年単位でオーナーとリーダーの役割を論議し、契約書に明示しようということだ。均衡が吊り合っていなければ、現在の権力と地位から降りて、適切な位置を探さなければならない。1年単位で成される適切な位置探しは【レモンツリープロジェクト】の理念とも一致する部分である。オーナーが放棄するものとはつまり、つまらないプライドなのだ。
 
2つ目、人間関係から発生する問題
仕事をしていく過程で人間関係が問題を引き起こし、時には感動を届けることもある。人生と仕事は人間から始まり人間で終わる。うまく運営されている組織は人間がイシューにならない。密接な人間関係を基本として【その次】を話し合う時、組織はうまく運営される。組織に問題がある場合には、人間がいつもその主体になる。私の目の前にいる人間が問題であると見ると【その次】はその人間と話さなくなる。そして人間関係を最小化することや、問題の当事者が目の前から消え去るまで耐え忍ぶことになる。
 
人間関係に関する問題は【レモンツリープロジェクト】で放棄しなければならない1番のことだ。問題が発生したならば発生した瞬間に介入してその問題を解決しなければならない。バスから降りなければならない人は果敢に降ろさなければならない。組織が追及する目的が確かに正確に設定されていて、システムが目的に符合するものであるならば、一定の成果は達成される。ところで、一緒に働く人との間で問題が発生したとしたら、組織は硬直し、新しい挑戦は想像すらできなくなる。問題は大部分じっとしているから発生する。自身が提議すれば、それによって議論の中心に立たされ、頭の痛いことが発生しかねないから人は傍観する。問題が発生したら自身の属する勢力を探すようになり、現場は音のない銃声が響き、そこが戦場になることもある。本来それを管理しなければならない店長やオーナーも傍観する。そしてその人がただ静かに出て行けばと思うのだ。人間関係の問題は双方の過失である。
 
人間関係から発生した問題の解決方法は公開と約束しかない。
問題が発生すれば、公開して問題の原因を探し、お互いに対する配慮を約束しなければならない。
 
人間関係で発生した問題が自然に解決されたケースをほとんど見たことがない。外で見せる争いは減るかもしれないが、問題の原因は解決されるに至らない。最終的には退社をすることや、他の支店に異動することになる。問題が発生したらすぐに公開して問題の原因を探し、お互いを配慮することのできる約束をしなければならない。その約束が守られなければバスから降りなければならない。幼稚園生水準の話のようだが、これが現実だ。何か追及することが無ければ問題が発生することはない。このような組織では人間関係を一種のマニュアルとして捉えている傾向がある。機械的な人間関係を好み、問題を起こさない事業のみを追求する。【レモンツリープロジェクト】は共に追及しなければならないことだけがある。だから人間関係が重要であり、問題も多く発生することだろう。公開と約束を通して問題を積極的に解決しなければならない。私たちが放棄することは人間に対するうわべであり、やらなければならいことは、すばやい公開と約束だ。
 
3つ目、現場の犠牲で会社が大きくなるということ
会社を運営しながらいつも感じることは、規模が大きくなったからと言って現場の職員達の人生は大きく変わらないということだ。それは現場で稼いだ利益が他の場所で使用されているということを意味する。規模を拡張するためであっても、オーナーのポケットが分厚くなろうが、その利益が現場で使用されていないのは事実だ。組織は大きくならなければならないといった論理で現場が犠牲になることがないよう願っている。現場はそのままを維持しながら、会社だけは大きくなるということを誰も望まないだろう。現場で稼ぎ出した利益は現場で使用されなければならないという原則を守りたい。これが持続可能な【レモンツリープロジェクト】を作り出すことのできる方法だ。
 
【レモンツリープロジェクト】は明確な目的と主題を持っている。これが実現されるためには、現場への多くの投資が成される必要がある。また、現場で実務に関連する人以外にも、様々な人々が組み合わされる予定だ。最初、1つの支店で稼ぎ出す売上高では余裕がなくなるだろう。現場の犠牲が暗黙知になり【レモンツリープロジェクト】が成そうとする目的と関係ない組織の論議が生じえる。
 
