OurStory
横浜青葉店
scrollable
Aobaジェニック January.2018
投稿日:2018/2/17
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Photo&Write by Reiri Kuroki
Coordi by Mayu Kanasugi
@Yokohama Aoba
Coordi by Mayu Kanasugi
@Yokohama Aoba
人生の写真館。
生まれたてのbabyから、孫に囲まれたおじいちゃんおばあちゃんまで。
お宮参りや七五三、ハーフ成人式、そして20歳の成人式……
ひとりひとりの人生という長い旅路で、振り返ってみればそれらは節目であると同時に、積み重ねられる日常の中に内包されているもの、でもあります。
旅路の中の、通過点のひとつ。
いろんなひとの、いろんな旅路の通過点に、カメラを持って寄り添いに行く。
そのひとの旅路の足跡や、その時そのひとが持っている荷物や大切な宝物、共に行く家族や仲間たち、進もうとする道。そういうものを、記録して、確認して、また前に進んでいく、そんな力になれるような写真を撮る為に。
とは言え、その通過点で待ち構えて「へいらっしゃい!1枚撮ってあげるよ、どうだい?」みたいなのは、ナンセンスだと思っています。
そこで出会ったそのひとが、これまで歩いてきた道を少し遡って見てみたり、一緒にいるひとたちに話を聞いたり、何より本人と会話や感情を交わしながら、少しの間だけ同じ道を歩きたい。
今ここで出会えたことを喜び、その道をここまで進んで来たことを共に誇り、その先を進む背中を見送りながら、あなたがここを通過した、その証を残すこと。
カメラを持ってひとの人生に寄り添う、とは、きっとそういうことであり、
人生の写真館とは、そういう姿勢でひとと関わる場所でありたいと思っています。
20年という時間を生きてきたひとりの女性は、日本国内の社会的な観点からも『大人』として認定される、その瞬間を迎えました。
彼女は成人式を迎えたひとりの『大人』です。しかし同時に、誰かの『娘』『子ども』でもあり、『女性』であり、ひょっとしたら誰かの『恋人』でもあるのかも知れません。
はじめまして、の私が一方的に想像し、推し量るには、その『ひと』そのものは複雑で、繊細で、多様な側面が幾重にも蓄積されています。
幾つもの通過点を経て、彼女は今、ここにいる。そのひとつでも欠けたら、今の彼女には成り得ない。
大人を撮影する、ということは、そういうものを表現する写真を撮る、ということです。
待ち構えて「へいらっしゃい!」では、決してそういう写真を残すことは、できません。
複雑で繊細な、『ひと』の姿を美しく表現するには、自分自身がまずその『ひと』の美しさを集中して探すところから始まります。そして、その『美しさ』が、彼女の中の何に起因してそう感じさせるものなのかを仮定することで、表現のきっかけを手に入れます。
誰しもがそうであると思いますが、彼女の歩んで来た道も、決して平坦なものではないでしょう。
その平坦ではない道程で、彼女はたくさん泣き笑い、喜び悲しみ、時に怒ったり、悔しかったり、愛したり……そういう様々な感情で心を震わせながら、『ひと』という精神の部分を広く深くしながら、歩んできたのではないでしょうか。
それらはきっと、家族や友人といった他者との関わりの中で交錯し、彼女自身という存在を確立してきました。20年分の彼女の旅路は、様々な感情を味わいながら、『自分』という存在確認をする過程でもあるのだと思います。
そして私は、そんな彼女の前に、カメラを持って立つのです。
彼女の内部で確立されたその存在確認を、『わたし』という客観を通して表現し、彼女が新たな自分を知る、その為に。
お母様が着たという晴れ着を着て、お母様が作った髪飾りを付けて、彼女は凛と佇みます。
自分が20歳だった頃、周りの大人をどんな風に見ていただろうか、と思いながら、私も彼女の前に立ちました。大人然として余裕ぶることができる程、今の私は大人でもないなぁと、率直に思います。
