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ヒーリングキャンプ(2014-8.9)哲学「14歳の哲学」
投稿日:2016/11/11
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2014年ライフスタジオ大宮店 8、9月ヒーリングキャンプ「14歳の哲学」
作成者 ライフスタジオ大宮 齋藤和子
<学習日時> 毎週月曜日 合計9回(8月4回、9月5回)、1時間半自習、2時間30分学習 <学習効果> 自分を知り、他人を知り、社会を正しく知るために 日常の中で当たり前のように流れていく事実をなぜと掘り下げて、根本的理由を知る姿勢 哲学的思考の力を養い、物事の本質を探し出す習慣ができる。 <学習準備> 宿題:学習範囲を要約してくる。(作者が言わんとしている内容を客観的にまとめる) 担当者:キーワードをわかり易くまとめてくる。 要約、本質を理解する。 <学習方法> 1.本文の内容を要約したものの共有(1人3分以内、合計24分) ★筆者が何を伝えようとしているのか?を理解する。 ☆大きなホワイトボードに皆の意見を書く。 ☆疑問、質問タイム(5分) 2.キーワードとなる文章の意味を掘り下げて理解する。 (例)「考える、思う、悩む」の違いとは? 言葉の意味がわかるとはどういうことだろう? 言葉を大切にするということが自分を大事にすることになるのはなぜか? 私たちが「死」を恐れるのはなぜか? ★各自、自分の言葉で説明できるように、考える時間を持つ(15分)。 3. 本質を考える。 ★共通の考えをまとめて定義してみる。 4.まとめ ☆来週の準備について説明する(5分) <各週学習内容> ①考える ②言葉、自分とは誰か ③死と生、心と身体、自分と他人の関係 ④ 家族、社会、規則 ⑤理想と現実、友情と愛情 ⑥恋愛と性、仕事と生活、品格と名誉、 本物と偽者 ⑦ メディアと書物、宇宙と科学、 歴史と人類 ⑧ 善悪、自由、宗教 ⑨人生意味、存在の謎、まとめ |
<学習内容詳細>
考える(p.4-23)
目的:考えるとは何かそれぞれ理解すること。皆で思ったことを悩み、考えること。
<要約>
1.
自分が「思う」の繰り返しの人生。本当にそうなのか?思わないこともできるではないか?
あたりまえのように感じていた「自分が思うはなに?」でも実はよくわかっていなかったことに気づく。思っていることが本当にそうなのか?「考える」事が重要
「生きている」ことはつまらないって悩むけど、
「生きている」とはどういうことかわかっているか?
「生きている」ってことは素晴らしいことなのか?つまらないことなのだろうか?
それがどういうことなのか?「考える」のだ!
※「思う」、「悩む」、「考える」の違いは何かを知ろう。
2.
自分の思ったことを人に言えるようになりなさい。
それ以前に自分の思っていることが正しいことなのか間違っているのか自分で思っているだけではかわからない。
「花は美しい」→「花が美しい」なのか?「自分が思っている」のだろうか?
「本当にそう思う」と「本当にそうである」は違う。 間違っていることをそうだと思っても、正しくなるわけではない。
本当に「正しい」と思うのではなくて、どうしたらわかるのだろうか?
自分が正しいと思っているのだから正しいと思っている各自が、点でバラバラな定規でお互いを計りあい、それが自由だと主張しあっているようなものだ。
正しくない「定規」を使って生きるなら、間違ってばかりではないか?
※「考える」ことで、誰にとっても「正しい」定規を手に入れることができる。
「考える」ことこそが、全世界を計る正しい定規になるのだとわかった時に、君は自由に考え始めることになるんだ。こんな自由って他にあるだろうか?
3.
本当のことを知るためには、正しく考えることが必要だ。「正しい」とは誰にとっても正しいこと。だから、誰かとぶつかって喧嘩になることも無いだろう。
本当のことを知っているということは、それ自体が自由なことなんだ。
本当のことを知らないから、人は人に対して自分の自由を主張することになる。
人生は素晴らしい?つまらない?
