レポートReport

2013年体制 4大原則解説-2

2015/12/16

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. 責任と権限
 
1. 責任と権限の定義
 
価値を作り出す責任,
価値を共有する権限
 
 
周りから[何かをしたい]という言葉を頻繁に聞く。
 
特別に何かをしたいと思うことがなく、あちこちと生きてきた私としては何かをしたいという人の言葉を聞けば不思議でもあり、何か、ばつが悪く感じられる。
 
それは本当にしたいことなのだろうか?
 
したいことをしないようにする原因を知っているのだろうか?
 
したいことは、現在していないことであり、今後もするようには見えないが......
 
人の悩み相談や今後の計画について話をしてみると、[何をしたいということ]が先頭に常に登場する。したいことがあるが、様々な理由でできないとか、したいことをまだ見つかっていないため、現在している事をするという論理に連結される。やりたいことの質問と回答が繰り返され、実体に接近すればするほど、「すべきことを、しなければならない」という結論に到達する。「すべきこと」というものは何も大したことではない。しかし、「すべきこと」が、一つ、二つと抜け落ちながら、やりたいことと関係なく、そのままの現実を維持していく。段々周りを苦しめ、多くの事件を作り出しながら、暗いトンネルを出てくる頃には、また「何かをしたい」と言う。このような具合の話が多いため、いつからか、「したいことと、すべきこと」との関係についての理論が生まれた。
 
【やりたいことをすることに優先、すべきことをしなければならない]
[すべきことをしてみると、それがしたいことになる]
 
そのような代表的な話が写真と人間に関する物語である。
 
写真撮影が楽しく顧客と会うことに意味を付与する話が出てくるときは、その人は本当に写真撮影の喜びを感じるのだろうかという疑心が生まれる。ここで写真をやりたいということは、100個中1個ではなく、したい事のほとんどを占めていることを指す。何かをしたいということ自体もそうだが、特に写真に対する楽しさを聞いていると、気持ちよくその意味が伝わってこない。私にとって写真は、[すべきこと]の種類のものであって、私を評価する基準であった。まだ写真が私にとって本当の意味で近づいては来ておらず、黙々とそれを探していく種類のものである。もちろん、写真が私に最初に近づいてきたときにはしたいことであった。写真は私の頭の中にただ浮かびあがり、したいという一種のモチベーションが生じ、カメラを買って写真館に入社をした。しかし、写真という世界に入ってきた瞬間、全く予想だにしていないことが、私の前に待っていた。これは「私が思っていた写真と違う」という否定の意味よりは、「写真は、こういうものなのか!」を知るようになる過程の連続である。私が知っていた写真が1であれば、わからないことが100万個ぐらいにはなった。
 
世の中のすべての事がそうではないだろうか?
 
私が知っていて、それをしたいと話すことと関係なく、私が知らず、すべきことをする日の連続が「生」ではないか?
 
だから、まだ写真の本当の意味を知らない私にとって写真はしなければならない日の連続である。
 
もし写真撮影の楽しさを話している人からの写真への情熱や努力を見たなら、話は少し変わることもある。世界のすべてのものは、それぞれに与えられた目的と、特定の条件が会えば価値を発揮する。そして、私たちは写真館で青春を送っている。写真で悩み自分自身を投影して実験する過程は、見る人を感動させられる程の仕事である。そして写真が、その価値があることを確認する作業も写真を生業にしている人には、どう見れば必ず必要な部分である。
ところが、問題は、そのようにしている人を見たことがないということだ。
 
今すぐ頭の中に思い浮かべてみてもない。提示された条件で[細心の注意]程度はあったとしてもわずかな違いを克服しようとする激しい情熱は記憶にはない。当たり前にすることくらいをすることでは、自分自身だけでなく周囲を動かすことはできない。したがって、変化や発展もない。
 
写真をしたいとえて、これを拡大して、それをしているとえているのは、
実際にしているというよりは、そうじたいのではないのか?
しているとじて、本当重要なことを放置しているのではないだろうか?
まで撮影者観察した結果は、ほとんどしたいとってしているとじながら
本質的に、根源的接近することに対抗する性格っているということだ。
[今日昼食はべようか?] をむからと、美食家になることとは違うだろう?
写真をしたいといながら[今日昼食何食べようか?]程度のレベルをられない
理由だろうか?
 
少なくない時間の間写真に対する教育をしてきた。様々な事をして見ながら今まで整理されたことは写真や撮影技術の向上する方法は写真分析と条件変化, 二つだ.。写真を分析しないで, 条件を変化させない状態で撮影のために座って立って寝そべってを数万回繰り返すからといってすべてのものが分かることはできない。 むしろ繰り返された経験だけではわからないその何かが写真においては本質にもっと近い場合が多い.。写真分析は文が核心ではない.。似たように撮影される空間を積極的に見つめてみると関係, 雰囲気, 日程のパターン, 変化, 技術, 性向, 感情, 動きが見える。 共通的に使う方法とその理由, そして誰も行って見ない道を捜す作業は写真分析が一番効果的だ。 一般人を対象にする写真館はいつも同じ条件で撮影が成り立つから写真分析の形態として文が一番経済的だ. それで写真分析の手始めを文としてしなさいという話だった.。全体を見る目が生ずるということはただ撮影をもうちょっと上手になるということのみを意味しない.。安定感とともにその次を思う余裕が核心だ。 写真において終着駅はない。 ただ約束時間に遅くて時計を眺める焦燥に行くはか、 ではなければ外の風景を見ながら余裕のあるように人生を対するかに関する事なのだ.。そして条件変化は写真の原理と合っている。写真は創造と言うよりは発見だ.。発見されるその所に行かなければならない宿命とも同じだ.。条件変化は見えなかったことも自ずから見えるようにする側面もあるが条件を変化させようとする意志で発生するエネルギーが重要だ。ヒマラヤへ行って目の前に開かれる荘厳な自然を見つけて写真を撮影するよりはヒマラヤまで行くようにする私の意志が重要なのだ。ヒマラヤまで行くことで大部分はたされたようなものである。 写真は私たちの生と触れ合っていて人生の知恵を写真を通じる条件変化で得ることができる。 このように写真をやりたいというのはこんな過程の中で分かるようになるその何に対する渇望であるだろう。 [写真分析] もしないで [条件変化]もしないのに写真をしたいと言うということは写真をしたいというのではない他の何かがひそんでいる.
 
顧客との出会いに対する話はもっと理解ができない部分である。 特に [2013年体制]に関する話をする時顧客との出会いの時間が減ることを心配する人々もいた.。じっと考えて見れば写真館のスタッフたちは峠の位置にある。 顧客たちは私たちが提示した情報のみを受けることができるしその範囲中で選択をしなければならない。そして撮影の特性上、私たちが主導的にサービスを提供する。顧客は私たちが設定したシステム中で動いて私たちは数百回同じ空間と時間の内で繰り返し熟逹する。 顧客が私たちを全面的に信頼することは当たり前なのだ。 撮影者たちが持っている有利な条件で顧客と撮影者の満足度は高く出る可能性が高くなって日ごろの人間関係とは違うその何なのかを感じことができる。 これは一種の権力とも言うことができる。 自分が持っている権力を使うことができる空間として顧客との関係が形成されるから対等な関係で感じることができない自分の主導性が発揮されたりする。
 
果してそれで真正な人間関係形成に対する不当さが消えると思うことは正常か?
 
この間あった本社会議でこんな質問をした。 [ライフスタジオで今一番必要なことは何でしょうか? ] 大部分の人々は人間関係に関する話をした。 一緒に働く人々ともうちょっと疏通してお互いをもっと分かって行こうという内容だった。しかし質問の要旨はライフスタジオを全体的に見た時現在一番弱い部分に対するものだったが十に九つは一緒に働く人々との関係形成がうまくできないとか問題が発生して苦しがっているという返事たちだった。 顧客との関係とともに働く仲間との関係も人間という共通分母を持っているのに現実は正反対の結果を見せる。
 
顧客との関係一番楽しいといながら一緒仲間との関係
一番苦しがるこの矛盾的状況をどんなに説明しなければならないか?
 
人間関係をよく結ぶ方法よりは人間関係自体に関する悩みの手始めでくるくる回わっている感じだ。 一緒に働く人々の中に深く入って行く以前に日常的な業務の中でますます壁たちが発生するようになって争いや問題なしに生活するのが基準になってしまう状況たちが繰り返されて強化されてしまう。 気に入らない人と大部分の時間を一緒に過ごさなければならないことは監獄とも同じなのによく堪えながら生きて行っている. 人との真正な出会いに喉が渇いているがいざ我々の周りで真正な人間関係を結んでいるとかそうしている人を見るのが難しい。この間カンヒとの対話で自分をまた捜してくれる顧客がただ一人もいなかったと言う。そのように良い位置にありながらもまた出会いを願う顧客がいないというのは結局自分ばかりの満足で人間関係が形成されるというのだ。この問題がカンヒにだけ起る現象であろうか?
 
写真人間でも なにかをしたいとうがいざ写真してかをする,
人間する真摯接近をするがいないということは意味するのか?
 
このように表現して見るのはどうだろう。
 
人々は刹那的喜びを感じる。1分でも10分でも持続するのではない瞬間的に感じる新しい感情がある。 毎日見ている人だがどの瞬間にその人が理性で感じられるその瞬間のようにすぐ忘れることができないし長い余韻を残すそんな瞬間がある。その感じをまた持つために私たちは捜し回ったりする。写真撮影をして見ればカメラのやや小い穴と見える世界と私が一致する瞬間を経験するようになる。瞬間私の体の中にいるすべての細胞たちが電気刺激を受けたように作動しながら私が生きているという感じを受ける。麻薬とも同じそのぴりっとする経験は撮影行為を長続く根源で作動する。人間関係もまったく同じ経験が起きる。私たちは搖れる。自分の内部でわからない力が作動をして私の意志と関係なく搖れる。 そして深刻になる。 その知ることの出来ないものから来る搖れは治療薬を捜すのが手に余る。 それで周辺の人々に腹を立てたりぼうぜんと TVのみを見つめるようにする。 そうするうちにその振動の停止する瞬間がある。まさに私と一緒に搖れる人に会った時だ。私の存在を確認することができるようにする私ではない他の人間との会う。写真と人間関係を [したく] 作る理由はさまざまがあるが瞬間的に感じられる忘れることができない感情とまた会いたい欲望のためかも知れない。その欲望や感じは良いものだ。 いやいいというよりはすごく人間的だ.
 
しかし問題はそのじが意志とは関係なくるということだ。
 
もし私がサッカーが好きだからといって全身の戦慄が来る感じの競技を毎回期待することはできない。偶然な機会に尋ねて来るサッカーの妙味は瞬間でそれを待つ毎瞬間がサッカーを楽しむ前提にならなければならない。 それで楽しむ人を勝つことができないと言わないか? 映画もそうで本もそうだ。 私の脳裏に刻印される映画は 100余作品位を考えなしに見ている途中偶然に発見される。その偶然は必至であるだろう。 映画を楽しんでみると毎年帰って来る誕生日とも一緒にいつかは尋ねて来る特別な贈り物みたいなのだ。一年にその刹那的瞬間が一度来ると言って映画が見たいと思わない。 映画は人生の中に一部分に定着されているのだ。その段階になるようになれば誰がするなと言っても見る。本も同じだ。 この前までは他人に知識を誇示するとか無識だという話を聞かないために読書をした。
それで人々に読書をしたいと言ったようなものだ。ところが今は読書をしたいと言わない。 そのまま自然になされるのだ。 読書が持つさまざまな機能たちが作用する。そうしたどの瞬間に [瞬間]がおとづれる。既存の観念を崩してしまうそんな経験をするようになる。 その経験のためにするのではないがやっぱり特別な贈り物になる。 すなわち私たちは家の中に一人でいるのにトイレに行きたいと言わない。 本や映画も同じだ。
 
写真をしたい, 人間と会いたいという心は現実で成り立つことができない漠然たる考えから出る言葉である可能性が高く見える。それではすれば良いのにどうしてできないのだろう?
 
私たちはいつも計画を立てる。 したいことができるようにするために悲壮な覚悟とともにある程度は行動で移す。 計画というのは大部分したいよりはしなければならないものなどであることは毎月上って来る個人報告書を見ればよく分かる。 仕事が成されるなるために確認して会議して時にはいやな話もしなければならない。 このすべてのものなどはしたい仕事ではない、しなければならない仕事だ。
 
しなければならない仕事をしてればがしたい[瞬間]瞬間
その過程されてみると全体的にしたいをしているつけることができる
 
このように答えて見ると言葉になってういるだろうか。
 
しなければならないことは責任、したいことは権限
 
これから言葉を作ってみよう。
経済的自立を例に取って見よう。
 
経済的自立と言えば現在自分の月給が 2-3倍位になることを想像する。 [月給が 100万円位になれば経済的自立だと言えないか? ] 100万円を受けたら経済的自立とは構わないということが分かるようになった。 少し経てば 100万円は当たり前なことで次には 120万円と思うようになる. 経済的な窮乏で人生に対してのの萎縮する事は少し減ったが結局お金だと言うフレームの中で思って行動することは変わらなかった。 自立は自らの役目と目的が均衡を成している状態だと思う。 酒は気持ちがよくなりながら生きているという感情を刺激する液体だ。 それで飲む。 しかしお酒が目的になって生が壊れるようにすることもある。 お酒に対して自立することは気持ちがよくなって生きているという感情を刺激すれば良いのだ。 お酒によって生の均衡の割れることは自立ではなく依存的な状態になるのだ。 経済的自立も同じである.。お金というのは人らしく暮すための手段だ。 人らしく暮すための活動で動機付与になったりする.。ところがお金が手段で目的になる場合は私たちの周辺でよく見られる光景だ。
 
3年前ほどリーダー会議でライフスタジオ全職員の月給上昇に対する話をした。 全職員の月給上昇のために会社で出る利益を職員月給で使おうということには概して同意したし論議が先に進んでオーナーたちの月給を減らして職員の月給に使おうという話まで出た。 ところでわからない憂鬱な雰囲気が演出されて自分の中で抵抗する煙たちが立ち上り始めた。 自分の月給で所有に関する部分はいくらで自信がしている事に対する補償はどの位なのか具体的金額を提示することまで至るようになったがどうしたなのか皆現在自分がいただいている月給に対する正当性を付与する傾向が現われるようになった。 時間が経過しながらますます自分の月給は当たり前なことで正当な月給で少し分かってくれる占星術師の姿を演出しようとする必死のあがきが発展した。結論はオーナーたちの月給はなかった話になったし各自の会社で出る利益部分だけ支店ごとに独自に挙げることになった。 いつも人間に対する話をして構成員たちの変化発展を目標にすると言うが自分の月給に対する話で私たちの不便な真実が確認される瞬間だった。 結局自分の中で起きる抵抗と仕事をする本質とのけんかでその間自分が訓練させた抵抗軍の勝利で終わるようになった.
 
約 3年前にあったオーナーたちの月給減らし波動は経済的自立の難しさをよく見せてくれる事例だ。 自分の存在を月給で確認を受けようとする習慣と受けてからはその位受ける資格があるという者としてすぐに連結される。そして一度決まった月給体系は変えるのがとても難しくなる。 人間と人間の間で月給が相対的な地位を確認する手段になったこと自体が悲しい事で同時にお金に寄り掛かっているということを証明している。
 
どうしてオーナーたちの経済的自立が難しかったのかを責任と権限のフレームで説明して見よう。
 
オーナーたちは資本金を投資して会社を作って同時にそれにあたる権利を法的でも慣用的に受けた。 法的でも取締役会や大株主に対する責任の範囲を規定しているが小規模会社では 100% オーナーが持分を持っているし所有と経営を同時に遂行する。オーナーに対する牽制と監視はほぼないと言っても違ったものではなくてむしろオーナー自らが自分の責任を放棄するとかエラーに陥っているかどうかを見張らなければならない責任を持っている。 そしてそれはしなければならない仕事だ。 自分があまりする仕事がないのに慣用的に自分に適用する月給は現場で働く構成員たちの分け前を奪ってしまうことかも知れない。
 
経済的自立自分えず質問してらにえる過程
ずから強化される。 この過程たちはしたいうよりはしなければならない仕事たる
こんな一連過程たちは責任という単語範囲にある
しなければならない仕事をすることは責任意味する
 
 
ライフスタジオは人間を中心において仕事をして行く。 ところでオーナーたちの月給が職員平均賃金の 4倍になるということは何を意味しようか? その理由に対する論理的な説明ができるオーナーたちがいるであろうか?
 
オーナーたちが自分の月給を策定することは職員たちの月給を策定することのような原理が作動しなければならない。自分と職員を等しい基準によって分析して判断して決めなければならない。 月給というのはジャンケンで決めることができない性質の物だ。 受ける人が納得しなければならないし月給を決める人は受ける人を納得させなければならない。オーナーたち自分がもらう月給に対して自分だけではない他の職員たちにも納得をさせなければならない。 月給というのは単純に明示になった金額に当たるのではなく会社とスタジオの構成要素を総掛かりしてその結果物として意味を持つ。 法的でも慣習的に他人よりはオーナーがもっと上手くできるだろうという信頼があるからオーナーに責任を付与するのだ。 その重い役目はオーナーがしなければならないことの羅列たちだ。 すなわちしなければならないことをして行く過程が即ち責任を持つようになる過程だ。
 
この部分で責任と権限に対する誤解があるようだ。大部分のオーナーたちは最初資本金を投与して会社を作ったから自分を含めて構成員たちの月給を策定するある権限を確保したという考えを持っている。 本当にそうであろうか? オーナーは取締役会を構成することができるしその取締役会で月給を含めた経営に関する事ができる経営者を選択しなければならない責任を持っている。 会社の内外部で経営者を選択することができるが大部分本人が社長という職責で経営者をしている。 したがって経営者というのは月給を策定しなければならない責任を持つようになるのだ。 すなわち月給策定は経営をする社長の固有した責任であって決して権限ではない。 しかし現実では月給策定が権限で作用しながらますます権力化されて自分と職員の月給がこの中の基準で作動することではないか?
会社と組職のすべての構成要素が作動して決まる月給の策定過程が責任ならオーナーの持つ権限は何だろう? 利益が出るすべての部分を自分の月給や配当で取りそらえることができることが権限だろうか?
 