そんな私に、彼女は礼儀正しく挨拶し、雑談に応じ、私の指示を待っていました。
私は、彼女の人生の通過点で、たまたまこうして出会うことができた写真館のカメラマンでしかありません。
それでも自分には、ちょっとした使命感のようなものがありました。
折しも世間は、『成人式』にまつわる残念なニュースで溢れていました。
事件に発展して扱われたそのニュースの当事者ではないにしろ、20年分の時間を積み重ねて、社会的にも『大人』として認定されるその一歩を踏み出す日を、商業形態の中でただの消費として扱われることほど、残念なことはないでしょう。自分自身もまた、そういった経験は苦い思い出になっています。
だからこそ、せめて自分がカメラを持って出会ったひとたちには、そういう思いはさせたくありません。
ここで出会った、生身のひとりの『ひと』として、敬意を払い存在を尊重し、互いに感情を表しながら『ひと』として、関わりたい。
私の目の前の、晴れ着を纏った彼女自身を、その存在の美しさを、全力で向き合って写真にしたいと思いました。
幾つかの型を撮りながら、集中して、慎重に『彼女』を探します。
大人の撮影においては、カメラマンの力量が如実に表れるものです。20年分の社会経験を積んだ被写体は、小さな子どもたちとは違い、赤の他人の前で感情を剥き出しにしたり、無邪気に遊んだりすることはありません。
だからこそ、基本的に私の指示以外のことが自然発生することがなく、頭のてっぺんから爪先まで、指先まで、撮影者は被写体を動かしていかなければなりません。
とは言え、彼女たちの世代は、私の世代よりも写真を撮ることの気軽さが浸透しています。カメラを向けられた時に、定番のポージングへの指示をなぞることも、意識的に微調整を加えることも、恐らく容易なのでしょう。
被写体が、自分の『写り方』をある程度意識して、作用することができるのです。
それは、撮影者にとっては撮影慣れしたスムーズな進行と同時に、被写体の本質そのものが隠れゆく、ということでもあります。
写り方への作用は、被写体が自分で認識している範囲内しか表層に表しません。それは、彼女のごくごく一部でしかないのです。
勿論、この日会ったばかりの私が、彼女の全てを理解して写真に表現するなんて、現実的には不可能でしょう。それでも、私は彼女を彼女の外から見ていて、彼女自身からは見えない角度から彼女を観察することができます(物理的にも、概念的にも)。
彼女を構成する、様々な要素。そのひとつでも欠けたら、今の彼女には成り得ない。大人を撮影する、ということは、そういうものを表現する写真を撮る、ということで、その為には、『彼女』という存在の中の『本質』を探さなければ、ならない。
何気ない会話をするのは、緊張を解きほぐす為でもあり、彼女が辿ってきたこの道を振り返り確認する、そんな過程でもあります。
彼女の好きなことは、今の彼女が大切にしている宝物であり、大学で学んでいる内容は、これから彼女が進む道で選択の判断材料となるものでしょう。たまに、撮影を見守ってくださっているお母様も会話に巻き込んで、お話をします。彼女の言葉と、彼女を見守って来た家族の言葉で、彼女の道を振り返って、今の彼女への繋がりを確認します。
勿論それは、一方的では意味がなく、私自身もまた自分のことを話します。
会ったばかりで得体の知れない人間に、そうそう本質は見せられません。自分もまた、彼女と同じ歳の頃に歩いていた道を思い出し、家族の話をします。彼女にもまた、『わたし』を知ってもらう過程です。
撮影の為の会話、ではなく、目の前の『ひと』を互いに知る為の会話。それは『あなた』への道となり、私は『あなた』の道に少しだけ、共に歩かせてもらうような気持ちになります。
そんな中で、会話の最中に不意に表れ、すぐに潜んでしまう一瞬の、屈託のない笑顔がありました。
写真において『笑顔』の訴求力は言うまでもありません。しかし、『写り方』への作用ができる20歳の女性が見せる屈託のない、いわゆるちょっと無邪気なその笑顔は、晴れ着を身に纏って瀟洒な佇まいを見せる静的な美しさの中で、動的な感情の発現としてより際立ちました。
