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哲学とは何か? 第5章 直接知と記術知

投稿日:2011/10/31

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何か分かりそうでありながら気がつけば遠くに逃げてしまう哲学。

本を閉じればまた出発点に立っている自身を発見するのは私だけであろうか?

今回の主題は観念論をすぎて直接知と記術知という難解なのを私たちは話そうとする。

先に直接知と記術知は何かに対して要約をしてみる。

頭が悪ければこのように苦労をしなければいけないだろう。

物事に対する知識と真理に対する知識という二つの種類の知識がある。

この中、物事に対する知識には経験による直接知と記術による記術知がある。

直接知は本質的に真理に対する知識より単純で論理的には真理に対する知識から独立している。

記術知はその源泉と根拠としていつもある程度の真理に対する知識を含む。

 

推理過程や真理に対する知識を媒介としないで直接、あるものを意識する時直接知を持ったと言うが‘机は茶色だ’のような陳述は色に対する真理を分かるようにするが色自体に対して以前よりさらによく分かるようにするのではない。

物質の現象を成し遂げるセンスデータは私が直接知っていることで、ありのままを直接私に知らされるという事である。

反対に物理的対象としての机に対する私の知識は直接知ではない。

机の現象を成し遂げている感覚資料を直接知っていることを通じて獲得される知識で、記術知である。

 

すべての知識は事物に対する知識も真理に対する知識もその基礎の直接知に依存する。

そのような直接知にはセンスデータ、記憶、内省がある。

こういう種類の直接紙は自分の意識だと呼ぶことができることで、これは心的なことに対する私のすべての知識の源泉だ。

ある対象に対して‘それはしかじかだ’ということを分かる時それは記術によって認識されたと話すことにする。

ここに一般的に同一対象に対する直接知による知識はないということが含まれる。

しかじかなのが存在するということを分かろうが分からなくても単に記術的な知識を持っているといえる。

 

以上、多くの普遍と特殊は技術を通じるだけで知らされるが、記術知は究極的には直接知で還元されることができるということだ。

理解できるすべての命題は直接知っている要素で成り立たなければならないという結論に至る。

 

今回の主題は何に焦点を置いて討論をしなければならないだろうか?

上の要点を理解するのも難しく感じられる私の限界…

助けてもらいたいものである。

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