まず給料が持っている意味について話をして見よう。
 
月給だと言えばまず浮び上がるのが生きて行くために必要なものなどを購入して保存するためのものなどだ。 食べて寝て着るため, 映画も見てお酒も飲んでガールフレンドに与える贈り物を買うためにしても必要で心細い未来に対する保険, 貯金などを考えて見られる。 そして自分の存在を証明する手段としての月給も無視することができない部分だ。 自分が撮影をして顧客が感動する姿を見ながら証明することもできて一緒に働く人々とお酒一杯を交わしながら今日と明日を話しながら生きて行く理由を尋ねたりするが月給でも私の存在を証明したりする。 ますます人間疏外が拡散するこの時代ではもっと力強く存在証明としての月給の役目が拡がっている。
 
すなわち, 労動力に対する対価として受け入れる月給もあって, 生命を維持するための手段もあり, 労動に対する自分の証明として役目をする。 ところで月給を中心にオーナーの責任と権限に対する話で注目しなければならない部分は月給が会社の構成要素がすべて集結されているという点だ。 月給の中には私たちを取り囲んでいる条件と目標, そして生産し出す価値の結果をそっくりそのまま反映している。 生産手段だと言える建物の貸し賃, カメラとレンズたち, 外部から提供受ける電気や公課金などの支出は月給と連動されて動く。私たちの撮影する写真が現在よりもっと稀少性を持っていて原本を 10万円に販売することができたら販売単価の上昇で輸入が増加して私たちの月給が二つの倍以上にある数度ある。 現在ライフスタジオで重要でここは学習と教育のための空間を作るための撮影の減少なども月給に多い影響を及ぼしている。 また私たちが成そうとする目標に対する動機付与及び結果に対する補償なども作動する。 一緒に働く構成員たちの人生の質の側面で月給の役目も気配りしなければならない。 このように月給というのは会社とスタジオのすべての構成要素たちがお互いに連関を結びながら作動する。 すなわちオーナーが社長と同時に経営者になった時受けた役目は会社の全体的な部分と繋がれている月給という資源を緻密ながらも効果的に分配しなければならない責任だ。 こんな責任の原理がよく適用されたらどんな結果が出ようか? 上で月給に対する話から出るように皆が満足しながらモチベーションで月給が作用したら構成員たちは自分たちの自己実現の空間として会社を眺めるようになるはずでそんな事を一緒にする仲間たちを友達と同時に人生を一緒に歩いて行くパートナーとして認識するようになるのだ。そして会社と構成員たちが同時に望んでいるビジョンや目標たちを少しずつ成して行くようになる。
 
経営者をする理由がなにか? 月給をたくさん受けること? 周りから社長という響きを聞くこと? 誰の拘束を受けないでわがままに決めることができること? たぶん経営者をすることは経営を効果的に遂行した時の目標が成り立つことではないのか? 権限と言うのはたぶんその目標が成り立った時出ることができる効用や感情的な状態ではないか?
愛する人ができて結婚をすることになる場合に責任というのはしなければならないものなどの羅列だ。 生活に必要なお金がなければならないしそれで労動をしなければならないし, 洗濯もして, 毎週決まった日にごみも捨てなければならない。 独身生活をしている途中ふたつが住みながら必要な多くのことがある。そしてそのことをしなければならない。ところで結婚が労動して洗濯してごみを出すためにするのではない。 家に入って来た時おいしい食べ物香りが漂って朝に目覚めれば愛する人の顔がすぐ見えるかではないだろうか?
 
権限というのは責任コインの両面ともじだ。.
しなければならない仕事をすることが責任
その責任をしている瞬間にしたい実現していることが権限
 
 
オーナーたちが月給策定において自分と構成員たちの基準を同じにさせながらすべての繋がれているものなどを総合的に分析して判断して行うことは責任に当たり、その瞬間成り立つ結果が権限に当たる。 経済的自立というのもこんなに責任と権限がお互いに均衡を成しながら私たちが願う目的に向かって行っているその瞬間だと思う。
 
ところでこの題目で責任と権限をもうちょっと具体的に表現して見たい。
 
しなければならないことは価値すことで
したいことはその価値共有すること
言葉価値げるのが責任
その価値共有することは権限
 
論理的過剰か?
 
また月給の話に帰って見よう。 20万円もらう人がしなければならない仕事をまじめに遂行して価値を作り出したら 30万円をもらう権限があるのだ。 ところで続いて月給が 20万円ならその会社にずっと通うことはできない。 責任と権限がお互いに不均衡を成す時現在の状態を維持することができない。 すなわち価値を生産する人がその価値を共有しなければならない。
 
それではオーナーたちは価値をどの位生産しただろうか?
 
Bチームのオーナーたちが所有と経営を 1年余りの論議のあげく分離することに決定をした。 4-5年前にライフスタジオの加盟店としてした会社を所有するオーナーになったし共同経営という名前で今のライフスタジオを一緒に作って行くようになった。 初めには支店でまたは本社で撮影もしてさまざまな事業たちを展開した。 2-3年前からライフスタジオが安定化されて現場で特別にすることが消えながらオーナーたちは各自のことを捜し始めた。 責任と権限の側面で受ける時自分たちが貰うオーナーとしての月給や恩恵たちが少しずつ不均衡を成しているということはオーナー自ら感じている時点だったし選択と集中の原理を適用しなければならないという論理が説得力を持つようになった。 もちろん現場で自分が経営者としてできる仕事があると思ったオーナーはその論議で抜けるようになった。 1年余の論議はオーナー自身の内部にあった不均衡を解消しようとする意志から出たことだったし Bチームの政策と繋がれながら現在受けている月給の半分を所有で半分を経営にするということに 4人のオーナーたちが同意した。 個人的な意見ではその所有部分を多く策定したように思うが手始めとしてはあまり悪くない。 一番重要なことは価値を生産する人々がその価値を共有しなければならないというのだ。 それではオーナーたちが価値をどの位生産しただろうか? 最初投資をして投資金を回収しない状態の価値はいくらに策定することができるか? 最近建てられたマンションは東京外郭で 3-4千万位して家賃は 10-13万円位する。 オーナーたちの投資した金額はおおよそ 1千万位でリスクを勘案した時 20-30万円位もらえば良くないか? それでは残り 70万円位はその所で価値を作る人々が共有するのがあっているのではないか? その価値をオーナーが作り上げたら 70万円を自分が持って行くことは権限だ。
 
整理して見ればこのようになる。 しなければならないことをすることは価値を作り上げるのだ。すなわち価値を作り上げることは責任であることだ。そしてしたいことは作られる価値を共有するのだ。価値を共有することは権限だ。 私たちは普通責任だと言えば何かしたくない事を無理やりにしなければならないこと, 権限は他人の監視を受けない状態で享受する権利と思う。 それで責任は面倒でなるべく回避したいこと, 権限は多ければ多いほど良いことというイメージを持っている。 本当にそうであろうか? もし責任と権限の意味を反対に理解して行動する過程で不均衡が起きてその不均衡によって自分と人間, 組職, 社会の分離が起きることではないか?
 
店長の例を挙げよう. 普通店長になれば前になかった責任と権限が同時に与えられる。 職員たちの勤務状態とか顧客の満足度を一定部分維持しなければならない責任を持つようになる。 ところで自分が店長をすると言った時したくないその何かを無理やりにするために店長を引き受けない。 遅刻をしないようにするためにチェックをすること以前に面白くて楽しい空間を作るのがすぐしなければならないことでそれが価値があるから店長をするのだ。 そんな空間を作るために遅刻をするかに対するチェックをすることで必要だったら聞きたくない話もする場合が生ずるのだ。そんな空間を作る過程で店長を含めて職員たちは楽しさと楽しさを共有するのだ。 すなわちその楽しさと楽しさを共有する権限を持つようになるのだ。
 
収入と支出で責任と権限に対する例を挙げよう。
 
普通の会社で職員たちは収入と支出に対する関心があまりない。 自分が貰う月給やインセンティブにこの上なく大きい関心を表明するが会社の売上げや細細しい支出項目は普通社長たちがする仕事だと思う。 [2013年体制] では支店の経済的な問題は支店構成員たちが責任と権限で運営する。 収入と支出に対する責任でそのような価値が作られることになるのか? 実はおびただしいほど多くのものが作られる。 収入と支出は支店構成員たちの人生に決定的な影響を及ぼす。 どうして私たちは 4人が 6件を撮影するシステムをしているか? 4人が 4個もまたは 8件を撮影してはいけないのか? 4人が 4,6,8個撮影することは構成員たちの月給, インセンティブ, 労動強度, 顧客満足度, 内部文化, 職員福祉などすべてのものに影響を及ぼす。 そして 4人が 6件位を撮影して平均賃金 30万円, 6時退勤, 1-2回の会議や討論などをしている。 職員が入社する前にも 4人 6個であったし今も 4人 6件だ。 各個人は撮影時間をもっと確保して良い写真を作りたい心もあってもっと多い撮影で月給をあげたくて一日中討論をしたかったりする。 ところで 4人 6件を変えようとする試みはしない。 それは誰も逆うことができない真理のように近付く。 少し変ではないか? 自分の服を買う時わざわざと合わないサイズを違うようにきた事があるか? 服は自分にぴったりと合うものを選ぶ。ところでスタジオのシステムはこの前にして来たそのままの方式にしている。 少し変ではないか? もしスタジオのシステムを服を選ぶことのように自分にぴったりと合うことを選んだら私たちはどのように変化できるのか?
 
責任はスタジオのシステムを支店の構成員たちにぴったりと合う服を選ぶことができるようにするのだ。 自分にあう服を選ぶことに何の疑問を申し立てないことのようにスタジオを構成員たちにあうように選ぶ極めて人間らしいのである。 身に合う服を選ぶためには当たる服が何でどのようにしなければならないし順序はどうなるかに関する絶え間ない疎通と実践がなければならない。このように責任を果たす過程の中で価値は少しずつ作られながらその価値を共有する権限が生ずる.。
 
撮影が上手く顧客の満足を導き出すことは責任か権限か? 責任ながら権限だ。 責任の過程で価値は発生してそれを顧客とスタジオが共有するのだ。 共有することができる権限は責任を負う過程の中で同時に発生するのだ。 もっと良い撮影のためにインテリアを変える過程はもっと良い写真を作り出さなければならない責任ながら顧客と自分がもっと好きな写真を共有するための権限だ。
 
上で話した写真をしたいという話では一方的な傾向がある。 もっと良い写真のために自身がしなければならないことを放棄した状態でしたい心だけ持っているし偶然に発見されることにだけ喜びを感じている。 すなわち責任を放棄した状態で作られる価値に対してだけ個人的な関心がある。 写真はスタジオの構成要素と密接に関わっていて私たちが写真技術だと話すことは多分いくらもないかも知れない。 写真が構成する要素を 100個言わなければならなかったらたぶん私たちが話す写真技術というカメラ, レンズ, 光みたいなものなどは実は 10個もならないだろう。 人間, 教育, 関係, システム, 蓄積された技術と基準, インテリア。などが大部分を占めるだろう。 こんなすべてのものなどに対する連関を思わないでただ写真技術のみを話しながら写真をしたいと話すことではなだろうか? 写真に係る大部分のものなどを撮影者本人の [責任と権限] 外の仕事だと思い行動する。 インテリアは決まっていて 4人 6件も決まっていて月に二度以上のブルログを使わなければならないものなどもこれ以上動くことができない状態で認識を一状態で写真をしたいと話すのだ。
もしかしたら反対だと思う人が多いかも知れない。 したいことをすれば自ずから動機付与になってそうするほど責任感ももっと生ずるという論理だ。 すなわち権限をもっと付与して彼ら自らしたいことを言える条件を作ればより一層責任あるように行動するというのだ.。
そうであろうか?
 
手始めはそうだ.。ライフスタジオの構成員たちは奮って入社をした。 誰の強要によって履歴書を出して面接をしたのではない。 ところでライフスタジオをどの位分かって入社をしたのか? 写真館というイメージで類推することができる常識的な水準位の仕事だろう。ところで入社してみれば想像もできない事が起る。 生まれて初めて子供を抱かなければならないし笑わせなければならないし服を着せなければならない。 それだけか? 各種業務とともにその組職の目標とビジョンに同意する過程がある。 このすべてのものなどは入社する前には分からなかったことだったし同意過程もなかった。 そのままその人に与えられたことでそれはしなければならない性質の物だ。 しなければならないことを一つ二つして見れば何をしなければならないし何をしてはいけなくて何がしたいかが出るようになる。 そのフレームをどのように作るのかにしたがって強要であることができるし [責任と権限]であることがある。 ライフスタジオでは自分とは構わずに決まったのが 100%に近い。 私たちが選択して生まれたのではなくてこの世の中に無作為に投げられたし決まった条件の中で生きて行くのだ。 そのように決められた状態で自身がしたいことを決めなさいと個人的次元で話すことは一種の職務遺棄に近くないか?
 
責任権限らしくなることだと
自信
自身がしなければならない仕事をして価値げてその価値共有するのが
人間らしくなるのではなくてだのか?
 
[2013年体制] 人間らしくなろうとするシステムだ。 もっと多いことをしてもっと多いことを受けようとするのではない。 価値を作って共有することはもっと人間らしくなろうとする努力たちだ。 しなければならないことができる構造を作るため [2013年体制]まで来たようだ。 わからない生と存在の重さは私たちをますます受動的に作っている。 何の情報や準備なしにリングの上に上がってでたらめに拳を振り回すような無意味で倦怠を感ずるような生たちをただ見ているだけというのはありえないことだ。 少しずつ守衛を高めながら出た [2013年体制]は特別な努力なしも現場で自然に傾向を変える事業でまたそのようになったら良いだろう。
 
[集団知性] という言葉がある。 辞書的定義は “多数の個体がお互いに協力するとか競争を通じて得るようになった指摘能力の結果で得られた集団的能力を言う。少数の優秀な個体や専門家の能力より多様性と独立性を持った集団の統合された知性が正しい結論に近いという主張だ。” [2013年体制] と [集団知性]を一緒に考えて見たら何やら繋がれる掛けがねが発見される。 [4大原則] と [4大事業]は同じ方向性を持って個人と個人. 集団と集団がお互いに競争と協力をする集団知性システムだと表現することはあまりに誇張された表現か?
 
責任というのは重い荷物を持ってばかりいなさいというのではない。その荷を用途に当たるように使って価値を作り出しなさいというのだ。 そしてその荷は各自に必ず必要なものなどだ。
 
個人集団同時価値共有循環構造られたら
それがち [自立] [変化発展プログラム] 1完成されるのだ.
したがって [責任権限]個人集団一緒ってくことで
[2013年体制] 集団知性発揮するための基本土壌提供するであろう。
 
 
2. 自立
 
自身を下ろすということは真摯に問題の根源を見つめ
真正に私がすべきことを探し [黙々と取り組むこと] ではないだろうか?
 
