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4月主題 嘔吐 ジャン=ポール・サルトル
投稿日:2012/3/27
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4月主題 嘔吐
ジャン ポール・サルトル
■私という存在について
二年前に活動していた教育チームの事を思い出しました。
その時に、よく言われていた言葉があります。
『真理というものがどういうものなのかを理解する必要がある』
私は、真理に関する本を10冊読むというプログラムを当時行っていました。
その時、最初に買った本がジャン ポール・サルトルの実存主義とは何か?という本でした。
実存主義とは?
サルトルの言葉を引用すると、「実存は本質に先立つ」とする立場である。
実存主義の反対語は、本質主義であり、本質が実存に先立つとする立場である。
例えば、人間がペーパーナイフをつくる場合、ペーパーナイフとはなにかというイデー(観念)が先にあって、
ペーパーナイフをつくることになる。このペーパーナイフのイデーが本質である。しかしながら、
人間の場合、あらかじめ人間とはなにかという本質が決まっているわけではなく、人間は自分で成りたいものになるべく、
未来に投企し、自分をつくりあげる。サルトルは人間の場合、「実存は本質に先立つ」とする。つまり、実存主義は、人間が自由であることの宣言なのである。
当時真理についてまとめていたノートを振り返って整理していると、当時の私はこういう見解もしているようです。
人間とは動物であり、精神でもある。
この二つの面に、人間を切り分けて、生きる意味を追究したのが、ハイデガー・ヤスパースの実存哲学です。
動物の欲望によって、食べ・生殖し・眠る人間・・・現存在。
精神によって、生きる意味に目覚め、使命に燃える人・・・実存と呼びます。
これは、サルトルの言う『実存』とは、少し異なります。
生まれたままの欲望に駆られて生きる人間→『現存在』(現にあるがままの姿)
自己にめざめ、自己実現する人→『実存』(あるべき人、真に存在すべき人の姿)
現存在は、事物だけの世界の内に存在し他人を道具として扱って、欲望に駆られ、「いつか自分が死ぬ」ことから目をそらし、ごまかして生きる。
現存在の時間は、過去→現在→未来、と流れ時間に流されて、今の欲望を満たすために、現存在は生きる。
そんな空虚さを、実存は知って「いつか自分は死ぬ」と自覚し、ならば『有限な人生で、何をなすか?』と生きる意味に覚醒する。
実存の時間性。それは、到来(未来)→既在(過去)→現前(現在)である。
到来する未来に、私はどうあるべきか → 既にある過去により、どんな私となったか → では現在、私は何をなすべきか。
この現存在→実存、時間性への覚醒は個人の超越です。
ここに個人の生きる意味があり、超越した人は、永遠に人々の心に生きる。
民族は、歴史性に覚醒したとき、文化の伝統を築き、民族の生命は、永遠に歴史に生きる。
きっと今なら当時、わたしがなぜ真理の事について学び理解しなければならないのか分かる気がします。
しかし、それがどういうことだったのか、厳密に、そして上手く言葉で表現することが難しいです。
言葉の捉え方、受け取る人の価値観で意味合いが違ってくる危険性も経験していきながらそれでも、
私が本当の自由を自ら決定して切り開いていくことを諦めず、その部分に集中し情熱を燃やして行けさえすれば、
今よりはもう少し私の生きている意味、働く理由、人と人とが出会う奇跡に対して幸福感を強く抱くことができるのではないかと今は考えています。
私がライフスタジオで働いてきた過程を振り返りながら、私の存在というものについて話をするとなれば、関係性の話に辿りつくことと思います。
そんな中で、数年前に言われていたこと(過去)がこうして今(現在)に繋がっていること、私が私でいることの意味を今まで以上に実感できたと思います。
■本で表現している「嘔吐を経験したことがあるか?」である。
嘔吐というのは本書の中の比喩表現です。
私が今まで生きてきたなかでこの表現に似ている経験はなんだったのだろうかと振り返ってみます。
そもそも今回表現されていた嘔吐の本質はなんだったのか自分なりに考えてみました。
上記でも少し述べたように、実存主義や存在と絡めて考えていきました。
何かについて思考するとき、その対象は「在る」ものについてであることがほとんどですが、その「在る」とは何でしょう・・・。
この日常の違和感のようなものから始まり、「在る」ことについての発見へと至ります。
存在について考えるとき厄介なのは、
存在というものがあまりにも当然すぎて、
何を考えたらいいのか分からないということではないでしょうか。
とりあえず「存在するもの」を実感するための、とっかかりとして、
「本質は実存に先立つ」
という考え方があります。
存在しているものの中には、まず何らかの本質があって、
その後で実存(モノ)があということです。
例えば、「紙を切れる何か」「音楽を聴く何か」という本質があって、
「ハサミ」「CDプレイヤー」のようなモノが生まれている、
というのがそれです。
部屋や街を見回せば、ほとんどがそういうモノです。
逆に
「実存が本質に先立っ」ているものもありそうです。
個人的には、植物や水、動物、人間なんかが
それに当たると思うのですが、人間だけという考えもあるようです。
要するに、「二本足で歩く何か」のような本質がなく、
ただ存在ありき、で存在するものです。
こんな感じで、世界は存在するもので満ち溢れているわけですが・・・
主人公は気づきます。
全ての存在は、不条理で、余計なものであると。
存在するものは、その意味や理由を厳密に語りつくせないという意味で不条理です。
(逆に説明や理屈というものは存在しないが故に、不条理ではないと言います。
例えば点と点を結んだものが線分であるというのは、
ただ言葉で定義され、充分説明されるているだけで、
それらは存在せず、不条理ではありません。)
「なぜ無でなく、何ものかが存在するのか」
存在には全て理由があり、理由がなければならないと説きます。
理由があるということは、「なぜ?」という問いに答えられるということです。
存在そのものについて、神とか、言葉とかいうレッテルを貼れなくなってしまった。
貼ろうとしても、簡単にはがれ落ちるようになってしまった。
そこで、全てのものが不条理となり、
自分の存在そのものが余計なものであることに気づいたわけです。
その瞬間に・・・「嘔吐・・・」
普通は、この事実から逃れて楽しく暮らすために、
それぞれの事柄に関連性と意味を持たせて生活を充実させます。
これを自己欺瞞と言うそうです。
たぶん、買ってから一度しか使ってないものを見つめて、
「なんで、こんなもの買ったんだろう」
とか思うときが、かなり、その存在そのものに接近している時です。
そのもの自体が、ここにある必要性も必然性も全く無い。
ただ「在る」だけの不条理で余計なものです。
そして、自己欺瞞も実感しやすい。
「それを得ることで満足できた」
「今後有益になるかもしれない」
と言って、しまいこみます。
実は、自分の持ち物は全て、余計なものです。
時々持ち物を処分したい衝動にかられます。
そのものから、自分が付与した「意味」が剥がれ落ちるからです。
しかし、結局全てを捨てた後でも、
自分という存在が残ります。
こればっかりは捨てられません・・・。
このように、私が私に対して嘔吐するとき。
わたしと私の関連していた存在に対して自分の付与していた意味が剥がれおちるときにとてつもない喪失感に襲われることでしょう・・・。
話を整理してみると、決定的な嘔吐という比喩表現に似た経験は今までしたことが無いかもしれません。
なぜならば、そこには本当に自分の存在を疑う事ができない弱さがあるからかもしれません・・・。
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