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新百合ヶ丘店
ペスト
投稿日:2011/6/5
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日本東北大地震で人命的、経済的に天文学的な被害とまだ続いている混乱で安定化まではまだ色々峠を越さなければならないと予想される。
ついにこの大災難をチャンスで政権交替を叫ぶ政治家たちを見ていれば人間の薄情で不条理だということと利己心に頭を横振ることになる。
ポランティアでみた石巻市は戦場後の姿だった。
数多い生命を奪い取って、生きている人々もパニック状態で一日一日を過ごしている。
アルベル・カミュのペスト.
この作品は20世紀、2次世界大戦後の作品で外面的には戦争の開始と終わりの対する背景的描写と個人と集団に分けられた戦争の対する認識、内面的には不幸の中で残念な幸福に対する姿をペストという主題で構成していきつつある。
したがって東北大地震を体験した私たちには遠い国にある話のように聞こえない。
それはまさに石巻市の話であり福島県の話である。
あきらめと希望間の経験がなかった私たちは地震による(またはペストによる)集団の恐怖、個人の苦痛を十分に認識することになった。
そのために‘ペスト’という小説を軽く読むことができないだろう。
この小説の中には英雄が存在しない。
単に絶望の中での人間というものに焦点を合わせている。
‘ペスト’の主要人物であり事件を記録することで出てくるオラン市の医師リユを中心に市の書記のグランと、新聞記者ランベル、パヌルル神父、タル、コダルなどの人物らの間で広がる話だ。
結局沈鬱な恐怖は約8ヶ月を越える時点で人々を正常の人生に回しておくが彼らの恐怖と絶望、虚無は生き生きと残る。
人間の力では仕方ない状況でペストに対抗して戦う人、それを機会みなす人、それを運命に受け入れる人、他人のことにだけ考える人の中で ‘人間が抜け出すことはできない苦痛と絶望でどのように行動して何を話するのか’ という主題を出すことができることだ。
カミュは状況を極端に作るために権力と暴力ではない、伝染病という対抗することはできない存在を仮定する。
伝染病は誰でもかかることと、短期間に人々の恐怖を極大化させるためだ。
大部分の都市の人々はこのあきれる事態に対してただぼうぜんとして怒ったり、後ほど期間が長くなりながらただ沈うつになる。
前で話したようにカミュは登場人物により行動の養殖を違うように見せる。
先に、パヌルル神父はペストをオラン市の汚い罪悪による神の警告で説教するが後ほど神の愛というもので話を翻意する。
神父はついにペストにかかって死ぬことになって病的な信仰心に引きずられて絶望の中に陥ることだ。
無神論者のカミュの目に写ったその神父の姿はみじめだ。
彼は反抗が出来ない人間だったためだ。
神父に比べて医師リユは残忍な現実を認めながら戦う。
神父が主張する救援とは違った意味の治癒で、人間を愛するということは病に罹っている人間を治療するということと同じ。
いいかえれば、神父の‘救援行為’とは違った‘愛行為’である。
そして‘タル’という人の役割はより一層確かだ。
死刑反対運動をする彼は誤った世の中にさからう存在だ。
作家カミュの意図は‘タル’という人物を通じてあらわれていると考える。
最後にオラン市に派遣出てきて市価郊外周辺を遮断したせいでオラン市に閉じ込められた新聞記者ランベルだ.
‘個人的な幸福を追求するか、他の人らと共に敵と戦うか’
ほとんどすべての人々が同感する人物がランベルではないか?
最後の自身の道を選んだことは彼の‘自由意志’によることであった。
多数の人間は状況に支配受けて恐怖と他人の意見に揺れるということをこの小説を通じて理解した気がする。
その拒否できない苦痛と不安の中で人間はどのように克服することができるだろうか。
ペストでの実存主義的な解答が正解であろうか?
人間が果たして人間を救援することができるだろうか?
そうだと言いたいが、それだけでは何かが不足だと思うのは私だけなのか…
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