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大阪1号店
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<コラム> 幸せな会社のために (1)

投稿日:2018/10/18

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日本の写真文化を変える。
簡単に言えば"写真を媒介に人と人が会う文化を作ること"を実現するためにライフスタジオでは様々な試みがありました。
今度作られている大阪店1号店では写真館が"何を"ではなく"どのように"したら私たちを変えることができるのかについて新たな試みをしようとします。 そしてそのような試みの計画を少しずつお見せ致します。

 

0-I. 遊び


LIFE STUDIO 大阪1号店
朴 禹圭

地獄について想像したことがあるだろうか。
宗教の無い私が想像する地獄とは、いろんな文化と宗教の混合物に似ている。私が想像する地獄とはこういうイメージだ。

 

背の高い悪魔が言った。
「おーい。昨日の炎はちょっと弱くなかった?火種がほとんど消えそうだったぞ!次回からは気をつけて炎を見張ってくれ!」
太っちょの悪魔が答えた。
「そりゃ〜お前が薪を十分に用意してなかったからだろ。余計なこと言わないで早く金串を鋭く手入れしてくれ!」
隣でそれを聞いていた先輩悪魔が叫んだ。
雑談なんかしないで!おい!あっちの人間たちが苦しみから抜け出そうとしているんじゃ無いか!早く、仕事しろ!」

なんとなく地獄の仕組みはこんなものでは無いかと想像したことがある。当たり前のことだか実際の地獄がこのような雰囲気なのか否かは私には分からない。しかし、地獄がどう運営され流にしろ、罪を反した人間に対して絶えずに苦痛を与えるためには何かしらのエネルギーが投入されなければならないのではなかろうか。それが悪魔の労働なのか、焚き火なのか、エネルギー波なのかはともかく、地獄には常に新しいエネルギーが供給されなければならない。では、誰がそんな苦労を担うのだろうか。おそらくディアブロとメフィスト、そしてバアルまで合体した完成体の悪魔でさえ、そんな仕事を永遠にやりたいわけではないだろう。そんな労働を永遠に繰り返す状況自体が悪魔自身にとって地獄であるからだ。

だから少し視点を変えることにして見た。最も合理的な神ならどのように地獄を設計するだろうか。まず、1〜2年運営するのではなく永遠に営むのであれば地獄の内部からエネルギーが再生産できる可能性を考えるに違いない。怒り、邪悪さ、敵意、険悪、憎悪…このような感情が常に自然的に再生産されるシステムを。では、このような感情が自然に、持続的に生産されるシステムが可能だろうか。よく考えてみるとそれは珍しいものでもない。すでに私たちはこのような状況に囲まれている。

硫黄・火あぶり台、焼き網なんか要るものか。
地獄とは、他人のことだ。
サルトル『出口なし』より

そうなのだ。地獄が別世界に存在しているかは分からないが、現在私たちが住んでいる世界と大きな違いはないだろう。いや、そもそも神様が作り出した地獄とは、私たちが生きているこの世界そのものかもしれない。私たちは他人と共に存在することを苦しむ。学校では友達からいじめられ、職場では同僚からの嫉妬と戦い、社会では弱者が嫌悪の対象になり、国際社会では多民族を卑下する。簡単に言って、自分と違う他人と形式的な人間関係を結びながら地獄に必要なエネルギーを持続的に再生産しているのかも知れない。

しかし、私たちの人生が前述したような100%の地獄ではない。もし100%の苦しみだけがあるなら、私たちはそれを苦痛と感じないかもしれない。例えば、世の中の全ての男性が木村拓哉のようにイケメンだったら、イケメンという概念自体がなくなるかもしれない。同じく苦痛というものも幸せという反対概念があって成立するのである。だから苦しい日常の中には幸せも共に存在するのである。

では、私たちは果たして幸せだろうか。残念ながら周りを見渡しても「自分は幸せだ」と自信持って言える人はそうそういない。ゲーテが言ったように「人間は努力する限り迷う者」であるせいだろうか。彼の言うように、私たち自身を一生懸命に努力する人だと大げさに飾るには実際の自分の人生はあまりにもみすぼらしく、退屈である。もっと正確に言うと、 退屈で不安である。

どんな理由でこんなにも退屈で不安な世の中になったのか。このような現象は伝統的な社会と決別し、近代社会が始まってからさらに多発するようになった。過去の伝統的な社会で、人々は各自決められた社会的役割を行っていた。それが僧侶であり、領主であり、奴隷であり、自分の役割を果たすようにと社会的にすでに決まっていた。このような状況は不合理で不公平ではあったけれど、私たちに安定感をもたらした。しかし、近代社会に移り私たちは個人化されていった。私の部屋、私の車、私の物、私の人、私のお金…。このような全てが私たちを不合理な共同体から、そして他人から自由にさせてくれた。他人という地獄から抜け出すチャンスになったのだ。しかし、このような個人的自由は必然的に他人との人間的な関係まで切ってしまった。だから一人になった私たちは退屈で不安な現代人になってしまった。集団という牢屋から脱出し、自らを独房に閉じ込めたのである。それはさらに恐ろしい地獄であった。

人間が自分を自由に理解し
自らの自由を使いたい時…
その時、人は遊びをする。
サルトル

自ら孤独という島になってしまった人間は退屈と不安から抜け出すためどんな行動をするだろうか。一人で解決しようとするあまりに、うつ病の薬を飲む場合もあるが、普通は一緒に遊びたくなる。Dr.スチュアート・ブラウンが言ったように「遊びに夢中になってあっちこっち飛び回る子供達、ボールで遊ぶ猫、遊びにすっかりハマりこれ以上ないぐらい明るく笑っている人々の顔」を見ろ。退屈を和らげ、不安を吹き飛ばすために他人と共に心から遊ぶこと以上にいいものは無い。お祭りでも、サッカー試合でも、ライフバンドであっても私たちは何か遊びに夢中になった時は退屈と不安から抜け出し楽しさを覚え、さらに幸せを感じる。このように遊び、特に人と共にする遊びは私と他人を真実に結び、幸福感を高める媒介になる。

では、遊びながら生きていけばいいのではないか。
子供のたちのように、遊びを私たちの主な仕事にすればいいのではないか。
特に、私たちの人生の大半を占める労働を遊びながらやればいいのではないか。

 

つづく...。

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美しさを表現し、思い出を記録する、楽しい遊びの空間

人生の写真館ライフスタジオという名前に込めた想い。
それは、出会う全ての人が生きている証を確認できる場所になること。
家族の絆とかけがえのない愛の形を実感できる場所として、
人を、人生を写しています。

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