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札幌白石店
写真分析とは・・・
投稿日:2014/4/30
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私を動かした写真
胸の高鳴りがあった。
続けて松屋の牛丼を食べることにも慣れてきて、店舗契約のためのさまざまな過程も、もうある程度は耐えられるほどになった。一日を生きていく日程の枠組みの中で、何かが予想されているという安定感と共に、たびたび繰り返されているという不安が同時に似あるため、酒とタバコの量が増えていく。
.with の初めての撮影で、小さな胸の高鳴りがあった。
胸が高鳴っているというのは、アンバランスを前提としている。写真に対して、今まで話してきた多くの言葉と、それを世の中に出した瞬間から、アンバランスが発生した。体から汗が流れだし、口からは言葉がでてこない。錆付いている昔の記憶を引き出そうとするが、そのままカメラの前に立っている人を待たせるわけにはいかない。カメラを持つ手は振るえ、つかの間の沈黙が私を縮こませる。縮こむことは、しょうがないことだが、私の前に広がっている要素をひとつに整列させるだけの単語が思い浮かばなかった。ポーズはこのようにし、光をどこから与えるのか、大体はわかるものの、それらを一つに集める過程で胸が高鳴った。胸の高鳴りにも肯定的なものと、否定的なものがある。愛が入ってくるような胸の高鳴りもあれば、カード代金の支払いの延滞が増えていく胸の高鳴りもある。これはこうだと規定できない状況での撮影は、手を上に縛られて、氷の上を裸足で歩かされている拷問状態のようなものだ。どうしようもできない、それ自体が苦痛なのだ。
胸の高鳴る原因は何なのか?
技術的な完成度で最高値を成せていないため、どこでも通用する自分だけのレパートリーが必要であり、それを使っていきながら被写体独自の美しさを探し出さなければいけない。ますみさんは1%の中に入る宝石といえる。撮影者の立場から見ると、これ以上にないくらいの美しさを持っており、特別に何かを要求しなくても、一瞬でその状態を演出してくれる。むしろ、撮影者として申し訳なく思うほどに。目に見える美しさを表現できていないからだ。高級なバイキングレストランで、何を先に食べようか悩むように、彼女は私にずっと提示していた。錆付いていた昔の記憶が少しずつ動き出しながら、表面に見える美しさはある程度表現することができたが、何かこれではないという思いがずっと湧きながら、胸の高鳴りが留まることがなかった。被写体の個人的な能力だけで作られるだけでは、この胸の高鳴りを抑えることができない。
ならば、なんなのか?
成人写真を撮らないといけないと、心に決めた瞬間から写真の方向性に対する考えをずっとしている。それがなんなのかはまだ、明確に設定されてはいないが、幾つか推定はされている。
まず、創られたという印象を与えることに対する拒否感である。ポーズをとっていたり、光をここから与えたとか、あれこれ効果を与えるために技術を使ったり等など。。。つまり写真を初めてみた瞬間、技術的な何かを感じさせるようなことへの拒否感である。
技術ではなく、感情が表れる写真でなければならない。技術が先に見えるというのは、撮影者がその技術を優先順位に置いている可能性が高い。それが技術的に完成度のある写真を撮影しようとしているのであれ、あるイメージを念頭に置いているのであれ、私達の最終目的は一枚の写真を通して人に何かを伝えようとしているのである。技術的なことが先にみえるということ自体は、伝えようとしている話をどんな形態であれ、妨害している。一枚から見える雰囲気とは関係なく、モデルの顔だけが深刻な表情をしているとか、一般人としては想像もできないポーズをとっているとか、過度な技術の使用による人為的な演出が表面に表れること。。。
そして、もう一つは徹底して創らないといけないということ。最初に指摘した内容が、何か創られた印象がすることに対する拒否感であったが、硬貨の両面のように、逆に徹底的に創らなければいけない。一般の写真館の撮影者達が起こす一番大きなミスの中の一つが、偶然発見されたものに対し、とても高い価値を付与する傾向である。