 [自立]は、ライフスタジオが作られたときから出てきた概念ではない。ライフスクールとサークルを経て、[変化発展]と[成長]という話が頻繁に出るようになったそのようなプロセスの完了型として[自立]という単語があちこちで出没した。そして[自立する人たちの経済共同体】にまで発展した。
「自立」とは何だろうか?
一言で定義することは難しい。何か自信感で満たされ、私に来るものに積極的に取り組みながら、過去の記憶よりは、未来の希望に生きていく程度のイメージを持っている。そして不安はなく受動的に受け入れることを警戒し卑屈しないように生きていく人生の態度程度ではないかと考えてみる。健康な人には、最近のような天気で冷たい風が吹いても爽やかに感じられるが、体の弱い人は風邪をひかないか心配する。このように、特段なことでもないことも自分の中で解決できず、心配と不安で蓄積され希望よりは否定の方向性を持つようになる場合を見ることがある。
自立】が私たちの人生の目標であるよりは現在の不安と苦痛の夕立を避けようとする心理が作動している結果とも言える。
私たちの人生は疲れている。笑って騒いで楽しく生きていくこともできるが、
何がそんなに私たちを疲れせるんだ?
[責任と権限]の原理を適用して 現在の問題の原因と[自立]への糸口を見つけてみよう。
昨日の士官学校で、内部文化についての討論をした。 [自身が一つの組織のリーダーであると仮定した時、どのような内部文化を作るのか?]という質問に、ほとんどの人は、暖かい人間関係を選んだ。そのためにはメンバーたちとたくさん会って、相手を配慮しながら、雰囲気を良くしなければならないという意見がほとんどであった​​。しかし、多く会うからと暖かい関係になるのであれば、毎日デザイン室を訪ねてくる佐川の男性とそのそのような関係でなければならず1-2年を支店で共に仕事をする同僚たちと温かい関係が作られなければならないが、あなたの周りにそのような人がいるかと質問したときは、誰も返事をしなかった。そうなのだとしたら、たくさん会うことが、これ以前に何かが前提にならなけれのに、その何かを説明する過程で、消えずにいつも私の胸に燃えている松明]という文が出てきた。松明は、誰にでも等しく映ってくれる光です。その松明に人が集まり笑って楽しんで暖かい関係が形成されるとしたとき、リーダーがその松明を持っているかどうかが内部文化の始まりだという結論に至った。 [あなたは何を食べて生きていますか?あなたの松明は何ですか?]と聞いてみると、ほとんど幸福、愛、自由のような答えをして[自立]とは言わない。
 [自立]は、人生の目的というよりは、その目的のために行くために必ず備えなければならない装備や作動原理であるようだ。幸せな人生のために自立は必要条件であり、幸せにするための充分条件である。
  人と話をしてみると、[自立]が持っている意味が若干歪曲されているという感じである。幸せを話す以前に、現実の難しさを吐露する。幸せを話してみることもできない状況である。妨害要素を除去した状態を説明する過程で、[自立]が登場する。風邪をひいている人が健康な自分を夢を見ることはできず風邪が治ることだけを望むようなものだ。そのように[自立]のための新しい武器の装着は、思いもよらず絶えず自身を苦しめる要素に集中している。それでは、[自立]の話をすることもできない状況で自身にしつこく噛みつき、幸せな生活への道を困難にする要素は何だろうか?
人でも物体でも、何かが自身に奇襲的に近づいてきたとき、守備的な姿勢をとる人がいる。広告や映画で見るとかわいい子供が親を呼んで駆けて来るとき、両腕を広げて、その子を抱くシーンがある。おそらくその時に少し不安を感じながら、守備的な姿勢をとる親はいないだろう。ところが少なくない時間顔を見て会議や討論をしながらも、守備的な姿勢をとる人がライフスタジオには全く多い。その人たちに尋ねる。
[何にそんなに怯えているんですか?]
いくつかの原因があるだろうが、恐怖の最大の原因で二つのことを挙げてみろと言われれば【分かりかねないこと】、と 【条件変化の無理解】を挙げよう。 【分かりかねないこと】は【知らないことは犯罪だ】で取り上げたので、ここでは【条件変化の無理解】を中心に説明する。
春が過ぎれば夏が来るように私たちを取り囲んでいる条件は、相互作用の結果として、常に同じ結果を見せる。未来予測も可能で無謀な突発行動もすることができる。ところが、まれに、平素になかった現象が起こって予測が不可能になり、私たちは当惑する。その時、問題の原因を探して条件を変化させながら出口を模索する。問題を解決するために、正規の教育課程も踏むことで会話もして映画も見る。ほとんどの映画は、問題解決の過程をドラマチックにすることで条件変化の連続である。条件の変更をしていないか、または条件の変化自体を知らない場合に怖れは始まる。
ライフスタジオのスタッフが最も大きい条件の変化をすることは、おそらく店長になることだ。人為的に自身に店長という役割を付与することにより、新たに変化するため、積極的な行動をしようとする意志である。通常の従業員から店長になるということは宝物を探し新世界に旅立つ映画の主人公のように、未知の世界に旅立つ旅であり、覚悟であり、同時に危機を招く行為である。店長程度がそんなに大変なのかと言う人がいるだろうが、人生の中で初めて喜びと挫折を経験する店長も多い。最近2-3年の間に多くの物語を作り出して店長という役割から降りてきた人を思い浮かべてみろ。即座に数えてみても、10人を超える。そのそれぞれは紆余曲折の事情を持っていて各自の人生に大きな影響を及ぼしたはずだ。
店長になろうとしたとき、多くの計画と希望があっただろう。宝の地図を広げて右の尾根に沿って、ここを上がって、そこを渡ると宝を発見することができるという期待の中で、店長という腕章をつける。ほとんど3ヶ月程度はよく熱心にする。ここでも3.6.9の法則が存在する。自分が作成した店舗運営計画書に基づいて支店の構成員と頻繁にご飯も食べてお酒も食べ質問もする。思い切りした3ヶ月ごろが過ぎると、信号が来る。ご飯を食べて来る信号は、トイレに行けばよい。ところが、この時の信号はどこから来たか、どこに行って解決をすべきかは、感が来ない。地図で見ると、西にひと月歩くと川が出て川を渡ってふた月を歩くとオアシスが出てくるとなっているが、引き続き砂漠が終わりなく続く。途中で雨も降り体も疲れシャワーをしたくなる。共に笑って騒いでスパゲッティを食べていた同僚たちは、一つ二つ不平を並べる始める。もうスパゲティはうんざりとか、オアシスはどこに行って砂漠だけあるのかとか、もう家に帰りたいとか...。
その時、店長に訪れてくるのことは、風邪の初期症状と似ている。体が痛い訳ではないのに、何か変な感じを受けながら、自身の体の中で起こる変化に集中することになる。私以外のことに集中した三ヶ月だったが今自分に起こっている問題にエネルギーを費やしている。体に熱が出ることも同じで周りの人の視線は、以前と違い、私の周りにあるすべてのものが少しずつ異なり始めている。恐怖である。
何だこの感じは !!! ‘
このような状態になると、最も大きく変化することが人でも物事でも自身に来ることに対する対応である。初めて店長をしながら、すべてのことを自分の中に受け入れる姿勢をとる。子供を抱いた母親が子供を撫でている姿のように自身の広い胸を提供する。ところが、ウイルスが現れ、自身の広い胸の中に入ってきたものが少しずつ面倒になりながら検問と検索の過程を経る。選択的に受け入れるようになって区分するようになりながら周辺と私の摩擦が始まる。ここまで来ると、病院に行って診断と共に薬を処方され家に帰って暖かい生姜茶を飲んで休めば風邪程度は簡単に治る。風邪は予測可能だが、店長4ヶ月目に入ってくるウイルスを治す病院はなく、薬も何なのか分からず、生姜茶より酒を飲むようになる。もちろん、お酒を飲めない人は、砂糖と甘味料がたくさん入ったケーキをその代わりにする人もいる。
この症状の原因は、簡単に言えば、1から2に条件変更を試みたが、2の結果が解釈が不可能だということだ。スパゲッティを三回食べると人間関係が形成されると思ったが、三回食べたという記録だけ残るようになる。通常店長になると、店舗運営計画書を作成する。店舗のコンセプトを決め、いくつかの事業をリストアップする。そして着実に進行する。ところが、一つの事業が展開されると、既存の運営体系は、これと連動して、すべてが変わらなければならない。店長考えている店舗を作るために一ヶ月に一日の時間が必要であるとしたときに、その一日の空間を作るためにスタジオのすべてのものに影響を与えながら、少しずつ変化する。目にすぐには表れないが、既存の固定されているものが変化するのは、すべての構成員たちが、その変化を受け入れるエネルギーを必要とする。また、予期せぬ状況が演出されたり、隠れていた伏兵が攻撃を加えてくることもある。これらのことを通常の管理と表現したりもする一種のバタフライエフェクトによる支店の変化は、通常3ヶ月後に可視的に、それぞれの体に伝播される。これは、条件が変化したということだ。この条件の変化は避けられない状況であり、多分に意図されたものである。店長しようとするのは、従来のものに変化を与えて、新たに価値があるものに、作ろうとするものである。スタジオのすべての構成要素に酸素を供給し、準備運動を経て一貫性のあるシステムの下で、一定の方向性を持つ原理が働かなければならない。
条件が変わったのは、危機でありながら、機会【チャンス】である。予測ができず不安になれば危機になるだろうし変化する状況を注視しながら、次のことを考えると機会【チャンス】となる。危機と機会の岐路で、ほとんどは危機の道に入ってゆく。この部分が問題の核心である。最初の3ヶ月が過ぎて条件が変化した状況が何であるかを知らないとき、ほとんどが守備的な姿勢をとる。今、自分の前に広がる状況が糞なのか味噌なのかを予測することができないため、恐怖が登場する。
電車を間違えて乗って初めて見る所で下車しても、私たちはその場に守備的な姿勢をとりながら恐怖に準備したりはしない。子供は自分が期待した結果が出ていないときに、その場でただ泣いているだけだ。しかし、通常はしばらくの恐怖はあれど、自身が来た道を一度考えて駅員にも聞いてみインターネットで検索して見たりもある。すぐに条件変化を介して[知らないこと]を[知ることができる】、または【知ることができる可能性】を打診しながら、前に進んでいく。上記の店長の場合のように、最初は情熱的で3ヶ月走ってきたが、予期せぬところで電車を下りた。宝の地図に描かれている所とは異なり、予期せぬところであるとの認識が私の中に広がる瞬間、守備的な姿勢をとりながら恐怖に準備することになる。その恐怖をなくすために支店の構成員にその責任の罠をしかける店長たちの姿をよく見かけることができる。 1から2になり、2で再び「しよう」と叫ばなければならないが何をすべきかを知らない。 1から2は条件の変化を通じて、複数のことが変わっている状況である。 1から2で条件変化が可能であった理由は、自身ができることであったからである。情熱もあり計画書もあった。 2から3でもう一度「しよう」を叫ぶことができない理由は、2である状態を知らないからである。この時も、3という条件変化を試みなければならない。わからないので、意志が弱くなり体に痛みがくることが始まり守備的になる。
このように条件変化は、守備的な姿勢と肯定的な姿勢を分ける基準として作用する。守備的な姿勢を続けてとると条件変化自体をしまいとする傾向を持つことになる。そのような傾向性は、[こんにちはジレンマ]で見つけることができる。「こんにちは」とは、習慣的に使ってきた日本の文化であることは確かである。しかし、スタジオに入ってくる顧客にこんにちはと一言で挨拶を終えるのはちょっとおかしくないか? 100人のお客様に全て同じくこんにちはと一言の挨拶で関係を開始するということは、他の一方では、顧客と私の間に特別な条件変化をしまいとする習慣から出てくるものであるとも言える。写真は関係を形成し、その過程で出てくる信頼をベースに一緒に作っていく作業である。緊張の束を抱えてスタジオに来店する顧客に、誰にでも使うこんにちはとだけ挨拶を終えるのは少しおかしくないか?緊張を安心に、希望に変えることができる多くの言葉がある。ところが、その言葉は、顧客との関係を早い時間で近づけるが、言葉が状況に合わず傷つく可能性も少しくらいは持っている。しかしこんにちはとは状況に関係なく、問題を発生させることはないが、だからといって魅力的な接近とは言えない。
一緒に働く仲間との関係でも同じように[こんにちはジレンマ】に陥っている。特別間違っても、特によくも、特に近づきも、特に離れもしない人間関係を形成しながら、条件変化自体をしまいとする傾向が時間が経てば経つほど強化される。しかし、そのような傾向が強化されればされるほど増えることは無意味が生み出す寂しさである。そして問題解決能力が少しずつ退化される。そして人間関係で自分自身の疎外を引き起こし、人間の内傷はますます大きくなる。重要なのは、自身の中にウイルスが入ってきたその瞬間である。新しい店長として懸命に走ってきた3ヶ月があり、その疲労が蓄積される頃、新しい条件変化の結果が出て、彼らの逆襲が始まる時点が重要である。 3ヶ月前に1だった3ヶ月が過ぎると2になっているのである。私たちが目指しているのは10である。ほとんどの人は2が10になる過程を知らずにいる。 2になったときの機会ではなく、1であった​​ときにあった安定感がさらに大きく迫ってくる。つまり、新しい変化の過程の中の2以外の安定感が失われた2として認識をする。 2はすぐに食べることができない実なので、メンバーは3に行こうとせず、また1に復帰しようとする傾向を持っている。その傾向を維持しようとする2である現在の不快感や進行過程上の問題を指摘する。そして店長自身も3を正確に知らないので、自信を持って発言できなくなる。しかし、2が持つ半熟により3に行くことができる根拠を持つことになる。 3に進むために2になったものが、3に進むための条件変化をしていないと、安定感のある1にまた回帰しようとする。
店長にとって真の責任は、その瞬間にある。 2から3に進む過程を踏むために店長をやると決めたのだ。最初の3ヶ月の間にうまくいくのには理由がある。自分が持っているものをすべて投与するからである。自分がすることができ、したいことを3ヶ月間楽しくする。 3ヶ月が過ぎると、しなければならないことだけが残ることになる。しかし、3ヶ月が過ぎて脱力状態に陥りながらその間ウイルスが入ってくる。しかし、店長をなぜするかをもう一度考えてみれば、2から3への出発点に立とうとしていたのではないだろうか?自分が持っているものをすべて投与して2として、壮絶に店長の生涯を終えしようと店長をしようとはしなかっただろう。他の方法では、3への出発地点まで行くことができないので、店長をやろうとしたのだ。それでは、実質的に店長というのは、1から始まるのではなく、2からが真に店長をする理由となる。 2から登場することがしなければならないことである。 1から2はできているか、やりたいことをしたものであり、2からしなければならないことをする真のゲームが始まるのである。この時から真の責任の領域に入ってくるのだ。
この条件変化ということは実際は意外に簡単だ。これまで行ってきたことを持続することなのだ
 
東京から福岡を車で行くとしよう​​。休憩所に寄ってご飯も食べて、ガソリンも入れて固まった体もほぐしながら、次に進む道を思い浮かべる。特別なことはない。足りない部分を満たし、していたことを再び行うことである。少し具体的に言えば、過去3ヶ月の評価しながら間違ったこと、良かったことを区分して、再び遠くの10を想像して見て再び一日を生きていくのだ。報告書を例として、挙げてみよう。店長であれオーナーでも自分の店舗をどのように作るという報告書は皆作成をする。ところが、2次、3次報告書はない。この文章を読んでいる店長やオーナーたちも一度考えて見てほしい。ライフスタジオに30人程度の店長とオーナーがいる。これらは通常、一回程度は、途方もない運営計画書を書いたことだろう。しかし、2次、3次報告書を書いたことがあるか?今10分ほど記憶をたどって見ているが記憶にない。しばしばリーダーは、報告書で生きるという。報告書が10枚の場合、三ヶ月は食べて生きることができる。その報告書の寿命は3か月だ。後にレポートが出てこない場合は、そのリーダーはリーダーとして何の仕事もせずにいる可能性が高い。 1から2に来たが3に進むことができる報告書がないため、2から1に回帰することになる。その報告書というのも事実特別な内容を必要としない。自分が1から2への文字で作成したのが最初の報告書である。 2に来たときに再びその報告書を見ると、大きな枠組みでは合っているが、いくつかのエラーと補修が必要な部分がある。最初の報告書に少しのアップデートをすればいい。これ自体が条件変化である。通常、報告書は、三角測量の意味を持っている。現在2である状態からスタートした1と、私たちが目標とする10を引いてみると、大よその三角形が作られる。その三角形から3を見つけることができる。 1を列挙して2を確認して、10を希望すれば自然と3が見えるようになる。レポートは1,2.3.10を広げて置き、各部分に移動する条件を観察することである。報告書は条件変化の一部である。しかし、報告書の内容は、自身と店舗を構成する内容のほとんどを取り上げる為重要である。条件変化の内容と自分の意志が込められている場合は3までは行くことができる。報告書さえもなければ、何も期待できないことを意味する。非常に重要で、最も基本的なものであるため、報告書を例に挙げたものである。報告書に加えて、条件変化の内容はいくつかある。
もう一度自立に戻ろう.
 [これまでライフスタジオで追求することが何だったのか?]と聞かれればどのような段階で上がる為の傾向を変える作業だと答えてきた。これ睡眠論、エスカレーター論などで説明をしたようだ。 [自立]ということが能力が優れており、どんなことでもサクサクこなすような人を象徴するものではない。 [自立]は、そのような途方もないものではなく肯定的に自分の道を自ら歩いていく程度で理解する。ところが、現実にはそれすらも贅沢のように感じられる。私たちは自分の人生で疲れている。周辺の小さな動きにも守備的に姿勢を取る為、疲れている。同時に恐怖に備える能力だけ強化されている。これは自身に迫りくるその何に対する不安から起因するものであり、何か来ること自体を身アズから統制する。できれば迫ってこないように距離を維持し、もしかしたら迫って来ても避けようとする本能が働く。このような悪循環の連続を壊す方法は意外に簡単である。
 
条件変化をそのまま受け入れればよい。
条件変化によって発生することがあればそのまますればよい。
しなければならないことを黙々としていくとき価値は発生し、
その価値の力で明日を生きていくのだ。
 
 [自立]するには、[責任と権限]の原理を理解し、その原理によって持続的に循環しなければならない。責任はなければならないことをすることで、その過程で価値を生み出す。権限は、やりたいことであり、それ自体が価値を共有することである。なければならない仕事の前部にすれ違った時[自立]への道を選択した瞬間である。これに対する答えは、[黙々としていること]である。他の方法が異なりません。自分がしなければならだけのことを黙々としてみると、それはすぐにやりたいことになる。
やらなければないことをすることは、それほど特別なことではない。[2013年体制]では、読み書き討論をし、周りと一緒になりながら、本当に相談しなければならない。より人に近づく努力をしながら、私たちが進むべき道を続けて見つめていくことである。束の間の、スランプに陥ったなら、余裕を持って峠を越え、それでもダメなら休職し、しばらく休んでから進めばよい。確かにこれも、難しい事ではあるが、だからといって他の良い方法もない。このような過程を数回繰り返していると、自分だけの方法と道が見えてくるだろう。努力をしても無理だという人には何もしないという方法がある。何もせず、自分の洞窟の中に入るのだ。自分の洞窟に入ると決めたなら、早く入らなければならない。そうすると、洞窟から自分で出てくることができる。
そんなに簡単だったなら、もっと前にやっていたという反論があるかもしれない​​。「5D」の活動で大きく表に出てきた内容が[議題設定能力]であった。それでも、いろいろな面においてうまくやっているといわれていたメンバーで構成したが、3ヶ月もたたないくらいで、動力が失われた。原因をじっくり探して見たところ[議題設定能力]がないことがわかった。[2013年体制]を全体的に管理しながら、今後進むべき方向設定をする必要があるのに、いつも話される内容は、現在の小さな問題だけだった。参加者もより根源的で、より全体的な話をしたいのに、それが何なのか誰も知らなかった。今は時間が経ち、その当時のことを笑いながら話せるようになったが、その時は、敵に追われ、崖っぷちに立っている感覚だっただろう。5Dのメンバーは、士官学校を経て、各現場で[論文プロジェクト]を進行している。おそらく一人一人にとって、何かが自分の中に入ってきたことだろう。戦争で敗れた大将が故郷に戻り、畑を耕しながら過ぎし日を整理するように。[論文プロジェクト]は、おそらく彼らにとって休息でありながら、充電する機会になっただろう。自分の中に先に入れ、余裕を確保してみると起きるのは[議題設定能力]である。自分がやらなければならないことやると生じるのが、エネルギーの源なのである。[議題設定能力]がなかったというよりは、自分たちがやらなければならないことをやっていないことから無気力が生じた。[議題設定能力]は、自分たちが持っていない能力の一つを確認したに過ぎなかった。
問題が生じ、解決方法を見つける過程で[自分自身を下ろさなければならない]という答えに至ることが少なからずある。もしかしたら、この言葉がすべての問題の答えなのかもしれない。損をしてでも、自分が所有しているものを、当事者に譲るというのは狭い意味である。人との関係において問題が起きたのなら、その人を[真剣に向き合うこと]が、自分自身を下ろすということである。自分がスランプに陥ったなら、自分を取り巻く条件に客観的に向き合う知恵が発揮されることが、真剣に自分自身を下ろす始まり。
自分自身を下ろすというのは、真剣に問題の根源と向かい合い
真剣に自分がやるべきことを探し[黙々とやっていくこと]ではないか?
自分自身を下ろすというのは、他の言葉でいうと、客観的に事物の現象を認識することである。自分の痛みと疲労の原因は、私から発生したことである。屈折した認識とそれによる行動により、これまで編まれた糸は、だんだん絡まってくる。外部から原因を探すというよりも、自分自身を空にし、すべてを下ろすことにより、問題の根源に近づくための、自分だけの熾烈な闘争である。だから真剣に向き合い、その過程から得られる客観性を見ていかなければいけない。そうするうちに、見えてきた道を黙々と歩いていくことが[自立]への近道であり、[責任と権限]の原理が適用される瞬間である。
上記で述べた、店長の場合も同じである。2に立ったときに恐ろしさがある。条件の変化により生じた新しい状況に慣れず、自分は道を見失ったという恐ろしさが自分を取り巻く。方法は1つ。最初の出発点である1から2まで来た道を振り返って見なければならない。ゆっくりと通ってきた道を見つめていると、今というときが、自分自身に説明される。少し道に迷っただけだということを。再び3へと進む道を設計し、自分自身に自ら動機を与えるということ自体が条件の変化である。この条件の変化の内容は、ほとんどが[やらなければならないこと]である。そのやらなければならないことをやっていくとわかるようになる。責任と権限の原則を…。この過程は、自分の道を自ら切り開いていくという自立と繋がる。
自分峠という大きな壁えること。
その壁をえるためには、やらなければならないことをやること。
やらなければならないことをやっていると、やりたいことがでてくるということ
やりたいことがあると、自分で進むことが自由状態になること。
これが[自立]へと進むではないか?
が立ち塞がったときに、ただじっとそのにいること。
そのにいるため、くのけるということ。
そのにより、もう壁のない平坦だけを探すようになるということ。
平坦だけを探すためしくもなく、しいものに敏感反応するようになるということ。
そして、だんだんと[自分自身に対する無気力]るのではないだろうか?
 
