Staff Blog
新百合ヶ丘店
私は何だろうか’に対する考察
投稿日:2011/10/9
1070 1
‘:君自身を知れ’これはソクラテスが残した、哲学の最初の警句だ。
実際、哲学の大きい目的は自身の存在を解明する事ではないだろうか?
他の言葉で説明しようとするなら哲学は基本的に真理を追求して真理を研究して真理を探し出すことだ。
真理の中でも最大の関心事は断然人間の真理になるということである。
それは、結局私は何かの永遠に解けないと思った真理の領域を食い込むことだ。
歴史上数多くの思想家、哲学者は自分だけの解決法でこれを定義するために闘争してきた。
この真理を知るために一生を捧げた人たちは、思想家と哲学者に限定されているとは言うことは難しい。
哲学と引き離そうとしても引き離すことができない宗教と科学者もこれと関連されている。
実際、短い私たちの人生でこれらをみな経験して真実に近付くということ自体が不可能だ。
世紀の天才らという哲学者らも‘哲学的思惟’と‘超現実的理由’をみな経験できる境地に達することができなかっただろう。
人間の人生が1000年程度でなくては、そして私たちがIQ500以上を持たずには不可能だと考える..
また、現在の科学が精神世界を正確に定義できないように、現在の宗教的精神世界も科学以上の説明を出来なければ…
それでも‘私は何か?’という質問を流れる人生の川の水に投げてしまうには‘人間’という私たちの姿がとてもみすぼらしい。
幸い私たちは数多い哲学者らの思想を本やインターネットで簡単に探すことができるという現代人だけの‘祝福’を享受している.
デカルト、スピノザ、デービッド ヒューム…. 彼らを参考にする。
しかし結局探そうと思うのは彼らの思想でないのではないか..
ナムカルト、ナムピノザ、デービッドナムになることが人生で私が探さなければならないだろう。
それでは私は何かを考えてみるとすぐに…以前に私はこう思う。
‘私は何か’を論じる前にもう少し小さいカテゴリーに対して考えてみようと。
もう少し近付きやすくて私、あなた、私たちに肯定的結論に至ることができることで。
“………………………………”
それなら正しい省察というものに対して接近するべきではないだろうか。
事実この正しい省察というものだけを見ても一生定義をすることができない…
とにかく各自正しい省察を持つという事は正確な私を定義することができるかは分からないが私、君、そして私たちを少なくとも理解することにあっては土台に敷かれなければなければならない
ならないと考える。
それでは私にあって正しい省察とは何か?
簡単に話してある一ケ所で偏らない心の状態をいうようだ。
言い換えれば私の立場と相手側の立場を同時にバランスが取れているように受け入れる心の状態が省察だ。
そうであると省察ということは非常に高い境地の心の状態とする。
仏教では‘注ぐ’の教えでこの‘省察’という話をしばしば使って、キリスト教では自身の考え、自身の習慣、自身のスキなどを省みるという‘改心と反省’というのは話を主に使う。
そして私たちが以前に討論をしたアリストテレスの‘重用’というものもあらましこれと相通じる。
しかし正しいものを自ら検索にはあまりにも多くの苦痛を伴わなければならない世の中だ。
自分自身に謙虚でなければすべての行動に理由を上げて正当化させることになる世の中だ。
自分自身は傷が多くて失敗が多いという謙虚な心を持ってすべての行動を考えなければならないのに、自分自身を客観的に見るという事はそんなに簡単なのではない。
その上に哲学、宗教、科学を理解してこそ‘重用’を論ずることができる時代なので自身の正しい省察はますます複雑で難しくなる。
哲学を近づけようとすれば宗教の虚構性が現われて宗教を否定しようとすれば物質文明での人間の利器が極に達する。
また、科学が発達して全てのものが赤裸々に明らかになって、現代哲学という人間の道徳は自然を破壊させて人間の精神は真理で遠ざかる荒廃した人間像が作る。
哲学、科学、宗教二重で何を自身の省察手段で選ぶかは自身の自由だ。
しかし色々な方面で考えることができる自由と受け入れることは受け入れるものの極端な批判は自重しなければならないことが重要だと考える。
