レポートReport

2012年士官学校運営計画書

2015/12/16

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士官学校運営計画書
 
2012.8.30 Mr. Lee
 
 
. 背景
 
ライフスタジオは、今までの安定的な売上と利益構造を基盤とし、私達が行くべき道を模索しながら、実践に移してきた。学習休暇・ライフスクール・週4日勤務の議論等。。。
この全ての事業は一つのポイントに置かれている。
集中と習慣を通し、個人の[自立する人達の小さな経済共同体]に発展させなければならない。だから、一番先に施行する事が教育であり、ライフスクールとサークルに繋がっていった。そして、集中できる条件をつくるために学習休暇や週4日勤務などを施行してきた。
しかし。。。3年ほどが経過し、他の会社よりは少し自由で、幾つかの良い制度を導入したという満足以上のものは得られなかった。投入する資源に比べて、効果はとても微々たるものであった。
各支店では、討論が形式的に進行されており、学習休暇や週4日勤務等は個人の福利厚生に限られるようになった。
原因はどこにあったのだろうか?
まず、現場に適用されなかったということ。つまり、日常的な日々の生活と事業が関連性を持つことができず、一種の義務感だけが残る宿題として、または、束の間の余裕を提供する福利厚生の一つの種類として受けとらえている。
二つ目に、変化発展プログラムということが、私達の第一目標ではない、遠い国の話し、または、良い言葉の掛け声のように留まっていた。変化発展プログラムは1、2冊本を読んだからといって、一ヶ月に数回の討論を通しできることではないにも関わらず、全体を対象に低い平準化の方法を選択し発生する緩い事業進行が成されていった。
始めのものは、習慣に関することであり、二つ目は集中に関する内容である。集中と習慣という皮を被った様々な事業が関連性を持つことができずに、だんだんと推進動力を失うようになり、単純な繰り返しと福利厚生の水準に留まることにより、意味を喪失するようになった。
また、私達が主力としている事業が効果を発揮できないことにより、ライフスタジオにいながら決定的な問題となる事が一つある。現在各支店のリーダーと店長を合わせただけでも20名になるが、その中で誰がリーフだーシップを発揮しているだろうか?センター、リーダー会議、店長会議で成された政策生産と、執行構造を見た時に成功事例として挙げられるものがあるのか?私達が行ってきた、そして今行っている変化発展プログラムの進行者でありながら、その恩恵が一番多く返ってくるリーダーと管理者達の成長は何故停滞しているのか?果たして今のライフスタジオを引っ張っていける人や単位があるのか?
 
ならばどのようにしていくべきなのか?
 
ライフスタジオが要求されている状況は
‐.日常生活から直接的に適用される事業への再編、
‐.集中した教育と学習の過程から起きる経験、
‐.そのような成功経験をした人達の単位が、ライフスタジオを責任持っていかなければならない。というように要約することができる。
去年、静岡プロジェクトで幾つかの糸口を見つけた。
‐.現場で生きて動く組織を作り、本社中心の単一な体系を作ること。
‐.そのためには組織と人が必要だということ。
‐.だから直営店と士官学校の運営構想が始まったのだ。
 
直営店をオープンした目的は、生きて動く組織を作ることである。生きて動くということは、変化発展プログラムの定着のための、直接的な事業が現場で適用されるということを意味する。大きくは、週4日勤務、朝と夜の1時間、35万円プロジェクトという3つの事業で進行されており、その事業が少しずつ効果を発揮している。直営店の中で起きている現場適用をAチームに拡大しながら単一な体系を形成しようとしている。
集中した教育と学習の過程から起きる成功経験、そのような成功経験をした人達の単位がライフスタジオを責任持っていくということで士官学校を計画している。
士官学校について始めて話が出たのは、有給活動リーダー会議の場であった。
[私達は今まで何をしていたのか?]という質問に、皆何も言うことができなかった。各支店のオーナーになると、リーダーシップが自然についてくる。暖かい日差しがさし続けると自然と自分の厚い皮がはがれてくるようになる。このような、漠然とした想像から始まったのではないか?ならば私達はどのような制度を導入し、人を育てることができるのか?人が人を人として創っていく作業は幻想にすぎないのか?口では人の変化発展を話していながら、自分にとってそれは本当に切実なことなのか?現在の状況が良くないために、まずは他の事業をやってみる回避政策ではないのか?
様々な地雷が埋まっている道をどのように回避しながら、私達の目的地にうまく進むことができるのか?
 