 
3. 組織と個人
個人はしなければならないことをし
組織はその成果を受け
もう一度より高い段階の形式を提供する。
 
「会社員」という映画がある。表面上は、日本との貿易をしているようなところだが、実際には、請負ヒットマンを抱える会社で能力を認められている人が主人公である。定められた目標を問題なく除去し、社長の信任を受ける従業員として上手くいっていたある日、一人の女性が表れ、自分の中で眠っていた愛と安定への欲求が強くなる。会社とその「会社員」との間に殺人と復讐が展開される。幼き頃、社会の片隅で何をするでもなく生きていた彼を会社は受け入れてくれ会社で求められることは特に考えずに忠誠を尽くし遂行してきた。そんな彼に近づいてきた組織の論理と個人の意志との間での亀裂と葛藤がこの映画の基本骨格となる。組織と個人が噛みあっていた歯車が何かの部分で異常が発生した場合、破局に向かうのはこの映画だけではなく私たちの人生の近くで息づいている。
このように組織と個人は互いを同一視しながらもすれ違いを繰り返す。組織が追求する理念や目標について個人は同意の過程を経て、組織の仕事を自分の仕事として受け入れて共に追求していく。ところが何かから亀裂が発生し、いつからそうなってしまったのか組織に敵対的な姿勢を取ることになる。
組織と個人が互いを同一視しながらも、ずれていくことは化と展の一部分である。
組織と個人が互いに影響をえながら化と退行の分かれ道には何があり
互いに共存する方法について[責任と]組みから明してみよう。
複数回の見学とコンサルティングからライフスタジオ以外の写真館を見ることができた。助けを頼まれたのはその仕事を遂行することができるという可能性とその写真館に改善すべき何かがあるということを前提とする。ところが、行って見た写真館は少しの筋肉痛レベルではなかった。簡単なインテリアや撮影教育程度で解決される問題を超えた何かであった。詰まったという表現が合いそうだが灰色の陰鬱が写真館全体に広がっており、従業員との出会いでその陰鬱さはさらに強くなった。写真館のほとんどが暗く天井から降りてくるいくつかの照明器具と装置達は長い間閉館していた遊園地を見るような感じである。
写真館の構造上、そのような条件の中で写真を作るしかないのだが、ストロボが光るその瞬間以外は過去の遺物としてだけ存在していた。そのような外見と似るように内部で働いている人たちも、過去を生きているかのようだった。
人が写真館で仕事をしている理由は、大きく見れば2つある。写真を撮りたいということと、仕事として給料を受け取る写真館。写真を撮る仕事をしたいが、現在、写真館でしていることは写真というよりは写真ごっこに似た仕事であり、受け取る給料は一ヶ月生活すれば残るものがあまりない程度の水準である。ここで一緒に働く仲間たちとの関係は、一定の時間を一緒に仕事をすること以外には特に何もない関係程度である。まとめれば、自身を孤立させながら、組織と個人の分離が持続的に成されている状態である。ところがホームページを見ると、「顧客を家族のように思い、顧客満足のために私たちの写真館は最善を尽くしておりスタッフは写真に対する熱い情熱で・・・ 」というような話になっている。内部の現実は過去であるのにホームページは未来を語る理由は何だろうか?組織を最初に作るときは、良い写真と顧客満足、仕事に対するやりがいと動機付与などのために様々な検討が成され運営される。しかし、現実には、写真ごっこに似たような仕事をしながら、現在していることの満足が期待に及ばず、組織と個人の分離が持続されているこの状況をどのように説明すべきだろうか?
ライフスタジオのリーダーたちがリーダー会議と所有と経営の分離を決定するまでの過程を通じ
組織と個人の分離がなぜ起こるのかを説明をしてみよう。
組織は、必要と目的によって作られる。リーダー会議もいくつかの条件の中で作られた。最初にライフスタジオを作る時には、規模の計画は特別なことは何もなかった。数年後、いくつかの店舗をオープンするということよりは、私たちが日本の写真館市場で生き残ることができるかが重要な部分だった。市場でどの程度の認知度が確保された時は、内部で作られる価値に対してのことが関心のほとんどであった。ところが、外から眺めるライフスタジオは内部の人たちに比べて職業として写真館運営が持つ魅力、そして経済的成長に対する可能性を高く見せた。そして、内部の価値を形成する過程で、情熱と能力を持っている加盟店のオーナーたちが一定の役割をすることができると期待していた。加盟店を望む人たちと価値を作り出さなければならないという要求があいまって、10個程度の加盟店がオープンした。
量的拡大は、システムを必要とするようになり一定の適応段階を超えた構成員たちがいくつかの要求をし始めた。全店で共通に解決すべき問題が一つ二つ増え、その解決の過程で、本社と加盟店が持っている根本的な矛盾による小さな事件がいくつか発生した。何かが起きたときに、そのことを解決する主体の問題で本社は加盟店を、加盟店は本社の仕事だと思っていることがよく現れるようになった。
そして、もう一つの大きな争点は、ライフスタジオの方向を自立する人間に設定し、教育と学習を強化しながら、いくつかの事業が展開されてはいるが、どことなく形式的に行われている様子があちこちで目撃されるようになった。また、支店と支店、本社と支店の間に張られている垣根が意外に高いことも確認された。結局、支店で行われる学習と教育の大部分は、強大な権力を持っているオーナーたちの熱意と能力という関門を通過しなければならない。まずオーナーが変化しなければ、何もすることができないという結論に至った。
[要約すると支店が増えながら提起されるシステム開発、オーナーが先ず学習と教育の主体にならなければならないという要求が重なりながらリーダー会議が作られるようになった。 [共同経営]という名の下にオーナー自らが[自立]する人というライフスタジオの目的を先ず実践していることをリーダー会議の目的とした。リーダー会議は、最初のこのような必要性と目的に基づいて各種事案に対する議論と決定、実践の確認、および教育プログラムの先行学習で進行された。オーナーたちもこの部分に同意しリーダー会議で決定された事案を各支店で実践するために相当部分の努力を傾けた。ところが、「悪魔は細部に宿る」という言葉のように、2年の平和な時期は内部でリーダー会議の終了を待ちながら、不満と限界に対する弁明がどんどん積み重なっていった。表面上では、リーダー会議がライフスタジオの中心に位置しながら、いくつかの政策が生産されて執行された。しかし、内部を覗いてみると、事業は形式的に行われており、その中での生産性は期待以下の水準を見せた。最大の過ちは、[内容と形式]を反対に適用したことにある。
リーダー会議で議論し決定されたものは、大部分が[形式]に関するものである。
しかし、決定された事項を[内容]だと思って
現場に機械的に適用する線で妥協をするようになっていった。
学習休暇で、例をあげれば学習休暇が議論され、決定されるまでは3〜4ヶ月程度の時間がかかった。学習休暇の目的や方法などが議論され、各支店の事情に合わせて自律的に行うようになった。学習休暇は、[学習と教育]というテーマに[集中と習慣]という原則を適用した事業である。集中と習慣のために個人の時間と空間を提供し、スタートラインに立つことができるきっかけとして作用することを目標とした。これは内容と言うよりは形式である。学習休暇は、学習と教育を通じ[自立]する人になるために[集中と習慣]の原則を適用した[形式]と言える。 [内容]と言うと、各支店の状況に合わせ雰囲気形成、学習の内容、学習休暇の結果、評価、改善作業の循環的な構造と言える。他の言葉にすると学習休暇の結果物と、結果物の改善作業と言うことができる。
最初計画された[内容]が適切に定着されるかに対する観察と何が不足して拡大されるべきかに対する答えは、その事業が適用されている現場にある。その主体は、各支店のリーダーである。ところが、リーダー会議で決定された学習休暇が機械的に支店に適用されながら、学習というよりは、休暇にポイントが合わされるようになった。学習休暇期間に何をして、どのようなことが変化したのかよりも自身の支店がそれをしているということ自体に自分の仕事を尽くした安堵が優先されていた。逆に学習休暇を実施していない支店がより関心の対象となった。こうなっては、学習の休暇の[内容]は抜けたまま福祉としての学習休暇という形式だけが残っていった。つまり、学習休暇の内容を持続することがリーダーの役割であったがリーダー会議で決定された事項の機械的な適用という形式]の達成に役割を制限していた。
このように[内容と形式]が入れ替わる事例はあちこちで発見される。教育プログラムが実施されて全支店で同じ[内容]と主題で、各個人の学習と討論が行われていたが、その[内容]が現場でどのように適用され、改善する点は何なのかについては、オーナー自らの関心があまりなかった。オーナー自身がその討論に参加したことに意義を付与しながら、評価の部分では、月に数回の議論をしたことを確認する程度で終わった。しかし、学習休暇と教育プログラムというものが、私たちが持っている資源の相当部分を投与するために、ライフスタジオが目標としている部分に寄与できず、単純な事業の施行程度に留まる事は職務放棄を超えて背任に近いと言える。
 [内容と形式]が反対に変わってしまった理由は何だろうか?
組織で決定された事案が現場に降りて行き、各個人に適用される。最初に事業が構想されて作られた必要性と目的が少しずつ実現されることが一つのサイクルのように行われるべきである。リーダー会議は、政策を作り出す唯一の組織であり、現場での実践がされ、各個人からの具体的かつ実践的に適用されるものまでを責任にするべきである。ところが、政策を作り、組織の方針として定められたものと、各現場に適用されるものとの分離が起きた。リーダーの役割は、組織の決定と現場の適用の間で目標を達成する責任を持っていたが、実際の役割は、間で組織と現場を連結する程度にとどまったことが決定的な問題となった。リーダー会議が最初には、ライフスタジオを一つに集める役割として大きな意味を持っていたが、時間が経つにつれ、組織と個人を接続する部分で特段実りがなくなり、リーダー会議という組織は少しずつ無気力になっていった。
 
リーダー会議で決定された事項が支店で機械的に適用されていることは、誰よりもリーダー自身がよく理解している。風邪をひいたときに丸い形の薬を飲んで、それが体をあちこちを巡りながら薬としての効果を発揮する。このようにリーダー会議で決定された硬い形式の事業が支店に流れ、その支店の状況に合わせ適用されなければならない。固体を液体にその液体が最小単位の成分として分解され支店の中に自然に染み込ませていく仕事は、リーダーの役割である。中間に店長がいるが、その責任はリーダーにある。そしてリーダーがやるべきことと、店長がすべきことは別途に存在している。新しい事業という薬が支店に入って液体となり隅々に薬効が発揮されるかに対する能力がリーダーになかったのだ。ところが、そのような能力があれば良く、無ければそれだけで済むのならどれだけいいだろうか。
 
しかし、そのような能力がなければリーダーになることはできない。
なぜなら、それは必ずしなければならないことだからである。
自分がすべきことであるのに、そのような能力がないにも関わらずリーダーになった事自体が実際の問題ではない。なぜなら、そのような能力を持ちたい心でリーダーになったのである。言い換えればリーダーではない、リーダーになりたいのが、当時のリーダーであった​​。現場でそのような能力がないことを感じたのであれば、すべきし事をしながら、その能力を少しずつ育てればよいのである。ライフスタジオが変化発展を叫んで、それをリーダーが先ず実践するためにリーダー会議を作ったのである。変化発展プログラムがある人の集まりがリーダー会議ではなく、オーナーの地位を持っていながら変化発展プログラムの装着を先に実現するという意志を持っている人がリーダー会議を構成した。ところが、いざ現場でリーダー会議で決定された事項を実践に移す過程で小さな衝突や傷つくリーダーたちが現れた。そして憂いながらも来る痛みから形式的なオーナーの姿に戻っていく過程を見守らなければならなかった。
リーダーがすべきことはことは目標を達成することであり、それは責任に該当する。リーダー会議で決定された事項を現場で適用することにより、事業の目標を達成することが責任である。その責任を成すためにオーナーからリーダーになろうとしたのである。リーダーの権限は、目標を達成しながら責任を負うその瞬間に少しずつ起こる自己成長と自己実現、従業員からの尊敬そのようなことではないだろうか?
これを直そうと、幾度の苦闘があったがリーダー会議は無くなっていった。そして韓国のオーナーが支店であるBチームが構成され、オーナーの自己反省と共に権力構造の再編に対する話が出るようになった。
Bチームのオーナーが権力構造の再編の話をすることができる背景には、第一に、自身の限界を認めることから始めたということ。第二に、Bチームの運命を自ら決定しなければならない状況で始まった。リーダー会議の時まででも、本社の影響力の元でそれぞれの役割を各支店に縮小する傾向を持っていた。ところが、Bチームという単独の組織が生じて責任と権限のほとんどがBチーム単位でなされながら不都合な真実を果敢に話をするしかなかった。Bチームをどのようにしていくかという最初の問いに最初の答えは、オーナーたちの位置とその設定に関するものであった。ー会議られ、消滅する2-3過程で、自分たちがすべきとできることをこれからは区分しなければならない瞬間れたのだ。自身がリとしての役割遂行することができるだろうか?また、オからリ移行する意志っているのかにする率直して所有経営分離主要議題設定されていった。Bチームの全体的な形を作る過程で、オーナーたちの位置をせねばならず、自分たちの存在を自ら決定する1年余りの長い議論と自省の結果、所有と経営の分離が決定され、ほとんどのオーナーが現場から抜けることで話がまとまっていった。
 
このように加盟店をオープンしたオーナーがリーダー会議で所有と経営の分離を経て、現場から抜ける過程を見た。
 
この過程ことができることは、組織個人問題において 組織要求することと、個人意志との亀裂発生するというものである。 亀裂縫合も、組織要求することと個人遂行することができるのかにする 省察かられた。
共同経営という名の下にリーダー会議という組織が作られ、その組織の中で決定された内容は、各支店に下り、その支店の条件に合わせて服を着替えなければならない。リーダーの役割は、組織が決定した内容を本質的に理解しなければならず、政策の目標を達成する責任を有している。その責任は、各支店の状況と条件、そして各リーダーのリーダーシップが合わさり各支店だけの事業として再誕生しなければならない。即ちリーダーは何かを指示して責任を追及する位置ではなく、目標を達成するためにすべきことをする仕事がある
 
その仕事をせずに放棄しながら亀裂は始まる。組織とリーダーは遠ざかってリーダーと構成員の関係もそれに比例する。なすべきことをせずにいれば、自分を前に押し出している王冠を自ら返却しなければならない。そうしてこそ、そのしがらみから解放される。その長いプロセスがBチームのリーダーがリーダー会議と所有と経営の分離までに至るまでの4-5年の結果である。すべき仕事をするということは責任でありながら権利である。オーナーが資本だけ投資して経営を他の人に委任した場合、このような過程を経なくてもよい。しかし、オーナーは自分の意志でもある固定観念から引っ張ってきたリーダーと呼ばれる経営者の位置を自認しリーダー会議と所有と経営の分離まで経験したものである。その過程で、人生や社会、関係がどのように作用するのかが少し分かるようになった。
かないを、または自身ったことのないくということは、
しなければならないであり、それは言葉責任であり
そのらに選択くことにより、以前にはらなかったそのかをるようになるという 「」の過程経験したものである。
その「」の過程経験するということは、価値共有するということで権限となる。
組織は必要と目標に向かい走って行こうとする傾向を持っている。走って行こうとする傾向を止めると、すぐに組織の存在自体を疑心され消滅することになる。個人の側からすれば組織は一つであるが、個人は大勢である。組織が決めた方向は一つであるが、個人が見つめるところはいくつもある。互いの方向と目の高さの違いで発生する亀裂から組織と個人の分離は始まる。そうすると、組織が個人を管理しなければならない必要性が提起されその中に官僚主義という恐ろしいウイルスが活動をすることもある。組織が新たな問題を提起を引き出すと各個人は自分ができること、しなければならなことを区別して組織に合わせて変化する。組織がサッカーをすることができる運動場とルールを決めてあげるものであれば、個人は脚本のないドラマを演出する選手であるかのようだ。決められたルールという枠組みの中で、選手たちの自由な活動が保障されるべきで反則をした場合はこれに該当する制裁が不可避である。しかし、ルールと選手が別々に遊び始めると、その時から分離が起こり問題の範囲は拡散される。問題の拡散を防ぎ、組織と個人の亀裂が縫合されることも責任と権限の原則が働かなければならない。組織と個人にも同じように責任と権限の原理が作用しなければならない。すべきことはしなければならず、できない場合は、できないのである。できないことはできる人に責任と権限を移譲する必要があり、そのような人がいない場合は、組織としてできるように変化させなければならない。どこを優先と言うのは難しいが、組織と個人が互いに影響を及ぼし、組織と個人を混ぜ互いが勝つことができる魔法にも似た役割をする。
組織と個人は同じでありながらも異なる。組織は、一つの目標と目的を追求するが、普遍性に訴えかけなければならない。個人は、組織の目標と目的に同意するが、組織とすべて同じにはなれず内部の多様性を確保していなければならない。このように、組織と個人は互いに影響を与えながら変化発展していかなければならない当事者である。組織と個人が亀裂が生じながら、分離が起こるのは、最初に同意して約束した部分から越えられない壁に出会ったとき始まる。その壁を組織は事前に予測をする必要があり、また警告もする必要があり、組織が最初に除去することもしなければならない。個人は、その限界を克服するためにしなければならないことを行わなければならない。しなければならない空間が即ち組織であるため、自分と組織の関係に対して注目しなければならない。個人が感じる限界は即ち組織から発生したものがほとんどである。だから、個人と組織は有機的に相互作用していかなければならない。
このように、組織と個人は卓球のように、お互いにボールを打ちながらゲームを続けなければならない。個人はすべき仕事をしながら、組織はその成果を受け、再びより高い水準の形式を提供する。各個人のそのような努力で、私たちはもう少し進歩した世界で生きることができる権限を付与されるものであり、再び明日に望むことができる。
自立したたちの経済共同体というものは、
各個人組織[にまた一緒]変化発展原理適用している状態表現した言葉だ。
[責任権限]は、個人組織のバランスを維持する役割をする
 
 
 
 
 
4どのように適用するべきか?
責任権限具現化できる条件
バランスと生命形態信念実践
[責任と権限]がそんなに大した原則だろうか?
そうだ、すごいことなのだ。薬の効果が発揮される条件の中にあるならば...。
 
[責任と権限]という原則は、ライフスタジオで最も多く話されていることでありこれの実現のために、現場でいくつかの政策が作られ適用されている。ところが、[責任と権限]の原則が挙げられている量に比べてその効果はわずかである。いくつかの成功事例がありはするが、その性質を満たしてはいない。会計に関しても支店の状況に合わせて、収入と支出を確認し、改善に関する話はたくさん出てくる。ところが、そこまでで終わりである。
本当に責任を持っているならば権限もあるだろう。責任のための形式的な事業進行は権限が何かも知らずに作られている。会計を[責任と権限]の枠組みで整理して改善するが、その改善の結果として何が得られていることに対しては、あまり気にかがめようとしない。権限について話をする資格もないということは責任が何であるかを知らない可能性が高い。だとすると [責任と権限]という魔法は発揮されない。
[責任と権限]が真に発揮されるための条件とは何だろうか?
 
