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Movie1:バンバンクラブ
投稿日:2016/11/14
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BangBangClub
世界では、自分が意識して見ないと見えてこないくらいたくさんの様々な状況が絶えず動いている。
テロや戦争や、あらゆる紛争についても、この日本でその情報を知るにはテレビやネットのニュースくらいしかないだろう。
この映画は実際に存在したジャーナリストの人生を基に作られており、写真という観点から見る世界の情勢がどのように関連していて、またそれがどのくらいその人の人生を左右してきたものであったかということを知らせてくれるものだった。
冒頭のインタビューで応える言葉が印象的だった。
「いい写真とはなんですか?」
「いい写真とは、問題提起できる写真なんだ」
問題提起。
この映画では、紛争地域の第一線に乗り込み、それを命がけで記録するジャーナリストたちの姿が描かれていたが、それも単に勇敢に正義を持って向き合う写真家たちの姿ということではない。
「バンバンクラブ」というタイトルがそもそもどういう意味かというのがまず気になったが、観ていくうちに「バンバン=戦争」を示していることがわかる。
バンバンクラブという表現も、バンバンという命がけの現場を舞台にしながらも少しのユーモアと覚悟を、
名前がださい!なんて話ながら世界に認められていく状況と自分たちの目の前に起こる変わらない凄惨な状況が使命感を帯びていき、自覚していく重要な部分であった。
人の命が数でカウントされる世界。
自分の立ち位置がどちらになるかで敵と味方がはっきり分かれる世界。
そんな状況でしかも命の危険にもさらされながら精神のバランスを崩すものもいた。
しかし後に「問題提起」する写真を撮影したのは、そんな一人のジャーナリストだった。
ドラッグに手を出し、派手に女遊びをし、金銭のために戦争を金に変える瞬間を待ち望むジャーナリスト、という描写にも感じて、それをどのように捉えれば良いのかとまどったりもしたが。実際に命がけの状況に身を投じるのは単なる使命感だけではなく、それを世に出し問題提起させること、それに対しての報酬を得ることも当然求めるものなのだろう。
その現場にいかなければ撮れない写真を今も誰かが撮ろうとしている。
その事実に触れて、急に世界が近づいたような感覚にもなった。
ここで描かれた「写真家」が持つべき能力は、カメラの性能がどうこうだけではなく、それを持った上でその人にしか撮れない写真を実際に撮りに行く行為そのものから生み出されるものであった。
そしてそれは時に正しい精神で撮られたものかどうかという疑問が生まれる場合もある。
問題提起の写真にもあったように、飢餓の子どもがうずくまる瞬間に助けずにシャッターを切ったことに対する倫理観、これも人により判断がはっきり分かれたのだ。
ここでいう「正しさ」自体に差異が生まれている、そしてそれを考える機会となった。
助けるか?写真を撮るか?
「撮ることの方が大事なことなのか?」
写真が瞬間の記録であるとともに、そこにその人が存在していた証拠でもある。
きっとどんな瞬間も残してきてくれた写真家たちがいたからこそ残せたものであるが、それに対しいつも新たな問題提起を私たちに投げかけてくるのだろう。
今回は戦争、写真、被写体、その関連性と、それが生み出す問題提起ということについて深く考えさせられる映画であった。
ちなみに私は、少女と鳥の写真については撮るべくして撮ったという側の意見を持っている。理由は上に書かれた通り。
命と比べることなどはできないが、写真に残すことがより深い問題提起を巻き起こす、このことが一枚に大きな意味を持たせることになる、それが人々にとって重要なものだと考えるからだ。
世界では、自分が意識して見ないと見えてこないくらいたくさんの様々な状況が絶えず動いている。
テロや戦争や、あらゆる紛争についても、この日本でその情報を知るにはテレビやネットのニュースくらいしかないだろう。
この映画は実際に存在したジャーナリストの人生を基に作られており、写真という観点から見る世界の情勢がどのように関連していて、またそれがどのくらいその人の人生を左右してきたものであったかということを知らせてくれるものだった。
冒頭のインタビューで応える言葉が印象的だった。
「いい写真とはなんですか?」
「いい写真とは、問題提起できる写真なんだ」
問題提起。
この映画では、紛争地域の第一線に乗り込み、それを命がけで記録するジャーナリストたちの姿が描かれていたが、それも単に勇敢に正義を持って向き合う写真家たちの姿ということではない。
「バンバンクラブ」というタイトルがそもそもどういう意味かというのがまず気になったが、観ていくうちに「バンバン=戦争」を示していることがわかる。
バンバンクラブという表現も、バンバンという命がけの現場を舞台にしながらも少しのユーモアと覚悟を、
名前がださい!なんて話ながら世界に認められていく状況と自分たちの目の前に起こる変わらない凄惨な状況が使命感を帯びていき、自覚していく重要な部分であった。
人の命が数でカウントされる世界。
自分の立ち位置がどちらになるかで敵と味方がはっきり分かれる世界。
そんな状況でしかも命の危険にもさらされながら精神のバランスを崩すものもいた。
しかし後に「問題提起」する写真を撮影したのは、そんな一人のジャーナリストだった。
ドラッグに手を出し、派手に女遊びをし、金銭のために戦争を金に変える瞬間を待ち望むジャーナリスト、という描写にも感じて、それをどのように捉えれば良いのかとまどったりもしたが。実際に命がけの状況に身を投じるのは単なる使命感だけではなく、それを世に出し問題提起させること、それに対しての報酬を得ることも当然求めるものなのだろう。
その現場にいかなければ撮れない写真を今も誰かが撮ろうとしている。
その事実に触れて、急に世界が近づいたような感覚にもなった。
ここで描かれた「写真家」が持つべき能力は、カメラの性能がどうこうだけではなく、それを持った上でその人にしか撮れない写真を実際に撮りに行く行為そのものから生み出されるものであった。
そしてそれは時に正しい精神で撮られたものかどうかという疑問が生まれる場合もある。
問題提起の写真にもあったように、飢餓の子どもがうずくまる瞬間に助けずにシャッターを切ったことに対する倫理観、これも人により判断がはっきり分かれたのだ。
ここでいう「正しさ」自体に差異が生まれている、そしてそれを考える機会となった。
助けるか?写真を撮るか?
「撮ることの方が大事なことなのか?」
写真が瞬間の記録であるとともに、そこにその人が存在していた証拠でもある。
きっとどんな瞬間も残してきてくれた写真家たちがいたからこそ残せたものであるが、それに対しいつも新たな問題提起を私たちに投げかけてくるのだろう。
今回は戦争、写真、被写体、その関連性と、それが生み出す問題提起ということについて深く考えさせられる映画であった。
ちなみに私は、少女と鳥の写真については撮るべくして撮ったという側の意見を持っている。理由は上に書かれた通り。
命と比べることなどはできないが、写真に残すことがより深い問題提起を巻き起こす、このことが一枚に大きな意味を持たせることになる、それが人々にとって重要なものだと考えるからだ。
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