だから提案する。支店の売り上げから10%を本社関連費用として使用する。本社関連費用としては、オーナー達の月給、ホームページとプログラム関連の費用、その他にA社とライフスタジオの職員業務に関する費用などだ。500万円の売り上げを上げたと仮定すると、50万円本社で使用できる。おそらくオーナー達の月給はひとつの支店では支給することが難しいだろう。一定期間オーナー達はA社とライフスタジオから月給を受け取るということにしよう。こうなれば2号店オープンのための資金は銀行を通して調達しなければならない。自分で稼いで、自分で返済するという形だ。
 
放棄することは現場の利益で組織を拡大することであり、得るものは現場強化を通した目的達成だ。
 
ここで投資に関する話を少ししてみよう。資本金を納入する人が会社運営に対する管理と責任を持つようになる。投資者に会社の利益をどの程度配当するのかに対する合意がなければならない。まず投資者が必要なのかに対する論議がなければならず、銀行借り入れだけで可能な部分なのかを確かめなければならない。支店で稼いだ利益の分配と先行投資が成された部分に対する状況は、誰が所有権を持つことになるのか話合わなければならない。この部分は次回、詳しく考えてみよう。
 
4つ目、機械的な店舗拡大
1号店をオープンして約6カ月が経ち、売上がプラスの信号を送る頃に、オーナー達の頭の中には2号店に対する誘惑が始まる。誘惑が生じる理由はさまざまに分けることができるが、だいたい【自身ができる仕事】だからだ。電車で騒ぐ人をうるさいといって叩くこともできるが、叩くことはない。自身ができる仕事だと言って店舗をオープンして韓国で失敗した。
 
【レモンツリープロジェクト】が2号店をオープンすることのできる条件とは何だろうか。
 
まず売り上げは心配しない。始まりと共に損益分岐は越えることができる。1号店の売り上げが良好であるからと言ってオープンしなければならないのか。次にオープンする店舗の資金が準備できたら、店舗拡大をしてもいいのか。店舗拡大の速度を調節することが【レモンツリープロジェクト】が成功する基盤となる。特別な基準のない経営陣のポスト創出の店舗拡大は失敗へと向かう近道だ。店舗拡大の基準は【レモンツリープロジェクト】の目的と連動して設定されなければならない。
 
基準は【ファミリー顧客】のような気がする。上でも取り上げたように【レモンツリープロジェクト】がうまくいっているのかを判断する唯一の結果物が【ファミリー顧客】だ。具体的には【ファミリー顧客】に対する設計と実行により、有無形の結果が出たと確認された時、2号店オープンの準備をすることが【レモンツリープロジェクト】の内部文化に合った方式だ。このようになれば、3号店オープンも2号店で【ファミリー顧客】が作られたのちに成されなければならない。もし基準が【ファミリー顧客】になれば、【530プロジェクト】は忙しくなるだろう。なので、これからの6カ月が重要だ。
 
私たちが放棄することは店舗拡大に対する誘惑だ。売り上げが安定的で、銀行を通した資金確保が大丈夫な状況で、店舗拡大の誘惑を振り切ることは容易なことではない。だから今書いている。【ファミリー顧客】が作られる構造と結果が出てくるまでは、店舗拡大を放棄する。
 
この4つ以外にも放棄することは散在している。しかし、なかったことを新しく作り出すよりも、むしろあるものを放棄することの方が難しい。【放棄】は目的地に向かうための組織を最適化しようとする意思だ。
やらなければならないことに先んじて、やってはならないこと、やっていることから中止しなければならないこと、もう繰り返してはならないことに対する論議を日常化しよう。
 
