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新百合ヶ丘店
哲学エッセイ
投稿日:-0001/11/30
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この本は1983年に出版されたという。
出版後、一時期は著者の名前を隠すほど‘危険な書籍’として刻印がつけられた本だ。
労働者という立場での哲学書という汚名で数多くの哲学者らの攻撃対象になったりもした。
しかし出版後30年以上生命を持続しているこの本は何を意味するのであろうか?
この本は空を眺めて考えにだけ陥って生きる人々だけが哲学者と考えた私の考えをひっくり返してしまった。
私たちが人生に対して悩む時には哲学と近くあり、生活に陥っている時には哲学家遠くあるということなのか?.....しかし哲学はそのようなものではないという。
哲学は日常生活と密接な関連を結んでいて私たちの生活は哲学と絶えず関係を結んで行くという。
したがって周辺の日常生活から哲学を引き離すことはできないということだ。
‘鶏が先か? 卵が先か?’この問題に対しては誰でも一回ぐらい首をかしげたなぞだ。
かなり以前から出てきている問題としであり、頭の中をかき混ぜる糸の絡み合いとも言えよう。
鶏がないのにどうして卵がありえるのかと思われるが、それでは卵がないのにどのように鶏ができたかと思い卵が先だと思ったりもする。
鶏が先か、卵が先かの問いは自身が知っている知識らを整えて何が合うのか考えるようにする良い問題である。
<哲学エッセイ>はこのようにそこまで考えられなかった側に視線を転じるように説明をする。
-鶏や卵はとても長い間の昔から、すなわち世の中があってから存在したのではないです。 鶏や卵は全部生物が進化してきたどんな段階に現れたのです。したがってすべての生物という大きな観点で見れば答は簡単に出てきます。先に卵だと呼ぶことができて卵を産む色々な動物が現れてその後に鶏ができたのです。この問題が難しく感じられる理由は卵を考える時、‘鶏の卵’という式で狭く限定して考えるためです。パリも卵で生じて魚も卵で生じるという事実を広い見識で把握するならば問題は簡単に解決されます。卵が先にというものが正しい答です。-
思ったより答は単純だが、首を縦に振るようにする。
卵を鶏が出てくる丸みを帯びたものと考える枠組みに閉じ込められているのでこの問いに簡単に答を出しておくことができないのである。
鶏と卵中に何が先かの順序の問題でなく結局は‘進化’という大きな流れでの変化を読めば答はやっかい者ではない。
しばしば‘木だけ見て森は見られない’という。
どんな問題でもその中に答があるということ見るという‘外側’との関係の脈絡を見なければとんでもない返事出てくる。
言い換えれば目を大きく開いて広く見てこそ易しく自身の困難を越えることができる。
この本では上のように全てのものは関連されているということから始まる。
自然の全てのもの、人間、社会、さらに動かない事物まで..
そしてこれら全てのものは互いに相互しながらぶつかりながら変化して行くという。
変化というものはその事物の特殊性というものに基づく。
簡単に話して世の中の存在する全てのものは絶えず変化して相互関連を結んで相互作用をするということだ。
もしこの関連性を無視するならば私たちは正しく認識できなくて進んで現実に対し誤った態度と行動良識を持つことになるだろう。
2011年ライフ スクールの目標も正しく認識できる‘知識’を育てようということだと考える。
そうするためにはたくさん分からなければならないということとそれを広い目を通してみることができる力を育てることが最善の方法だ。
そして成熟したそのような姿勢らは経験という結果とこれを現実に適用できる条件を構築してくれるだろう。
この本一冊で哲学を理解したとは考えない。
単に私たちと近いところに哲学も共に存在するということ。そしてこれがぜいたく品や装飾物になるのか人生の羅針盤になるかは自身がよく判断しなければならないということはあらましではあるが分かりそうな気がする。
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