「自分が生きている」「自分が思う」ということがどういうことかわからない。
わかりきった当たり前なことこそ、わからない、不思議でしょうがない。
※だれにとっても正しい本当のことを知るために考える。
それが本当に生きるということだからだ。
考えるを始めよう!正しく生きるために。
<討論内容>
当たり前に「思う」から、常に「考える」こと。なぜ?全ての人に正しいことを見つけようするためである。
どうして、誰にとっても正しいことを知らなければならないのか」?
→争い:共通のものがあるので歩み寄れるし、わかり合えるからではないか。
「思う」と「感じる」は違うのか?
理性的認識と感想的認識の違いでは?
時差では。感じる(認識)→思う(先入観に左右)???
例:誰かに怒られたとする。最初はムカッとしたが、後でそれが「自分のためを思って」だと思い、納得し、感謝するようになる。環境によって感覚も影響受けるのかも。
なぜそう感じたか、を考えることで正しさにつながる。(正しいか、間違っているかというより)
「思う」「悩む」「考える」はどういう違いがあるだろうか。
思う 頭の中に常にある 主観 How to(科学的) 「これはこうだ」 「これは愛だ」 ーーーーーーーーーーーー 「Aチームがいい。Bチームがいい。」 (思う、感じるまま) |
悩む 対決、葛藤 矛盾が生まれていること ーーーーーーーーーーーー 「それをどうすればいいのか、悪いのか」 「どうしたら愛せるか」 ーーーーーーーーーーーー 自分にベクトル(主観) 自分がどう対応するかわからない状態 (本質ついていない悩み) |
考える 本質を知ろう探そうとする 客観 Why・What「それはどういうことなのか」 「そもそも愛ってなんだ」 ーーーーーーーーーーーー チームというグループは何を意味するのか? 本当にやりたいことは? (答えが考え出される) |
哲学的問いの「考える」→本質を見抜くためである。
思う(感じる)→悩む(とらわれている)→考える(順序立てて整理しよう)
主観(不自由)からの客観(自由)Mindfulness?!
「悩む」のは考えているようで実は本当の意味で考えていないのである。
主観に影響を受け、とらわれているごちゃごちゃした状態。
デカルト「我思う故に我あり」
中世まではヨーロッパは「神が作り主となり存在する人間」といいう図式だったのが、デカルトの「我思う故に我あり」のような理性的な思考により考えることによって物事を定義することはなかった時代になってきた。
人は考えると正しいことを探し始める。だから、今までの歴史では不都合があるから、
哲学を教えないようにして来たのではないか???
考えて正しい定規を見つける必要がある。
正しいことをしなければならない訳ではない。見つけた上で判断は自分自身で、本当に生きるため。誰にでも正しいという定規を探そう!正しく見つめれば、究極の答え、真実が見えてくる。
[正しい]とは?考えてみよう。
1+1=2 正しい? 定義である。変わらない。
天動説 正しい? 時代によってかわる。
多数決で決められるものではない!
多くの人の考え「結果は付いてくる」
イチローの言葉「結果は付いてこない」これも正しいかもしれない。一理ある。
正しいはある。しかし、目に見えないのでわからない。見つけられていない。
正しいとは真理のことではないか。それは、変わらないものである。
正しい定規(正しいものを導き出すもの)= 普遍的価値「愛」「平等」「博愛」= 真理
誰にとっても!当てはまるもの。
自分の中の定規(こうだ!と決め付けているもの)を誰にとっても正しい定規にする。
答えはでないのではないか・・・
私たちはより善なる選択肢を探していくことで「正しい」を見つけることが出来るだろう。
言葉(p24~44)
<要約>
4.
言葉を読むと、どうしてその意味がわかるのであろうか?
お互いに言葉の意味がわかる。
何を言ってるのかわからない時も「わからない」ということはわかるのである。
言葉の意味がわかるとは、いったいどういうことなのだろうか?
自分の他に存在するもの(目に見えたり、見えなかったりするもの)を指し示す言葉の意味がわかるためには、教わらなくてはならない。
言葉は自分よりも先に存在するようだ。
では、言葉よりも先に存在するのはモノではないか?
