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湘南店
湘南×カンボジアのはなし
投稿日:2013/2/7
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カンボジアについて。
それは昨年Park社長がから突然言われたことだった。
「カンボジアの子どもたちをサポートしてみないか」
社長はいつもの余裕っぽい笑顔で言った。
サポーート??
どういうことだろう・・・
その時は寝耳に水という感じだった。
ひと月1000円ほどで、カンボジアの子ども一人がきちんと教育を受けられるように
支援することができる。
子どもからは学校行事の時などに手紙が届いたりもする。
日本の親みたいなものだ。
ほほう・・・・・
なるほど・・・・・・・
しかし、その場では誰も返事をすることができなかった。
私自身、返事は限りなくNOに近い保留だった。
人の人生に深く影響する、そこまで純粋な気持ちが自分には備わっていないように思えていた。
だって、その子の人生を請け負うってことだよね?
もし万が一サポートができなくなったら・・・???
そんなことを言うと
「お前らが普段食べるのに使う1000円をそういうことに使うってだけなのに、
何をそんなに難しく考える必要がある」
と、あきれたように社長は笑った。
たしかに、それはそうなんだけど・・・
サポートするということの重大さに萎縮する気持ちが拭えずに
その時はまだ心がブレブレだった。
そして、その時は、というより今もブレブレしてはいる。
私たちは2月末からカンボジアへ行く。
そこで、廃墟になった建物をペイントしたり、
小学校へ行って子どもたちと一緒に遊んで歌って踊ったり、する予定だ。
他者の生活を知ることの意味を、肌で感じたい。笑いながら。
でもこれは、カンボジアの子どもたちにとってどういうことなのか。
ただ一過性のボランティア集団が台風のように来て去って行ったと、
そんな風に思われるのか。
それとも
日本の母、父、姉、兄、
「家族」のように、心を分けてくれるのか。
どうなるのかはわからない。
けれど、できるなら、後者になりたい。
だから一過性のもので終わらせたくないな・・・
そう思った時に、Park社長の言葉を思い出した。
「カンボジアの子どもたちをサポートしてみないか」
そしてほんのりと、選択を迫られるような気持ちになる。
これは責任というものなのだろうか。
それでもいまだに私の心はブレブレしている。
情けないけどそれが本音なのだ。
いきなりボランティアをするというのは、お金に余裕のある人が急にお金をばらまくようなものだ、真正性がない。
そんなことを社長が言っていた。
練習しないでピアノが弾けるようにはならないように、
いきなりボランティアをしてもそこに「練習」(例えば継続的な寄付)がなければ、もしかしたら真実味はないのかもしれない。
そう思うと、自分の準備はあまりにも少ないんじゃないかとも思ったりする。
それこそ真正性があるのかどうかすら危うい。
でも過去は変えられない。
だったらこれからどうして行くべきなのか。
それしかない。
変えられるのは今しかなく、
その選択は細い道筋の先の未来へ続く
何かを指し示しているようにも感じる。
そんな様々な感情を持ち合わせつつ悶々としながらも、
いつも元気で明るい湘南スタッフに私は支えられている。
私は固く考えすぎる・・・・・・
そんなことも思う。
黒木さんが掲げた言葉
「カンボジアの人たちを笑かす」
これが真正性を持つ言葉になるように
行動を伴わせていこう。
下手でも何かが通じ合って一緒に笑えたら、
このプロジェクトは成功したと言えるのだろう。
がんばろう。
ネットで拾った写真だけど、子どもたちいい顔してるな~~
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