【バランス】
一度考えてみてほしい。
組織が構成され目標を達成するために最も重要なものとは何であるかを
数十種類の単語が浮上するだろう。この中で最も重要でありながら根幹をなすことを3つ選んでみてください。何だろうか?
 
価値、人間、文化 を選んだ。
価値は目標、目的、ビジョンなどと兄弟の仲であるかのような意味で使用する。組織が追求する価値は組織のすべての部分に染み渡らねばならず、持続して強化発展させなければならない。価値は、最終的に組織の目的となる。現在のライフスタジオでは、方向と価値については、概ね共感している。組織的に見れば、[自立した人たちの経済共同体】であり、自由で豊かであり、かつ楽しんで分かちあえる共同体のイメージを持っており、各個人で見ればライフ人の定義と同じだろう。
私たちが追求する価値は長い時間議論され、すべての事業に適用されてきた原則とも同じことである。しかし、実際に適用されていると共感することは別の問題である。かすかに知っていることでは、現場で実践と実現がされているとは言うことができない。ここで、人間が登場する。価値を実践し実現する主体は人間である。個人と組織が別にまた一緒にしていく芸術行為が繰り広げられなければならない。共に同じ価値を追求する人たちが関係を形成し、その中で出てくる熱気は一種の文化を形成する。
組織が作られると、先ず人間がいて、文化が作られる。価値を追求したいと思う人間が集まって仕事をしていると出てくるのが文化である。ところが、ライフスタジオでの価値に同意する人たちが集まって店舗を構成したが店舗では、常に人間関係の問題が発生して価値を生み出す動力が作られずにいる。内部の文化を作る前に店舗を維持すること自体が危ぶまれる。まとめると、価値に同意する人が集まった。ところが、人間関係による問題により[責任と権限]が作用することができる環境は、話を持ち出すことができない水準である。その時点で内部の文化に対しては言うこまでもない。
私たちは皆、不完全である。そして周辺の状況に多くの影響を受ける。組織が一つの目的地に向かう途中にも障害物に出会うと簡単に崩れる状況があちこちで発生した。価値に同意したとして、すべてのものが成されるわけではない。すべての人は幸せを願い、互いに愛しあいながら生きたい欲望を持っている。しかし、誰もが幸せなわけでもなく、すべてを愛してもいない。むしろ、組織の中でお互いを憎み、より高い壁を積むこともある。人は機械ではない。一日のほとんどを同じ人とぶつかって何かを発生させる。気持ちのいいこともあれば傷になることも生じるものだ。楽しみもあるが、それに比例して面倒な事ごとが発生する。問題を引き起こしている人がいれば問題を解決する人も必要で、静かな人がいたら雰囲気を反転させる人も必要である。聞く人がれば言う人が必要で言う人が多ければ静かに実践としてそんな言葉が無意味であることも知らせる人が必要である。
ところが、言葉多い人がいると誰もが聞く。ずっと聞く。人はペットや人形ではないので続けて聴くと疲れながら、その言葉の問題点いくつかを認識することになる。その問題は、自身の中で大きくなり、もう聞くことから顔を背ける段階に入るようになる。顔を背けるという言葉は、言い方を帰れば壁を積み重ねることと同じだ。その壁が積み重なると、もはや関係は継続することができず、関係の整理だけが残ることになる。このような時に必要なのは、言葉が多いと言ってあげなければならない。言葉が多いと話をしても変わらなければ、最終的に行動に移さなければならない。口をミシンで縫うとか。しかし、私たちはいつも沈黙する。沈黙するということは価値を毀損する。価値と人間は跡形もなくなり、組織が解体され、悲しい記憶だけが残ることになる。
このように問題発生したり、障害物じたそれを突破するはどこからてくるだろうか? 現在していることが不合理非効率的であるときに[NO]えるは どこからてくるだろうか?
ブラジルワールドカップが始まった。時にサッカーは監督のスポーツともいう。監督は、選手と組織としてチームを構成する。各個人の体力や技術を引き上げ、これを組織的に連結してチームの色を作る。このように選手と組織は自転車の車輪とペダルのように有機的に互いに意味を付与しなければならない。選手と選手、選手と組織、組織と組織間の関数関係を観察してみると店舗の興亡盛衰の鍵を発見する時がある。
いくつかの関数関係でも最も基本となるのは、選手と選手の関係である。いくら組織的次元でいくつかの条件を作っているとしても選手と選手の関係が画期的に良くなりはしない。むしろ選手と選手の関係が良くないときに、組織やリーダーの問題だと片付けている場合が頻繁に発生する。それでは、良い選手とは何だろうか?良い選手と選手たちが集まれば、組織は自然に良くなるのだろうか?良い選手同士は良い人間関係を築くことができるのだろうか?そういった可能性は高まるが、必ずしもそうとは限らない。組織を構成するいくつかの要素との相互作用も重要だが、最も重大なのは、組織での[選手たちのバランス]という結論を下した。それでは今から、組織内の[プレーヤーのバランス]がなぜ重要で、これが何故重要でそこからどのように文化が作られるのか説明してよう。
越谷店の失敗事例を中心に見てみよう。
越谷店をオープンしながら、生きて動く組織と言う目標を設定した。 [自立]のための最小単位を店舗とし本社中心の運営体系を作る過程で、越谷ドットを模範事例として作ろうとした。越谷店2年の過程で残ったのは嘲弄混じりの一言
 
[越谷土台基礎くないのか?]
確かに恥ずべき言葉と同時に私達が持っている根本的な問題を提示している。
越谷が2年連続の内部文化の作成に失敗した理由は大きく二つある。
第一に、内部の文化が作られる前に事業を引っ張っていく人と引かれて行く人が分離され、引っ張っていく人はエネルギーを消耗し、その場でためらい引かれて行く人は、引っ張っていく人の不満と共にしたくない宿題をするかのような硬直性を脱することができなかった。越谷は他の支店と異なり、複数の出身者から集まってできた。新入社員、日本語が不足している韓国撮影者、各支店からいくつかの理由で集まったFA、そして本社に長年の計家印写たち。ここに本社直営店だからと新たに提起される事業の数々。水平的リーダーシップというテーマで、それぞれに自律権が与えられた状態で、互いに違う環境で働いていた10人余りの人たちが新たに施行する事業を展開した。新入社員たちは困惑しFAで来た人たちは骨惜しみをし、長年経験者と韓国人は手に余った。人が混ざれない状態で、複数の事業をしてみると引かれて行く人と引っ張っていく人が分離されていった。引っ張っていく人はいろいろな奨励をしてみるが、彼らが持っている能力では引かれて行く人に伝えることがせいぜいだった。それなりの信念と意志を持って始めたが、これも長続きできず停止することを躊躇させた。引かれて来る人も、自分が興味を持っている部分に覗きをたててみるが適当な振りを見せる程度から脱することができなかった。
 
第二に、哲学、時事、写真など客観的なものに対する集中よりは、人間関係の問題が中心となった。人間関係は人間関係だけでは解決することができない。ところが、私たちは人間関係の問題を人間関係で解こうとする。だから問題が発生する。 [読み、書き、討論]をする理由は、主観と感情が出会う人間関係を客観と理性に移動させるためであった。この過程がある程度持続されるならば、人間関係の基本的な土台が作られるからである。 [読み、書き、討論]することが形式的に行われるようになると、それ自体が人間関係の問題を発生させる。そうすると、自身の不安や不満を提起できる人間を探すようになる。自分たちが素材にしていることは、客観的な内容であるのに、自分たちが主題としてつかむものは主観的な人間関係であるため、討論であれ、ホラであれ全て必要としなくなる 【2013年体制]レポートを作成するときに、[読み、書き、討論を第一優先事項に]が作成された背景に越谷店の人間関係が一役をした。
全く認めたくないが、越谷店が失敗した理由がすべての人間関係によって始まっていった。誰と誰が関係が良くなく、毎日戦い言葉も交わらないような人間関係の問題を言っているのではない。ただ「関係がない」のである。各自は互いに孤立していて、ますます分離の過程を経ていく。雰囲気を反転させることができる人が来れば、少しばかりのバランスを取る現象があったが、再び自分がいた元の位置に戻っていった。関係自体がないから、特別な問題が発生することはないが、[生きて動く組織]ではなく[どうしようもなく生きていく組織]の形を帯びるようになった。
今もってもなお、私がわからないことがある。今まで人間関係は条件だけ作られれば、段々と良くなると考えていた。部屋が暑ければ誰もがコートを脱ぐことになっている。計量を控えたボクサーを除き暑い服を着込む人はいない。同じ条件では同じように行動するようになっていてそのような条件を作れば、人間関係は自然に良くなると考えていた。だから[どのようにライフスタジオの条件を作るか?]だけを考えながら仕事をしてきた。ところが......。一緒に働いている人とのコミュニケーションがされない場合は、本当に大きな苦痛である。いつも不平だけ並べる人、いつも言い訳をする人、いつも頭を下げている人、いつも損をしないようにと命を賭ける人と仕事をすることは全く難しい。どんなに良い条件を持っていても何かが作られていかない。誰かそのリングから降りて行くまでは、それこそ地獄である。引っ張っていく人も能力があるというよりは引っ張って行こうとする情熱を基盤にしている。能力は不足し情熱も、iPhoneのバッテリーと同じように限界がある。どこかで充電をしなければならないが、電源がどこにあるかを知らない。電源は構成員たちの変化する姿である。変化、発展を目撃しているその瞬間が、即ち充電する瞬間である。一、二回の情熱にすることができるが、継続しての挫折はすぐに放電状態となる。
干潟や川底の砂が自然の浄化作用には一番だという。人間関係の問題が自然浄化されるためにも、組織の中に干潟や川底の砂のようなものが必要だ。人間が集まって生きていれば当然問題が発生し、それを賢明に克服するための干潟が必要である。それが即ち内部文化ではないだろうか?人間が人間であることができるのはそのような内部文化があるからである。個人と組織の浄化作用は、そのような内部の文化から始まる。しかし、越谷店はそのような内部文化が作られる前に人間関係の問題が発生した。 [押して引いてあげる]人間関係がなく、それぞれの領域から少しも脱しようとしない状態が即ち人間関係の問題の始まりである。
 
ここでバランスという言葉が絶えず私の頭から離れない。ライフスタジオの10年の過程の中で、うまくいく支店だったが泡が弾けて特別なことがなくなる支店になるケース繰り返された。最初は成城店が注目を受けたし、国分寺店、所沢店、湘南店、水戸店とつながっていく事例を見ていれば一つの共通点を発見することになる。それは人のバランスである。うまく行くときは、人のバランスが合っている。
特別なスーパースターがいて、その支店がうまくいくようになったのではない。人間が集まって集団を構成すると、必ず必要な要素がいくつかある。リーダーシップを発揮する人、雰囲気を主導する人、いつもその場で拍手する人、黙々と責任を果たす人、間違いを連発するが可愛さを独り占めする人などなど...。このような人が一つに集まって、それなりの香りを出すときに、その支店はうまくいくことになる。もちろんうまく行くことも有効期間がある。必ず限界はくるものである。その限界を克服することが私たちの人生でもある。
現在の越谷店は良い姿を見せている。その理由を見ると、構成員たちのバランスという結論に達する。もちろん、人間関係の問題は発生する。そして論文を書かなければならないという圧迫感も相当なものだ。しかし、これから前に打って出ていくことができる力は、メンバー各自の自己コントロールと余裕である。この自己コントロールを作る根拠が人間との間のバランスがないだろうか。現在越谷のメンバーは、以前の構成員たちである。
 
人が減り論文に集中している。以前は人との間で事件が後を絶たず、その人間の事がテーマになった。このような状況で、[読み、書き、討論]は、問題を発生させる材料として作用するようになり形式だけが残ることになる。方向が間違って道に見失ってしまっても再度道を見つけることができる力は、互いを結ぶ紐であり、これを維持する力は、支店が作動する最低限の構成要素、即ち、人間が作り出すバランスである。私の体の中にウイルスが入ってくるからといって死ぬわけではない。人間の進化の過程でつくられた免疫系というものがほとんどのウイルスを鎮圧する。人間の免疫システムのように、組織内で作成された悪いウイルスは構成員たちのバランスの中で消滅する。
っていくかれて明確区分されていたり
人間人間とのがある場合は、ウイルスは出没するようになっている。
適切緊張しみが結合されており、その各自空席
かがめてくれているバランスが、その支店免疫系[免疫システム]である。
論文と営業チームを分離して数ヶ月が流れてみれば、この免疫システムの効果を確実に感じることができる。お互いが同意している価値を中心に円を描くように人が立っている。リーダーシップ、楽しみ、コミュニケーション、情熱、約束、コミットメント、信頼、感情、討論、学習などが一定のバランスを成している状態が確認されている。この土台は、構成員たちのバランスである。このバランスが合わず一方に力が傾くときホラー映画は始まる。
 [責任権限]という原則発揮されるためには、まず構成員とのバランスが前提とならなければならない。
論文学習教育撮影などの形式っている状況だとしても、
それを維持するための最低限条件人間のバランスである。
つまり[責任権限]のために、人間のバランスは必要条件である
代々木店がオープンをして、最初の会話でウンジョンが言った言葉をまだ鮮明に覚えている。 [これからは人間関係に関することで私の情熱を消費したくない。私たちがしようとする目標に全力を尽くしたいと思う。]という内容だった。人間と人間の間で問題が発生するのは自然なことである。ところが、その問題が主題となるのかは、一つの組織を構成する人間のバランスから出てくる力が左右する。その前提の上で[責任と権限]が行使できる。だから論文が終わって再び[2013年体制]が始まるときメンバー構成が重要となる。そして支店でバランスが崩れ、人間関係の問題が発生したとき待たないことにした。店舗自体で解決されることを待った後、処置の役割を限定した。これからは問題が発生する素地が見えるその瞬間公開討論を通じて、どんな形でも即座に解決をしなければならない。
人間のバランスが必ずしも必要な条件という単純な話がこのように重要な問題となったのは、私が持っている深刻な誤りが一役をした。私の中の深いところに隠れている、非常に悪い基準がある。それは私を基準にするということである。組織を構成して人材を配置する過程でいもしない私を基準に決定して実行する。人間と人間、個人と組織との関係において、これほどまでに無気力になったということ自体を予想していなかった。この点において、一度強く反省する。
 
生活形信念(実践)
このような説明をよくする。中高生の時とは違い、社会に出て友達を作るのは容易ではない。理由は様々あるだろうが子供の頃には成長の過程で経験を共有すること自体だけで友達ができるが社会では、それと共に信念というものが必要である。信念は宗教的、政治的巨大談論もあるが、共に何かを追求する一種の生活の信念までも包括する。私の心の内を話すことができる友達がないと言うが、むしろ心の内の実体がない場合が多い。話すだけの心の内がなく、ただ感情を排泄する形が多いため、誰がその言葉を続けて聞いてくれるだろうか?
 
最近、三人から同じ話を聞いた。
[読み、書き、議論するのは良いことだが実践はいつするのか?]
このような話を聞くと即座に反撃をする。
「読み書き討論すること自体が実践である。」
同時期に三人が同じような話をしたということは、どこかで穴が生じている警告のメッセージとして受け入れなければならない。現場にいる人たちが[読み、書き、討論]をしながら感じる率直な感情であるだろう。良いが何か不足して空いているような感じを消すことができない現象が起こっているということだ。それに向かって「読んで書いて討論する」こと自体が実践と言ったので、会話が通じない近所じいさんに見えていないだろうか?
でなければ、私はすでに「ああ、昔よ!! !」を叫ぶじいさんになっているのかも...。
 
組織でしろということは懸命にするが、何か結果が目に見えないぬるま湯状態が[責任と権限]の必要性や体感温度を大幅に落とすことはないだろうか?
 
ライフスタジオ全体、または[2013年体制]で述べていることは実際に、即効性の結果が出るものではない。最も重要だが、急ぎでないこと、急ぎではないが、着実に行っていくべきことである。物体が回転運動をするときに外側から受ける力を遠心力として中心に引きこまれる力を求心力と言う。その中心にあることを信念とも言えるだろう。これまでは、中心から引っ張られる力が優位にあった。本社または支店のリーダーがこのような役割をしたし、その力に慣れてきたのも事実である。しかし、遠心力は求心力に比べてそれほど注目されなかった。中央で話すことと、現場で人間と人間を互いに結ぶ生活形態信念が必要なのかもしれない。上記でいう実践という部分も人間と人間がお互いに興味を持っている部分が生活の中で接続されると、強力な力を得ることができる。
[論文プロジェクト]は、人に成すべきことをする強力な政策である。すでに数名の人が論文のプロジェクトから離脱をし、今後も自分の限界を明らかにしながら諦めを宣言することだろう。これとは反対に、現場での動機付与と共に一種の文化が作られる兆しが見えている。
昨日、河野からLINEでメッセージが来た。
河野:社長!!
   「変化発展プログラムを一言にすると「目の光」【眼差し】じゃないですか?"
李齋旭:「河野が規定すればそれが変化発展プログラム・・・投げて、打って、走って・・」
河野:「9回裏まで、あきらめないことですね!完遂できるように、視線を落とさないこと、そこには関係性が不可欠であると考えています。今本を読んでいるときに、生きている実感がします。」
 
話を作ってみればこうだ。[論文プロジェクト]というのが河野に山を超えさせている。その山を超えようとする力は、論文をすべきだという意思から出発する。このような意志が日常的に行われた場合、どのような世界になるか?このような意志が、各個人や組織にある場合は、それだけで成功である。その後、論文が終わってからは何をすべきか?
 