犬という物体があってこそ、「犬」という言葉がある。
言葉とは、先にある物に、後から貼り付けられたラベルみたいなものではないか。
先にある物に、後からラベルを貼るためにも、その両方が同じものを意味するとわかっていなければならない
私たちは言葉の意味がどこにあるか知らなくても、言葉の意味は正確に知っている。
言葉の意味はどこにあるのだろう?
目に見えて現実世界に存在しているものではない。別世界のもの?
現実に存在しないことも言うことができる。
どうして現実に存在しない「意味」というもので、現実に存在する世界のことを言うことが出来るのであろう。
謎の核心は
「その言葉はその言葉以外を意味しない」というとことにある。
その言葉で思い浮かべるあれこれは違っても、意味は絶対的に同じ共通のもの
5.目には見えないことを言う言葉の場合(思い、感じや考え)
形容詞「美しい」「快い」「正しい」
「美しい花」「快い音」「正しい考え」
「美しさ」「快さ」「正しさ」
「美しい」という意味は目に見えない。
「美しい」と思うものから「美しさ」だけを見えるものとして思い浮かべられる?
「美しい」という言葉の意味はどこにあるのだろうか?
「美しい」という感じと「美しい」という意味はどっちがどっちが先にあるものだろうか?
全ての人が好みや見方は違っても、「美しい」という意味を確実に知っている
「正しい」と思っていることは人それぞれ違うけれど、「正しさそのもの」はずべての人共通。
言葉は自分の中にある? 言葉は自分の外にある?
言葉こそが現実を作っている。目に見えるものも、目に見えないことも、目に見えない意味がなければならない。言葉を大事にするということが自分を大事にするということ。
<討論>
・物と言葉と私何が先?
・目に見えない[意味]どうして全ての人に共通している?どうやって持つことが出来た?
・意味が分かるとは?
・言葉=自分?どうして言葉を大事にするということが自分を大事にするということなのか?
・言葉の意味が分かるとは?
ヘレンケラーは、名前があると知る事で世界を認識できた。 概念:繰り返して定まった観念。
「自由、人権」という言葉が出てきたのは17世紀フランス革命を始めとする時期に始まり。
それまでそのような言葉、意味、概念は存在しなかった。言葉の意味の違い、共通するものが分かること。その意味がどこにあるかは永遠の不思議だろう。
WABISABIという言葉の意味、日本人は知っているから、存在する。外国人はわからない。彼らには存在しない。その世界はない。タテマエのような言葉は韓国に存在しないので、概念のない。
韓国は形容詞が多い国。感情を表現する。
色の同じグラデーションをみてもその間の色を表現する言葉を沢山知る事でより様々な表現できる。
色々なボキャブラリー言葉を知っていることでより豊かな人生になるだろう。
・物が先か?言葉が先か?
言葉で名づけないと、自分の世界には存在しない。
新種の草を発見、名づけることでこの世に存在するようになる。
言葉が人間を作った! 言葉を大事にするということが自分を大事にするということに繋がる。
6.自分とは誰か(p38~44)
<要約>
「自分」とはなんだろう? 脳? いつの間にか自分であった。
自分であるということに気が付くのと、言葉話し始めるのとが同じ頃(自分と他人の区別が出来るようになり、名前があると知るようになるから) 言葉を話し始める=世界を作り始める
名前ではない、名前よりも先にあるもの、何ものでもない何ものかだった。 ただ自分は自分であった。 代名詞「私」よりも先にある自分であるところのもともとの自分
「私」「○○君、ちゃん」これは代名詞。
自分を名前だと思うことから、間違った思い込みは始まる。存在するものには名前があるから、
犬や自転車が存在するのと同じ仕方で、自分という物も存在している。
(自分は名前ではないのに。)
世界に他人が存在するのと同じ仕方で、自分という物も存在していると思う。
(自分は他人ではないのに。)
体が違うから他人だと思う。(自分を体だと思い込んでいるから)
もしも脳が自分であるとして、その脳が自分であると、どうしてわかるのだろうか?
その脳が自分であるとわかる為には、自分が自分であるとわかっていなければならない。
その自分が「脳」であることがわかるこの「自分」とは、では何だろうか?
何かを自分であることを正解とするとしても、その自分とは何かとする問いは、残る。
君が毎日やっている自分とは、本当は何なのか?
