OurStory
大阪1号店
<コラム> 幸せな会社のために...(2)
投稿日:2018/10/27
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日本の写真文化を変える。
簡単に言えば"写真を媒介に人と人が会う文化を作ること"を実現するためにライフスタジオでは様々な試みがありました。
今度作られている大阪店1号店では写真館が"何を"ではなく"どのように"したら私たちを変えることができるのかについて新たな試みをしようとします。 そしてそのような試みの計画を少しずつお見せ致します。
0-II. 遊びの歪曲と汚染
LIFE STUDIO 大阪1号店
朴 禹圭
しかし、第一話で話したように簡単に遊んで生きるには一つ問題がある。遊びを人生の核心原理に使うには世の中が「遊び」を無視する傾向があるからだ。何か間違いを起こした時、私たちは「ふざけている」と皮肉る。また成人した人が就職もせず休んでいる場合「遊んでいる」と恥ずかしげに言ったりもする。このような表現はどちらも「遊び」をとても否定的な意味で使っている。なぜ、遊びはこんなにも否定的な意味を持つようになっただろうか。
その原因は、近代のモダニズムの特徴の一つである二分法から見つけることができる。二分法は用の中を2つに分けて観ることである。理性と非理性、文明と野蛮、化学と迷信、男性と女性、西洋人と東洋人、エリートと大衆…。このように世の中の全てを区分する。そして、この差異は差別を生み出す。このように差別された2つの概念から、私たちはよりいいものを選択する。そして、この行為を「合理性」と呼ぶ。
では二分法で世の中を観た時、先ほど行った「ふざけている」においての「遊び」はどんな概念の反対語になるだろうか。つまり「理性」である。だから「ふざけている」においての遊びは理性的ではなく、非常識である意味を表現しているのである。
次に2つ目の「遊んでいる」においての「遊び」の反対語になるのは「労働」という概念だ。この時の遊びは、神聖な「労働」を行っていないしがない状態を指す。
このように「遊び」が非正常的でしがないことであれば、なぜ私たちは遊んでばかりいる子供たちを叱らないのだろうか。なぜ、私たちは遊びから幸せを感じる人々に罰金を課さないのだろうか。
人生は
仕事と遊び、労働と余暇、精神と身体
情報と創造、愛と宗教をほとんど区分しない。
- ジェームズ・ミッチェナー
では、二分法が流行る前の過去の人々は遊びと労働をどのように思っていたのか。
近代以前の社会では私たちの人生で重要な二つの概念である「労働」と「遊び」が明確に区分されず、ひとかたまりになった概念だった。英語で労働という意味の「Labour」は14世紀以前には存在していなかった。また面白いことにギリシャ語とラテン語には労働を定義する単語自体が存在しない。労働という言葉はただ「余暇がない」という意味の「askholia/negotium」で表現される。フェスティバルやカーニバルでは遊びがより目立つけれど、日常の中でも労働と遊びは多くの場面で区分されない一つの概念だった。
実質的に1年の間、労働をする日は多くなかった。夜は暗くて仕事ができないし、自然環境の影響で仕事ができる日が多くなかったためだ。そして、仕事ができる状況でも遊びながら仕事をした。お昼を食べながらお酒を飲んで、興がわくと歌を歌い、踊りをしてまた仕事に戻ったり、そのままお家に帰ることもあったそうだ。実際、一生懸命に働いたとしても決まった身分の人々にとってせいぜいご飯を昨日より多く食べることしかなかったのも原因の一つであり、貪欲が罪悪視される社会的雰囲気も理由の一つであった。適度に食べながら楽しむのがより賢明な選択だったはずだ。とにかく、いまの基準から見ると近代以前の仕事は仕事っぽくなく、遊びも遊びっぽくなかったのだ。
しかし、近代以降からは前述したように二分法の世界になった。そうして人生の中で一つとして考えられた遊びと労働も効率性の名の下で二分化された。
時間基準にすると労働時間(業務時間)VS 遊ぶ時間(休憩時間、退勤後の時間、休暇)に別れ、
空間を基準にすると労働する空間(会社)VS 遊びの空間(カラオケ、コンサートホール、リゾート、アミューズメントパークなど…)に労働と遊びは分離された。
このように分離された労働と遊びは二分法の特徴上高い水準と低い水準とに分かれて評価されるようになり、労働が神聖な位置に遊びは低級な位置に見なされた。今では神聖な労働と幼児的遊びという二つの概念を明確に区分できない人を「社会不適応者」とまで呼ぶようになった。だから遊びが好きな私を人々が変な目で見るのかも知れない。
とにかく、本来は一つであったことを人為的に二つに分けて見るようになり、高級なものと低級なものとして見始めたことから私たちの人生は歪曲させ、問題を発生させる。しかし、それより問題なのはこのように追い出された遊びが、もう一つの効率によって汚染されているが、それが遊びの商業化である。もはやお金なしでは遊ぶことを想像すらできない。お祭り、旅行、グルメ、スポーツ、芸術…果てには子供達の遊び空間さえもお金を払って購入するシステムになっている。このように遊びが商品になると、それを消費する人たちは労働により執着するしかなくなる。労働をしてこそ、遊べるからだ。
では、話を冒頭に戻してみよう。私たちは退屈で不安な人生から抜け出すために、遊びを適切な解決策として考えていた。しかし、今私たちの周りは遊びと労働を分離させ、非常識的なものとして歪曲され、商業化によりさらに汚染されている。ではどうすれば本当の遊びの意味を取り戻し、遊びを人生の原則として堂々と話すことが出来るだろうか。また、どうすれば労働と遊びが再び結合し、退屈で不安な近代の問題を乗り越えて次のステージに進むことが出来るだろうか。
つづく...。
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