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『 大人という名の子どもたちへ 』
投稿日:2018/4/29
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No.24 Life studio Shonan
Photo by Masashi Kuroki
Codi by Akimi Yoshikawa
「子どもと大人の違いって何ですか?」
「自分を客観視する事など出来ない」
「初めて観て感動した景色をその後複数回観た時のこと」
今回は上の三つと写真を絡めて話を進めていこうと思います。
皆さんもそれぞれ色々なものに執着をし、様々に興味を持っている事かと思います。
子供達にも興味や好きな事はその子達によりカードやフィギュア、ぬいぐるみやゲームなど様々あります。
そんな興味は、四十を過ぎ、いわゆる大人になった自分にもあって、恐竜やミニカーなどは幼い頃と見方や好きな度合いも変わっていません。
そんな中、毎日子供達と接していて思う事は「大人と子供とは何が違うのか?」「何が出来れば大人と呼ぶのか?」ということです。
容姿や経済的な部分などを除くと一般的には二十歳以上を「大人」と呼んでいますが、その年齢という事も除いてしまうとたいした違いは無いように思えます。
おそらく大人と子どもの違いなど無いわけでただ私たちは「大人として生きている」だけなのでしょう。
しかし、大人として生きる上で持たなければならないものはあると思います。
それは、「自分を客観視すること」です。
結論から先に言ってしまうと、自らが考え、想うことの全ては主観ですから自分を客観視することなど出来る訳がありません。
客観視をしているようでも、しているような「気」になっていることが多く、実際にはそれが出来ているのかは疑問です。
ですが、人の多くは自分を客観視しようとします。
それは大人として生きるということがそうさせるからです。
では、先より出来ないのでは?と言っていた「自分を客観視する」ということは何の事を言うのでしょうか?と尋ねられたら私はこう答えます。
「自分の足りていないことや非を認められる事」と。
しかし、言葉では簡単に言えますがこれはつまり自分で自分自身を否定する事でもあるので容易ではありません。
本来の客観である他者の意見も認めたくないと思うのもある意味人間として当然なことかもしれません。
ですが、認めざるを得ないきっかけが訪れた時、そこから逃げなければ本来の「大人として」というものに大きく近づくことになります。
私も今までの人生で二度、三度ほどその瞬間が訪れました。
とても辛い瞬間でもありますが認めると同時に「受け入れる」ということをする事で目の前が開く感覚がありました。
そこで初めて今の自分が10の内の5であって、そもそも10がそこにあるのだと実感するのです。
極々小さなきっかけではありますがそれは日々の撮影でも作ることが出来ます。
こちらを観ている彼と会うのはもう六度目。
彼の事は勿論よく知っているし、彼もまた私の事をよく知っています。
彼の眼に写っている私は、初めてシャボン玉を観てキラキラしているだけの状態ではなく無意識に私の新たな部分を観ようとしています。
私も彼の新たな部分を観ようとします。
それはまるで初めての絶景に感動し、その後その景色を観る回数を重ねる上でその景色の新たな部分や細部を観てしまう事と同じように。
75枚の中にあるこの一枚の写真は、彼もしくは親御さんのために撮ったのではありません。
この写真は私自身のために撮りました。
それは「彼という眼を透して自分を客観視するため」です。
なぜならこれは、私を知っている彼にしか出来なかったからです。
カメラを挟んでおよそ70cmの距離で眼と眼を向かい合わせる。
彼の眼を透すというよりもまるで彼の中から自分を観るような感覚です。
彼との温度を一定に保ち緩やかな気持ちで写真に納める。
その瞬間、それは自分の不甲斐なさを感じ、今現在の位置を確認し、次の目標の位置を定めることに繋がるのです。
あるきっかけがあったからこそ僕たちは度々こうして顔を会わせることが出来た。だから君の成長も自分自身をも観ることが出来た。
私はいつまでも「大人として生きる子どもでありたい」そう思っています。
Photo by Masashi Kuroki
Codi by Akimi Yoshikawa
「子どもと大人の違いって何ですか?」
「自分を客観視する事など出来ない」
「初めて観て感動した景色をその後複数回観た時のこと」
今回は上の三つと写真を絡めて話を進めていこうと思います。
皆さんもそれぞれ色々なものに執着をし、様々に興味を持っている事かと思います。
子供達にも興味や好きな事はその子達によりカードやフィギュア、ぬいぐるみやゲームなど様々あります。
そんな興味は、四十を過ぎ、いわゆる大人になった自分にもあって、恐竜やミニカーなどは幼い頃と見方や好きな度合いも変わっていません。
そんな中、毎日子供達と接していて思う事は「大人と子供とは何が違うのか?」「何が出来れば大人と呼ぶのか?」ということです。
容姿や経済的な部分などを除くと一般的には二十歳以上を「大人」と呼んでいますが、その年齢という事も除いてしまうとたいした違いは無いように思えます。
おそらく大人と子どもの違いなど無いわけでただ私たちは「大人として生きている」だけなのでしょう。
しかし、大人として生きる上で持たなければならないものはあると思います。
それは、「自分を客観視すること」です。
結論から先に言ってしまうと、自らが考え、想うことの全ては主観ですから自分を客観視することなど出来る訳がありません。
客観視をしているようでも、しているような「気」になっていることが多く、実際にはそれが出来ているのかは疑問です。
ですが、人の多くは自分を客観視しようとします。
それは大人として生きるということがそうさせるからです。
では、先より出来ないのでは?と言っていた「自分を客観視する」ということは何の事を言うのでしょうか?と尋ねられたら私はこう答えます。
「自分の足りていないことや非を認められる事」と。
しかし、言葉では簡単に言えますがこれはつまり自分で自分自身を否定する事でもあるので容易ではありません。
本来の客観である他者の意見も認めたくないと思うのもある意味人間として当然なことかもしれません。
ですが、認めざるを得ないきっかけが訪れた時、そこから逃げなければ本来の「大人として」というものに大きく近づくことになります。
私も今までの人生で二度、三度ほどその瞬間が訪れました。
とても辛い瞬間でもありますが認めると同時に「受け入れる」ということをする事で目の前が開く感覚がありました。
そこで初めて今の自分が10の内の5であって、そもそも10がそこにあるのだと実感するのです。
極々小さなきっかけではありますがそれは日々の撮影でも作ることが出来ます。
こちらを観ている彼と会うのはもう六度目。
彼の事は勿論よく知っているし、彼もまた私の事をよく知っています。
彼の眼に写っている私は、初めてシャボン玉を観てキラキラしているだけの状態ではなく無意識に私の新たな部分を観ようとしています。
私も彼の新たな部分を観ようとします。
それはまるで初めての絶景に感動し、その後その景色を観る回数を重ねる上でその景色の新たな部分や細部を観てしまう事と同じように。
75枚の中にあるこの一枚の写真は、彼もしくは親御さんのために撮ったのではありません。
この写真は私自身のために撮りました。
それは「彼という眼を透して自分を客観視するため」です。
なぜならこれは、私を知っている彼にしか出来なかったからです。
カメラを挟んでおよそ70cmの距離で眼と眼を向かい合わせる。
彼の眼を透すというよりもまるで彼の中から自分を観るような感覚です。
彼との温度を一定に保ち緩やかな気持ちで写真に納める。
その瞬間、それは自分の不甲斐なさを感じ、今現在の位置を確認し、次の目標の位置を定めることに繋がるのです。
あるきっかけがあったからこそ僕たちは度々こうして顔を会わせることが出来た。だから君の成長も自分自身をも観ることが出来た。
私はいつまでも「大人として生きる子どもでありたい」そう思っています。
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