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新百合ヶ丘店
価値観に対する考察
投稿日:2012/1/15
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CEOは自らが先に価値観に立って行動しなければならないという。
子供がどこか知らず両親の短所まで似ているように職員もCEOの行動に似通っていく。
私はCEOのような大層な名前を付けていないけれど小さい組織のリーダーで行動をしている。
‘自由意志’による組織の運営をしていると言ってはいるけれどもリーダーの価値観は職員に多くの影響を与えているだろう。
そのために偏向的でない‘重用的’価値観を持たなければならないのは当然の道理であることと考えられる。
しかし個人的から来る価値的なものと共同での価値的であることをしばしば混同することによってどこに自身の価値を置かなければならないのかに対する矛盾がずっと私を困らせる。
私の価値はどこに置かなければならないのだろうか?
人々はどこに最も大きい価値を置いて生きていくだろうか?人それぞれ違うだろうが、結局は幸福を追求する人生において最も大きい価値観を置いて生きないだろうか?
幸福を追求するということにも人間はそれぞれ他の方法を使うと考える。
ある人は幼かった時あまりにも貧しくて、ひたすら富を蓄積して生きるということに対してその人生の価値を感じることで、また他の人はお金よりは名誉を追求することにポイントを合わせて政治家や指導者になった時幸福を感じることになる。
そして科学者になる人、音楽家になる人、哲学家になる人…人は生まれて環境に影響を受ける。
両親との関係、兄弟との関係、教育と経験から来る関係、そして自分自身のセンスデータから来る本能的な関係…その環境の中で来る自身の幸せな位置を探すことが通常の価値観を形成するようにするということは‘慣れ’から来ることであり、当然のことであるようだ。
例えば幼児期の両親との愛関係はその人の愛に対する価値観を作ってしまう。
無条件な愛、アカペー的愛、利己的な愛、他人のための愛、服従する愛.. 愛の種類だけで愛の個人差は余りにも違うように現れて、その原因は両親との関係から始まるようだ。
私の価値観もご両親の関係で多くの影響を受けたようだ。
常に宗教的な信仰と何より家族に犠牲にしたその姿、そして他人に悪いことはしなかったが、施すことが出来なかった姿。
時には反抗もしてみて私だけの経験をさらに信じた時期もあったが時間が過ぎて後戻りをしてみれば私も結局彼らに似通っていくのを見ることになる。
多分幼年期に送った時期が私には正統的な‘幸福’の基準にならなかったのだろうかだと考えをしてみる。
寺を離れて一般人になった、中耳なった、一般信者になった神父様になったそれを選択するのは私自身の中に存在する価値観が大きく作用しているだろう。
ただ、幸せだが何が正しい幸福なのかを判断することができることが現在の私には必要なようだ。
私と私の家族だけが幸せならばそれだけだという習慣はリーダーでの価値観に致命的な毒として作用することもある。
読書をたくさんしようとすること、哲学を勉強するのも事実世の中をより一層理解して正しい人生を探す一つの方法で選択していることだ。
“あなたの価値観は何ですか”と誰が尋ねるならこのように答えるだろう。
まだ整理されない混同の中で生きているけれど、私を幸せにする価値を探すことで、可能ならばあなたも一緒に幸せになったら良いと。
そしてそれが正しいものと確信されるのを確認しているところだと。
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