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湘南店
「かぐやびより」
投稿日:2022/6/4     更新日:2022/6/9
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自分でも何故なのかわからない感情があった。
鑑賞中、たぶん10回かそれ以上、私は「うわあああ」という勢いで「泣けそう」なテンションになった。
何故なのかわからなくてずっと考えた。
そして最後の最後には耐え切れず涙が出て、マスクが濡れて微妙に気持ち悪かった。
本当に、会話も食事も涙もマスクがあることで無意識のストップをしているような気すらして、ここ数年のマスク生活の弊害は細々としたところに表れている。
この時の気持ちの正体というのが今もハッキリとはわからないけど、ただあの時の込み上げてきそうな嗚咽のムーブメントだけはよく覚えている。
一瞬・・・年齢による何かしらかしらとも思ったが、それからそのようなことがまったくないので
きっと私の心の琴線に触れに触れる体験をさせてもらったのだろう。
湘南店のある善行駅。
私たちのスタジオとはまた別の方向のようだけれども、同じ駅に「さんわーくかぐや」がある。
恥ずかしながら私はその存在を知らず、
(恥ずかしながらと思ってしまうほど、地域の人々には周知の場所であると感じたからだ)
この映画のポスターを見て知ることになった。
”小田急線善行駅から徒歩10分足らず、起伏の多い住宅街の一角に「さんわーくかぐや」がある”
見慣れた駅名、善行駅が自然と目に入ってくる。そのままその映画に興味を持った。
かぐやびより 予告編
映画を紹介しようとしたら、きっと多くの人にスムーズに伝えるためにわかりやすく言葉が選択されるだろう。
例えば恋愛映画とかアクションとかドキュメンタリーとか。
その言葉から連想されるそれぞれのイメージを持って、映画を観たいと思う人は観るだろうし、関心がない人は観ないという判断をする。
今回私にとってのきっかけは「善行」という言葉だったわけで、どちらにもならないようだけど、強いて言えば前者だ。
その後にこの映画について調べた結果、これはぜひみんなで観たいと思い、湘南店全員で観ようと提案した。
なぜみんなで観たいと思ったかというとそれも理由がある。
湘南店では今、バースデイギフトとして伊豆の福祉作業所「すぎのこ作業所」さんに木工作品を発注させてもらっている。
この「すぎのこ作業所」さんは湘南店のいーちゃんの元職場だ。
前々からたまにすぎのこさんの作品を見せてもらい可愛いなあ、、、と思っていたので、オリジナルで木工作品を発注できないか相談させてもらい、結果承諾してもらえて型から焼印まで完全オリジナルで製作してもらっている。
私の好きなことのひとつに「何かと何かをつなげる」ということがある。
しりとりもレゴブロックも好きだったし、今は人と人をつなげることが何だか好きだ。
いーちゃんの前職での珍事件などを聞きながら、どこか身近さを感じて、支援できるならしたいと思った。
支援というのはおこがましいのだろうか。”ご一緒したい”、そんな感じ。
そんなわけで、新たな縁は繋がった。
(1年以上経つのにまだ皆さんに会ったことがないのだけ悔やまれるけれど。コロナめ。)
今回担当者の方から「神奈川の会社の注文だ!」と言いながら皆さん作業していますよ、という内容のお手紙が添えてあった。
そう、私たちは彼らにとって「神奈川の会社」。
まだ見ぬ私たちをそうやって認識してくれていて、私たちもまだ見ぬ彼らの作業風景を想像する。物と対価が巡る。
ここにも小さな「社会」ができた。
だから、私たちもより広く社会の仕組みを理解する必要があると思ったのだ。
社会はただ資本を基盤として巡っているだけではなく、こうして人と人が繋がっていくことで機能している。
この土壌が豊かであるほど、福祉、ハンディキャップ、障害、年齢、性別、あらゆる言葉と現実の壁がいかに自分たち自身で生み出したまやかしのようなものであるかとわかるし、その問題が個々人の問題ではないということもわかる。
身近でない人にとってはもちろん簡単でもないだろう。
でも、社会は一人では成立しないのだ。
かぐやの前理事長の藤田慶子さんには精神障害のある娘さんがいた。
娘さんは見えないものに怯え続け、時には刃物を持ち出すこともあったという。
そんな過去があった藤田さんが「かぐや」のイベントで話していた言葉が印象的だった。
「ここにはいろいろな障害を持った人が通っていて、明日どうなるかわからないという人も多い。命がとても身近である。」
私の記憶した言葉はたぶん正確ではないけれども、確かそんな言葉だった。
実際に藤田さんが娘さんと接しながらそれを体験として持っていることを思うとその言葉は大変重いものだった。
障害がある人でもない人でも実際は明日どうなるかは誰にもわからない。
ただ、命についても考えざるを得ないほどに、今を生きていることが伝わって来る。
映画の中では、人間関係に悩む姿、一般的に作業所ではあまり持たせることはしないという包丁を使って野菜を細かく切る姿、イベント中に逃げ出してしまった人を探すという描写もあったが、
そのたびに他の誰かが気をつけてねと注意したり、探しに行ったり、泣いている人の肩をぽんぽんと叩いているのである。
その分け隔てが利用者もスタッフもない。それがかぐやの築く社会だった。
それが何だかすばらしくてそして少し切なくて泣けてしまった。
切ないというのは否定的な感情ではなく、こうあれば回避される「傷つかなくていい人」がどれだけいるだろうなと思ったからだ。
思いやれる社会を目指す先には周りの理解は不可欠なのだろう。
偏見という言葉を恐れず、まず自分の偏見に気づきそれを理解で溶かせる社会になればいい。
障害を持っていてもいなくてもきっと、泣きたい時もあるし踊りたい時もある。
「人はみな愛おしいのだ」ということを
この映画という媒体を通して周知していることにも感銘を受けた。
4年も密着し形にした監督、すごい。
そして、私たちが普段撮っている写真では何が出来るだろうと考えたりもした。
私はドキュメンタリー写真家ではないから、写真は撮れるけど心得がまだまだ未熟であると思う。
しかし例えば仲間と、自分の生きる社会と、つなげてつながっていくとしたら。
そんな可能性を鑑賞後に考えた。つなげたがりの血が、少し騒いだ。
鑑賞後、シネコヤさんのロビーでは「かぐや」の作品が展示販売されていた。
入る時には「かわいい〜」と流し見していた作品たちを
「これ前田さんが作ったんだ!」「これは誰が作ったのかな」と話しながら、それぞれが推しグッズを購入した。
小さな理解が心ある行動に変わっていく。
この一歩が今必要なんだと教えてもらえるような映画だった。
私はかぐやのアイドル・前田さんの名作「とんかつ」をゲット。
表は豚の絵、裏は「とんかつ」と描かれたセンセーショナルなトートバッグ。手ぬぐいも買ってしまった。
私が「とんかつトート」を持って歩いている姿を想像していただきたい。
我ながらちょっと笑ってしまう。
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