【集中】
私の立場から【レモンツリープロジェクト】は、ライフスタジオが歩んできた試行錯誤の結果を踏み台に、跳躍しようとする苦闘である。【レモンツリープロジェクト】とライフスタジオは互いに違う別の組織や事業ではない。条件を変化してライフスタジオがやろうとする目的と主題を実践することが【レモンツリープロジェクト】だ。ライフスタジオを代表として役割を担ったのであって、私個人が行う別の事業ではない。したがって集中しなければならない仕事は、ライフスタジオでやろうとしたが達成できなかったことになるだろう。
 
では、何に集中しなければならないのか。
 
【人間尊重】、【日常の余裕】、【関係】の結果物が【ファミリー顧客】だ。【レモンツリープロジェクト】の核心価値が現実で再現される具体的な形態が、【ファミリー顧客】だ。【ファミリー顧客】に集中することが自然で正しい道だ。ライフスタジオで【ファミリー顧客】に対する実験を一度したことがある。支店が4∼5個ほどになった時、ナミを中心に熱狂する顧客と職員達が集まりながら【ラサモ】という組織を作った。【ラサモ】は【ライフスタジオを愛する集まり】の略語だ。組織が続くためには信念と具体的な活動が必要だが、【ラサモ】も間違いなく限界が迫ってくるにつれて、徐々に熱気を失っていった。各支店でも熱心なファンとの集まりは断続的になされているが、組織化された集まりを見つけることは難しい。
 
【ファミリー顧客】の中心は【内部顧客】だ。【内部顧客】を中心に【ファミリー顧客】が集まって信念と具体的な活動を展開しなければならない。【ファミリー顧客】に対するおおよその輪郭を説明しよう。
 
撮影者【大内】がいるとしよう。大内は人と会うことを好み、自分自身に対する自負心も持っている。また、【レモンツリープロジェクト】の目的と主題を達成することを自身の信念として考えている仲間だ。1号店がオープンして1年にだいたい5、600名の顧客を撮影する。その中に胸が温かくなる感じと言葉が通じる人が50名程いる。【美しさを表現して思い出を記録】するフォトエッセイを作成し、ホームページとFacebookにアップして、顧客にも心を込めてメールを送る。その50名の顧客達とは電話での通話はもちろんのこと、スタジオ、公園、その他にも不定期な集まりを持つ。約1年余りの過程で出会った人と写真、エッセイを集めて本につづり、小さい展示会も開催する。顧客達を招待して、本をプレゼントとして渡しながら、自身の1年を総括する。この程度になればフォトエッセイを構成する50名程を【ファミリー顧客】ということができる。ここまでは組織が支えて、撮影者本人が努力すれば可能なことだ。ところで、その1年後が重要になるのだが、【ファミリー顧客】との関係を持続することのできる線の太いテーマが必要だ。いくつか方法を提示してみる。
 
まず、クラウドソーシング方式だ。スタジオオープンの時からインテリアはもちろんのこと、自身のアイデアと時間を提供して参与することだ。参与については今流行している組合通貨のように別の価値の測定基準を作り、それに相当する撮影や商品の提供を受けることができる。オープン後にもスタジオでの小さな行事や毎月の運営会議を組織することが出来る。
 
