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新百合ヶ丘店
老人と海
投稿日:2011/7/3
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小学校時代.
世界名作を読んで読書感想文を書けということは楽しい夏休みの恐ろしい課題であった。
本を読むことに無関心だった私は毎度本だけ選んで休みの最後の日に突然一度に宿題をしたりした。
主に‘宝島’、’ホクルベリの冒険’等の本が主に休み中の宿題の犠牲の羊になっていった…そして初等高学年に達してある漁夫と大きい魚の戦いという‘アクション’的な想像によって初めて‘老人と海’に接する事になった。
ハリーポッターシリーズのスリルとアクションと幻想を期待した幼い時の私は明らかに大きい失望感を抱いて本を部屋の隈に投げてしまった。
そして休みの課題には陳腐なストーリーだけを書いておいた。
今になって考えれば‘老人と海’は小学生が読んで理解するほどの本ではないということは確実だ。
幼かった時から本とアニメーション等で数えきれない程接したこの本の内容が難しかったのはどんな哲学を含んでいるからであろうか。
この老人の話は広大な哲学と思想が話す‘人間の条件’に対して話をしているためだろう。
老人サンティアゴは84日間何も釣ることができなくて三日昼夜を命をかけた死闘終わりに大きな魚を捉えることになる。
しかしサメの群れに身をみな取られてやせこけている骨だけ持って帰ってくることになる。
ストーリーだけ見るとあまりにも空しく見える結末だ。
しかし過程を覗いて見れば決してそうではない。
"人間が死ぬことがあっても敗北するのではない。"という老人の独白がこの小説が話そうとする人間意識に対する真剣な問いが読者に帰ってくるからである。
サメには食べられてやせこけている骨だけを残した大きい魚という結果はみすぼらしい老人の姿に反映されてまるで‘死’を連想させる。
手元には何も残っていない相変らず何の肉も釣ることができなかった悲しい老いた漁夫である。
しかしこの作品で話す人間条件は結果ではない。
人間は誰でもいつか死ぬがそれ自体が人間存在での終末を意味する評価の基準になるのではなく死に対抗して挑戦して夢を追う勇気を持った高潔な存在が真の人間というものを意味する。
人生の最後が近づいた老人に栄華と富貴が彼には何か意味があっただろうか?
人間というのは生の最後の瞬間にも夢と希望に相対して戦う勇気と知恵を持った時人間らしいことだ。
私もこういう勇気と知恵を発揮する夢の中で現実とのすさまじい戦いを行っているだろうか?
そして骨だけ残った大きい魚という結果に対して失敗と話をするのか、でなければ敗北でない挑戦での勝利と話をするだろうか?
この本に含まれたこの哲学的な問いに私はどのように返事をしたら人間的な人間ということができるか悩んでみる。
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