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新百合ヶ丘店
アクロポリス-対象の価値
投稿日:2012/2/12
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対象の側面で哲学を一つで規定するのは不可能だがそれらは一様に哲学だと呼ばれている以上全部共通点を有していると見ることができる。
そしてその共通点は対象を受け入れる方法にあると考えることができる。
しかし哲学は方法でも決して一定でない。 それは研究対象がそれぞれの哲学ごとに完全に違うので対象を扱う方法やはり変わるためだ。
例えば神を対象とする哲学と科学の基礎確立を対象とする哲学は研究方法が同じはずがありえない。 したがって哲学史の数多くの哲学には千差万別の方法がある。
どんな哲学は演繹的方法で体系を組織しようとしたし、どんな哲学は帰納的方法を重要視した。
また、ある哲学は実在する真の姿はただし直観にだけ受け入れられると考えた。
その他にカントの先験的方法、ヘーゲルとマルクスの弁証法的方法、E. 後説の現象学的方法、ディルタイなどの解析学的方法など各々他の方法が哲学の正しい方法と考えられた。 このように哲学の方法は理論的内容および思想的体系と不可分の関係を有しているので哲学史に現れた色々な哲学的思考の間には互いに対立する方法論的差があるはずだ。
私たちは人生で最も価値があるのを追求して生きていく。
その価値というものは事実曖昧な対象だ。
宗教家の絶対的な信仰や科学者の確信などは具体的に彼らの価値的対象を有している。
しかしすべての人々がそれを有していなくてそうするうちに方法に対してだけ研究をすることではないか…いつの時は先験的にある時は弁証法的に、どんな時は解析学的に力を借りて首を縦に振る。
そうするうちに各思想の矛盾やお互いに対する批判によってより一層大きいくぼみに陥る。
考えてみる。
なぜ私は哲学に関心を持つことになったのか?
何か整理されない自身の価値的対象を多くの哲学者の力を借りて探そうとする‘関心’で始まった。
しかし‘関心’ということは哲学を勉強することにおいて混乱だけ引き起こす。
例えば、私がお金という対象に価値を置けばマルクスが私を揺さぶって、神に価値を置けばニーチェが私を揺さぶる。
とても分からなければ大衆の奴隷になってしまってとても分かってしまえば妄想の奴隷になること。
そのために常に自身を守る方法を最善に置いてしまう。
‘関心’を越えて‘情熱’を持つことができる価値的対象は果たして何だろうか?
それを分かるならばあいまいな哲学で私に必要なことは何なのかを、マルクスなのかカントなのかフロイドなのかを自ら選択できないだろうか?
数多くの‘メント’を持つということは現在の私の器はあまりにも小さければ…
@-本を読まなかったので内容が違うでしょう。
自ら考えたのと調べてみたこと、そして引用したのを上げます。-
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