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小山店
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母なる証明
投稿日:2017/10/20
2034 5
昔ニュースで子離れできない親が増加していると報道された事があった。
自分の子供が余りにも可愛いという理由から身の回りの物のお世話をして、行き過ぎた人は会社や学校にまで出向く両親もいるそうだ。
両親の過度な愛情から、子供は全て両親に任せっきりになり、何かがあれば両親が助けてくれるからと考えて、自分の行動に責任を取らなくなる。
また親は自分の子供は、正しいと考え、そこに疑うという行為はもはやない。
人がお互いを思いやるというのは良いことだ。
しかしある一定の線を超えるとそれは、思いやるではなくな、依存になると僕は思う。
依存とは、「愛情という名の支配」である。
依存者は、相手から依存されることに無意識のうちに自己の存在価値を見出し、そして相手をコントロールし自分の望む行動を取らせることで、自身の心の平安を保とうとすることだ。
今回の映画の場合はお互いが依存関係であったので、共依存であったと言える。
では、何故このような事が起きたのか?それはいつまでも自分の物であって欲しいという、所有欲からだと考える。
自分の子供、子供はいつまでたっても子供などという考えがある。
大抵子供の成長と共に両親も子供への認識が変化していくのだが、この映画のケースの場合は、母がみたい子供の面を見て、自分に都合の悪い事は目を閉じるという事をしていたので、きっとウォンビンが小学生ぐらいに見えていたのだろう。
行き過ぎた所有欲は盲目になる事が多い。
盲目は正確な判断をする事ができない。
私達の生きている現実には、たくさんのみたくない事、聞きたくない事が溢れている。しかし、それらを避けて通る事ができない。だから、私達はそれらをどのように争うのか、向き合っていくのが重要だと考える。
それが僕は人である証明であり、僕である証明だと思っている。
自分の子供が余りにも可愛いという理由から身の回りの物のお世話をして、行き過ぎた人は会社や学校にまで出向く両親もいるそうだ。
両親の過度な愛情から、子供は全て両親に任せっきりになり、何かがあれば両親が助けてくれるからと考えて、自分の行動に責任を取らなくなる。
また親は自分の子供は、正しいと考え、そこに疑うという行為はもはやない。
人がお互いを思いやるというのは良いことだ。
しかしある一定の線を超えるとそれは、思いやるではなくな、依存になると僕は思う。
依存とは、「愛情という名の支配」である。
依存者は、相手から依存されることに無意識のうちに自己の存在価値を見出し、そして相手をコントロールし自分の望む行動を取らせることで、自身の心の平安を保とうとすることだ。
今回の映画の場合はお互いが依存関係であったので、共依存であったと言える。
では、何故このような事が起きたのか?それはいつまでも自分の物であって欲しいという、所有欲からだと考える。
自分の子供、子供はいつまでたっても子供などという考えがある。
大抵子供の成長と共に両親も子供への認識が変化していくのだが、この映画のケースの場合は、母がみたい子供の面を見て、自分に都合の悪い事は目を閉じるという事をしていたので、きっとウォンビンが小学生ぐらいに見えていたのだろう。
行き過ぎた所有欲は盲目になる事が多い。
盲目は正確な判断をする事ができない。
私達の生きている現実には、たくさんのみたくない事、聞きたくない事が溢れている。しかし、それらを避けて通る事ができない。だから、私達はそれらをどのように争うのか、向き合っていくのが重要だと考える。
それが僕は人である証明であり、僕である証明だと思っている。
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