フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive

接近

投稿日:2017/11/30

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Photo&Write by Reiri Kuroki
Coordi by Misaki Nakagawa

@Yokohama Aoba




写真が好きだ。
迷いなく、そう言い切ることができない時間が、少し続いていました。


カメラを持って長い分、幾らかは経験でリカバーしながらも、時折自分の中でモチベーションが枯渇します。
ファインダーの中で迷いながら、それでもシャッターを押して写真を残し、
『写真って、これで良いのだろうか?』と悶々と悩む時間は、カメラマンとしては少々情けない時間です。

「良い写真って、なんだろう」

毎日撮影をしていく中で、カメラを持った自分の動きが、声が、鈍くなっていくのを感じていました。
ファインダーの中は整理がされず、アタマの中は混乱し、目に見えるものをそのまま見るばかりになっていく。

「写真って、なんだろう……」


気が付けば、7年もカメラを持って写真を撮っていながら、何となく、自分は『写真家』と言える程、写真に対してストイックな訳ではないことを知りました。
それでも、『写真館のおねーさん』としての割り切った『作業』にしてしまえる程に熱がない訳でもなくて、『写真』に対しての幾つかの欲は持っていて、だからこそ、厄介なのかも知れません。
写真が好きだし、良い写真を撮りたいし、写真で承認されたいという欲求も多少なりともあるのでしょう。
そうならば、私はもっと写真に対してストイックであるべきではないのか?
そうなれないのであれば、私は写真に対しての誠実さを欠いているのではないのか?
自分の中に、澱のように溜まっていく後ろめたさが、心と身体を鈍化させていく……それはシンプルに、『疲れ』という言葉に置き換えることのできるものであったかも知れません。
写真を撮る、ということが、苦しく感じられるその時間は、自分がライフスタジオにいる意味を考えさせる時間にもなりました。

「わたしは、なにをしているのだろう……」



と、まあ、思い詰めやすいのが私の悪い癖なので、とにかくマイナス思考のアタマを空っぽにできるように、ひたすら書きまくりました。
6月にも、『写真大辞典』を題材に、書いて書いて書きまくって、その先で撮った写真が自分の世界をほんの少し、変えました。
あの時くらいやれば、この悶々とした暗いトンネルから抜けられるんじゃないだろうか。安易にそんな考えに至りましたが、如何せん自分の中に積もり積もった後ろめたさと疲れは、ヘヴィーな写真分析を量産する程の気力を私に残してはくれませんでした。
だったら、もう少しカジュアルに、自分の気持ちが楽しめることを書いてみよう。
楽しいこと、は、結局日々の撮影のことでした。

可愛い可愛いBabyを、小難しいことは考えずにただ『かわいいいいいいいいいいい!!!!!!』と書くBlog。
やんちゃな子どもたちを、その独特な世界観を、コミュニケーションを、『はじめまして』の時間に交わす幾つもの感情を、心の赴くままに書き綴ることを、ほぼ毎日、していました。
ひょっとしたら、7年目の人間が書くにはあまりにも、カジュアルな内容であるのかも知れません。
しかし、自分にとっては本当に重要な、スポーツ選手で言うところの基礎練習のような、筋トレのような、そのくらい大切な基盤でした。
幾つものエピソードと、そこに行き交う感情を書きながら、確認をします。
『写真』が好きなのかは、ちょっと今はわからない。
でも、『撮影』は、好きだ。
ひとと関わりながら、撮影をする時間は、好きなんだ。
どうやら私は、そうみたいなんだ……。


それでもまだ、写真が少し苦しかった時に、彼女に出会いました。
7歳の七五三で来てくれた女の子。1歳の時以来と言うから、実に6年振りの、ライフスタジオでの撮影でした。
支度中から口も開かず、一言も発さず、緊張感を漂わせていた彼女は、撮影が始まると、自分の身体の動かし方さえわからなくなってしまったのではないかと心配になる程、身じろぎもせずに硬直してしまっていました。
それでも、7歳という年齢からモノゴトの理解はしていて、一生懸命、こちらの指示に応じようとしてくれていました。
その姿勢から、真面目な子であることは伝わってきて、だからこそ無理をさせたくはなくて、コーディネーターのSakiちゃんと一緒に、たくさん話しかけながら撮影を進めていました。