<討論>
自分とは? 魂(根本的なもの) 引き算して残る最終的な何かである。
言葉=自分=考える精神 「我思う故に我あり」
外見≠自分≠本当の自分(本質)
何ものかだった。 考えれば考えるほど不思議、謎でしかない。
7.死をどう考えるか
<要約>
「死ぬ」とはどういうことなのだろうか?
「動かなくなった」物 →「死体」
目に見える物の集まりとしての体が動かなくなったのを見て「死んだ」と呼ぶ
死体のどこに「死」があるのだろうか? 「死」は見えないもの。死と死体は一緒ではない。
誰それさんは死んでなくなったけれど、誰それさんでない他人が、なぜ言えるのだろうか?
心としての誰それさんはどうなったのだろう?
「自分が死ぬ」→ 自分の肉体のすべてが「なくなる」、こう思うことはできる。
そう思っている自分が「なくなる」、「自分がない」ということを考えられるだろうか?
自分が考えている限り自分がないということは考えられない。
もしかしたら自分は死なないのではないか? でも他人はやっぱり「死ぬ」…
生死の不思議とは、実は、「ある」と「ない」の不思議。
「死」=「無」=「ない」
「死」はあるのだろうか?「死」はどこにあるのだろうか?
何にもなくなるということは「ない」はずだ。
なぜって「ない」ということは、「ない」から。
「死」は「ない」のに人はなぜ怖がるのか。
「生きている」ということは、死を知らないとしたら何をいっているのだろうか。
<討論>
質問:世の中の人は死を怖れている。これは何を意味するか。
私たちは他人の死によって「死」を認識する。
他人の死は「ある」が、自分の死はわからないから、もしかしたらないのでは?
生死の不思議とはあるとないの不思議。
人は「死」を知らないから怖れる。
池田さんの「死」に対する姿勢、死ぬ間際も変わらなかった。
「死」に対する池田さんの考え参考
死が存在するとき、私は存在しない。
私が存在するとき、死は存在しない。
知覚する主体がいないから、「死」は存在しなくなるということ。
「死」には3つある。 生物学的死、社会的死(現象的な死)、哲学的死。
一人称の死(私)はない。
二人称の死(身近な人)
三人称の死(第三者)
自分が死んだことがないのでわからないし、考えられないので、自分の「死(無)」はない。
身近な人が死んでも、記憶、心の中には残っているので、「死(無)」はない。
第三者の死は、わからない。自分の中には残らない。これが本当の「死(無)」なのか。
『人は忘れられた時、死ぬ』という台詞があるように。
「生死」とは「言葉」。言葉がなければ生死は存在しない。
境目が曖昧な現象を言葉で分けているだけ。
結局「死」はあるというなら、精神によってあるのだ。
よくわからない「死」を怖れることはない。
・怖れる死の苦しみ
死んだら、自分の存在がなくなるのではと思うから。
他人と関係性を持てなくなる。自分がなくなるから。
宇宙の一部になるということ。
わからない事を悩むのではなく、しっかり考えること。哲学「人生とは何ぞや」悩む事ではない。間違った認識を改め、正しい知を愛する学問、それが哲学。
愛哲学(原語:フィロソフィー)
8.体の見方
<要約>
私たちは気がついたら、自分だった。
この体であるところの自分とは何かを考えてゆけば、自分はこの体のことではなくなってしまう。でも、その自分はどういう訳か、この体でもある。(ぶたれたら痛みを感じる)
親は自分が生まれてから親になった。最初から親ではなかった。
体ではないところの自分は親から生まれたわけではない。親から生まれたわけではないところの君が、君の両親から生まれたその体であるのは、どのようにしてなのか。
外見の体・・・自分であるところのその体を、外から見る体だ。
内から感じる体・・・内側から五感で感じる体。内から感じるという体の不思議。
呼吸も消化も、自分が意志しておこなっているわけではない。
自分が意志して生きているわけではない。では、一体 誰が自分を生きているのか。
自分はもっとも身近な自然である。
自然物である体を生きているところの自分とは誰なのか?
体は自分なのか?自分のものなのか?