論文が終わって新たに再編される[2013年体制]の骨格を考え中だが[二、三の支店で人を集中させた状態から、支店を軽くして、横的な組織を強化する]に整理している雰囲気である。ここでの支店を軽くするという部分に生活形信念(実践)が登場する。経営、映画、海外進出、市民団体などで支店を特化して共に生活する過程で、自分が興味のある部分を継続的に実践するという概念である。
 
先ず[論文のように仕事をする]と[日常の楽しさ]を選択する。 [論文のように仕事をする]は、1年間[4大原則】の実践のために激しく走ろうとする人が選択する。 [日常の楽しさ]は、[4大原則】を最小限に維持しながら、自分たちがしたい種目を選んで、日常の楽しみに優先順位を置く人が選択する。このように二つの部分で、まず分け、その中で生活形の信念のための内容で店舗構成権を行使する。
 
生活形信念(実践)の作業が現場で成された場合、[責任と権限]の原則が自然に適用されるような感じがしないだろうか?ライフスタジオが追求する価値とビジョンを胸に置き、店舗単位で行われる生活形信念(実践)を強化すれば、人間関係に埋没して硬直した私たちの筋肉が弛緩され、[2013年体制]が巡航する。その中で[責任と権限]の原則が生きて動くことだろう。
【2013年体制]が労働者の経営なのに、労働者の経営をしなければならないという主張はどこから出てきたのだろうか?
私たちがしている本質を理解できていないことから出てきたものである。
労働者の経営をしていなくて問題ではなく、労働者の経営をよくできずにいる為、
問題が発生するのである。
しなければならないことをせずにいるため、権限の行使、すなわちやりたいことができずにいるのである。
価値を作れない為、価値を共有することもできないのである。
[自立]という言葉は、
すべきことをすると同時に、やりたいこと、即ち自身の道を歩むことになることを意味する。
農家が一生懸命種を蒔いて黄金に輝く野原をプレゼントされる。
これらすべての一連の過程が[自立]である。
自身がすべき事を成して、その結果を謙虚に受け入れ、明日を夢見る生活
これが【責任と権限]の真の意味である。
 
今日も人間関係に関する問題についての質問を受けた。
懸命に生きている友達なのにいつも人間関係の問題で前に進めずにいる。
[責任と権限]が人間関係の問題を解決することができますか?
[自立]を述べて変化発展プログラムを搭載しなければならないと騒いでますが、
特にしてやれる言葉がなかった。
少し知っていることをすごいことだと言っているのかもしれない。
すべきことをすべきという重苦しい話をこのように長く並べることも
真に見苦しい。真に憂鬱な日だ。
 
★. 美しい競争
 
1. 動機付与【モチベーション】
[自分自身する無気力]による欠乏
人生意味活力という欲求こす。
この欠乏欲求解決するために、ライフスタジオが決定した方向は、[自立]である。
ライフスタジオは、2006年12月青山店をオープンして始まった。今だからこそ経験を通じて一つの店舗をオープンすることはそれほど難しいことではないが当時はドタバタの連続だった。日本で不動産を取得するプロセスは、韓国とあまりにも違い資金があまりなく高い賃料に挫折しもした。私にできることはあまりなく奈美の役割が相対的に重要になった。その当時奈美は自分ができるすべてのことをした。エアを韓国の弟に任せてスタジオで寝泊りをして一晩中、インターネットでライフスタジオができる場所を捜し回った。今のライフスタジオが作られた基盤の9割は奈美の功績である。 [4大原則の解説]の空間で再度感謝の気持ちを表示したいと思う。 [奈美!何が言いたいか分かるだろう?]
青山店がオープンして、日本の写真業界では、新しい形態の写真館として噂が出始めた。数ヶ月が過ぎ写真館の社長たちが集まった団体から見学が着て、二時間ほど一緒に話をする時間を持った。礼儀的な話が行き来してしばらく、一番下ろに座っていた一人の人がこのような質問をした。自分の写真館とは異なり、ライフスタジオのスタッフは皆が明るく情熱的に仕事をするという印象を受けたのだ。理由を知りたいと思う質問だったのだが、実際、特段の理由はなかった。奈美と清子がそのような人間だったからである。奈美と清子がそのような人間だと答えればいいものを、相手には良くない言葉が私の口から流れ出てきた。
“あなたのスタジオではできないでしょう。それはなぜか?あなたが180度変化する必要があるからです。変えることができますか?強制的に行うことができる方法を一つご紹介しましょう。現在、自身の収入から80%を従業員たちのために使ってみてください。すると、変えるということが何なのかを少し実感することでしょう。あなたはしないでしょう?だから、あなたにはできないでしょう。人の心を動かすことは、いくつかの技術を知ったからとできることではありません。自身を全て賭けなければなりません。
通訳の達人ナミも、このような礼儀をわきまえない言葉の伝達は困難であった。日本文化でこのようにストレートに言えば非常に失礼に当たる。少しマシになったが世界は私を中心に回るという勘違いは相変わらずだ。ろくでもない人間である。この場を借りて質問をされた方をはじめ、その場所にいらっしゃった多くの社長方々に私の無礼の許しを求めたい。 【お詫びいたします。]
最近ライフスタジオのスタッフがまた泣いた。ランチを美味しく食べた後、今の支店はどうかと問う過程で30歳にほぼなろうとする男が泣きながら言葉を詰まらせた。問題は社長だった。社長は無限大に近い権力を持っている。駅前でチラシを配る人に興味を持たず無視する私たちだが、社長の言葉は何時間でも聞く。言われた言葉を繰り返されても黙って聞く。写真館には多くの構成員がいるだろうし、すべての社長は構成員たちが主人意識を持って幸せに働くことを夢見る。私をはじめ、ほとんどの社長は、あれこれをしてみるが、ますます写真館は灰色になり自分の蛮行を認める。自分が犯した蛮行に対する免罪符を得てなのか蛮行を日常化する。
 
スタッフたちの涙を止めることはできないだろうか?
 
社長に対して正しく【これは違う】と言うことが出来る自信と論理を持たせることはできないだろうか?
 
ライフスタジオの構成員たちは真に熱心である。撮影や顧客サービスなどの業務だけでなく、論文プロジェクト、哲学サークル、士官学校、苺と狐などの活動も情熱的だ。そしてライフスタジオの構成員であることに誇りを持っている。すべてそうではないだろうが、だいたいそうだ。
 
ライフスタジオの構成員各自動機付与となっていることはかである。
ところが、これがつの結果物としてつくられずにいる。
しようとする意志効率ちる。
自分しめる社長一発食らわせることができる自信感はいつじるか?
どこが問題だろうか?
 
【2013年体制]は、自分を取り囲んでいる卵の殻を破り自ら出てくることを言う。卵がどのように構成されており、いつ、どこで、何を、どのようにすれば卵から出てくることができるかに対する過程である。 [美しい競争]は、動機付与と効率に関する原則である。自身の中で蓄積されたエネルギーが外に噴出されながら、自身の中に小さな粒が作られる。その小さな粒が集まって、新しい自身を構成する。人から何かしようとする欲求はどこから出てきて、それが現実にどのように具現化されるのかを今から見てみよう。
動機付与とは[目標を達成するために自発的な行動をするようにする心理的プロセス]である。他の言葉で[何かについて、感じて、考えて、行動する」の過程を作っていくことができる感情的な内容である。動機付与で重要なのは「どのように」して動機付与させることができるかについての問いである。先ず、動機とは、人間が行動するようになる行動の原因を説明する心理学用語で、人間は欲望や欠乏によって、これを満たすための意図が行動として現れるようになる。これらの欲求や欠乏は同期を起こさせる一つの刺激剤としての役割を果たすことになる。
動機付与[モチベーション]の理論は、内容理論と過程理論の2つの方法がある。内容理論はどのようなもののために動機付与[モチベーション]になるのか?つまり、動機を引き起こす根本的な内容に関するものである。過程理論は、どのような過程を通じて動機付与[モチベーション]になるのか?つまり行動がどのように誘導され、どのような手順で行われるかの過程を研究する。内容理論の代表的なものマズローの欲求5段階理論、アルダファーのERG理論、ハーツバーグの動機づけ - 衛生理論があり、過程理論は、期待理論、公平理論、目標設定理論などがある。 (リーダーシップセンター)
動機付与[モチベーション]理論をいくつか紹介する。
 
マズローの欲求段階説
マズローは人間の動機は、欲望から始まり欲求が階層を形成しているとした。最も低い段階で生理的欲求がある。衣食住の欲求は、人間の生命を維持しようとする欲求を言う。 2段階に上がると安全欲求が出てくる。身体的な危険への恐怖から脱出しようとする欲求を言う。 3段階の欲求は愛情(社会的)欲求である。人間は社会的存在であるため、人間には、いくつかの集団に所属したい欲求と、様々な集団によって受け入れられたい欲求があり、それは知人、友情、所属感などの関心として表れる。これは、人間関係に関する内容を主に扱う。4段階の欲求に自己尊重の欲求として所属団体のメンバーとして名誉や権力を手にしようとする欲求である。この欲求は、自尊心、自律、成就などのような内部的な尊敬の要因、地位、身分、認め、関心の対象になろうことなどの外部的な尊敬の要因が含まれている。
5段階欲求は自己実現の欲求で自分の才能と可能性を十分に発揮し、自分が成せるすべてのことを達成しようとする最も高い水準の欲求である。
この欲求は、自分が持っている潜在的な可能性を能力の限り発揮したい欲求としてここに成長の欲求、自己完成欲求などが含まれる。マズローの欲求段階説は、下位段階から上位段階に階層的に配列されて、下位段階の欲求が満たされれば、次の段階の欲求が発生するという理論である。
アルダファーのERG理論
アルダファーのERG理論はマズローの欲求階層理論が直面した問題点を克服し、より実証調査に合致するように修正した理論とすることができる。アルダファーはマズローの5段階分類を3つのカテゴリに分類し、人間の欲望を存在欲求、関係欲求、成長欲求と命名した。存在の欲求は、空腹、のどの渇き、安息所などのような生理的、物質的欲望としての賃金や快適な物理的作業条件のような物質的欲求が、このカテゴリに属する。この存在欲求はマズローの生理的欲求と物理的側面の安全欲求に該当するということができる。関係の欲求は職場での他人との関係、家族、友人などとの関係に係るすべての欲求を包括する。関係欲求はマズローの安全欲求と社会的欲求、そして尊敬欲求の一部が含まれていると見ることができる。成長の欲求は、個人の創造的成長、可能性の最大化などに関連するすべての欲求を指す。これらの欲求は、一個人が自己の能力を最大化するだけでなく、能力開発を必要とする仕事に従事することにより、欲求の充足が可能である。この成長欲求はマズローの自己実現欲求と尊敬の欲求に該当すると言える。
アルダファー理論の基本原理は、欲求挫折、欲求の強度、欲求満足で説明することができる。欲求挫折は高次の欲求である成長欲求が満たされていない場合は、低次の欲求である関係欲求をさらに希求するようになるものだ。欲求の強さは、低次の欲求である存在欲求が満たされるほど、高次の欲求である関係欲求の願いが大きくなるということでマズローの理論と同じ脈絡だ。欲求の満足は、各レベルの欲求が満たされていないほど、その欲求の願いはさらに大きくなるだろう。(ギムボムグク)
 
ロックの目標設定理論
人間が目的を達成のための価値と意図を動機の根源として見る理論で労働意欲説明に最も適した理論の内の一つである。ロックの目標設定理論から意図的に設定された目標は、具体的かつ段階的であり、目標達成程度に対するフィードバック(達成感、報酬)を得ることができるほどモチベーションがはるかによくなると主張している。このようなロックの目標設定理論で成就目標傾向に沿ったモチベーションレベルの差は、自己の傾向による内在的動機化と課題傾向に基づく外在的動機化に分けて説明されるが、自己の傾向による内在的動機の場合、課題は自分を中心に制御することができる考えを持つようになることで課題自体の楽しさを感じて楽しく仕事をするようになる。課題の傾向に沿った外在的動機化の場合は、私よりも相手を配慮して与えられた課題に最善を尽くすことにより、その結果として、外部的な補償を得るようになることを言い、ウサギとカメのカメのスタイルだと思えば理解が容易である。結果的に、ロックの目標設定理論上の課題傾向の人が結果がより良いことが分かる。 (오르막길 내리막길 から引用)
 
アダムスの公平理論
次は公平理論である。次の問題を解いてみよう。 A、B二人がいる。パンは一つだ。この時、最も公平に分けることができる方法は何だろうか?答えは「Aが切りBが選択する」である。
 
公平理論を作ったアダムスは、組織内の個人や組織間の交換関係における公平性の問題と公平性が損なわれたときに表示される個人の行動の種類を提示して、構成員個人は職務に対して自身が組織から受けた報酬を比較することから公平性を知覚し、自身の報酬を同僚と比較して公平性を判断するがこの時点で不公正を知覚すると、これを減少させるための方向で動機が作用してバランスを取ろうとするとした。個人が組織の目標を達成するために投入することは、職務遂行に関連する努力、業績、技術、教育、経験などで、組織から与えられる報酬は、賃金、福利厚生、昇進、権力、人間関係などを含んでいる。個人は、自身が組織に投入したことと組織から受ける報酬を知覚を通じて認識して比較し、この時の知覚を通ずることは、個人の主観的な判断を意味するもので、個人は自身の報酬/投入の比率と他人の報酬/投入の比率を比較して、両方の比率が同じであれば公平性が知覚され比率が異なる場合は、不公正を知覚することになる。これらの不公正さについて、個人は心理的な圧力を感じて緊張を解消する方向に適応行動をすることになる。したがって、個人は自身の努力とその結果として得られる報酬との関係を他の人と比較して、自分が感じる公平性に沿って行動動機が影響を受ける。即ち公平理論は、個人の行動における動機を刺激する欲求や誘引などの重要な要因が、単純に絶対的な価値によって、その強度が作用するのではなく産出と投入の相対的な割合、そして他の人との相対的な関係から動機要因が作用するということを強調している。 【斗山百科 引用]
 
インターネット検索を通じてモチベーションの内容を覗いて見ていると精神がクラクラする。個人の処世術から会社運営に至るまでの動機付与[モチベーション]に関する理論は、溢れに溢れている。それほどモチベーションが私たちの社会で重要な部分を占めている。個人は、自身の人生を導いていく主体であるため、自分でモチベーションを持たなければならない。組織は、目標が明確である。目標を達成すること自体が組織の存在理由であるため、これを実行する構成員たちのモチベーションは非常に重要である。韓国フォーラムを中心にAとBチームが1年余りの間、議論したテーマも、モチベーションを見つめる観点に関する内容だった。すぐ目の前で繰り広げられることは、事業の話だが、じっと中をのぞいてみると、モチベーションを規定するそれぞれの世界観が存在している。
モチベーションが非常に重要であると言うがこれは逆にモチベーションの成功事例が少ないためである。定められている暮らしを当たり前のように生きていく私たちに南太平洋の海にも似たモチベーションという言葉は、非常に遠い国の話のように感じられるかもしれない。孤独に、疲れた人の中に入って、いつ停止するのか分からない錆びたモチベーションというエンジンを回してあげたい。
自分なりにモチベーションに対してまとめてみるとこうだ。人は欲望と欠乏を持っている。お腹がすけばご飯を頭の中に思い浮かべながらポケットの小銭を数えてみる。ラーメンでも買って食べることができれば、目を回してお店を探す。このような欲求や欠乏に私達は何かをしなければならないという意図が生じる。お腹が痛くてトイレに行きたくなる生理学的な現象は、誰が指示していることでもなく本能に該当する。しかし、生きていくためには、生理学的な欲求だけがあるのではない。人と楽しくしゃべりながら笑って騒いだりしたくもなり、ある時は、他の人より能力を認められたくもある。
 
美しい女性が段々近づくと胸が高まりながらボーイフレンドはいるかを気にする。上記のアルダファーちゃんが主張したかのように存在しようとする欲求、関係の欲求、成長の欲求があるようだ。存在、関係、成長が順次来るように、どうしようもなく私から出没する。オンドルが設置されているマンションに住んでいたいと思い、人と良好な関係を作りながら、能力も認められている人生を希望する。このような欠乏と欲求によって自発的に感じ考え、行動する過程がモチベーションのようだ。このモチベーションが、自分の中で自発的に作動するためには、目標が明確で、行動の結果による達成感と報酬が重要であり、その過程で発生する比較、分析、確認のプロセスもモチベーションに重要な影響を与える。
 
ライフスタジオの構成員たちにおいて欲求と欠乏は何だろうか?
 
[4大原則の解説]は、[自分自身に対する無気力]を出発点とする。能力を認められ人との良好な関係を維持しながら、平和に暮らしていたいがそうもいられない。人との関係は、分離と孤立状態に置かれており、定められていることを当たり前にしている。何かが欠乏しているという話であり、その原因として、[自分自身に対する無気力]を指した。
[自分自身に対する無気力]は欠乏である。 [自分自身の無気力]を倦怠という単語で解いてみよう​​。この過程で欠乏とモチベーションの関係が見えてくるだろう。
[倦怠]
理想形に対する質問をたまに受ける。まあきれいならきれいな人ほど、人間性が曲がっていなければ曲がっていない程良いが最も警戒している異性に[気だるい人]を挙げる。人を見たときに気だるい状態を発見すると、これを感知するセンサーがブルブル震える。何らかの形態でも介入をする。人間が人生にに対する態度で最も敵であることは気だるいことのようだ。昨日が今日のようで、今日は明日と同じような人生を生きていく人を見るとなんと言えばいいかただ見過ごすことができない。私はそのような人を嫌いか、それとも助けたい気持ちが湧き出ているのかも分からない。おそらく倦怠に対する性格のために、人との関係を結ぶことが発達した側面もある。倦怠を発見すると、押し出してしまうので...
 