第二に、[ファミリー顧客]を作ることができる撮影者は、1つのブランドとスタジオを運営することができる資格と能力があると判断される。その撮影者に自身のスタジオをオープンすることができる権限を与える。 【レモンツリープロジェクト]が所有権を持ち、撮影者はブランドを所有し運営する。自身の[ファミリー顧客]と共に写真館をオープンするということは、[レモンツリープロジェクト]の目的とテーマを現実に実践することである。
第三に、[ファミリー顧客】がファンクラブに発展した形態である。撮影者の個人的な魅力と顧客の熱狂が結合すると、[ファミリー顧客]の力で写真館をオープンする。協同組合の形態をとることもでき、クラウドファンディング方式でもできる。 [ファミリー顧客】この一人当り10万円程度を出資をして50人が参加すると500万円のシードマネーで写真館オープンを始めることができる。
第四に、[レモンツリープロジェクト]の[ファミリー顧客]の皆と[写真フェスティバル]を毎年2回開催する。一つの場所で一緒に食べて飲んで楽しみながら一日を過ごす。この過程で、写真が作られ、撮影の結果として5年の長期的なプロジェクトを企画する。ライフスタジオでも、顧客とのバーベキューパーティーなどを非定期的にしているが、なぜか一過性で終わってしまう。 [ファミリー顧客]と定期的に会って写真を残して、その写真を活用して、何か素晴らしいプロジェクトを作るならば、[レモンツリープロジェクト]を象徴する何かが作られるような感じである。この点で、A社がこれまで磨き上げてきた技術に期待する点がある。
この他にも【ファミリー顧客]に集中すれば、数百、数千のアイデアと共に[伝説]を作ることができる。ところが、このような疑問が浮かぶかもしれない。
[ファミリー顧客]という目標にここまでこだわる必要がある理由があるのか​​?
すれば良いかもしれないが、しなくてもいいのではないか、そうでなければ決定的な衝撃になるだろうか?
目的と目標は若干異なっている。目的は、ある仕事をするにあたって、まず考慮することは、なぜその仕事を行おうとするのか?その理由が、[目的]である。目標は、目的を達成するために具体的にしなければならないものたちである。ある仕事をするときに、究極的な理由となるのが、[目的]で、目的を達成しようと志向する対象と手段、方法等が[目標]となる。だから[目的]は、価値志向性であり、[目標]は、具体的で定量化された設定値である。 【レモンツリープロジェクト]の目的は、[人間尊重]と[日常の余裕]、[関係]である。
この目的を達成するための目標は何に設定しなければならないだろうか?通常の場合、世界に一つだけの写真、写真を感動に、私の友人であるかのような写真館などを述べている。このような目的は、非常に観念的であり、具体的で定量化された設定値を付与することは難しい。不可能に近い。現実の中で最もしたいことや困っていることを聞いてみれば十のうち九は、人間関係を述べている。
それほど切実ながら難しい部分である。 [ファミリー顧客]は、既存の固定観念では越えられないことでありながら、一方では、偉大な事である。 [ファミリー顧客]を可能にする為には[内部顧客]が主体に立たなければならない。 [内部顧客]が主体に立ったときに出てくることができる最高の形が[ファミリー顧客]である。 [ファミリー顧客]が真に[感動をかたちに]する具体的で達成可能な目標である。
【レモンツリープロジェクト]の目的を達成するための効果的な方法であり、[内部顧客]に最も現実的な問題である。具体的で計量化することができる目標である[ファミリー顧客]に集中するのは極めて合理的な結論である。
[革新]
革新とは何かを完全に変えることをいう。 【レモンツリープロジェクト]が日本の写真市場から完全に変えようとするのは何であるか?
3つのテーマがある。人間、写真、システム...。人間は、上記の話した[ファミリー顧客]であり、ここでは写真とシステムの話をしてみよう。
撮影をしながら、常に苦しくて何かが詰まっている感覚を捨てることができない。撮影のための条件を作ることまではいいが写真も作ったという印象が残っている。サンプル撮影は、私たちができる最高の写真を作らなければならないことを条件に出発するため、既存の写真とは違った印象を与えてしまう。しかし、日常的に繰り返される撮影は、時間の経過とともに図式化される傾向を示す。決められた場所で衣装だけ変わって、誰にでも同じ撮影が行われる。写真が下降平準化される。被写体ごとの美しさと個性を示すことができる撮影条件が写真における革新である。
写真にとって空間は絶対である。ご飯にとって米といわれるほどに撮影が行われる空間に写真は依存するしかない。陽が西から上がることができないように、自然光は正確に定められた空間に光を下ろす。一度決められたインテリアを変えることにも限界がある。継続的に環境と条件の変化のためにアイデアを出しもするが、偶然発見した人形を交換する程度の水準を抜け出せない。人工照明もそう多様ではない。
適応段階を過ぎれば三脚に車輪があっても固定式で使用される。意欲的に始めた写真の変化も時間の経過しながら固定された写真のみを作ることしかできない構造だ。同じ場所で6ヶ月程度の撮影をした撮影者たちから出てくる話は似ている。新しさに対する渇きがあるだけに飽きているので、新しさへの欲求を押しこみ、段々と機械に変わっていく自身を発見する。
写真の技術革新のための一つのアイデアを思い付いた。 [状況劇]である。状況劇と演劇用語として二つの意味で使われる。まず、[寸劇]または[幕間劇]のように演劇の一形態を指す言葉だ。文字通りとある状況 - 特定空間と時間の上で繰り広げられる事件にフォーカスを合わせて、その状況自体をそのまま撮り出すかのように舞台に写し出す劇の形態をいう。第二に、心理療法や演劇治療に使われる言葉で、演劇の参加者にとある状況を投げ、その状況に応じた即興的な反応を介して演劇を進めていくことをいう。