. 目標
 
士官学校で必ず成すべきことは何なのか?
士官学校で必ず成すべきことは何なのか?という文章を書いて、少し考えている際に、思い浮かんだのは、よく引用している映画「グッドウィルハンディング」の一場面。。。
社会に対する反発心と強い被害意識の中、様々な場所で事故を起こしながらメンターに出会い、現在の自分と社会をそのまま受け入れ、会社に出勤している主人公。。。ハーバードの学生たちをより多くの知識で抑圧し、何の理由もなく集団で仲間割れし、愛する人がいても傷つきたくないがために送り出し、自分の分厚い壁を壊さないように、より社会をあざけりながら1日1日を過ごしていた彼に、メンターが言った一言――お前はそこに直接行った事が無く、そこの香りそこの感触がわからないだろう――そして硬く閉ざされていた扉を開き始める。その主人公が特別な知識を習得したり、方法を使ったわけではない。ほとんどの映画がそうだが、山を登るのと同じように、一つの事件と人物達が繋がりながら多くの紆余曲折の中で頂上に登るようになり、下山する後姿で映画が終結する。
士官学校の学生達に質問したい。
一つの大きな山を越えたことがあるか?
ある日誰かに、真剣に話せるそんな山があるのか?
自身の存在を確認し、世の中に私の身体を投げ入れる自由を感じたそんな山を?
成長小説で抜けてはいけないような、そんな経験をすること。。。そのような経験は各自が請け負うことであり、その結果も各自違うだろう。その結果がライフスタジオと必ず繋がらないといけないわけでもない。
今まで経験してきていない大きな山を越えるということは、何を意味しているのか?
20歳頃、1泊2日で友達とたくさん旅行に行った。言葉では旅行と言ってはいるが、夜いつもとは違う雰囲気でお酒を飲みに行くということが核心であった。遠いところまで来てただお酒を飲むわけにはいかないため、ゲームもして意味のある会話の時間をわざと作りだしていた。その時よくやっていたゲームが真実ゲームに似た内容のものだったが、その中でアリランゲームというものがあった。自分の人生を過去現在未来に分けて大きな事件と計画をメインにグラフとして描き、それを友達の前で説明する一種の自己人生発表会のようなものだった。幼稚かもしれないが、みんな真剣に友達の話を聞き、拍手をおくり若干感動もあった。
このように自分の人生の傾向が変わる瞬間は誰にでもある。人生には3度の機会があるというが、その機会を掴むと当然そのグラフの方向は変わるようになる。ここで言う傾向というものは、ある職業や運、または結婚のような具体的な事件に対することではなく、追われる人生から追っていく人生、追っていく人生から享受する人生へと繋がることならば。。。
日本に来て沢山の人と沢山の討論を行いながら感じることは、自分達が積み重ねてきた壁の間で身動きが取れずにいる姿であった。しかし、外から見える姿は驚くほど体制に順応的である。動きがとれず自分の内部からはガスが持続的に発生しているが、外では周りの条件を宿命として受け入れる矛盾の状態の連続が涙で、ため息で、そして人々との関係を一定の距離感を維持する力で表されていた。
そしてその壁を越えようとする努力や勧誘、周りの成功事例を経験した事がなかった。何をどのようにすればよいのか全く知らずにいる状況はある意味、とても驚くべきことである。だから[問題が無い]という組織文化が広範囲に広がったのかもしれない。問題が無い事が良いというのは人と人の肌が触れ合わないということであり、そうであればあるほど私達は悲しくなるのだ。
教育プログラムやライフサークルを通して何かを変えようとしたが、若干の改善だけが成された。傾向を変えると言う事は、今まで右手でご飯を食べていたのを、左手に変えて食べるというのと同じことだ。自分の目を変え、行動の根拠を変え、実践の質的変化を成すという事が傾向を変えることだとするならば。。。士官学校以上にならなければならない。士官学校は始まりに過ぎない。。。
つまり、士官学校は人生の傾向を変える始まりなのだ。
否定から肯定へ、受動から能動へ、木から森へ変わる
変化発展プログラムの始まりなのだ。
 