とは言え本人は、あまり自分の笑顔に肯定的ではない反応を見せていました。
無邪気な、屈託のない笑顔、というのは、本人にとっては油断した時に見せてしまう、ちょっと無防備な表情だったのかも知れません。その無防備さは、撮影者への警戒心が薄れた証でもあり、彼女の本質を隠していた表層的な『写り方』への作用が崩れた瞬間でした。
私にとっては、それはとても、とても美しく見えました。
撮影者の指示をそつなくこなす、大人の女性。社会的には『大人』と認定されているその美しい女性が、初対面の人間にカメラを向けられ大人然として振る舞いながらも、つい無邪気に笑ったその顔は、彼女自身の無垢な少女性を表しました。
蓄積された時間が、進んで来た道が反映されていると感じさせるその表情は、きっと彼女のアルバムに幾つも見られる笑顔なのではないかと感じさせます。
そして、それに対してちょっぴり肯定的ではない、恥ずかしそうな彼女に、その美しさを見せてあげたいと、強く思いました。
少し距離を取ったのは、彼女が油断してくれる距離感を保つ為でした。
窓を挟みながら望遠で撮影することで、反射やガラスを通した僅かな歪みが、空気感を柔らかく表します。
その為に、私は建物の外にまで出ています。あまりに離れると今度は、その隔たりが被写体との意思疎通に問題を生じさせそうですが、そこはこれまでのコミュニケーションとコーディネーターが確実に繋いでくれていました。
お母様の着物、帯、手作りの髪飾りは、彼女への想いを託された大切な構成要素です。帯の形も綺麗に入るように、やや角度を付けてもらいます。
前述の通り、ポージングへの指示をなぞることは彼女には難しいことではありません。しかし、カメラマンが建物の外から窓越しにカメラを向けて来たあたりから、写り方のイメージが予想できなくなったのか、やや戸惑いを見せていました。
その戸惑いに畳み掛けるように、窓の外から大きな声で投げかけた一言に、彼女は思わず、笑います。
それは、投げかけられた言葉そのものに対してかも知れないし、いい大人が寒空の下で大声で騒いでいるのが滑稽だったからかも知れません。何にしろ、『思わず』笑ってしまった、その不意の、その瞬間が、私が見付けた『彼女』の美しさでした。
20年分のこの旅路を一歩ずつ進んで来た、彼女の姿。今、ここを通過しようとする『あなた』の記録。赤ちゃんの頃から、この瞬間までの、『あなた』という存在を一貫して表す、無垢で屈託のない、笑顔。
『あなた』がこの先の道を往く、その力になるような、新しい自分との出会いとなる、写真。
私はこの写真を、そう規定して、あなたに提示します。
私が感じた『あなた』の美しさ。『あなた』にとっても、そうであって欲しいと、願っています。
『掲載不可』と書かれた顧客情報を見ながら、一晩悩みました。
それでも、自分にとって大切な出会いだと思ったから、大切な写真だと思ったから、お母様にお電話をさせてもらいました。
「あの、掲載不可だったのは承知しているのですが、あの時の写真の分析を書かせてもらえませんか?」
その言葉に、お母様は喜んでくださり、ご本人にも承諾を取ってくださいました。
それは、写真が価値を持ったということの、ひとつの証であるのかも知れません。
いろんなひとの、いろんな旅路の通過点に、カメラを持って寄り添いに行きましょう。
生まれた時から始まるその旅路。あなたが歩くその道を、その時間を、寄り添いながら記録して、あなたの背中を見送ります。ライフスタジオが、人生の写真館として、できること。
写真を撮ることしかできないけれど、その写真が、あなたの旅路の力になれることを、心から願っています。
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2018年1月の横浜青葉店のベストフォトことAOBAジェニックはこの一枚に決定いたしました!
今回は青葉店スタッフ満場一致の決定となり、青葉店スタッフ全員推しの一枚となりました。
素敵な出会いと撮影を、ありがとうございます。
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