【レモンツリープロジェクト]の写真のコンセプトは、[日常]である。 8歳の子供は、母親が起こすと起きながら目こすって顔を洗って、うがいしてご飯食べて鞄を背負い挨拶して学校に通う。休みの日、会社員は遅く起き水を飲んでTVを少し見たあと約束の時間に合わせ化粧して何の服を着ていくか悩んで靴を履く。友達と一緒に家でお酒飲む為に料理をしてキャンドルで雰囲気を作ってお酒のボトルを用意してプレゼントをあげたり、友人の言葉を真面目に聞いていたかと思えば歌いもする。このように、被写体に状況と条件を付与し、これを自然に演技することができるように誘導する。簡単には、誰もが知っている水を飲むの広告の一場面を説明して水だけを飲むようにしながら、少しずつ難易度を上げていけばよい。撮影者がすべきことは、さまざまなシナリオの開発だ。
ほとんどの撮影は決められた空間でポーズを作り、撮影者は、被写体の美しさを探しまわる形をとる。 [状況劇]は、定められた空間と役割を付与し、被写体が自らの演技をする。決定的な違いは、被写体が自ら自身の体と心を動かすように作る動機にある。撮影者が主導的な仕事をしたならば、[状況劇]は被写体が主人公である。
撮影者は、監督や脚本家であり、撮影者は俳優になる一種の遊びである。モデル撮影がだいたいこのような形態で行われる。大体の状況と役割、イメージ、ポイントを説明すればモデルがその枠組みの中で自分自身を表現する。カメラマンは引き続き枠組みを提供し、モデルはその状況に入り込んで演技をする。だから、モデルの写真たちは自然に出てくる。一般人がモデルのように勝手にポーズをとれないので仕方ないと抗弁する撮影者が多い。
もちろん、一般の人を自然にモデルのように撮影することは困難である。しかし、状況を説明し、条件を作ってあげれば概ね似たようにはする。撮影者の能力は似通っていることを美しくする点において必要である。ほとんどの撮影者は、似通わせることさえ困難である。だから写真に特徴がなく、偶然引っかかった自然感に狂奔する。 [状況劇]が​​可能になる為には撮影者に多くの能力が要求される。被写体をはじめ、撮影空間の構成要素の完全なコントロールを必要とする。シナリオもなければならず起こることの予測も可能であり、被写体が撮影形態に対する同意と行動を導かなければならない。ところが一方では、表現に対する相当部分を被写体に依存することにより、撮影者が作らなければならない条件変化への負担を軽減することができる。
これまで撮影教育に関する理論が多様に提示されてきた。空間撮影、写真分析、良い習慣の共有等...
2012年初めに作成された撮影者の変化発展プログラム[ダルシクE]というレポートにこんな文がある。
[これは違う] [では何なのか?] それらに対する絶え間ない質問
能動的な道探しを通じて写真の構成要素に自分のDNAを注入する
人の中に短い時間内に深く入ること
撮影者と顧客、皆が望む状況を作る能力
探すことから条件を作ることへの転換
持続的であり、現実的で具体的でなければならないこと
自ら自然にならなければならないということ…
被写体と撮影者が自由になれる空間を利用
これら全てのものを合わせることができる撮影者の変化発展プログラムは何か?
だから出てきた。[ダルシックイ―]
この文章を見ると、[状況劇]が​​[レモンツリープロジェクト]で、[ダルシクE]を再び復活させることができるのではないかと期待してみる。 [状況劇]の最大の特徴は、写真の能動性にある。通常の撮影では、背景とは関係のないポーズを撮影者が捜し求めする形態である。 [状況劇]は、事前に撮影者の意図が介入しなければならない。つまりシナリオがなければならない。撮影者の想像力と伝える力が結合して、被写体が作り出す能動的な姿を撮影者が発見するということ自体が、一般人を対象に撮影する写真館で写真の技術革新を可能にすることができないだろうか?
もう一つの特徴は、[レモンツリープロジェクト]の写真のコンセプトである[日常]と接続されている部分が多い。 [誰もが想像していた私たちの家]という空間で、自身が日常的にしていた行為が美しく写真に作られるためには、加工の臭いを最小化させる必要がある。 [日常の美しさ]を表現するためには、被写体の能動的な表現を最大化させる必要がある。手の形までいちいち指摘する形では不可能である。既存の撮影モードで2-30%が日常の美しさのために使用され、その中に[状況劇]を使用していくつかの写真は自然に表現されるならば、その程度だけでも革新ではないだろうかと考える。
第二に、システムにおける技術革新は、IT。
草加には数十年は優に超えたようなせんべい菓子店が多い。歴史と伝統をそのまま大事にしている菓子店を見ると様々な感情が交差する。日本の写真館もこのようなお店と大きく変わらない。写真館は依然として自営業に留まっている。経営というより運営に近い。写真館での革新が出ずに数十年前の運用方法で維持されている理由もここにある。地域で長い間運営された小売店がコンビニの登場で没落した。私たちの生活に必要な商品やサービスの大部分をコンビニエンスストアがカバーしている。コンビニがチェーン化して競争が深化し、その分、本社の従業員が各種の調査研究を介して革新を成さなければ生き残れない構造である。
写真館は、誰かと特別に競争することなく、時代を追って行くことに汲々である。このような環境では、システムの技術革新は、作られるのは難しい。いまだに紙に始まり紙で終わる写真館も多い。写真もそうだが、システムはなおさらである。ライフスタジオもシステムを作成しようとあれこれを試みたが特別なことはない。時代を先行するいうより時代を追って行くことに汲汲な写真館市場に[A社]が登場しようとしている。お願いします。写真館システムの革新を............。.
 