体は自分であるようで自分でないような感じになる。
体というのは、見えるけれども見えないとう不思議な二重のあり方をしている。
思い、感じ、考え(目に見えない)=「心」=「目に見えない体」??
心と体というのは、別々の二つのものが脳かどこかでくっついているということではない。
どちらかの側から見るかという、二つの見方のこと。
「体と心は、ひとつのものの二つの側面」
目に見えない心の、目に見える形が、体。体は心だから、心の思うように体はなっているはずだ。
<討論>
体には無意識の側面と、意識の側面がある。
目に見えない心が重要。目に見える体(心)よりも。
人生の目的は自己対峙すること。
「自分である」ということを知っていくことが人生(リーダー)
宇宙に果てないように自分も果てない。
9.心はどこにある
<要約>
心はあるが、目には見えない。どこにあるのだろうか。
科学:目に見える脳の目に見えない働き(エンドルフィンとかの物質)=意識・心
エンドルフィンと嬉しいという感情。どちらかが先ということは別物だという事。
物質から感情を見る事はできない。
科学は目に見えるもので目に見えないもの心を説明しているにすぎない。 心が本当は何なのか科学もわからない。しかし、科学者のほとんどは物質がそのまま心だと間違えて考えている。
「心」というものは体の外にあるのではなく、全てが心である!自分の人生を心が左右している。
心は、所有物か。それとも自分そのものか。
自分の性格(=自分)を冷静に観察、分析して自覚することができるということは、
自分の中に自分でない部分、自分の事を他人のように見ることのできる部分があるという事。
心= 動いて変わる部分(感情)+動きも変わりもしない部分(精神)
気分、感情はどこから来て、消えていくもの。
何を自分と思っているかによって、その人の自分は決まっている。
「自分である」ということ、全てに広がっていく、宇宙と同じく果てがない自分。
自分を外見の体と捉えるか、くるくる変わる感情と捉えるか。
<討論>
質問:
自分であって自分でないような心と体を持っている。 自分はどういう生き方をするべきか?
全てが自分と関連するものだという考えを持つ。自然も自分、他人も自分。
変わっていく外見の体、気分・感情は本当の自分ではない。
それらに左右されない生き方。本当の自分のために生きる。本当の自分とは精神。考える精神である。
10.他人とは何か
<要約>
何を自分と言うのかがわからなければ、何を他人と言うのかもわからないはず。
自分とは名前でも身分でもない。体でも心でもない。
「ない」づくしだが、確かに「ある」のが自分という存在の仕方の不思議
何を自分と思うかによって、その人の自分は決まってくる。
※「自分が、思う」ということの自由と不自由。これに気がつく事が本当の自由
「他人」は存在するか。
彼らを他人だと思う理由は、彼らの体が自分とは別々、彼らの心は自分の心ではない。
他人がいるいない関係なく、自分が自分であると気づく事ができるのは、
自分が自分であったからでしかない。自分とは絶対的存在。考えているのは自分だし、見ているのも自分である。自分でないものが考えたり、見たりする事はありえないという意味で絶対的。これを「大きい自分」と呼ぶ。「小さい自分」とは自分だと言えるモノ達。
「世界つまりすべて」は大きい自分に依っている。
それを見、それを考えている自分において存在する。自分が世界だ。全てが自分として存在する。自分でないものは存在するということはない。
「自分は自分でしかないことによってすべてである。」
これも、自分というものの存在の仕方の真実 一番深いところでは、自分はすべてであり、また事実すべて(森羅万象)とつながっている。
他人の心、痛みもわかるようになる。小さい自分はわからない。
大きい自分で小さい他人同士はつながっているから。それを悟ったのがお釈迦様やキリスト
メビウスの輪のように、内側だと思ってたら、外側になる。
「自分の内側」とは体と心の内側だと思う。でも、その内側も外側の自然法則や快感原則によって動いている。内側も外側もないのでは?
「自分の外に存在する他人」という言葉何を意味する?