. 3つの装備
 
そのような山を登る為には必ず必要な装備が無ければならない。
それはなんだろうか?
 
熾烈さ
熾烈さは、情熱とは少し違うニュアンスを持っている。情熱は人生や対象に対する基本的に持つべき態度と関係があることであり、熾烈さは一つの目標に対する情熱の程度を表すイメージがある。私達が前に登った事がない、または不可能そうな山を越えようとするときに、このような熾烈さが必要なのではないか?
今まで討論をしながら、情熱が自分の武器だと答える人を見てきた。しかし、その人達を観察してみると、特別な方法は無く、誠実であったり没頭する人の場合が多かった。そのような情熱は適用と関係がある。自ら立てた壁を自ら壊し、新しい条件を作ることではない、現在自分を取り巻いている制度と慣習、固定観念の枠に自分を合わせる作業に慣れている。それがつまり適用ではないか?そのように適用するために一生懸命生きてきたが、私達は何故世の中が動く位置に対して無関心であり、世の中を見つめる自分だけの論理を作る事ができなかったのか?何故自分に近づいてきた限界と正面でぶち当たった時、それを越えた後の新しい世の中を創造しないのだろうか?
だから熾烈さなのだ。私達は今まで経験した事が無い、高い山を登るということが目標だからだ。少し前に、ロンドンオリンピックがあった。勝利の涙と敗北の涙を流す姿をよく見た。その涙に違いがあるだろうか?成功経験から、成功は勝利した者のみが得られる単語なのか?成功とは、熾烈に山を登り勝利と敗北の涙を流すことのできる人達に与えられた贈り物なのだ。全世界の多くの人々が見ているその場で自然に流れるその涙自体が勝利ではないのか?
目標に向かい走っていく。そのような動きの後に訪れる穏やかで安らかなものを期待する。
 
真理に対する具体的な接近
人をよく観察してみると信頼される人は何かバランスが合っているという印象を受ける。信念と行動が一致し、いつでも一貫性を維持している姿から信頼が生まれる。
「別々に一緒に」を実践している人達から感じるその信頼の根源は何なのだろうか?多くの知識を持っていることだろうか?いろんな経験?いつでもさっぱりと論理に合うように話すから?。。。
よく人が話す言葉や行動は、偶然でてくるのではなく、その人の中にある構造からでてくる。構造がどのように設計されているのかを知ると、人を理解することができる。その構造で一番重要なことは、その下を構成している土台に関することだ。その土台を変えない限り、身体にくっついている癌細胞とは関係なく、一生懸命化粧をして健康に見えることに過ぎないかもしれない。4~5年の間たくさんの討論と会議を経験しても、いつも同じ議論の水準しか見えないのも構造が変わらないからだ。私の日本語の実力もそうだ。。。
建物の柱のように柱がたくさんあると、バランスが合うだけでなく、より広く高い家を建てることができるのではないか?私達がいまだに自分の問題から脱することのできない理由は柱がないからではないだろうか?最低限10個程度はないといけないのに、2~3個で耐えているのではないか?
真理の対象となるのは、私達が常に周りから見て聞いて感じるものである。人間、幸福、愛、自由、平等、関係、変化、犠牲、美しさ等々。。。議論や会議をしてみると、その該当する知識をたくさん知っている人が話をたくさんするようになる。だから知識がないから議論や会議ができないと多くの人が話すが必ずしもそうではない。知識が多ければ、論理の展開や実務に有用であるかもしれないが、目標達成の保証はしない。つまり、知識と知識の相関関係、人間と人間、そして世界との関連を判断する自分だけの視覚が必要だ。その視覚に価値を与えて何かが決定され、実行されるのだ。自分が考えている真理が集まれば、それを元に世の中を見ていくため世界観といわれるようになり、対象に価値を与える基準ができると、それが自分の価値観になるのだ。このような世界観と価値観が成立するためには、その材料となる真理に対する具体的なアプローチが必要である。
山を登るために、世の中の全ての真理を知る必要はない。そして知ることもできない。しかし、6ヶ月の期間の間、ただ一つの新鋭だけでもより深く熾烈に接近し、入っていけば、上で話している柱や構造、世界観と価値観が何なのかは知るようになる。士官学校の目標は、世界の全ての山を超えるのではなく、今まで本人が越えられなかった、しかし自分の人生の主人として生きていくためには、一度は必ず超えなければならない山を越えることだ。その山を越えるということは、グッドウィルハンティングの主人公のように、世の中を別の視覚で、自分の人生の傾向を変える作業である。その作業を何でするべきか?二つの翼で飛んでいかなければならない。一つは、真理に対する具体的な接近と仕事が完成する原理に対しての理解であり、熾烈さをエネルギーの根源とする。
 