偶然発見されたものというのは、撮影者をただシャッターのみ押す人として、転落させる可能性が内包されている。撮影者のDNAが含まれている一枚の写真は、単純に偶然発見されるものではなく、最大限創りだしていく過程から出てくる。最大限に創りだし、それが単一なイメージとして表現される状態が、私達が望む支点なのだ。映画を創る人は、ストーリーが決まっていない状態で撮影をし、ストーリーを創るということはしない。シナリオ作成作業があり、これを効果的に表現するための全体的な作業があり、撮影していく過程で新しいエネルギーが発散され、最終的に編集過程を経て一つの映画が完成される。映画というのは、結局様々な構成要素を総合し、一つの単一なイメージを創るための努力の産物である。最大限創りだし、単一なイメージとして表現するということも、結局、疎通の一つの種類である。
何かを創られたという拒否感と、徹底して創ろうとする矛盾の状況は、とても高い技術的な基盤の上で解消することができる。徹底して創りだせば、何か創られているという拒否感も減るだろう。適当に創ると、その創った過程が一枚の写真から見てとれる。最初の撮影での、私の胸の高鳴りは、恐らく、徹底して創らなければならないものを、適度に創ろうとしていたからではないかと考えた。ますみさんが見せる完璧な姿から、それを入れる器を自分が持っていないということを確認し、その完璧な姿を適度に表現していた。適度に撮っていれば偶然発見されるだろう。偶然発見されたカットが他の撮影者達より少し多いからといって、その写真が自分の写真だと保障してくれるわけではない。他のことはわからないにしても、このことは知っていたため、胸が高鳴っていた。
徹底して創るというのはどういうことなのか?
下の写真が一つのきっかけを与えてくれている。この写真を撮影しながら胸の高鳴りにより固まっていた筋肉が少し緩んでいる感覚を得た。
写真を構成する要素は本当に多様である。その全ての要素がバランスを成した状態で、表現しようとするイメージが、頭の先から効果的な宣伝活動を行う時が良い写真が出てくる環境である。その前までは、構成要素が各自持っている美しさを引き出す自慢大会の時間であった。各自の要素に規定を下す作業を行おうとしていたため、バランスや頭の先にある単一なイメージを考える余裕がなかった。ところが、この一枚の写真を創りながら、各部分が整理されていき、各々役割分担を成しているという印象を受けた。それと同時に、ますみさんの時期適切な自然な動きが頭の先から中心をつかんでくれた。
舞台の上で照明を受けている姿よりも、舞台から降りている時の日常の姿を気にしている。結果よりも過程が大切だということも、その過程に核心が隠れているからだ。撮影を行いながら、自身の美しさを1カット選び、休憩時間の時の姿がその人の本当の姿であろうという予測もしてみる。つかの間の休憩時間にその場所にますみさんが座り、携帯を見ている。適切な照明の状態が維持されており、後ろの若干こちゃこちゃしている空間も、スタジオということを間接的に確認させていた。これこそが待ち望んでいた瞬間だとまでは言えなくとも、固まっていた私の体を緩めるには申し分なかった。多分、これが作用されたのだろう。
後ろに見えるセットは日常世界を表現をするための空間である。インテリアを始める時に、六本木の35階という名で、高級感が漂っているこれと決まってはいない部屋の姿を想像したが、ますみさんと後ろの空間が、一瞬、私の無意識にあったイメージと何かが繋がったように思った。賃貸契約を行い、コンセプトに合わせた空間の配置を行う時、あれこれと想像し、実践が伴いスタジオは作られ、撮影行為の過程で私の中に寝むっていたイメージがこの世に出てきた瞬間であったように思う。モニターをしながらみんなの関心を得られなかったこの写真が、私にとって特別に残っているのはこのような理由からだろう。
徹底的に準備するというのは、その一瞬に成されることというよりは、私の中に積み重なっているものを整理していく作業だといえる。新しいその何かを創造するというよりは、配列し圧縮する、解体の過程の中ででてくる再発見ではないだろうか?
photographer&photo essay lee jae wook
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写真分析をこのようにできたらいいなと日々考える・・・
今現在、方法はひとつしか見つかっていない。
それは、人に、写真に、自分自身にもっと深く入っていくことである。
だから書いて書いて書いて
深く掘り下げていく努力をしていかなければいけない。
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