PhotogenicShonan

『 といろのはる 』

2018/4/29

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No24. Life studio Shonan
Photo by Masashi Kuroki
Coordi by Akimi Yoshikawa


 

               「といろのはる」とは、文字通り「十色の春」のこと。
                これは十人の女の子たちが共に迎えた春の物語。
 



「春」それは、様々な物事の始まり。
入学や就職など、新天地で多くの期待と少々の不安を抱えて新たな人生がスタートします。
物事の始まりには、その分岐点として終わるものもあります。
「卒業」もそのひとつです。
そんな終わりと始まりが合い重なっている大切な分岐点を時折、私達は写真に納めさせてもらっています。

そういった記念撮影の話からは少し離れますが、人はある一定の学業を終えると就職をして「働く」ということを始めます。
そしてその後、その職業を辞め転職をしたりもします。
新たな仕事に就いた際、その仕事場の先輩からこういう質問をされた覚えはないでしょうか?
「何か質問ある?」と。
勿論、初めてやる仕事であれば分からないことだらけです。
だからそう言われた時にこう思ったのではないでしょうか。
「分からないことが分からない」と。
そうなんですよね、分からないことが分からないから本来考えることすらも出来ないんです。
でもそんな時ほど人は必要以上に考えてしまいます。
同時にそういう時はとても苦しく辛い時期でもあります。
そんな「考える」ということ。
私も毎日の撮影で考えています。
でも、この「考える」と新天地での「考える」とは当然異なるものです。
ではその違いは何なのか?と思った時、ひとつの言葉が出て来ました。
それは「意図」です。

『 意図 

意図とはご存知の通り「どうしたいのか?」という目指すべきものみたいなものです。
したがって明確ではないにせよ、そこには「こうしたい!」という意識が繁栄されます。
この意図が無ければもう何年間も続けている撮影でも路頭に迷い核心的なものなど生まれないでしょう。
「良い写真を撮りたい!」と、そう思えば思う時こそほどこの意図が自分自身に無く、
そのずっと先にある「良い写真」という壮大なテーマだけを考えてしまうのです。

しかし、その意図を考えざるを得ないシステムがこのライフスタジオには存在します。
それが「75cut」というものです。
文字通り75枚の写真ということですが、この75cutについて我々スタッフは幾度も考えてきました。

なぜ、75cutなのか? 75cutだからどうなるのか?

これもまた何年間も話され続けていますが、その意味は多くあるかと思います。
そこで、それは単にいくつかの衣装での可愛い写真をたくさんの枚数で。という事だけではなく「一本の映画」に例えれば今まで述べてきた「意図」と繋がっていくことになります。

私は今、『ヒッチコックの映画術』という本を読んでいます。
この本は、サスペンス映画の巨匠であるヒッチコック監督のインタビューをまとめたものであり、その映画一本一本、そのシーンひとつひとつの意図が記されています。
その中に、「ヒッチコックの映画は音を消して台詞が無くても話が解る」とありました。
それはヒッチコックが様々なシーンに意図が伝わるようなフレーミングやカット割りをしているからです。

写真には勿論台詞はありません。
しかしながら意図を持ち、それを一枚一枚の写真として表現していけば言葉が無くしても伝わっていくのではないかと私は考えます。
意図が無ければ考えることを始められない。
しかし意図があれば考えることを始められます。

まぁ、勿論初めにその意図を考えなければならないんですけどね。
 
でもその意図は目の前にあります。
なぜなら私たちは何かの意図があって訪れている人たちを撮影しているのですから。
 
『 起点 』

湘南店で春の時期だけに限定で行なっている卒業、入学イベント。
この日は、色とりどり華やかな袴を纏った十人の小学校卒業生の女の子たちが来てくれました。
まさに「黄色い声」という例えがふさわしい声で歌い、皆楽しそうに笑っていました。
そんな彼女たちは四月から中学校に進学するわけですが、その仲の良い十人がみんな同じ中学校に進むわけではありませんでした。
私はその話を耳にした瞬間、自分の小学校卒業の頃を思い出しました。
もうかれこれ三十年以上も前の話ですが。
私の通っていた小学校は大きく二つの中学校におよそ 7 : 3 の割合で分かれました。
私は3割の方でした。
その時は少し寂しく思ったものです。
だからこそその想いと重ねて私が意図としたのがこの写真です。
特に何か真新しい写真という訳ではありません。
むしろ重要なのは、このあとの写真、そしてその次の写真なのでしょう。
しかしこの写真があるからこそ、これが起点となり、そのあとに続く写真をイメージさせ、楽しみに思わせ、意図を伝えることに繋がるのであると私は思っています。
 
彼女達の背中に三方から当たる光。
そしてその腕と腕の狭間から重なり合う手に当たる光。
この写真のポイントは光でも表情でもなく「意図を表す起点である」ということです。
こういったものを意図として納めることが75枚の奥深さであり意味のひとつなのではないかと私は感じています。
 
 


『  』

私にも四月から一時離れ離れになる仲間がいます。
そして新たに仲間になる者もいます。
別れがあるからこそ再会があります。
この「重なる手」が彼女たちの一時の別れを表し、そしていつの日か再会した時にまたこの写真が生き始めてくれればこれ幸いです。
















 

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