仕事が完成される原理に対する理解
少し前にある人からこんな質問を受けた。
「何故オーナー達が現場に戻ってくればくるほど、問題を発生させるんですか?」
少し突拍子の無い質問ではあった。あ!同じ考えをしている本社のスタッフも多いような気もするが。。。
このような内容の返事をした。普通オーナー達は最初に100を話す。従業員は10程度を知っていてオーナーはそれまでの経験とその主題に対して、先に考えながら20程度知っている。20から100に行く過程で問題が発生し、大体は40程度まで行って中断することになる。20から40に行く過程で、多くの傷を受け、互いへの信頼は減っていき不信感が芽生えてくる。もしリーダーが100を知っていたら問題が起こらないか、面倒がるだろう。問題は、20しかないのに100を話すことではない。リーダーの役割は100を作ることだ。リーダーはつまり100なのである。100を作れなければリーダーではなく、100を作ることができないため問題が発生するのだ。リーダー達にもいろいろなタイプがいる。20を持っているのに10を話し20程度をするリーダー、20を話20までを行うリーダー、20持っていながら100を話、100を作るリーダー等々。。。しかし、私達が目標に設定したのは、ほとんどが100以上である。結局目標は100であり、それが一ヶ月、または一年、または生涯行くべき道なのだ。対象と主題によって水準と期間を決定し、目標を設定する。それが、リーダーがやるべきことである。トゥチル兄さんが、誠意とは自分と交わした約束を守ることであり、カリスマとは他の人にした約束を守った時に出てくるものだ。という素敵な言葉を言っていた。カリスマは他の人との約束、即ち目標に対する具体的な提示と、共にそれを達成することを言っており、つまりそれがリーダーの存在理由になる。
ところが問題なのは、目標が達成されるということが何を意味しているのか分からないのに、我武者羅に誠実に、自分に任せられた仕事を一生懸命行う。そんな姿を見るたびにいつもこういう話をする。
[あなたの周りに一生懸命生きていない人がいるのか?]
6時前に起きてシャワーをし、服を着て満員電車で立って苦労しながらスタジオまで来て、一日の日課が始まりご飯を食べる時間も無く撮影して分類し、顧客と話をし自分の業務が完了すると、6時から7時くらいになって、再びその電車に乗って家に帰ると8時から9時くらいになり、ご飯を食べてシャワーをし、テレビを少し見ると11時は超えるんじゃないか?ほとんどの人は一生懸命生きている。しかし、なぜ人生が楽しくないのか?何か与え分けて積み重なり、跡が残るというよりは消耗され、消費されているのではないか?あまりにも断片的な比較だろうか?
仕事が成されて行くことと、ただ仕事をするということ、目標を達成するということ、自分の仕事を一生懸命にするということは、決定的な違いがある。何に?人生が楽しくないということであり、意味づけできないということだ。
仕事が成されて行くというのは、正確な目標設定から始まる。目標設定は、先に話した真理に対する具体的な接近と関係がある。例えば越谷店の目標が何なのかと聞かれたらなんと答えるか?現場適用、生きて動く組織、変化発展する人間等の言葉が出てくるだろう。生きて動く組織が作られたら、果たして何が行われるのだろうか?この答えにちゃんと答えられる人はどのくらいいるだろうか?だから目標設定は真理の具体的なアプローチと関係がある。
目標設定がされると、戦略と戦術を樹立し、内部の構成員達からの同意過程を経て、立体的なスケジュールが出なければならない。そして期間と観察、修正の過程を経る。
仕事が成されて行く過程は、自己実現の過程と似ている。多くの妨害要素と無気力感を自分で解決しながら仕事が成されて行く原理を理解するということは、人が人らしく、もっと高い価値への移動を保証する。その原理を理解し、自分の武器にすること自体が変化発展プログラムだと思う。
熾烈さ、真理に対する具体的な接近、仕事が成されて行く原理の理解は、互いが繋がっており、影響を与え得ることだろう。士官学校の学生達がこの3つの装備をすべて持っているわけではないだろうし、むしろ、元々自分達が持っている昔の装備を使用するだろう。重要なことは、自分に告白しなければならない。自分に備わっている装備が本当に変化発展のための有効な装置だったのか?以前の装置のままでも、ある程度までは行く事ができる。しかし、氷に覆われた絶壁や希薄な酸素、吹雪が吹き荒れると昔の装備は無用の長物になり、再び自分の壁の中に潜っていく自分を発見するのではないか?
 