[危険甘受]
「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。。鳥は神に飛んでいく。神の名前はアプラクサス」
ヘルマンヘッセの[デミアン]に出てくる有名な言葉で出てくる有名な言葉だ。世界の全てのことには「魔の区間」が存在する。自然に出てこようとする者は一つの世界を破壊しなければならない。卵を破ろうとする瞬間自身が持っている全てのエネルギーを使用する。旧世界を維持していた秩序が検証される瞬間に[危険]は訪れ [甘受]できるかを試される. [危険甘受]は 怠惰と弁明に一貫された私たちの人生に選択を強要する苦痛である。この苦痛を経なければ自然に殻を破って出てくるということを知るために自らに起因して【レモンツリープロジェクト】を作った理由だ。
[レモンツリープロジェクト]が危機に陥るかもしれない条件は[通念の反復]だ。通念とは一般的に広く知られている考えのことだ。私たちはある基準と枠によって支配を受けながら生活している。卵がもたらしてくれる安定によって人生を営むことができる。しかし、私の体と心が大きくなるにつれて既存の卵は相対的に小さくなる。不便で卵の変化を求めるが、誰も卵を孵すことはできない。自分自身で孵化するしかないのだ。
小説の[マンダラ]にこのような話がある。師匠が弟子に籠の中の鳥を飛ばす方法を探るようにした。籠は鳥が飛べないくらいに小さく、鳥が飛ぼうとすれば外に出なければならないのだが、それにしては籠の出入り口が狭い。しかし、師匠は籠を壊してはならないとは言わなかった。[通念]は籠と鳥を不変の定数とすることを言う。自身に与えられた条件を変えることが出来ないが故に、それが自分を拘束することになる。
 
