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2月主題 知識人の擁護 第一章
投稿日:2012/2/4
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知識人の擁護
成城店 大内あかね
知識人を定義する前に、まず人として必要なことを考えてみたいと思う。
人として必要なもの・・・。
(そして、人間として、知るべきことを知っているのかという部分)
まず、人として必要なものについて考えたいと思う。
様々なものが考えられるが、ここでは人に集中して考えたい。大きく分けてみると、ソフトの部分とハードの部分が考えられる。
大内はソフトの部分はあるが、ハードの部分が無いと数年前に言われたことがある。
どちらも足りてはいないしバランスが悪いとその当時感じていた。何がソフトで何がハードなのか?
その話自体何を示しているのか分からなかった。しかし、今ではその時伝えたかったと考えられる本質の部分で、
自分も似たような悩みを持つことが最近できたので、数年前よりかは理解できている部分が増えたのではないかと思う。
そうやって、自分に足りない部分を気づかせ導いてくれる人が私達の周りには沢山いる。
もちろん、自らの力で学んでいくことも重要である。方法を知れば、見えてくる景色はまた違ってくる。
話を戻してみると、最初の問いで、一つだけ答えを出すのであれば
人として必要なものは、「人」であると考える。
この答えが、今の私にとっても今後の私にとっても変わらない部分だと希望を持ち続けていたい。
次に今回の主題に対して考えてみたいと思う。
例えば、○○については、最終的にこれだという正解はないという言葉を時々耳にする。
確かにその通りかもしれない。
でもそれでいいのか?
そうやって一つの物事に対してピリオドを打つことで最初の議題に上がっていた○○は解決するのか?
いや・・・そうではない気がする。
他にも、これが答えなんだ、こうべきである、こうならなくてはいけない。
という決定されているものに対して、本当にそれで正しいのか?
他の考え方もあるのではないか?なんとなく違和感を感じる。
このようなやりとりを日常生活で過ごした経験は無いだろうか?
単純ではあるが、『それでもいいのか?』という思考が
自分自身とその対象とを分けて考えた結果の『矛盾』なのではないか?
つまり、ぼんやりとではあるがクエスチョンマークが頭のどこかに浮かんでいる状態のことだ。
私自身このような経験をしたことはもちろんあるし、
逆に相手に自分はそういった矛盾を感じさせてしまったのではないだろうかと考えた経験もある。
このように、人として必要なものという定義についても決定的な答えは存在しないかもしれないが、
自分の中でその「存在」というものを生み出し、自分の存在として活きているかという部分が重要なのだと私は考える。
必然的な矛盾が発生する原理をもう少し深く考えていけばこの主題に対しても、もう少し具体的な答えが導けるはずだ・・・。
私にとって必要なものは人であり、
人と人との関係で自然発生する矛盾のおかげで私は悩み考えるという幸福な生き方を選んでいくのであろう。
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