★.3つの武器
士官学校では、3つの武器で自分と向き合う。
時事、情報取得と共有、ライフスタジオの分析と代案
 
時事
所沢店で、自主的なライフスクールを時事に関するものとした。全体教育プログラムの主題が出れば、それに関連した内容をスタッフ達が自ら調査・発表し、討論することである。その話を初めて聞いたとき、[しまった!]となった。何故こんないい方法を考えられなかったのか?
山を登るということは、自分を構成しているものを振り返ってみるようなものだ。その過程で根本的な問題を発見し、傾向を変える作業をすることになる。遠い所に旅行に行ってみると、ある瞬間、何で私はこんなに遠い所まで来るしかなかったのかと思い返す。突然訪れるその瞬間、私を構成している全てのものが新しく組み合わさりながら、一つの単語や文章が浮かび、それをもう一度自分自身に当てはめる過程で、あの方が舞い降りてくる。それが山を越えるという過程である。全く新しい条件と空間で自分自身を投げ出す行為が、継続して起きるようになり、自分にくっついていた不安と失敗の根源が客観化される。
数ヶ月前に本社の従業員に5,000円ずつ配ったことがあった。[お願いだから新聞を見てください。。。]新聞には、世の中で起きている多くの話が載っている。その情報を自分の頭の中に体系的に組み入れることが新聞の主な機能である。ところが、それよりもっと重要なことは、世の中に自分を投げ出していきながら、自分と世の中が疎通し、その疎通は、自分の信念を強化しながら同時に余裕を与える。これが持続していくと、人は成熟していく。情報や七期を取得することを超え、自身と世の中に対する視線を強化しながら柔軟になること自体が変化発展プログラムの一番重要な柱ともいえる。
自分自身を継続して投げ出していかなければならない。人間や事物、自分自身に対して継続して投げ出していき、戻ってくる答えに耳を傾けなければならない。
しかし、私達は何を元に投げているのか?
大体は写真のことを多く話す。本当に写真に投げかけているのか?毎日接しているから、それを投げているものと勘違いしているのではないか?ところが、写真に投げかけているという人を思い浮かべることができるか?本当にいない。おそらく、毎日写真と関係している仕事をしていることで、自分が写真に自分自身を投げかけていると誤解しているようだ。毎日息をするからといって、息をすることに自分自身を投げかけていないように、ただ自然に行っていて、他の人よりは少しうまくやっていて、面白みがあるから投げかけているといい、投げかけたいと話いるのではないか?世の中が回っている話し、つまり、時事や自分自身を投げかけるとても良い素材になる。
一つ目に、多様である。政治、経済、社会、文化、芸術、人間、科学等々。。。
二つ目に、能動的である。本人が計画し、調査し発表し討論する。
三つ目に、知るということに対する楽しさを知る事ができる。
山を越えるということは本人が望むことを本人が直接研究し、本人の口で本人の言葉で本人が説明し、本人の意見と違う部分を探し出し、説得し闘争し、本人の話を作り出すことではないだろうか?時事はこのような過程を遂行するにおいて、最適な素材ではないだろうか?
士官学校を初めて構成した時は、漠然と沢山の事を書いて、読んで討論するということを考えていた。だから、50冊を(歴史・哲学・経営・人文学を各10冊づつ)選定し、読んで討論し、500ページ以上の文章を書くことを基本的に設定した。しかし、これは幾つかの決定的な限界があった。
受動的になる可能性、知識だけを得る可能性、6カ月という一時的な期間、知らないという始まりの段階から知らないで終わる可能性等々。。。
毎週主題を決め、各自が調査し発表し、討論を通して争点を発見していく持続的な作業。。。
これが士官学校のオイルのような役割をするだろう。
 