そんな彼女の大きな瞳から、突然ぼろぼろと溢れた、涙。
恐らく、彼女自身にも制御の効かない感情は、堰を切ったように溢れ出していました。

それは、私にとって、強烈な一撃でした。
ぼんやりしていたところに冷水をぶっかけられたような、弱音を吐いていたところに平手打ちを食らったような、世界が一瞬ひっくり返ったような、衝撃。
そして、もう一度、思い知ります。
「わたしはなにをしているのだろう」

関係を、ちゃんと作らなければなりません。
一方的な指示は、それがどれだけ「彼女を早く楽にさせてあげたい」という想いに基づいていたとしても、真面目で一生懸命な彼女を追い込むばかりでした。
早く楽にさせてあげる為に的確な指示を出して撮影を進める、のではなくて、彼女の緊張を解す為の会話と時間、それを経て『彼女』と『私』の関係を作ることこそが、必要でした。
私は、『緊張のあまり動けなくなってしまっている、着物を着た7歳の女の子』を撮っているのではなくて、そういう現象の奥にいる彼女自身を探すべきでした。
彼女自身が出て来やすくなるように、空間を整えるべきでした。
彼女は一生懸命でとても真面目だから、自分がとても不自由な状態に置かれながらも、頑張って応じようとしてくれていました。
その不自由を、できる限り取り除いてあげることこそ、私がするべきことであったのです。


少なくとも、着物という物理的な不自由から解放された彼女は、硬直していた身体が幾分か柔らかくなったようでした。
そして、強烈な一撃を浴びた私は、彼女に対しての申し訳なさを抱えながら、それでももう一度、カメラを持って彼女と向き合います。
まだ撮影は終わっておらず、悶々と悩んでいた私の目を醒まさせた彼女が目の前にいてくれるから。
もう一度、丁寧に向き合って、『彼女』を捜す。
ゆっくりと、ゆっくりと。


私は、『写真家』でもなく、『写真館のおねーさん』だけでもいられない、ライフスタジオのカメラマンです。
どこまでも、技術と表現の向上のみを追求していくような集団においては、私は写真の楽しみを見出せなかったでしょう。
また、固定されたカメラで指定された位置に立つ被写体を撮るだけのお仕事であれば、こんなにも悩んだりすることもなかったでしょう。同時に、写真の楽しみも見出せなかっただろうと思いますが。
カメラを持って、目の前の『あなた』という存在の美しさを、探す。
『はじめまして』という言葉を交わすところから始まって、会話をして、時間と熱と空間を共有する。
緊張していたり、恥ずかしがっていたり、機嫌が悪かったり怯えていたりする『あなた』たちを、できる限りニュートラルな状態にまでエスコートして、時に笑いや楽しみを共有して、『あなたらしさ』という曖昧な、でも価値のある大切なものを、『わたし』という人間のフィルターを通して、カメラを通して、表現する。それを模索する、ひたすら試みていく、過程。
その過程こそが『撮影』であって、そういう過程を踏みながら到達するのが、きっと『良い写真』なのだと、思います。
ひとつひとつの小さな、でも大切なものを、大切に拾い集めながら、『あなた』に接近していく、その過程。
そういう、ライフスタジオの撮影が、私は好きなのです。


眩しい西陽が差し込んできた瞬間に、ファインダーの中が整理されました。
彼女は、未だに緊張を伴い、ニュートラルな状態とは程遠かったかも知れません。しかし、西陽の中でふとカメラに向けられた視線には、彼女の意思が見えました。
少し窺うようにこちらを見たその瞳と、無理をして微笑む形を維持しなくなった口元に。
接近した、と思った根拠が何処にあるのか、とても感覚的で上手く言えないのがもどかしいのですが、でも確かにこの瞬間、近付いた、と思いました。
彼女を捜す、その過程を、何度も道を間違えながら行ったり来たりして、最後は西陽に導かれて辿り着いた、この写真は『良い写真』だと、思っています。


緊張しながら、怯みながら、それでも『わたし』を見てくれた。
そんな彼女に、ただただ感謝を伝えたい。
大切なことを教えてもらい、見失いがちなことを思い出させてくれました。


大切なものを、大切に。
今なら、迷いなく、写真が好きだと言えます。





 

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