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青山店
「誰も知らない」
投稿日:2013/2/23
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「誰も知らない」 2004公開
もう9年前の映画だと思うと月日の流れが恐ろしいです。
以前映画を鑑賞したが、その時の記憶が全くない。
見たという記憶はあるが「見た」の感想だけ、今回は2回目だが、まっさらな1回目の感覚でみれました。
まず映画の感想は、監督独特のゆったりと流れる時間や空気感。
抑揚の少ない台詞回しが生み出すリアリズム。
淡々と流れる時間と、抑揚のない台詞回しが生々しい空気感を生み出していて怖いほどリアルだった。
また劇中にカメラ目線は全く無く、常にどのシーンも第三者としてその場に居合わせているような印象を持たされた。
脚本があり、ドキュメンタリー風に撮影している映画をモキュメンタリーというらしい。
映画を見て、こんなことが日本で起きているのかと思うとものすごく心が苦しくなった。
なにが一番苦しくさせるのか、また何が一番の問題なのか考えたところ「事の重大さに登場人物全員が気づいていない」事である。
出生届を出さなかった母親、子供だけで住んでいることを察した大家の妻、いつもアパートの前で井戸端会議をしている主婦たち。
皆が皆何かを察知していたのは間違いない、しかし何も変わらない、そして子供達は何も知らない。
ここに憤りを感じると同時に、もしも自分が第三者の立場でその場に居合わせたとしたら自分は何か行動に移せただろうか?
出来た!と言いたいが実際のところはわからない。
勇気を出して、通報するなど出来たか・・・?
店舗で話し合っているときに「日本人は物事の基準をモラルに委ねることが多い」との話が出ました。
まさにそうだ、基準はいつもあいまである。
とくに今回のケースは虐待としての決定的証拠が無かった、怪我などもなかった。
そうなると真実が分からないものに対して、犠牲を伴う判断というのはとても難しい勇気の居ることだ。
アメリカなど海外では個々の意識が非常に高く少し何かあった場合すぐ通報ということがあるらしい。
確かに被害を最小限に抑えることは大切だ、しかし何事も基準をハッキリ作りすぎると幅というものが狭まってします。
たとえば人と人との繋がり、近所付き合いなど教育の幅などがどんどん無くなっていってしまうと思う。
正直この映画のことで、一人で考えれば考えるほどどつぼにはまっていってしまい、分からないことが多い。
しかしいつか突如として目の前に起こりうることかもしれない。
明日はわが身だ。
この間までは全く無知の自分、いまはほんの少しの知識をつけた自分。
行動の前段階、知るということは出来た、この知識はいつか悲しく辛い思いをしている周りの人を見つけたときに活躍してくれるはずだ。
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