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新百合ヶ丘店
哲学とは何か?-1~5章の整理.
投稿日:2011/11/13
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第1章-現象と実在
理性を持って理に適うように考える人ならば誰でも疑いの余地がなしで確信できる知識がこの世の中にありえるのか?
哲学は確実な知識があるかという究極的な問題に答えようとする試みだ。
日常生活には確実に見えても詳しく検討すれば矛盾でぎっしり埋まることが多い。
確実性の探求は直接的経験を通じてすることになるがこのような知識は誤ったことが多い。
実在する机は感覚で直接経験するようでなくて、直接認識されることから推理されることだ。
感覚器官に直接知らされること(色、声、臭い、デコボコするということなど)は‘数えたステーター’でありこのようなのを直接知覚する経験は‘感覚’と呼ぼう。
私が実在する机に対して何か知ることが出来るならばそれは机と関連した数えたステーターに依存しなければならない。
感覚器官が直接知らせるのは物質に対する真理でなく、私が物質の関係に依存するどんな感覚資料に対する真理だけだ。
私が直接見て感じるのは‘現象’に過ぎなくてこの現象を私たちはどんな実在の記号と信じる。
今まで私たちがたいしたことでないと考えた、日常的に見覚えがあった机が驚くべきであるほど多くの答が出てくることができる問いを提起する対象に浮び上がる。
私たちがこれに対して知っている一つ事実はその机が感覚に現れ次第存在するのではないとの事実だ。
哲学は答を出すことができなくても日常の平凡なことも奇異だということと不思議があることを見せる問題を尋ねることができる。
第2章-物質の存在
物質の存在可否は他の人の身体と情神は存在するのかに対する答を与えるので一人ぼっち残らないために重要な問題だ。
私は机の物質的存在は疑うが机の数えたステーターの存在は疑わない。
自身の数えたステーターが確実だといってそれを物質的存在の記号で見る理由はない。
どんな意味では自身と自身の経験以外のことは証明できないということを認めなければならない。
だが、論理的に不可能でないといって真理と考えなければならない理由もない。
物質的対象が実在すると仮定すれば生活像の事実を説明することがさらに単純になる。
また、私の数えたステーターに対応する対象が存在するという考えは本能的な信念だ。
本能的信念はいかなる難点も起こさないのみならず私の経験に対する説明を単純化して体系化するところに役に立つので排斥する十分な理由がない。
したがって外部世界は実在してその存在は私の継続的な知覚に全面的に依存しないことを認めても良いようだ。
哲学は本能的信念の偽計組織を明示しなければならない。
ある体系にあって本能的信念と衝突しない限りそれを排斥する理由はなくて、本能的信念が互いに調和を作り出せばその体系全体を受け入れるに値する。
誤りの可能性は残っているが各部分を内的に関連させて承認する前に批判的に吟味すれば誤りの可能性は減少する。
3枚、4枚は特別重要でないことのようでパス..
第5章 直接知と記術
センス-データは私たちが直接対面する事物ら中の一つだ。
事実上センス-データらこそ直接対面による認識の最も確実で明確な例を提供する。
センス-データを越えて拡張して考えることができる最初種類は記憶による直接対面だ。
確かに私たちは私たちが見たり聞いたし私たちの感覚に現存したことをたびたび思い出して出す。
そしてそういう場合に私たちは私たちが記憶して出したのが過去に現れたことだったし今現存するのではなくても即刻に認識することができる。
記憶によるこのような即刻認識は過去に対する私たちのすべての認識の根源になる。
その次と考えられることができる拡張は内省による直接的対面だ。
私たちは物事を意識するだけでなく、その物事を意識している自身を意識することができる。
これと共に私たちは直接紙による知識を持つこともできるが技術による知識を持つこともできる。
直接紙による知識はセンターデータによることになるが、技術は多くの普遍と特殊に対しても取りまとめる。
技術による知識は理解できる命題は直接知っている要素で成り立たなければならない。
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