‘自由選択’という話はもろ刃の刃物と同じだ。
‘自由’という名前の元、歴史は絶え間ない発展もあったが、醜悪な横暴も存在するという話だ。
ここで言いたい‘自由’は前で話したようにバランスが取れた意識を構築するための‘自由’と理解すれば良い。
‘リーディングでリードしなさい’の著者は哲学書をたくさん読んでも社会に適応できず、思想家は次のような誤りを犯したという。
“ジョン・スチュアート・ミルは二十代に一種の精神疾患を病んだ。ノボトゥ ウィナーは学校および社会不適応症で苦労した。
ウィリアム・ジェームズ間ディスは自閉症、神経衰弱、対人忌避症を病んだ。私はミール、ウィナー、サイディスが受けた教育を研究した結果、次の三種類失敗要因を捜し出すことができた。
1.過度な教育を受けた。
2.強圧的な雰囲気で教育を受けた。
3.無神論に立った教育を受けた。
人文古典読書教育の真の目標は自主的で、幸せで、能動的な人間を作り出すことだ。”
哲学を通じた、科学を通じた、宗教を通じた何かの真理を引き出すことには偏狭な勉強と価値観は、ややもすると誤った方向に行くということだ。
可能なすべての方面をあまねく理解できる自信を持つことが‘自由選択’の中心になければならないことだ。
この頃の討論を見ようとするなら反対立場の思想を徹底して否定して真理を探そうという指向が強い。
自分自身がもう少したくさん分かれば、自身がもう少し経験が多かったり反対に経験しなければそれが真実だと叫ぶのは対話を疲れさせるようなものだ。
自身の主張がいくら真実だと考えても見る立場、価値観、思想によって全てのものは変わるはずだ。
そして対話中で真実を訪ねて行くことが民主主義的討論ならばより一層相手方を配慮して尊重する思いが必要だ。
そのような開かれた心を持つという事はあまりにも難しい問題であることであることは間違いない。
前でも話したように‘自由’を誤って適用するならばお互いに傷だけ残すだけだ。
ある日突然空で‘私を信じろ!!’という言葉が鳴り響いたり科学にすべてのことを100%説明する日がくる前までどうせ私たちの人生では全く同じ価値観を持つことは不可能でないか。
こういう不完全な世の中ではお互いを尊重する心を持つことが最優先的でないだろうか?
正しい認識を持つように努力すること。
客観的な教育を受けること。
あなたが誰なのか知らなくてもあなたを尊重すること。
そしてあなたの立場で考えること。
その次は私たちを分かって行くこと….
生物学的科学によって私たちを知っていること.
哲学的な考察を通じて得を理解すること。
宗教を通じて私たちを理解していき参考にすること。
どうせ…お互いのために生きなければならないということは生物学的や哲学的や宗教的でも互いに相互補完的でないだろうか?
完全でない人間であるからこその話だ。
結局、成人君子が話す結論に到達してしまった。そしてその結論を成立させるためには買い占めたことの努力が必要だとのことも分かった。
この前読んだ‘小屋’という小説で神は主人公メケンジにこういう話をする。
“あなたは愛されるように創造されました。だからあなたが愛されないように生きるならばそれがすぐにあなた人生を制限しますよ”‘
私は何か?の解答に対しては正確な表現ではないが、人間は人間で尊重(愛)受ける権利を持った。
徹底して私だけを考えるようにするこの時代の流れでどれくらい他人を考えて尊重しなければならないのかが先に‘自己反省’から始まらなければならない。
私、そしてあなた、そして私たちを一つの思想でも同じ価値観を持つようにするのは私たちが持っている‘自由’を抑圧するかも知れない。
そのためにあまねく理解できる‘自由’そして‘私’を探すために幅広い勉強が必要だと考える。
それで2012年の自身の計画中一つは下記のように整理した。
1.哲学書を10冊以上精読すること
2.聖書(実際読んだことがない)と超現実的な書籍を読み取り
3.科学的知識と歴史的事実を勉強すること。
以前、 サッカー競技で出された‘日本大地震をおめでとうございます’という偏狭で利己的なゆがんだ‘自由’はいつ頃見なくなるだろうか?
この記事をシェアする
サイト内投稿の検索
- トップ
- Staff Blog