Photogenic
横浜青葉店
scrollable
Thinking of LIFE,
投稿日:2019/6/20
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Photo&Write by Reiri Kuroki
Coordi by Natsuko Takagawa
@Yokohama Aoba
ライフスタジオでの撮影が好きです。
ここ以外の写真館では、1社しか経験はないので、写真業界の撮影に詳しい訳ではありません。
写真の専門学校を出たわけでもなく、何かのフォトコンテストでの受賞歴などもないので、写真の技術や知識に秀でているとも言えません。
実際のところ、『写真』のことは碌に知らないのかも知れません。
それでも、ライフスタジオで、ひとの写真を撮ることが好きです。
そしていつも、ライフスタジオの写真とは何か、を考え続けています。
その答えは、8年もここにいて、ますます混迷を極めていくばかりではあるのですが(笑)
悩みながら閃いて、試してみてはまた悩んでを繰り返しながら、『ライフスタジオの写真』についての問答を続けています。
とは言え、『ひと』の写真を『ひと』が撮ることにおいて、たったひとつの冴えた答えを打ち出すことは、恐らくできないのではないでしょうか。
撮るひとも、撮られるひとも、その時の状況や環境も、場合によっては世相や時代みたいな大きな背景まで含めて、一期一会の無数の掛け合わせがあるのだから、答えはきっと変わり続けていきます。
だからこそ、こっちはこっちで考え続けなければならない。
せめて、今この時の『ライフスタジオ』という条件の中での、『わたし』という撮影者としての答えは、常に求めていかなければならないと思っています。
その時、その瞬間に、『わたし』は何故そう撮ったのか、という、答え。
それが考えられなければ、何を根拠に、目の前の『ひと』の写真を撮っていけば良いのかがわからなくなってしまいますから。
写真は、撮影者の主観を反映します。
主観には、少なからず撮影者自身の経験や、価値観や、人生が反映します。
私自身は、そこまで数奇な人生を歩んできた訳ではないと思っていますが(笑)、ひょっとしたら、私の人生の中での影響とも思われる『ひと』への渇望みたいなものは、ライフスタジオで写真を撮る上では効果的な視点になっているのかも知れません。
ライフスタジオは、撮影者が『自由に、そして真っ直ぐであること』を是としてくれる場所です。私はライフスタジオの撮影者として、自分自身の価値観を、人生を、ひとへの渇望を、写真に反映させる自由を得ています。
もちろん、それが独り善がりではいけません。だからこそ、ライフスタジオには読み、書き、討論することや、哲学や、こうして言葉で規定していくという習慣があります。
自分の中だけで完結させずに、出していくこと、客観をもらうこと、考え続けること……それらは勇気が必要であったり、苦しかったり、恥をかくこともあります。この8年で何度泣いたか数知れず(笑)、逃げ出したくなる程恥ずかしい思いも散々して、それでもライフスタジオでカメラを持って、『ライフスタジオの写真とは、何か』を考えます。
それは、私にとってそれが最も『人間らしい仕事をしている』と感じられるから、です。
ライフスタジオで『ひと』の写真を撮ること、それに伴うありとあらゆる思考を働かせ続けることが、私をより人間らしく生きさせてくれること、であるように思うのです。
そして、『ライフスタジオの写真』とは、人間らしく思い悩む撮影者が、自分の価値観や人生や渇望を反映させながら、目の前の『ひと』を美しく表現する試みの過程、そのもの。
私の中での『ライフスタジオの写真』は、そう規定してみました。
正しいかどうかは、わかりません。今後変わっていくかも知れません。
でも、今は、そう規定してみます。
*
前提となる部分は、充分でしょうか。
ここからは、いかに『適正に』、そのひとの美しさを表現するか、という話にしてみましょう。
実はここまでの文章は、この写真の撮影前に書いています。
この写真は、2019年6月20日、15時半の枠で撮影した写真です。
この撮影にあたっては、充分な準備が必要でした。だから、まずは自分の姿勢を整理する為にも、『ライフスタジオの写真とは、何か』を書きまとめてから撮影に臨みました。
ここからは、適正に表現する為の技術の話です。
どれだけひとを美しく撮りたいと思っていても、それが独り善がりでは何の意味もないのです。伝えたいことは、伝わるようにしていかなければなりません。
その為の、技術です。
私は、被写体である彼女たちのことをほんの少しだけ知っています。
私より少しだけ歳上だけどほぼ同世代で、無邪気で可愛らしくて、綺麗な黒髪と瞳の持ち主であること。
お腹に3人目の赤ちゃんを宿していること。
スタジオ内のあちこちに頭をぶつけてしまいそうなほど背が高いパパさんは、日本語がお上手で、ユーモアがあるひとだということ。
そして、彼女たちがライフスタジオ横浜青葉店への全幅の信頼を置いてくださっているということ、等々。
これらの情報と関係を元に、彼女たちの美しさを表現しようと試みる時、この写真で私が選択したのは200mmの望遠レンズでした。
200mmという焦点距離は、非常に主観的な視野を再現できます。
個人的には、どれだけカメラが進化したとしても、ヒトの目には敵うべくもないと思っています。ヒトの見る世界は、そのひと自身の主観を反映するので、無関心な情報はあまり認識されません。膨大な情報量の中で自分の嗜好に関わるものはすぐにキャッチされ、愛する人の姿はキラキラしたフィルターさえかかって見えたりもします。
ただ、ヒトの目は『記録』という機能を備えてはいないので、ヒトの見る世界を残しておくことができません。
そこで『写真』が求められる訳ですが、カメラはただシャッターを押すだけでは、レンズの前の何もかもを平均的に記録するだけです。
主観を持った、撮影者の意思が介入することで、初めて『ひとの写真』としての表現が伴います。
露出も焦点距離も、フレーミングも、どのタイミングでシャッターを切るかという決断も、全てはそのひとの美しさを抽出して表現する為の最適解でなければなりません。
それを踏まえた上で、今回は200mmを選択します。
その特性としてのボケ味は、ひとの魅力に捉われた時の視界のように、それ以外の情報を柔らかく溶かしてくれました。
愛する人との、至近距離。そんな愛おしい空間において、撮影者の干渉は最小限にすべきでしょう。200mmの望遠は物理的な距離を確保して、ふたりから無粋な撮影者の存在を遠ざけました。
そして、ふたりの瞬間が訪れるのを、待ちます。お互いに窺うような視線を交わした後に、はにかんだ瞬間がまさにその時、でした。照れを含んだママさんの表情を受けて、パパさんが笑う、その瞬間。撮影者という存在の干渉から自由になって、ふたりが交わすそのはにかんだ表情が、私の視界の中でキラキラ輝いて、見えました。
200mmのレンズは、被写体を自由にして、撮影者の視界を反映した表現を可能にします。
『わたし』という主観の視界から見た、彼女たちの美しさ。家族を想う瞬間が、いちばん美しいひとたち。
その美しさを、自分が考え得る限り適正に表現して伝えようとする、『わたし』の試み。
ひとの美しさを写真で表現する、そのことにおいて、たったひとつの冴えた答えには辿り着けないけれど、いつだって、考え続けなければなりません。
ライフスタジオの撮影者として、より人間らしくある為に。
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