Staff Blog
湘南店
scrollable
あかちゃんが教えてくれること
投稿日:2017/4/17
2802 2
あかちゃんたちの癒しのパワー。
例えばその日になにか辛いことがあっても、苦しいことがあっても、あかちゃんたちの純粋なオーラと曇りなき瞳を見るだけでその気持ちがぱあーっと晴れていく。
なにを悩んでいたのか忘れてしまう。
まあその後また現実が追いかけてきて、同じような気持ちになったりするのだけど。
昔、あかちゃんがなぜ「かわいいのか?」ということを説明していたのを聞いたことがあった。
動物と違ってヒトは一人では生きていけない生き物で、ましてあかちゃんは誰かにお世をしてもらわなければ生きていけない存在だ。だから、かわいいのだと。
それを聞いた時には随分極端だし、母性や父性があるからこそより可愛く愛おしいからなんじゃないのかなー、と、もう少し追加で説明してほしいなぁと思ったものだった。
湘南店では「家族社会学」という本をみんなで読んで、より家族写真について深く知っていこうとする学習をしている。
その中に出てくるアドルフ・ポルトマンという生物学者によるとこんな説もあった。
<生理的早産>
人間は動物学的観点から見た場合、他の哺乳動物の発育状態に比べてすべて約1年早く産まれるとして、
人間の誕生時の状態を生理的早産と言い、
また乳児期を「子宮外胎児である」と述べている。
人間は未熟な状態から成熟しなければならない大きな部分を残した可逆性に富んだ存在であると
位置づけている。
産まれてから自力で顔をあげられないというのはヒトくらいなのだそうだ。
それでポルトマンは、人間の妊娠、出産を「生理的早産」と定義づけた。
運動能力や知能の発達などの観点からいうと、妊娠期間が二年間(!)必要だという。
現実的にそれは不可能なことだけど、そこで、ではなんで人間はそうしてある意味未熟で周囲の支えがなくてはならない存在として生まれてくることになったのかと考える。
すると、どうしてもそれが人間が人間として生きていく上で必要なことを、親になってなお学ぶ機会として与えられているような気がしてならない。
小さくてか弱い存在。
それを守ろうとする気持ちの芽生え。
それは人が人として生きる上で、本能であり愛情の伴った行動であり、人の幸せがなんであるのかを導くものでもあるのかもしれない。
撮影でそんな愛情の形を親御さんから感じる時間を共有できることは撮影者にとっても同じように幸せだと感じる。
未完成な存在というのは、それに対して愛情を持っていられれば、転じて幸せのもとになるということ。
そんな簡単な方程式が実はオトナの世界にも存在していて、それをクリアすることは簡単なことではないけれど、目指す先の行動指針にはなるものだ。
すべてのことには理由がある。
自分にとって守りたいものが何であるのかを考える時、その幸せのもとをもっと増やしたいと思うようになった。面倒も不具合も嫌いも苦手も、何か理由があるはずなのだ。
まっすぐ生きることの難しさと愛情を注ぐにはその器を用意しなければならない当たり前の原理、
下手でもいいから丁寧にその器を作っていきたい。
例えばその日になにか辛いことがあっても、苦しいことがあっても、あかちゃんたちの純粋なオーラと曇りなき瞳を見るだけでその気持ちがぱあーっと晴れていく。
なにを悩んでいたのか忘れてしまう。
まあその後また現実が追いかけてきて、同じような気持ちになったりするのだけど。
昔、あかちゃんがなぜ「かわいいのか?」ということを説明していたのを聞いたことがあった。
動物と違ってヒトは一人では生きていけない生き物で、ましてあかちゃんは誰かにお世をしてもらわなければ生きていけない存在だ。だから、かわいいのだと。
それを聞いた時には随分極端だし、母性や父性があるからこそより可愛く愛おしいからなんじゃないのかなー、と、もう少し追加で説明してほしいなぁと思ったものだった。
湘南店では「家族社会学」という本をみんなで読んで、より家族写真について深く知っていこうとする学習をしている。
その中に出てくるアドルフ・ポルトマンという生物学者によるとこんな説もあった。
<生理的早産>
人間は動物学的観点から見た場合、他の哺乳動物の発育状態に比べてすべて約1年早く産まれるとして、
人間の誕生時の状態を生理的早産と言い、
また乳児期を「子宮外胎児である」と述べている。
人間は未熟な状態から成熟しなければならない大きな部分を残した可逆性に富んだ存在であると
位置づけている。
産まれてから自力で顔をあげられないというのはヒトくらいなのだそうだ。
それでポルトマンは、人間の妊娠、出産を「生理的早産」と定義づけた。
運動能力や知能の発達などの観点からいうと、妊娠期間が二年間(!)必要だという。
現実的にそれは不可能なことだけど、そこで、ではなんで人間はそうしてある意味未熟で周囲の支えがなくてはならない存在として生まれてくることになったのかと考える。
すると、どうしてもそれが人間が人間として生きていく上で必要なことを、親になってなお学ぶ機会として与えられているような気がしてならない。
小さくてか弱い存在。
それを守ろうとする気持ちの芽生え。
それは人が人として生きる上で、本能であり愛情の伴った行動であり、人の幸せがなんであるのかを導くものでもあるのかもしれない。
撮影でそんな愛情の形を親御さんから感じる時間を共有できることは撮影者にとっても同じように幸せだと感じる。
未完成な存在というのは、それに対して愛情を持っていられれば、転じて幸せのもとになるということ。
そんな簡単な方程式が実はオトナの世界にも存在していて、それをクリアすることは簡単なことではないけれど、目指す先の行動指針にはなるものだ。
すべてのことには理由がある。
自分にとって守りたいものが何であるのかを考える時、その幸せのもとをもっと増やしたいと思うようになった。面倒も不具合も嫌いも苦手も、何か理由があるはずなのだ。
まっすぐ生きることの難しさと愛情を注ぐにはその器を用意しなければならない当たり前の原理、
下手でもいいから丁寧にその器を作っていきたい。
この記事をシェアする
サイト内投稿の検索
- トップ
- Staff Blog