<討論>
質問:
世界と他人はどうやって存在しているか。彼らに対して自分はどういう態度をとるべきか。
すべて自分の認識によって存在する。世界の一部は自分。自分と切り離して考えない事。
自分の一部として対する事。
「自分」というものの恐るべき不思議。人間は唯一他人の痛みを自分の痛みのように捉える生物。
これは、宗教を超える原理ではないか。イスラエル、パレスチナ問題解決できる。
普遍的な価値があるのは、自分たちが考える精神(大きい自分)によって、どこまでも広がれるし、どこまでも行けるからだ。
自分が世界だとは、自分がすべてにおいて主体だということ。自分が世界をつくった。(すーさん)
11.家族
<要約>
一番近い他人は家族。どうして人は、家族と一緒に暮らしているのだろう。
自分の体は親が関係を持つことで生まれた。しかし、もともとの自分は誰から生まれたものではないという事実。
彼らも自分が生まれたから、初めて親になった。
他人である子どもとのであいの不思議を忘れ、自分の子どもだと思い込む。
親の役割とは何か?
独り立ちさせるまで守ることが動物の親の責任。
人間の親の責任とは人生の真実を教えることのはず。
子どもに人生の真実(何が危険で、何が大事か、どう生きるべきなのか)を教える役割。
動物達真理の中で生きているが、その真理を考える事はしない。
人間のみ真実とは何かを考え、言葉で人に教えることができる。
親から言われることをそのまま信じ込むのではなく、
正しいか正しくないかを考えること、これが独り立ちをするということ。
(動物は独りで生きれるようになったら独り立ち。
人間は独りで考え生きれるようになったら独り立ち。)
自分で考え判断することができる。
完全な人間は存在しない。人生の真実は何なのか一生涯考えるから、その限り人間は不完全だ。
親も完全ではない。
動物は生きるために家族で助け合うという理由が明確。
人間にとって家族というものは、最初の社会、他人と向き合うことを学ぶ最初の場所。
社会でもっといろんな他人達をどうつきあっていくかを予習する場所。
他人である両親との出会いという縁
<討論>
親子関係−切り離せないもの×
親の役割−絶対×、完全×
親は真実を教えなくてはならないのか?
正しい事を教えるのは無理。こう生きてほしいと願うのが親。親の勘違い。子どもが自分のもの。思い通りにしようとしてしまう。
でも他人といって納得できるか? 池田さんの他人と私たちがよく使う他人の観点が違う。
池田さんが家族を他人と考えるのは、他人として捉えるように、独りの人間として、より客観的に見れるようにするため。
14歳以降は独りの大人、人格体として教育する事が重要。(ちーさん)
ただ所有物として子どもに対するのではなく、より普遍的な価値観を教えてあげる事。
どうしてこの親から生まれたのかって悩んでいる14歳にむけて、必然じゃないよ、偶然だよと考える余地を与えるためのメッセージ。
必然ー目的がある 偶然ー原因と結果がある
「袖振り合うも縁」縁はあるのではないか。偶然の中の因縁。(理由がないという意味で)
しかし、間違った家族愛というものが問題の根底。一歩間違えると、自分の家族だけ、民族だけ…という考え方になる。
そこから、国境が生まれ、戦争が始まった。他人、家族というものを間違った捉え方をしているから。
自分の観点かえなくてはならないのではないか。
12.社会
<要約>
「社会」複数の人の集まり。単純な定義では。それ以上の意味がある。
社会を肯定的に捉えるひと、否定的に捉える人がいるという事実。
社会をあれこれ言う前に、社会とは何かを考えるべき。
多くの人は、社会というものが何かそのようなものとして存在していると漠然に思っている。
「社会」というものを正確なもの「これです」と言えるもので示せるか。
目で見たことのある人はいない。でも人は、自分の外に、自分より先に存在してるように思っている。物のように外に存在しているこのような「社会」、ひとつの観念にすぎない。
社会という現実は皆が内で思っている観念の、外への現れ。観念が現実を作っている。
皆が自分が思っている観念だという事を忘れ、考える事をしてないから、思い込む。
「ない」のに「ある」と思い込まれたものは当然あるようになる。
自分の外の物のように思い込む。(社会は、自分と対立するもの)
社会を変えようとするよりも先に、自分が変わるべき。
社会つくっていくのは私たちの観念であるから。
人が集まれば複数の観念集まる。もっとも支配的な観念がその集団を支配し「時代」になる。
「社会の動き」=「観念の動き」
「みんなやってる。みんな言ってる。」などという
皆(世間)が思い込んでいるだけの社会通念をひとつひとつ性格に見抜いてゆけるようになること。
<討論>
観念にために命を捧げる。(国家、宗教理念、領土問題)
観念とは人間の価値観を生み出し、人間を動かすものになる。
「大宮店はいい店舗」と言う人は、何を見て言っているのだろうか。
人?写真?会社の方針??