情報取得と共有
ライフサークルのリーダーシップで主に話す内容は、情報に関する事だった。冷蔵庫に材料がないという表現を使ってきて、梯子の論理もだしながら情報の取得と分析、政策生産に対する重要性を強調してきた。
昨日チョンアと話しながら[人の心を引き付ける魅力]の話をした。リーダーが必ず持っている必要があるものは何なのか?企画力?推進直?カリスマ?未来予測?。。。全て重要なことだが、[人の心を引き付ける魅力]が最も重要であり、それが始まりであり、終わりだと主張した。では、何を持ってして人の心を引き付けなければならないのか?ドヒョンのようにハンサムな顔?人間に対する無限の愛情?目的としたものは必ず守る不屈の意志?これらは全て本当に重要ではあるが、これが効果的に役割を発揮するためには、何が必要なのか?先に時事に関する内容を書いたが、自分自身を継続して投げかけていかなければならないと言った。私と私、私と対象の間には何があるのか?
つまり私と私、私と対象の間で伝達されることを[情報]と言う。
梯子論理で説明してみると、私達は何かをした時に限界に直面する。1から5まで知ったとしても6がなければ絶対に7を知ることはできない。ところが、私達の目標は、常に100である。6を知ると7を知ることができ、7を知ると8を知ることができる。たまに、5まで知っているのに10を知っていると勘違いしている場合もある。このような時、私達は多くの間違いを犯すが、その間違いを修正する過程で6を知ることが出来、7をきちんと知ることになるのだ。そうすると、10は自然に以前と違った姿で私たちの前に現れる。梯子を登る時のように、一歩一歩登るしかない。その6を知ることが出来るのは何だろうか?その神秘の物質とは、まさに情報の取得と共有という作業である。冷蔵庫に何かが入ってなければ何も作ることが出来ない。冷蔵庫に何もない場合は、各自の観念だけで料理を作ることが出来る。そのような食べ物は、束の間喜びを与えることはできても、いざ空腹時に食べる事が出来ない。むしろ、お腹がすいたら自分のおしっこを貯めて食べる方が正しい道だ。冷蔵庫に入ってくるのが情報であり、その情報を分析して判断し、私が作る料理を決めて実行に移す。
この世界の争いは、大体が情報がないか、それでも持っている情報が固定観念の支配を受けた腐った材料で行われる。この文章を見た人々が持っている李濟旭という人の判断は、各自ばらばらだろう。同じ人を違うように判断するという事は、どこかで間違いを犯しているという話になる。そして、その間違いが無条件悪い事だけではない。鍛冶屋の職人が刃が真っ黒になるまでカナヅチで叩くように、情報が継続的に入ってきて、それが共有される過程で、より一層客観性を持つようになり、その中で知の世界に、さらには信念に発展することが出来る。
リーダーシップで重要であるという洞察力、推進力、自信、情熱、将来予測、人間に対する礼儀、目標設定能力などの基本的な単位は、情報取得と共有にある。情報取得は、世の中に存在する全てのものを対象とし、共有とはレーダーの電波のようにすぐに飛んでいって正確に戻ってこなければならない。
ところが、通常の情報取得と共有を補助的な手段として考える傾向がある。
しかし、士官学校では情報取得と共有そのものを主題とする。人に深く入って共感すること、目に見える現象に留まらず、本質を探して説明すること、自分の前にあることを超えて全体を対象
とするもの、ただ入ってきた情報の解釈で留まるものではなく、目的意識を持って情報を探し、自分の言語で作ること、自分の言語を他の人の言語で再解釈する技術と真正性。。。このようなことが変化発展プログラムではないのか?
 