[写真館]という有機体を眺める私たちはどのような通念を持っているのだろうか。
 
1つ目、決定権は誰にあるのか。
知らず知らずの内に私たちの周りは契約書であふれている。土地の所有権に関する契約書には1ミリの誤差も内容にするため、正確な数字が記載されている。私たちがよくやる会員登録にしても、数十枚の利用規約に同意して、お互いの権利と責任について明確な区分を必要とする。しかし、仕事においてはそうすることはできない。顧客が水を飲みたいからと言って、それをいつ、どこで、誰が、何を、どのようにしなければならないと明示することはできない。顧客に提供する水を季節ごとに温度の範囲を決めて、わずかな時間の内に、あるコップにある程度の水を誰が与えなければならないということに対する仕事の範囲を決めることは不可能だ。
 
大部分の人が役割を分担された時、自身が下す決定権がどこまで可能であるかを聞いてくる。全てのことに関して決定権を与えると言えば、その場では分かりましたと返答する。そして後になって仕事が上手くいかなくなった時、いつも出てくる言葉が[私は決定権をもっているのだろうか]である。決定権がないというよりも決定を下すことが何なのかを知らないのだ。そして決定を下すことは自然と一人の人に集まるようになり、各自は自身を委縮させるという悪循環が繰り返される。
 
経営者は決定を下し、職員は決定事項を遂行するという通念は現実において強力な力を発揮する。大部分の決定権は全ての人にあるものだ。その権利を行使しないだけなのである。そして卵を維持するための能力は少しずつ大きくなると同時に、卵を割る能力は退化する。[レモンツリープロジェクト]の[内部文化]は[内部顧客]が主体になることだ。主体になるための一連のシステムと行動が[内部文化]として位置を占めなければならない。主体になる過程での決定権は、過程と結果の全てに基づいた荷札に該当する。決定を下せない理由は決定を下す内容を知らないか、決定を下し展開された後の嵐を恐れのせいだ。
 
このような決定権に対する通念を壊す方法はたった一つである。
 
現場の決定権は現場の人々に与え、待たなければならない。
現場の決定権を現場の人々に与えると言って[決定権]の問題が解決されるわけではない。見えざる手が作動し、決定した内容に対する十分な合意も成されなければならず、吹き荒れる風を防ぐ必要もある。子供たちのいたずらのような決定とそれによって予想される結果までを待つということも本当に苦役である。だから[リスクの許容]が必要なのだ。
 
おそらく決定権に対する[リスクの許容]が難しい人が私だろう。自惚れの結晶体である私は、行き詰った感の漂う現場を見逃すことができない。だからよく現場に介入し、決定権を乱用した。また、A社とライフスタジオは決定権の行使に関する組織文化が違うことだろう。
 
[決定権]を現場の人に与えるということはマニュアルで定めたことよりも何百倍もきついことだ。それほど[内部顧客]が主体に立つということが難しいことならば、それが私たちの周囲で成功事例を見つけることができない理由でもある。特別な方法はない。現場の決定権は現場の人々に与えて待つしかない。その現場の人々が正に[レモンツリープロジェクト]の目的だからだ。
 
