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『 無という音楽 』

投稿日:2018/4/29

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『無という音楽』
 Shinyokohama photo by Kuroki  codi by Reiri
 
 
今回は「写真」と「音楽」の話をしようと思います。
 
写真という物にはもちろん音はありません。
音楽という物には画はありません。
しかし私は今まで写真や映像と音楽を別々に考えた事はありません。
なぜなら、映像の中に音楽は存在し、音楽の中に映像が存在するからです。
これは別に特別な事ではなく、当然に思う人も多くいることでしょう。
 
なぜ今回「音楽」という言葉を出したのかというと、それは「無の境地」の話をしたいからです。
そこで、まず2010年に行なわれたある人達の対談を用いようと思います。
その対談とは、皆さんもよくご存知のバンド、THE BLUE HEARTSのドラムス梶原徹也氏をはじめとするミュージシャン達と
チベットのダライ•ラマ法王14世の対談です。
その対談を知った時、一体どういう話がなされたのか興味津々でした。
そこでなされた会話の内容とは平和と音楽についての話であり、チベットや世界の平和を強くアピールする平和音楽祭の開催計画に携わって
いるミュージシャン達の対談でした。
その対談を読み進めていく中で、私がとても興味深く感じた一節がありました。
それは“音楽と共に瞑想する人もいれば、音のない静かな精神で修行する人もいます”というダライ•ラマ法王の一節でした。
この一節を目にした時、以前、梶原氏から「一ヶ月の間寺に籠り、音には一切触れずに瞑想する」と聞いた事を思い出しました。
私は自分をそんな状態に置いた事はありません。
その時はその意味を理解出来ていなかったのかもしれません。
しかし、今はその言葉の意味をとても深い部分で感じる事が出来ます。
追求するという事。
探究するという事。
何においてもそうしていく為には、真の意味で何処かで原点に戻る事、その為に「無の境地」に自分を置く事が必要なのではないかと
思います。
 
例えば、追い求めているものが100として70の地点で立ち止まり中断したとします。
すると、再び追い求めようとした時には、自然と人は70の辺りから始めようとしてしまいます。
それを0から始めようとする事などなかなか出来ません。
それは0といういわゆる「無」という状態には戻れないからです。
一度得た経験や知識、技術、プライドなどはなかなか忘れられず、捨てる事も出来ず、本当の意味で新たに始める事などは難しいという事です。
 
人生の中で多くの人とふれ合い言葉を知る。
そしてその言葉が日々の日常とリンクする。
この写真に写る彼と目が合った瞬間、私の頭の中には初めて「無という音楽」が流れました。
その瞬間は、カメラを持つ右手の方向から一筋の風が吹き、記した全ての事を思い起こせたぐらいとても長く感じられた瞬間でした。
そして何より、これまで自分の中で繋げられなかったものが繋がった瞬間でもありました。
 
私は今、写真の世界にいます。
だからこそまた、音楽をはじめます。
 

「未来は僕らの手の中」









 



























人生の貴重な瞬間はいつでも存在しています。


















 

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