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Movie3:毛皮のエロス ダイアン・アーバス幻想のポートレート
投稿日:2016/12/16
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「過激な題材によって写真芸術の概念に一石を投じた、天才写真家ダイアン・アーバスにオマージュを捧げる官能ラブストーリー。
多毛症の隣人との出会いをきっかけに、貞淑な妻から自立した写真家へと変化していくヒロインを『めぐりあう時間たち』のニコール・キッドマンが演じる。
監督は『セクレタリー』の異才スティーヴン・シャインバーグ。ダイアン・アーバスの人生に、独自のイマジネーションで肉薄した監督の手腕が光る。
裕福な両親とファッション・フォトグラファーの夫を持つダイアン(ニコール・キッドマン)は、隣に越してきた男ライオネル(ロバート・ダウニー・Jr)に興味を抱く。ライオネルは奇妙なマスクで頭を覆い、コートで全身を隠していたのだが、それは全身が毛むくじゃらの多毛症を隠すためだった。」
(HPより)
ドキュメンタリー写真の異才と言われるダイアンアーバスを描いた映画ということで
なんとなくドキュメンタリー色が強い映画なのかなと勝手に思い込んでいたが、
オマージュであり、内容はアーバスの内面世界がどのように形成されていったのかを描いたようなものだった。
そもそも原題が「FUR」(毛皮)なのに対し
「毛皮のエロス」と邦題がつけられ、説明文にも官能世界がどうとか書かれていたので
あまりにも刺激的だったらどうしようかと心していたが、即物的な描写でなく、
本来エロスとはこういうものなのだという概念の意味を描いているようで
最終的にはむしろ清廉な印象であった。
冒頭からモザイクもなしの全裸の男女がオシャレな邸宅でそれは自然に主人公のアーバスをもてなし
「僕たちを撮影するなら、君も脱ぎなさいよ」と促すところから始まるが、
そして最後にも同じ場所らしきが映る。
冒頭では驚きつつ、最後にはそれに違和感を感じなくなっており、
ここではこれが正しい姿であって
人が身にまとうものは目に見えるものと目に見えないものがあるのかもしれないなという気持ちにさせられた。
アーバスはドキュメンタリー写真を撮り続けた写真家だが、
その対象は人々の多くがあまり目を向けなかった人たちでもあった。
要は多くの人と見た目に違いのある人々。
しかしアーバスにとってそれは受け入れ理解したい存在であり、
言葉が的確かどうかわからないが好奇心を揺さぶられる存在でもあったのだろう。
その人々と実際交流しながら写真を残していったのだが、
その心のやり取りが、アーバスと多毛症の男、
そしてその不貞関係を知りながらもその間に入ることができずに
自らもヒゲを生やしていくしかできなかった夫の姿(そして最後は剃っていた)に投影されているようだった。
人生をかけて撮り続けた写真と、それを人生をかけて見守った人がいたこと
強い欲求と好奇心が人々の人生を大きく変えていったこと、鑑賞後も男とアーバスの交流に思いを馳せていた。
一人の人間が、一人の写真家になっていく過程。
互いに向き合い、個人の中へと深く深く入っていく感覚があった。
多毛症の隣人との出会いをきっかけに、貞淑な妻から自立した写真家へと変化していくヒロインを『めぐりあう時間たち』のニコール・キッドマンが演じる。
監督は『セクレタリー』の異才スティーヴン・シャインバーグ。ダイアン・アーバスの人生に、独自のイマジネーションで肉薄した監督の手腕が光る。
裕福な両親とファッション・フォトグラファーの夫を持つダイアン(ニコール・キッドマン)は、隣に越してきた男ライオネル(ロバート・ダウニー・Jr)に興味を抱く。ライオネルは奇妙なマスクで頭を覆い、コートで全身を隠していたのだが、それは全身が毛むくじゃらの多毛症を隠すためだった。」
(HPより)
ドキュメンタリー写真の異才と言われるダイアンアーバスを描いた映画ということで
なんとなくドキュメンタリー色が強い映画なのかなと勝手に思い込んでいたが、
オマージュであり、内容はアーバスの内面世界がどのように形成されていったのかを描いたようなものだった。
そもそも原題が「FUR」(毛皮)なのに対し
「毛皮のエロス」と邦題がつけられ、説明文にも官能世界がどうとか書かれていたので
あまりにも刺激的だったらどうしようかと心していたが、即物的な描写でなく、
本来エロスとはこういうものなのだという概念の意味を描いているようで
最終的にはむしろ清廉な印象であった。
冒頭からモザイクもなしの全裸の男女がオシャレな邸宅でそれは自然に主人公のアーバスをもてなし
「僕たちを撮影するなら、君も脱ぎなさいよ」と促すところから始まるが、
そして最後にも同じ場所らしきが映る。
冒頭では驚きつつ、最後にはそれに違和感を感じなくなっており、
ここではこれが正しい姿であって
人が身にまとうものは目に見えるものと目に見えないものがあるのかもしれないなという気持ちにさせられた。
アーバスはドキュメンタリー写真を撮り続けた写真家だが、
その対象は人々の多くがあまり目を向けなかった人たちでもあった。
要は多くの人と見た目に違いのある人々。
しかしアーバスにとってそれは受け入れ理解したい存在であり、
言葉が的確かどうかわからないが好奇心を揺さぶられる存在でもあったのだろう。
その人々と実際交流しながら写真を残していったのだが、
その心のやり取りが、アーバスと多毛症の男、
そしてその不貞関係を知りながらもその間に入ることができずに
自らもヒゲを生やしていくしかできなかった夫の姿(そして最後は剃っていた)に投影されているようだった。
人生をかけて撮り続けた写真と、それを人生をかけて見守った人がいたこと
強い欲求と好奇心が人々の人生を大きく変えていったこと、鑑賞後も男とアーバスの交流に思いを馳せていた。
一人の人間が、一人の写真家になっていく過程。
互いに向き合い、個人の中へと深く深く入っていく感覚があった。
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