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新百合ヶ丘店
アクロポリス-哲入門第第14章
投稿日:2012/6/11
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多くの哲学者は形而上学的推理によって宗教の根本的教義、宇宙の本質的合理性、物質の虚妄性、あらゆる悪の非実在性などを証明することができるという。
だが、このような希望は無駄になったものと考える。
宇宙全体に対する知識は形而上学によって獲得されそうでなくて論理的法則によってどんなことの存在の有無を証明してもそれは批判を受けることになる。
事物の本性が事物に対するすべての真理を意味するならば、宇宙のあらゆる事物の関係を分かることができなければ事物の本性を分かることもできない。
このような本性に対する意味は事物に対する知識と真理に対する知識の間で混乱を引き起こす。
事物に対する直接知にはこのような本性に対する知識は含まれなくて、事物に対するどんな命題を分かるのは本性でない直接知が必要だ。
どんなものがある事物という単純な事実からこの事物が事実上持っている色々な関係をこの事物が必ず持たなければなければならないと演繹できない。
その関係を持たなければならないと話すのはすでにその関係を知っているためであるようだ。
したがってヘーゲルが断片的な関係的性質から演繹した単一な調和がとれた体系を成し遂げるということを証明する事はできない。
存在することに対する知識は前に考えたことより少なくなり存在するかも知れないことに対する知識は途方もなく多くなる。
私たちは自由な可能性を持つ開かれた世界に住んでいて、この世界では分からなければならないことが多いので多いことが未知のことで残っている。
哲学を科学と違った学問で作る本質的特性は批判だ。
哲学は科学と日常生活で採用される原理を批判的に検討する。
しかし完全に懐疑的である態度を取ってすべての知識の外にありながら外部の立場で内部に戻るべきだとすれば不可能なのを要求することだ。
完全な会議からはいかなる議論も始まることはできない破壊的である。
哲学が目的とする批判は理由なしで拒否する批判でない。
人間はエラーを犯しやすいので確実なような知識の長所を考察してこの古寺が完結した時にもまだ知識に残ったことは維持する批判だ。
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