観念は目に見えない。観念が私たちに多く影響を与えているのに、
私たちは現実に見えるものだけに集中しがちである。
重要なのはどういう観念を持っているか。 それが現実に現れたというだけ。
大宮店のよいところ、外的なものにだけにとらわれていたのでは、変化発展はあまりない。
でも、観念は見えない。捉えるのには多くの時間がかかる。
お客さんの大宮店に対する観念がどうつくられるか? 目に見えるものに頼るしかない。
だからこそ、私たちの行動指針がある。
「写真で人々を幸せに」という観念を現実に見えるようにするのが行動指針。
ぽぽぽ、CSRは大宮店の「社会貢献」という観念を実践するため。
13.規則
<要約>
社会生活は規則の集積であると言ってもいいくらい「べし」「べからず」という決りがある。
どうして社会には規則が必要なのだろう。
もしなかったら、収集がつかなくなる、社会生活が成り立たないという一般論。
人間はもともと悪いものなんだという前提。
「規則の必要性」
規則というのは、自分の自由を規制する不自由なものと感じている人は多い。
規則と自由、規則と不自由の関係は規則で禁止されたり、命令されたりしているそのことに
関心があるかないかである。
関心がない人には法律が必要はないし、あっても縛られていると感じない。
その人の自由は規制されない。
規制に対する不自由→自分の関心、動機、目的を冷静に分析していく事で
自分の関心、本当にしたいころが見えてくる。
社会が決める法律に正しさは必ずない。
善悪を正しく判断する基準は自分にある。それができることこそが本当の自由。
自由というのは、国家や社会(自分の外)が与えてくれるものだと思い込んでしまっている。
自由は自分の内側にしかないもの。
規則があるのがとりあえずの生きていくための便宜上としてだ。
私たちの自由がほんの少しでも侵されることはない。
私たちは自分の自由でなんでもできるのだ。自分で選んだ人生。
<討論>
この14歳からの哲学[B]は[A]学んだ基本的な考え方をもとに、
この世に生まれ生きることがどういうことなのかを考えるのが目的。
規則と戦うのではなく、
自分は何をしたいのか、目的を持っているのかが重要。
罰を受ける事も悔いはないのではないか。
規則→関心なくなると、不自由さ、縛られる事がなくなる。
規則がまったくないのが自由ではない。
サッカーのルールなければむしろ不自由を感じるだろう。
自由と責任。自分の責任を忘れてはならない。
大宮店の規則で不自由を感じるものはあるだろうか?
本質を見る事。
質問:規則の中で自由に生きるには?
14. 理想と現実
<要約>
大人になってくると、「現実的になりなさい」と子どもに言う。
それは、現実と理想が別物、反対のものだと思っているということ。
理想を現実としようとする努力、理想によってこそ力強く生きられているなら、
自分の現実は理想であるといってもよいのでは。
理想を失わずにその努力を続けている限り、それは理想の実現である。
「所詮現実はそんなもの…」
理想と現実とを別物、理想現実の手の届かないものとしているのは。現実ではなくて、自分。
思いや考えが状況や環境をつくりだすのであって、状況や環境によってその思いや考えになるのではない。
理想こそが現実を作っている。
理想を失わずにいるのであれば、それはすでに現実である。
人が何かをするということは、必ず理想をめざしているということ。
理想を実現しようと努力することこそが現実。
理想がなければ現実はない!