倦怠とは今自身が退屈で無意味で時間がゆっくりいくと自覚する瞬間である。私たちが一つでも没頭をすると、自身が生きていることを感じるようになり時間は電光石火のように早く過ぎ去る。退屈無意味であることはこれでも良くあれでも良く、またはこれも嫌であれも嫌な中間あたりに位置する状態である。このような状態になると怠惰が伴いながら面倒臭さが作動する。してもしなくてもいい状態であるため、周辺に影響を与えながら、雰囲気をダウンさせる役割をする。私は高校のとき休み時間であれば、外に出てあざを作っていたような子供だった。何が何だかも分からず3年間をただ過ごした。勉強は嫌いでしたいこともなく家に行くならば時間はどうしようもなく余りどうすることもできない状態の3年だった。予備軍訓練に行き10代半ば親友であった友達とも倦怠が浮上した。予備軍訓練もその時と同じ状況である。
退屈で無意味で時間が本当にゆっくり過ぎたその瞬間が倦怠だ。高校の時の記憶のせいか、退屈気だるいと感じる瞬間私は何かをした。だから話すようになりふざけるようになってあちこちで社会を見てレクリエーションのリーダーもしてみた。
 
退屈と似たような雰囲気の孤独という言葉がある。孤独は本当に私の内面と対話する時間である。忙しい日常から自分だけの時間を持つことは素敵なことだ。熱い風呂に浸かって、自分と会う人がいて焼酎一杯にスルメの足をかみながら、自分の内面が私の中から出てくるのを待つこともできる。退屈はこれとは異なり、強制的に自分と会っている模様である。私の内面と会ったが、特別何か言うことはなく、時間はゆっくり進み他にすることもない。ただ内面と叩きあう程度ではないか?倦怠は人生で一度休んで行く休憩所の役割であればよい。倦怠期に入った中年夫婦がすべて離婚するわけではない。お互いへの愛や期待がなくなり決められた時間に一緒にご飯を食べて寝ること自体が退屈で無意味に感じられる。人間の体が他のことを要求している時である。私はあなたにとって何を意味するのかを再度確立する時である。
ハイデガーは倦怠が私たちの存在自体に起因する苦しみであるとした。そして精神とでは、自我が本能と現実を抑制する執行猶予過程の苦しさが倦怠を煽ると分析している。 (유석회引用)同じことを繰り返していると、倦怠は自然にやってくる。気だるさは、他の言葉で私の中の無意識の世界が沈殿を通じて所定の位置を見つける時間である。長期かさせない限り、倦怠も人生の中で必要な部分である。同じことを繰り返していると、倦怠は自然にやってくる。気だるさは、他の言葉で私の中の無意識の世界が沈殿を通じて所定の位置を見つける時間である。長期かさせない限り、倦怠も人生の中で必要な部分である。
倦怠は来るようになっている。自身に対する再充電と思って少していると、再び力強く生きることができる力が生じる。ところが気だるさが続けば、問題になる。なぜか私たちは、楽しく、意味あることに対することに対し諦めの状態にあるかのようだ。
りと自身分離がなされながら、自身意図していない孤立した状態にある。
孤立他人との距離固着化され、自分だけの孤立したにいることに
ていくのだ。これは、[日常的倦怠]することができてしまう最適条件である
倦怠はある日、自分に尋ねて来て適当に疲れては、ある瞬間に跡形もなく消えなければならない。ところが、[日常的な倦怠]が持続すると、自身の孤立を宿命的として知り、自分自身に対する変化発展は名刺を差し出すこともできなくなる。むしろ、不特定多数が送る手招きに対する不安はさらに孤立を固着化させる。
[日常的な倦怠]は人生の意味や活力が欠乏している状態である。誰でも[日常的な倦怠]を抜け出して有意義な日を過ごしたい。 [自分自身に対する無気力]は、[日常的な倦怠]が持続されて出てくる恐ろしい病気である。 [自分自身に対する無気力]から抜け出すためには、[日常的な倦怠]が与える欠乏状態を解消しなければならない。このため、iPhoneも買ってフェイスブックもあり、定期的にショッピングを楽しむ。瞬間的な満足はあったとしても、多くの情報が飛び交うインターネット空間にいても、その欠乏状態が解消されることはない。
欠乏は、同時に欲求を呼び起こす。口に入ったご飯が、数時間経過すると、再びご飯をくれと騒ぎだす。ご飯の欠乏でご飯を食べなければという欲求が生じる。 [自分自身に対する無気力]による欠乏は私の人生の意味や活力という欲求を呼び起こす。この欠乏と欲求を解決するために、ライフスタジオが決定した方向は、[自立]である。
現在のライフスタジオは、経済的に不足はない。真にありがたいことに、顧客の声援に力づけられ、私たちの生理的欲求を一定のレベルまで満たすことができる。ライフスタジオが経済的、生理的欲求が満たされ、これの拡大ではなく、より高い欲求、[自分自身に対する無気力]から脱皮するための存在の欲求を満たすため、[自立]という目標を設定した。 [自分自身に対する無気力]による欠乏と人生の意味や活力という欲求を満たすためには、[自分自身に対する無気力]の原因を探して私の意志によって行くべき道を歩いて行かなければならない。
そのため、人文学を中心に[読み、書き、討論]することを内容とする[4大原則】、そして【4大原則】を実現するための形式として[4大事業]に体系化させた。この[4大原則】と【4大事業]を組み合わせたものが[2013年体制]である。
ライフスタジオの目標が[自立した人たちの経済共同体]であり、自立するためには、[各自の変化発展プログラム]が装着されなければならず、そのための現場システムが[2013年体制]である。各自の変化発展プログラムが搭載されることから予測可能になると、私たちは次のように約束することができる。その次は、ライフスタジオの目標に近づくための進歩した何である。だから[2013年体制]を一言で要約すると、[変化発展プログラム装着が予測可能なシステム]である。
【2013年体制]を構成する人たちに[2013年体制]でしようする[4大原則と事業]がモチベーションとして作用したかに対する質問に答える番だ。 【2013年体制]が最初に話され人々は強力な何かが自分に近づいてくるという不安があった。不安だからといってどこに行くところもなく、自身が働く支店が自然に[2013年体制]に編入され、自動的に[2013年体制]の中に入ってくるようになった。
時間が経つにつれて【2013年体制]は、硬直性を表わし組織が全体的に生気を失っていった。だから[論文プロジェクト]が出てきた。 [論文プロジェクト]を実施した理由は、しようとする人の意志確認と区分である。現在[論文プロジェクト]をしているメンバーは、新しい経験をしている。主題を決め、[読み、書き、討論]の過程を経て、自分だけの結果を導き出している。知っていくということが何なのかを知った人もいるだろう。さらに分からないと迷っている場合もあるだろう。この結果は、論文が終わって、来年上半期に確認がされる。そして[論文プロジェクト]の議論と実行の過程で30人近くの人との6つの支店が[2013年体制]から離脱した。
[読み、書き、討論を第一優先事項に]原則でも取り上げられていた[論文のように仕事をする]のように、少しずつ[2013年システム]の形が作られている感じである。【2013年体制]が構成員にモチベーションになっているというのは事実である。確実な一つは[4大原則]が述べている内容が自分に今切実に必要とする信望を持っている人がいるということだ。 1プラス1が2という真理とは異なり、私たちはこれをするしかなく、これなら自分が[自立]した人になるという、信望から今日も熱心に論文を書いている人がいるということだ。
 
ところが、そのような信望に比べ結果がなかなか姿を現さない。結果がない私がうまくできているかどうかの不安がいつもそばにある。成功経験の不足の中で、現実には、また以前の私に戻ると誘惑をする。現実から確認し、その確認された力でモチベーションとなる構造を造らなければならない。誰もがそのような経験があるだろう。何かをするが、その実体になかなか会うことができない。片思いをしている対象の心を知りたい気持ちと反比例して、相手は無心である。自身の行為が現実から少しでもその結果を確認し、次のことが向かうことができる力を充電できる構造が必要である。山を初めて登る人は行っても行っても終わりがない谷を上がり、頂上が現れるだけを待つ。その期待が絶望に変わったら、その人は絶対に上がることができない。山によく行った人は地図を見ながら、木や草の変化、地形の動きに頂上がどの程度であるかを見計る。その確認の過程で、頂上に上ることができるエネルギーを自分の中で生成する。
[自分自身に対する無気力]がもたらした欠乏と人生の主人になるという欲求が結合され[2013年体制]まできた。 [自立]という目標の下、一定の部分自らモチベーションを持って懸命に走ってきた。ところが、まだ自分の殻から出てこられずにいる。何か新しい、特別なモチベーションとシステムが必要である。自覚を通じて自分の中で何かを作ることまでは完了され、それが世に出て、より高いレベルに進む目前に来ている感覚である。自分の世界に向かって自身を投げかけることができる、新しいモチベーションが必要である。
【2013年体制]内容は、[自分自身する無気力]という欠乏らの
きたいという要求結合されている。しかし、自身んでいる
るためには、決定的道具必要とする。
ここで、[しい競争]登場する
 
2. 競争
[美しい競争]は自身の足に結ばれた鎖を断ち切り
洞窟の外へと出てこさせる原則である]
競争という言葉を聞くと、まず疲れる。緊張させ何かをもっとしなければならないような不吉な予感がする。まもなく競争から遅れをとって絶望した瞬間を思い出す。現代を無限競争時代というそうだ。終りのない競争の中で淘汰されて疎外される人が生じるしかない。人生が不安定で将来の不確実性が高まった理由を、資本主義が持っている非人間的な競争の中から探す。この言葉は正しい言葉だ。私たちの社会は、より多くの利益と資本蓄積のためのシステムで動いている。全世界的に二極化が進行し、社会不安の原因となっており、国と企業は血を乾かす競争システムの中で生き残るために協力に力を使っている。限られた市場と資本の攻撃の前に、私たちの社会はますます勝者一人占め構造で動いている。勝者になれず競争から離脱した人を個人の問題として限定し構造と条件よりは、各個人が怠惰したことと見当している。 1対99の社会に行っているこの時代に、1の勝利に99が怠惰と言うのは、論理が合わない。総量は同じだが勝者と敗者が残るゲームのように、より多くの価値が創られずに、少数の勝者と多数の敗者が作られる社会での競争はできることならば避けたいものである。
ところが 何故 [2013年体制]の 4大原則に [美しい競争]があるのだろうか?
協力しても足りないというのに競争をしようとする。そして前に[美しい]がついている。一体何をしようとするものであり、なぜ[美しい競争]が必要なのか?
とは、同じ目的にして互いに勝つか、または優位に立つためにうことをいう。
ところが、競がうまくいき、相手もよくなるように、互いに刺激をえ、ますこと、
むしろ積極的な協力が[美しい競]と定義するならば話は大きくわる。
韓国に[私は歌手だ]という番組があった。韓国のトップクラスの歌手7人が毎月二回のコンテストを介して一人は年末に行われる決勝に進出して最も低いスコアの歌手は脱落するルールで進行する。日本でよく知られたガールズグループたちは参加の名刺も出すことができない権威となった。 [私は歌手だ]が企画されたときにあちこちで懸念の声があった。歌手は他の歌手と競争するのではなく、自分の音楽性や大衆性で勝負しなければならないという点、ただでさえ競争のために人生がますますきびしくなるが、歌手たちまで競争を介して1等と最下位を区分することなどへの問題が提起された。自分の好きな歌手たちまで視聴率のツールとして使用されているような印象もあった。しかし、回​​を重ねるごとに、[私は歌手だ]は誰に侮辱を与え序列が決まるのではなく、歌手一人一人の努力や魅力を見る楽しみが生まれ時代を風靡した昔の曲を今の歌手たちによって再解釈される過程の長所が浮き彫りになった。順位が発表される瞬間は緊張するが、結果が発表されて勝者と敗者にすべての拍手を送る姿が演出され、互いに刺激と激励が同時に行われるようになった。 [私は歌手だ]についての見解は人によって異なるが、私は[美しい競争]の模範だと考える。放送が始まった序盤には誰が生き残り、脱落することが興味対象であった​​。しかし、回を重ねるごとに人気を集めている既成歌手が新人の姿勢に戻り、一曲一曲を自分の歌へと激しく作っていく過程を感じることができた。コンテストシーンの傍聴客が審査をするが彼らは審判の姿勢ではなく、公演自体を楽しむ観客だった。コンテスト判定団の結果はそれほど重要な要素にはならず、今日はどんな感動があるのかを​​期待するようになった。最初は懸念だったにもかかわらず、美しい競争の定義(私もよくなり、相手もよくなるように、お互いを刺激し、激励すること)が[私は歌手だ]に含まれるようになった。
とあるブログに【美しい競争】に対する話があった。
悪意のある競争意識を捨てて、自分の本当の能力と才能に最善を尽くし走る競争
他人が自分と同等になったことを憎まずに懸命に努力すること
たとえ、自分が他人よりも後ろに遅れていても絶望せずに精進すること
自分の能力が突出して得られたのは、犠牲の精神として出しておく競争
はるか先に進んでいても絶対に自分の自慢をしない
正しくあることに誰よりも自分が率先垂範をする競争
善意のためであれば、進んで助ける競争意識
自分の才能を表わし競争に発展した彼は本当に偉大な勝利者ということ
誰もが他人の長所と短所を奨励して感謝することを知って拍手できる競争意識
[美しい競争]に対する賞賛を述べた.
結局誰が誰に勝つ成就と挫折のための競ではない。
の競相手は自分自身だという話である。昨日の私は、1年前の私と競
よりよい世界に進もうとする意志が[美しい競]である。
良い方向に考えれば、すべてのものがよく見える。ところが、「[美しい競争]をあえて[2013年体制]の[4大原則】にまで入れる必要があるだろうか」という疑問はいまだ残る。それでは、[4大原則】で話をする[美しい競争]が[2013年体制]でどのように[刺激と激励]というモチベーションとして作用するか見てみよう。
プラトンの国家論から、有名な洞窟の比喩が出てくる。ブログにこれをよく表現した文章があり、紹介する。
岩島に洞窟があり、洞窟の外の世界が広がっていた。この洞窟は深く、奥は壁で塞がれており、洞窟の奥には囚人が座っていた。彼らの顔は、洞窟壁面を向くように鎖で縛られていた。しかし、洞窟の外には太陽が昇り、月が浮かび華やかな世界が広がっている。生涯洞窟の壁だけ見てきた囚人たちは、自分たちの背後から光が入り壁に投影された影こそが世界であり、宇宙であると信じていた。つまり、実際の姿ではなく、偶像化された姿や映った姿が真実だと信じていたのだ。自分たちが見た影が全てだからである。ところが、その中の一人の囚人が、偶然に鎖を解いて洞窟の外に出て行った。しかし、洞窟の外光に目がくらむほど強く外に出ることが怖かった。しかし、彼は最終的に好奇心に勝てず、洞窟の外に出る。外に出てみると世の中には羊、牛、人、野原、太陽、月、星などがあった。彼はこれまで自分が見てきたものが、実は偽りであることを知るようになった。すぐに戻って仲間たちに真実だと信じていることが偽りであったことを知らせたいと思った。彼ははやる気持ちで洞窟に閉じ込められた囚人たちに言った。世界は洞窟の壁に映る影ではなく、太陽が昇り、月が浮かび動物と人と植物が調和して暮らす美しいところだと。しかし、疲弊した現実で平穏を望む洞窟の中の囚人たちは、彼の言葉を全く信じず、その先覚者を殺してしまう。(ハンギョレ新聞)
人々を観察してみると、皆自分だけの洞窟から出ずに外部から照らされた光に依存し本質よりは、現象に執着する傾向を持っている。あまりにも長い間、洞窟にいたせいで関係を結んでいく機関が段々と退化している。いや、関係のアンテナが最初からなかったのかもしれない。子供たちは目に見えるもので実験する。食べれるほどの大きさのものは、口の中に入れ、高い所は登り、穴があれば掘ってみる。子供は周囲の環境を積極的に受け入れる。しかし、段々と時が過ぎ自分の中に留まる時間が増え、自分の洞窟の中から出ないようになる。自分の変化のために与えられた仕事は、細心の注意を払いながらも、その結果が公論化されることについては、恐怖を持っている。それが公論化されあちこち這いつくばり、本当に自分の事になっても、自分だけの洞窟から出てくることを困難にし、発展の輪にいるというよりは、常にその場でぐるぐると回っている。 【2013年体制]に同意する人は、この発展の輪に入りたい欲求を持っている。従って、組織が決定した内容を誠実に履行する。少なくとも表面的にはそうだ。ところが、なかなか波に乗れずにビーチに押し戻されることが繰り返されている。
 [読み、書き、討論]の効果がなかなかその姿を現さない理由は何だろうか?
自分の中にある実体を洞窟の外に引き出せなずネズミが車輪を回転させるかのように、つながれた鎖の長さの分だけ、自身の位置でくるくる回っているのではないだろうか?
このような問題意識の中から出てきた原則が[美しい競]である。
[美しい競]は[刺激と激励]、[討論の率性]のための原則である。
自分が作った洞窟から出てくる方法についての話が即ち [美しい競である]
ライフスタジオの従業員がやり方を知らないのに、頭だけ大きくなっているという指摘をあちこちで聞く。生存のための壮絶な底辺の経験がなく、それを自分たちが作ったという勘違いの中で観念的な話だけ並べているという指摘である。一定の部分一理ある話だが、私はその論理に同意しない。底辺の経験と今の[読み、書き、討論]は、同じ原理で作用する。生存のための努力や[読み、書き、討論を通じた観念の遊戯も現実を変えることは同じである。モチベーションの種類が異なるだけで各自の熾烈さが勝負を分ける。このような指摘が出てくる理由は、自分の現実を変える姿をなかなか見ることができないからである。 [美しい競争]は、この部分に関する話である。各種実験を通じて新しい原料を開発し、それが商品として出てくる前の段階といったところか?
今重要なのは、各自が用意したのが10であれば、[美しい競争]を通じて2に過ぎないということを確認しなければならない。そうして、3になることがあり、5にもすることができる。ところが、2になることを恐れて準備した10を見せない。変化の輪に入るには、自分の10を世に完全に出した事から始まる。そのようにして2を確認して、次を約束して自ら歩いていく。変化の輪に入るためのモチベーションの方法として、[刺激と激励]、[討論の効率性]を提示する。
 [刺激激励]
三斗の珠もつないでこそ宝(どんなに高価な物でも役立てなければ無意味という意味)という言葉がある。哲学エッセイで学んだ[量質転換の法則】とも同じ目標を達成することも、個別的なものを集めて一つの創造が成されることを言う。1時間の間に撮影された300カットの写真をそのまま見せてくれればどうだろうか? 75カットよりも多くなった量の喜びよりは、平均を落とす数多くの写真から失望感がさらに大きくなるだろう。尾が胴を揺るがすということだ。焦点と重複を除去して、被写体と背景のバランスを考慮して、75カットを厳選し、快適な空間で、静かな音楽と一緒に写真を鑑賞することが、顧客とライフスタジオが同時に満足することができる。だから私たちは今日も巨大なマグロを一点の寿司に解体するかのような職人かのように分類作業をする。自分が一生懸命作ったビーズもつなげて飾りにになるように、洞窟を出るための触媒の役割を[刺激と激励]がすることができる。 【刺激と激励]は人を洞窟の外に誘引することができる適切な調味料である。刺激とは、生物に作用して、特定の反応を引き起こす要因となる外部条件の変化をいう。刺激に対してどのような現象が現れることが反応である。刺激を受けると反応が起こる。まず、調べてみることが何の刺激かである。イギリスのことわざに考えていることは知っているものと異なっているという言葉がある。自分には黄金であっても、世界では、金に光る石ころに過ぎないことができる。
自分の頭の中でそれが真実だと確信していても、本当に真実なのかは断言できない。昨日の哲学の討論の時間に[経験]は、エラーを無条件内包しているという命題についての討論をした。 [経験]は、外部の環境が私に入ってくるものであり、他の一方では、私は能動的に環境を受け入れる過程である。私が受け入れる環境は一部分でしかない。新しい人に会ったとき私たちは瞬間、先入観に捕われている。先入観はある対象に対してすでに心の中に持っている固定的な観念や視点である。先入観は私の中で精巧に作動した観念の結果である。人は先入観がなければ生きていくうえで困難や疲れが発生する。電車は時間通りに来る先入観がなければ、約束の時間に合わせて家を出る時間を見積ることができない。2時間前や3時間前に出て行く人が生じてしまう。しかし、先入観と現実の衝突が起こる場合がまれに発生する。たまに発生することから大きな事故につながるので、先入観に対する注意が必要である。先入観が私の中に生じる充分な理由を持っているが、それには常に間違いを含まざるをえない。日本で電車は約束した時間に正確に来る先入観はいつも崩れる可能性を持っている。各種地震や人身事故、または人間の気まぐれよりは正確であるという相対的な表現である。男性と女性の先入観がない場合は、新しい人に会うとき、おそらく名前ではなく、男なのか女なのかを聞くことになる。国から男性と女性を象徴するマークを目に見えるどこかに付着することを義務付けることもできる。しかし、先入観が現実で、たまに問題を発生させるので注意して先入観を使用しなければならない。先入観は何なのかを見たときに1つの情報であって結果ではない。
誰が私に近づいてきている。これは数十年の人生が私に歩み寄ってくるものだ。政治、経済、社会、文化、芸術、歴史など、その人生を見ることができるレンズは数千、数万種類ある。わずか数分、数時間を一緒にすると、私たちには一種の観念が生じる。その人に対する観念は一種の段階を超えた状態である。会わなかったときよりも、他の段階で、その人の噂を聞いたときよりも、他の段階である。次に会えば、違う段階を踏むことになる。このように段階を踏む過程で刺激が発生して、私の観念で反応が起こる。
自分の中で繰り広げられる化学作用は、自分が持っている武器になる。自分に入ってきたことを自己化する過程で、自身の基準によって捨てるものは捨て、自分だけの論理を強化する。こうして作られた論理が外の世界に出ることは何を意味するか?私の中にある事を引き出して出すということは、普遍性を持とうとする努力である。知の過程でも取り上げたが、人は知ろうとする。考えに終わるのではなく、真理を知りたがる。自身の考えが真理につながっていく過程は、普遍性を確保する過程であると表現しても無理がない。自分が持っている特殊な論理に普遍性という性質を付与するために外に引き出していかなければならない。外に出た自分の特殊性は、私たちの社会を構成するいくつかの機関を通過しながら普遍性を確保することになる。外に出さずに、自身の洞窟で、自分が作成した特殊な論理だけを強化した場合どんなことが起きるだろうか?特殊な論理を作る理由は、事実ではなく真実を知りたい本能であり、その真実で私たちの人生が進歩するからである。しかし、特殊な論理が洞窟を出なければますます嘘と偽善が強化される。傲慢と偏見が育つことができる最適の条件が洞窟である。自分の中で鈴木さんをモンスターにし、渡辺さんを天使にする。しかし、私たちの人生では衝突が起こる。その衝突により、悪循環が繰り返される。洞窟の外で広がることへの無関心が強化され、外部からの攻撃に対する防御技術だけ高くなる。刺激は、次の段階に進むための動機を提供する。刺激を受けると、私の中にあった特殊な論理が反応をする。自分の洞窟の中では真実だと確信していたものが揺らぎを打つ。その過程で、普遍性という物質が分泌される。
刺激を積極的に受け入れることは、
自分の中で繰りげられることを自ら否定する行動である。
自分を否定するということは、自分を化させよう意志である。
刺激を受けると反が起こり、その反を探索する過程が化する瞬間である。
しかし、刺激に対する拒否反応を持っている。特に、自分が頑張って作った城を崩壊させる外部の侵略行為に対する抵抗は驚くほど敏感である。自身を否定する痛みは、意外にも深い傷として残る。その傷が原因で洞窟から出ないようになる。私はあなたに嫌な事しか言わないだろうから君も私に同じように要求するメッセージがルールとなる。自らにに刺激を与えなければ、傷はないが空虚な人生はそのまま維持する。このような沈黙のカルテルを絶つために[美しい競争]を原則とまでした。何かしようと決定がされると、何の反対もない。事が推進され、それぞれに与えられた課題は、忠実にする。ところが、これが一緒に集まったときは確認レベルを脱することができない。 【刺激と反応]が起こらず効率が落ちるしかない。死ぬまでモチベーションを提供することができず、適切な結果と効果を必要とする。
 [刺激]に対する恐怖を撫でてくれる言葉が[激励】だ。 [刺激]に対する[反応]の結果10と1が確認される。人は、その確認を恐れ[刺激]に対する拒否反応を示す。 10と1を確認する過程で、相対的剥奪感が生じるからである。 1に対する確認が怖いので、洞窟の中で1-1、1-2、1-3のような論理を量産する。自分も知っている。そのような論理が無意味であることを。 10であり、1であることは重要ではない。 1を確認することが重要であり、2に行くことに[2013年体制]は注目する。ライフスタジオの面接過程を見ればよく分かる。ライフスタジオの構成員になることにどのような基準がありますか?静かに考えてみると、一つの基準がある。【先着順】。人を採用する基準を作ることは簡単なことである。男性と女性、年齢、キャリア、最終学歴、資格、などなど。私たちの社会で通用する基準を適用して人を選ぶことができる。しかし、ライフスタジオで話をする[自立]ということが、このような基準と何の関係があるだろうか​​?自立をよくするような人を選ぶということは、私たちが話している[自立]とはかけ離れている。結局、基準は相対的基準ではなく絶対的基準である。自分が1の場合、2が重要なものであり、10である人は11が重要なのだ。すべての10である人が集まって組織を構成するのは、ライフスタジオの原則と一致しない。 10というのは相対的な基準である。 1があり、それよりも10である。 10の意味は、1から10であるに過ぎない。ライフスタジオは、このような精神に基づく組織である。いやそうでありたい。再強調するが、1は2が重要なものであり、10は11が重要なのだ。 1である人に2になるための激励を必要とし、10も、11になるために激励が必要である。 1が2になるために努力している姿を見て、10があざ笑うのであれば10は、解雇の対象となる。
 [激励]についてこのように強調する必要がないことは今そうしているからである。問題は、1が何度も自分の洞窟に入ろうとする姿を見せることである。 [奨励]も限界があるため、[2013年体制]と[論文プロジェクト]まで来たようだ。 【刺激と激励]がされていない場合は、時間と空間の区別を通じて変化を与えることも選択の一つの方法である。
[討論の効率]
読み、1書き3、討論10という表現をよく使う。【読み書き討論】を上手にした時、討論の効果が最も高いということを強調する為であった。読んで書けば自身の中で整理がなされる。これが外に表れる時に真骨頂が見える。自身の内から作られた、その何かが道に転がっている小さな石ころなのか金塊なのかどうかを確認することから変化は始まる。山の中に埋もれている金塊はただの石に過ぎない。可能性だけを持っている状態である。洞窟を掘り、石に付いている金を分離してリングすることで価値が発生する。このように、自分の中にぐるぐる回っている経験と理由の結果が出てくることで自身のものとなる。しかし、私たちは自分の事を外へと引き出すことが下手だ。引き出せば攻撃の対象となりえ、論議の中心にも立つこともできる。また、相手の意見に自分の立場を打ち出すことにも億劫である。自分の意見との相違を確認したにもかかわらず、最も遠まわしに話をする。それでも話をすることはまだ良いほうで、ほとんどが自分の中で事件を終結する。
ライフスタジオで、これまで日本文化に関する何回かの学習と討論があった。 [菊と刀]、[日本の歴史]、[致命的な日本]などの本を見ながら日本を理解しようとした。外国人が見た日本は、まず住みやすい国だ。人に対する礼儀は基本であり、争いではなく、調和を優先する。道は清潔で、犯罪もほとんどなく、電車の到着時間は正確である。たまに韓国に帰れば周りの喧騒に少しばかり適用する時間が必要である。しかし、調和のとれているのはいいことだが、と----ても調和が取れすぎているのも短所である。自分と他人の違いを話さない。と-----ても...調和のとれたまとめの討論なのか発表会なのか錯覚を起こすほどの静粛である。
討論は公式的に自分の事を外に引き出す遊びだ。銭湯で皆が脱いでいることがおかしくないように討論は多くの観衆の前で公式的な競技をするものだ。攻撃と守備は試合を構成する要素に過ぎない。このような場でも発言しなければどの場で自身を確認することができるのか?外に出た自分の特殊性は、私たちの社会を構成するいくつかの機関を通過しながら普遍性を確保するようになる。
 
