フォトジェニックアーカイブPhotogenic Archive
大きな羊
投稿日:2017/7/31
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ずっと不思議でした。
なぜ『美』という字は、
羊が大きいと書くのか…
美のモチーフとするなら、羊という生き物はあまりふさわしくないような気がしていたんです。
もこもこ丸いフォルム、のんびり穏やかで食いしん坊、眠りたい時に数えたくなるほど、安らぎを与えてくれるキャラクター。
『美しい』よりも、かわいいとか、やわらかいとか、やすらぎみたいなニュアンスの漢字の方が合ってる気がします。
動物をモチーフにするなら、もっとこう、馬とか良いと思うんですよね。
あの毛並み、骨格、筋肉美。古来より絵画や彫刻のモデルになりやすい動物ですし、漢字発祥の中国でも馬の美しさにまつわる故事は沢山ありますから、少なくとも羊より『美しい』はずです。
しかし現に美が羊によって構成されているのを見る限り、私のこの考え方は見直さなければならないでしょう。
職業柄『美』というものを追求する上で長い間気にはなっていましたが、なんとなく考えるのを避けていた問題でもあります。
ちょうど自分の限界に直面していた私は、『美』の本質について改めて考えてみる時が来ていました。
我々の使命は、ビジュアルに訴えかける事です。
写真を『聞く』『食べる』といった事はしませんから、これは間違い無いでしょう。
しかしいざ実際に写真作品を作るとなると、昨今の私は見た目の美しさを如何するかに足を囚われてしまってその先に行けない。そんな日々が続いていました。
その思考の結果が『馬』止まりで、いつまでも『羊』なるものに昇華する事ができないのかもしれません。
ではこの羊とは一体何者なのか
このスランプを脱するヒントになるのではと、今回この文字を解剖してみる事にしました。
しかしただ漢字辞典を開いても面白くありませんし、今の自分の状況に必要な回答が得られるとも思えません。
そこで今回は、実際に調査する事が困難な内容を百科事典もGoogle先生も使わず、今持てる知識と少ない手掛かりを元に論理的に概算する『フェルミ推定』によってこれから解を辿ってみたいと思います。
この方法を辿れば『シカゴには何人のピアノ調律師がいるか』『東京にはマンホールはいくつあるか』などの途方もない問いも一般知識と論理的計算のみで導き出す事が出来ますので、頭の体操にももってこいです。
さて、何かと言われる『中国四千年』という言葉から察するに、中国の有史時代の始まりは四千年前であり、中国文字の祖で知られる甲骨文字の発明も恐らくその頃である事が推察できます。
万里の長城は紀元前に北部の遊牧民族と南部の農耕民族の争いの結果出来た物ですが、その頃の王朝の勃興が黄河文明と無関係のはずがありませんので、文字の発明も当然黄河付近(中国北部)であったと見るのが妥当でしょう。
つまり北部で最小限の荷物や家畜と共に大陸を渡り歩いていた遊牧民族の生活スタイルや価値観が、この甲骨文字に対して与える影響はかなり大きいはずです。
家畜といえば、定番は羊。
その毛は衣類、乳や肉は食料、骨は他でもない甲骨文字の材料として政治や重大な決定の場で使われ、余す事なく人々の生活を支えていました。
ここで注目したいのが、聖書などを見ても羊は神様へのお供え物という重大な任務を果たしていたという事。
上記のような特別な存在だったからでしょうか…?
勿論現代でも神様へのお供え物にあえて痩せた作物を使ったりしませんから、当時においても相当大きく立派な羊が相応しかったと思われます。
供物とは言うなれば、地上と天界の橋渡し。
仏閣や神殿に代表されるように、いやもっと遥か昔の先史時代の陶片や洞窟壁画にもあるように、芸術や美しさへの追求は常に信仰を、人知を超えたモノへの感情を基盤にしてきましたから、人々はこの羊という存在に対して並々ならぬ感情があったはずです。
それは例えば、感謝とか、畏敬。生活に密着した温もりと、アニミズムを母体とした神々しさ。
そう、神々しいのです。
外面ではなく、内側から輝いているのです。
それはまさしく、僕がこの親子の光景を見た時に襲って来た感覚そのものでした。
もう一度写真を見てみます。
当然ですが、このbabyが飲んでいるミルクは彼が自分で買って作った物ではありませんから、きっと誰かが与えたものであるはずです。
左上の大きな手からはbabyへの愛情が感じられますので、おそらくこの手の主が与えたと考えるのが自然でしょう。
そしてそれを、何の疑念も抱かずに必死に飲む。
口元に入った力からは生命力が、優しく閉じたまぶたからは、安心感が伺えます。
babyが頭を預けているのは、クッションか、誰かの膝でしょうか。
どちらにしても、信頼関係無くして出来る事では決してありません。
そしてその額を優しく撫でる慈愛に満ちた左手には、薬指に愛の歴史が感じられます。
写真には写っていませんが、きっとこの手の主はbabyをやさしく微笑みながら見守っている事でしょう。
ふとした瞬間に出会った、美しい、午後のひと時。
この光景、この写真でまた一つ、美とは何かへのヒントを得る事ができたような気がします。
馬を脱し、少しでも羊に近づけたような気がした、そんな一日でした。
No.24 Lifestudio Shonan
Photo by Hisho Morohoshi
Coordi by Akimi Yoshikawa
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