ライフスタジオの構成と代案
士官学校は頭だけが変に肥大化した人を作る可能性がある。現実に基づいた教育と学習が必要だ。だから作ったのは、[ライフスタジオの構造と代案]
質問を挙げてみる。
ライフスタジオが歩んできた道を振り返って、重要な地点での選択を評価して見る。
ライフスタジオの3年後の姿を想像してみる。
2013年ライフスタジオの選択と集中は何であるべきなのか?
現在、ライフスタジオが直面している問題を[豊かさの中の貧困]とで表現することが適切であるのか?
ライフスタジオはなぜ人に集中するのか?
人が人を人としての本当の意味とは何なのか?
本社の代表は誰がなるべきか?
従業員で成される経営集団は可能なのか?
越谷店で話されている水平的なリーダーシップの実体と、それを可能にする前提条件とは?
原本CDはなぜ29,400円なのか?
ライフブックは、私達のアイデンティティを確保した商品なのか?
ライフスタジオの写真の次は何なのか?
4人で1日に6件の撮影をするのが最適な組み合わせなのか?
給料の基準は何なのか?
35万円プロジェクトは何を意味しているのか?
このような質問に対する答えは意外に難しい。深く入れば入るほど、哲学的思考の不在とアイデアの貧困から迷うようになる。現在を把握しにくいならば、代案を提示することも期待することはできない。それでも、一つの可能性があるのは、こんな話を一度もしたことがないということ。自分を取り巻いている条件を客観的に判断して観た事があるのか。士官学校をする理由は、他の言葉にすると、条件を作る人を作るということである。ところが本に出てきている内容の一方的な解釈は奇形的であるしかない。現在、自分が立っている地の上で自分の観念と行動を支配する環境と条件、そして私達の反応に対する客観的な判断と新しい条件の模索は、私達を今とは全く別の世界に案内してくれるだろう。
 
★.6カ月間の活動
 
1日
朝8時出勤、15分間掃除、15分マキシムタイム、8時半から12時まで個人の時間、12時~1時食事と散歩、1時~3時哲学の時間、3時~6時は3つの武器、6時退勤
 
1週間
月曜日は時事、火曜日は公式行事(全体会議、時事討論サークル、本社会議、個人の選択)、水曜日は休日、木曜日は情報中解くと共有、金曜日はライフスタジオの構造と代案、土日は写真
 
1カ月
各自が書いた文章と、活動報告書を毎月2日以内に皆にメールで送る。そして毎月3日を士官学校での毎月の評価と、計画に関する討論を進行し文章化させる。
 
6カ月
9、10月は哲学エッセイ、11月~2月はフランス哲学