私たちの社会が作られたいくつかの機関の中でライフスタジオが強く押しているのが[討論]である。普通の会社が[具体的な成果]や上級職による[人事評価]に頼るならライフスタジオは、[討論]である。 [美しい競争]を狭い意味で見れば、[討論]の効率を高めるための原則である。考えてみてほしい。ライフスタジオで販売や新商品の開発など話しをするか?私たちのすべての活動を総括することは何だろうか? [討論]が唯一である。だから討論の効率に関する話を続けているのだ。 [討論]の水準を高め、その結果に関する確認がないとするならば、ライフスタジオの存在が根幹から揺さぶられる。 [討論]は、[読み、書き、議論を第一優先に]で取り上げたので、このくらいにしよう。
言葉を作ってみるとこうだ。 【知らないことは犯罪だ]、[読み、書き、討論を第一優先に]、[責任と権限]は、討論に対する内容を満たすための原則たちである。 [美しい競争]は、[4大原則】の効率性を高めるための形式である。自分の事を表に出し、世の光に露出させるための劇薬処方が[美しい競争]である。 [美しい競争]は、広い意味では、私もよくなり、相手もよくなるように、互いに刺激を与え、激励すること、むしろ積極的な協力であり、狭い意味では、[刺激と激励]を通じて、[討論]の効率性を高めるための形式である。
 [美しい競争]をモチベーションと効率に関する話だと言った。競争は誰かは前にでて、誰かは遅れることを基本とする。先に進む人は自慢し、取り残される人は更なる敗北意識が強化されることが最悪のシナリオだ。しかし、先に進む人や遅れる人すべてに[刺激と激励]になれば、参加者すべてが勝利する。モチベーションの高い段階であり、[2013年体制]がしている事の効率を高める原則が[美しい競争]である。 【刺激と激励]が溢れる[美しい競争]があれば[討論]の効率は自然に上がる。ではどうすrか?方法はただ一つ・・・
【2013年体制]の効率的な運営以外にない。先に進む人は謙虚に、遅れる人には励ますことができる効率的な運営以外にあるだろうか?
[美しい競争]の決勝戦にも似た[フェスティバル]で、効率的な運営の答えを探してみよう。
3. フェスティバル
フェスティバルを初めて企画したとき、血まみれの戦場を想像した。支店別に競争心を誘導すれば、自身の洞窟から出てくる瞬間を目撃することができるという期待が高かった。何か自身の意見を自信を持って主張するよりも美しいものがあるだろうか?自身と相手の対立した意見が行き来すれば、自身の体から化学的な作用が起こる。一人では知ることができないその何かが感じられる瞬間が変化が始まる美しさである。ところが、結果は以前にした全体会議と大きく変わらなかった。なぜだろうか?
강준만 교수가 쓴 [감정 독재]에 나온 사회적 태만에 대한 글을 소개한다.
理由はただ一つ。支店という巨大な防御壁が私たち、皆を保護してくれていたからである。洞窟に対する話のようだ。支店にいるときは、各個人の洞窟で活動し、フェスティバルでは、支店という洞窟の中にいた。各個人の洞窟で作られた粗末な内容が支店では話されてフェスティバルでは、その不十分な内容が支店という洞窟で、その貧弱さを隠していた。このような状況では、[刺激]は生じることができないし[激励]すべきことが発生しない。
カン·ジュンマン教授が書いた[感情独裁]に出てきた社会的怠慢の記事を紹介する。
傍観者効果を生み出す責任感分散現象が組織で表れることを指して[社会的怠慢]という。この現象を最初に発見したフランスの教授の名前から、[リンゲルマン効果]とも呼ばれている。
リンゲルマンは1913年、言葉の能力についての研究をしながら、車を引く馬二頭の能力は一匹の馬が引く能力の2倍にはならないという事実を明らかにした。その結果に驚いたリンゲルマンは人を対象にロープの実験をした。ロープを引っ張り合い、その力を測定したものである。人も馬と変わらなかった。 2人が同じロープを引っ張った時に、彼らは平均して一人でロープを引くときに使用し力の93%しか使わなかった。3人の時は83%、8名である時は49%に過ぎなかった。特に集団のメンバーの数が増えれば増えるほど一人一人が集団の課業遂行に貢献する程度は減少することが分かった。すなわち、集団で課業を実行するときに、個人の貢献度が明らかに現れていない状況や課題の結果に対する責任感がはっきりしていない状況では、このような[社会的怠慢]が発生することが、より容易になるということである。
マキャベリは、[君主論]で[遠征隊の指揮権を平凡な能力を持った一人に任せるのが一番優れていた二人に半分ずつ分けて任せるよりはましだ]と言った。同じ理由で、集団は個人よりも大きなリスクを負う傾向がある。このような傾向を[リスキーシフトrisky shift]と言う。世間の常識とは異なり、集団的な議論は、個人が単独で意思決定を下すよりも冒険的な決定を下すことである。失敗しても、私はすべての責任を負いはしないという考えのために、集団が個人よりも冒険的であるか、過激になることである。
社会的怠慢は事実上[責任]の問題だ。集団の中で、各個人の寄与度や責任を正確に知ることができれば、誰も怠慢を犯そうとはしないだろう。
大学生が受講科目でチームを作ってレポートを作成する場合は、最も多く発生する問題が[社会的怠慢]を犯す無賃乗車者だ。同じチームに所属している学生は、同じ点数を受けるが、多大な努力を傾けた学生や、頻繁に集まりをさぼりながら、何の寄与もしていない学生が同じ点数を受けるのは不当ではないだろうか?
だからといって私たちの情緒上、懸命に努力する学生が無賃乗車をしようとする学生と戦うこともなく、それを教授に知らせることもないので、一生懸命頑張っている学生の心を打ち砕くだけだ。しかし、広く見通せばそうくよくよすることはない。その後、社会に出て別の仕事に会ったとき、無賃乗車者は必ず大きな不利益を見るようになっているからだ。
5Dでフェスティバルを運営していた。なぜ硬直し、形式的に運営されるか5Dはもちろんのこと、私もわからずにいた。インセンティブの支給方法を変え金額を上げるからと、討論の形式や時間の計画を少し変えるからとフェスティバルの根源的な変化は起こらない。結局、人は自分の洞窟から、支店の洞窟から出てくることができる根源的で本質的な質問を私たち皆、しなかった。いつものように不十分な内容と硬い形式の提供では、目標を達成することができない。
 [社会的怠慢]ですべてのことを説明することはできない。しかし、一定の部分は、[社会的怠慢]が持つ原理がフェスティバルでも再現され[論文プロジェクト]を構想した原因を提供した。支店の洞窟に隠れることは、各個人の洞窟に隠れるシステムをそのまま踏襲する。各個人の洞窟脱出は、支店で1次的に行われ、その結果がフェスティバルでさらに拡散されるべきである。手順から見れば、フェスティバルでの変化で支店の変化を導きだすことが現実的である。
支店の洞窟から脱し、本当の自分を確認することができる方法は何だろうか?
簡単なことだ。各個人が10であるか1であるかを確認することが始まりである。確認自体が[刺激]であるからである。まず考えてみることができるのが支店単位の競争ではなく、各個人の競争に[フェスティバル]を規定する。朝にあるフォーラムでは、自分の支店の報告と計画に対する発表、自分以外の支店についての質問や議論を5:5の比率で点数を付ける。自身の支店に対する明確な理解がなければ、不十分な発表となるだろうし、他の支店への関心がなければ、質問もないだろう。午後にある主題討論も各個人が個人の資格で参加する。個人の総合で支店の成果を測定することも必要である。
フェスティバルを少し変えるからと[美しい競争]が述べている高レベルのモチベーションになるだろうか?なる場合もならない場合もある。しかし、私たちができる方法がこれくらいしかないということ。これくらいしか思いつかない。フェスティバルという方法しかなく、この空間での変化の出発点になることを望むしかない。しばらく前にあった論文の予備発表は【刺激と励まし]が肯定的に作用した。現在まで作成されたすべての論文が公開され10であるか1であることが確認できた。約5分の間に発表も論文を見たときの確認と大きく違わなかった。言葉自身の性能や怠惰を隠すことはできない。論文予備発表の後に人は足の裏に火が出た。テーマを変えて再び書きもして危機意識からもう一度精神を整える人も出てきた。
第二に進行者である。どのように進行するのかによって、山に行くこともあり、海に落ちることもある。フォーラムは、チーム長に、哲学は哲学サークル進行者に任せ、一定期間の【責任と権限】の原則を適用して成功事例が出てくるのを待つ。
フェスティバルで[刺激と激励]のモチベーションが提供され、ここで実験された内容が支店に降りて行かなければならない。フェスティバルが上手く行くかの質問に対する答えはこうだ。 [私たちはフェスティバルに集中しなければならない。フェスティバルは、私たちの総合を確認する場である。私たちの過去、現在、未来を一目で見ることができるイベントであり、問題の原因と解決策が提案されるだろう。 [美しい競争]は、人生を生きていく基本原理である。 【別にまた一緒に】お互いを見つめ、同じところを話す人生の原理が[美しい競争]であり、フェスティバルは祝祭の空間であり、人生の熾烈な闘争が行われる。]
[美しい競争]は、モチベーションと効率に関する問題である。
 マラソンの合計の長さ41.195㎞で35㎞地点を魔の区間だと言う。
 この部分をよく超えるとマラソン縦走の質的飛躍の瞬間を経験する。
 
魔の区間は、私たちの人生にも適用される。
 あと少しで見えるか見えないかの高地で、私たちは挫折する。
 [自分自身に対する無気力]を克服しようと約束した。そして一緒に行っている。
 ところが、その見えるか見えないかのような切なさは、現実の前で無気力になったりして、私たちの基準を自ら下げ、妥協する。
 [美しい競争]は自分と競争することである。私が1ならば、2に行って、私が3であれば4に行く。
 相対的ではなく私という絶対的な基準で[美しい競争]をしなければならない。
 
【刺激と激励]は人生の原理と似ている。私が作った偶像を私自身が拒否するためには、
 【刺激と激励]を必要とする。自ら刺激を受け激励し、一緒にいる人に刺激を与え、
 励ましあう、一緒にいる人と、刺激され励まされることが人生ではないか?
 
 [美しい競争]は共存である。
 
 [木が木に言った。私たち"合わさりあいながら森になって守ろう】
   
 
★. 終わりに
 
世の中には、ただでできるものはないという。アスファルトの間に育つ名前のない雑草でも、ある瞬間作られたものではない。私たちの認識とは関係なく、苦痛と創造の過程でその場を守っている。
私たちは何をしようとするか。
これに対する答えは意外に単純である。人間らしく生きようというものである。私の内面から響く声に基づいた生き方が人間らしく生きることだ。不便であれば楽に、疲れたなら、楽しく、揺れたなら姿勢を正すことが人間らしく生きることだ。 [日常的な倦怠]が無気力に発展して内面から出てくる声に、私たちは沈黙する。私達は傷つく権利を持っている。だからこそ人間らしく生きることができる。
自分を取り囲んでいる屈従の歴史を拒否しなければならない。
私の内面がそう命令する。
その命令による生き方こそが、即ち人間らしく生きることである。
多くの方法と手段がライフスタジオを経て行った。このすべてのことは、人間らしく生きることにつながる。人の涙は、屈従的に生じた非人間性への抵抗である。今涙を収め立ち上がってほしい。
Dr. Norman Bethune を度々引用する。
「病気の世話をしても、人を世話しない医師を小さな医師とし、人の世話をし、社会を顧みない医師を普通の医師と呼び、病気の人、社会を統一的に把握し、そのすべてを治す医師を偉大な医師という。」
Dr. Norman Bethune は、それが細菌でも社会体制でも、人間の健康と生命を蝕むのであれば、その対象を選ばず全身で立ち向かった真の偉大な医師だった。
真の偉大な医師にはなれない。しかし、現在の私に抵抗する。それは人間らしく生きることである。