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新百合ヶ丘店
アクロポリス-哲入門第10章普遍にする私達の知識
投稿日:2012/4/9
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普遍に対する私たちの知識…
ラッセルは哲学入門第10章を通じて普遍(イデア)的知識があることを証明しようとする。
‘2たす2は4だ’
‘ブラウンとジョーンズが二を成し遂げて、ロビンソンとスミスが二を成し遂げてブラウンとジョーンズとロビンソンとスミスがネットを成し遂げる’
‘すべての人は死ぬ。’
上の三つ例をラッセルはこの本で何度も言及する。
同じ話であるようながらも本質的に違うもの。
よく整理されない上の例が結局経験的な一般化と証拠の本性、すなわち普遍の差を理解することにその答があったとのことが10章からきて少しずつ理解でき始める。
普遍的というもの…それが何か、存在していることなのかどうかは私としてはまだ判断を下すことはできない。
真実が何でもそれを発見するのは死ぬ時まで難しいだろう。
しかし自身の所信のとおり判断を下すことができる力、人が何の話をした自身の人生を主張できる力を探すならば哲学勉強をする大きい理由になることと考える。
私は人間が幸せならば良い。
普遍的に人間が探そうとする彼‘何’に‘幸福’ではないのか考えたりする。
カントの言葉を借りようとするなら..
“究極的な幸福はすべての人の普遍的な欲求です。
定義を実践するのはすべての人の普遍的な義務です。
すべての人が正しく行っただけ自分が行った定義ぐらいの幸せな人生を享受するのが最高善の状態であり実践理性の正常な姿です。
しかし私たちが目で確認することができるように義に徹するように行った人が善良だっただけに必ず幸せな生活を送って死ぬのではなくて副定義した生活を送る人が必ず彼の相応する不幸な人生を生きるのではないということを私たちはよく知っています。
すべての人にいて正しいということの程度と幸せさの程度が一致するようにこの世が導いて行くことは現世で有限な時間を享受している人間に不可能なのが現実です。”
といった。
それなら私たちはどのように生きていこうかと思うだろうか?
正しいだけ現世で幸せな人生を享受することにならないから最大限自身だけのために生きて警察に捕えられないことがある範囲の中で最大限の快楽を満たして生きていかなければならないだろうか?
‘幸福’が普遍的なことならば明らかにそれより優先されるまた他の普遍も存在するのだろうか?
久しぶりに‘哲学’で‘嘔吐’を感じる夜だ。
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