2つ目に、[ファミリー顧客]に関する内容だ。
私たちの目標が[ファミリー顧客]に設定されたならば、おそらく想像できないいくつものアイデアと政策が出てくることだろう。また、[ファミリー顧客]事業を難しいと考える構成員が多くなり、悲観的な展望と共に方向転換に対する話が出てくるかもしれない。[日常の余裕]と[ファミリー顧客]が衝突しながら、未来に対する不確実性が増すことだろう。この時、[リスクの許容]を適用したならば、多くの人間が退社するという事態が起こりうるし、同業関係に亀裂が生まれるかもしれない。マニュアルに慣れた人、人との関係が一番怖い人、写真に関心はあるが[ファミリー顧客]は思いもよらなかったという人、業務や写真はしっかりできているのに、[ファミリー顧客]では頭角を伸ばせない人の不満などなど。
 
[ファミリー顧客]事業は、自然にできあがるものではない。近所でガキ大将を作ることよりも難しいことだ。なぜ実現不可能なことなのかといえば、仕事には順序があるのに、基準をとても高く設けたことによってしくじったという抗議が吹き荒れるかもしれない。
 
ところが、一度こう考えてみよう。なぜ生きるのかと聞くと、ほとんどの人は幸せや愛を語る。幸せな人生という目的を達成するために写真館に入社する。写真館で仕事をしたら幸せなのか?どれくらい幸せなのか?幸せでなければ、写真館で仕事をすることがそんなにも実現不可能なことで、基準を高くしすぎた結果なのだろうか? [レモンツリープロジェクト]の目的を設定する過程で、人生の方向と態度に対する話をし、[人間尊重]と[日常の余裕]という結果物を導出した。目標は達成可能でなければならない。達成可能とするためには、まず生活の方向と態度が基本条件でなければならない。 【人間尊重】と【日常の余裕]は、目標を達成するための背景であり結果である。 [ファミリー顧客]は達成可能であるため目標として設定する。人、性別、年齢、背景、関心、趣味、好みに応じて[ファミリー顧客]が作られる形はさまざまだろう。持続的に事業を展開すると、いつかは作られる。時間と幅は人によって異なる。問題は放棄しないこと、この道が間違っていなかったという信念に対する確信が重要である。 [リスクの許容]という面でも[ファミリー顧客]は絶対に捨てられない事業である。この事業がなくなるということは、[レモンツリープロジェクト]を維持する理由が写真だということと同じだ。 [ファミリー顧客]における[リスクの許容]は、自分の限界の前で簡単に頭を下げる習慣と言い訳の拡散である。 [ファミリー顧客】がこの[レモンツリープロジェクト]の運命を決定することであり、[伝説]を可能にする目標である。したがって、[ファミリー顧客]を作る際の[リスクの許容]は必ず通過しなければならない過程である。
 
第三に、誰が[ライ麦畑でつかまえて]になるのだろうか?
 [ザリガニは蟹と]ということわざがある。ザリガニやカニはお互いの顔を見たこともないし、気にも止めない関係だが、それでも形が似ているので同じ条件であれば、縁が少しでもあるところに情がいくという言葉だ。これは言い換えれば、同じ空間と条件の中にいると、客観性を失ってしまうことがある。失敗は無知からくることもあるが、成功の記憶を一般化させてくる場合が多い。 [レモンツリープロジェクト]は、達成可能な目標であるが、多くの障害が待っている。障害物をかき分けて前に出て方向感覚を失っても慣性によって方向に固執する。目の前の絶壁があるのも知らずに前に進む私達に、誰かはライ麦畑を守って叫ばなければならない。誰が、何が、どのように?
普通の経営診断や監査、リスク管理などの表現を使う。項目を定めて定期的に管理する。
ライフスタジオは、会社のリスクを管理するシステムを持っていない。知らないし、実行の経験もない。一緒に集まって会議をし、その場しのぎ的な方法だけで免れてきていた。また今浮かぶアイデアもない。A社の能力を信じて見るだけだ。