目に見える自分の人生や、自分を含むこの社会を動かしているのは、
目に見えない観念としての「理想」
よくなりたい、よくしたいという現実の原動力としての思い、理念。
「もっと現実を直視しなさい」と諭す人
見えるものとして現れた現実だけを見て、見えない現実を見ていないのはその人。
「よりよい社会、理想の社会」の実現に努力してきた。
理想の社会はどうして実現しないのか。
→本物のりそうではなく、単なる空想、漠然とした憧れだったから。
例:社会主義
社会というものが何か目に見えるものであるように思い、
戦争や、貧困、不平等があるのは社会のせいだという観念(社会 vs.自分)
「よりよい社会で、よりよく生きる」という観念が本当はどういうことなのか、
自分で考え判断してないのが問題。
自分がよくなりもせずに社会を変えようとしていた。
正しい仕方で理想を持つ。
それが実際に実現するかどうかに人間捉われてしまう。
理想というものは見える現実を動かす目に見えない力として、刻々と働いている。
まさに、そのことによって現実であるという事実を忘れない事。
理想を失う事なく、持ち続けているというその事だけで、
現実的な力として
この世界の根底で確実に動き続けている。
<討論>
例:よい大宮店を作る
私たちが間違うこと、目に見えるもので判断しがち。
理想が現実になっていなかった。
目に見えない理想、存在目的
大宮店の理想を自分がどう捉えていて、どうしていきたいのかを考えなくてはならない。
システムのせいにして愚痴を言うのは違う。
理想の立て方(リーダー?)
①現実性があること。
②理想の本質を考える。
③目に見えないところまで見る。
④目的をどうとらえるのか共有すること。
質問:正しい仕方で理想を持つとはどういうことか。
自分が成したい理想が本当は何を意味するのかを考える。
*イチローのようになりたい。(・大リーグ・人格・スタイル)
どこまで理想として立てたか。実現できる理想と、実現できない理想がある。
理想への修正をしながら、自分の理想としていく。
15.友情と愛情
<要約>
友達がいないと悩む。自分が友達に本当に求めているのは何かについて考える事。
お互いに大事な事こそ大事とわかっているから、大事な事を語り合える。
壊れてしまう友情、損得で繋がった友情。本当の友情ではなかった。
自分の孤独に耐えられないために求めるような友達は、本当の友達とはいえない。
自分の孤独に耐えられる→自分で自分を認め、愛する事ができるということ。
自分を愛する事ができない人は、一見他人を愛しているようでも、じつは自分を愛してくれる他人を求めているだけ。その人そのものを愛している訳ではない。
愛情とは相手のすべてを丸ごと受け容れ認める事、無条件の愛だ。
「無私の愛」自分の損得という概念なない。愛されようという「自分」のない愛
世の中にいる自分の嫌いな人、嫌なひと、嫌だと思う気持ち
↓
これ自体が自分にとってイヤなことではないか。自分にとってイヤなことをしないのが、自分を愛するということ。丸ごと受け容れて認めてあげること。
自分を愛するから、他人を嫌うことはしない。世界を愛するということ。
世の中のため、ひとのために何かをしたいと願うなら…(自分を愛することだ。)
<討論>
「孤独」自分の孤独に耐えるとは、独りを楽しめるひとのこと?
寂しさではなく、自分と語り合い、孤独を味わうことができること。
本当の友達は孤独を耐えられるもの同士。
自分を認め、自分を愛することができる人が他人を愛することができる。
自分を愛しているので、他人に依存することない。自分を愛せないと、他人に愛されようとするから。
違いを尊重し、理解することが重要だと、以前の討論で話したように。
相手のすべてを受け容れること。 それが無私の愛。
自分次第で周りは変わる、自分を愛することで世界を愛する、自分の見方によって世界の見方が変わる。
人付き合い、仕方なくする。仕方なく愛することがある私たち。これは深い、切実な問題。
たとえ宗派が違ったり、人種が違ったりせいても、客観的に認めること。
殺し合い、戦争を解決していくために…
宗教、法律に捉われない普遍的価値、根本原理を見つけていくことになる。
相手を愛することが自分を愛するということになるという事実を知らなくてはならない。
16.恋愛と性
<要約>
性欲−子孫を増やすという生物としての本能(全くの自然)
性交…本能(生殖)+快楽
さまざまな食文化があるように、さまざまな性文化としてあるのが、恋愛!
自然の法則にとっては恋愛なんて、無用。
恋愛の相手は誰でもいい訳ではない。特定の誰かである。
この恋愛の不思議
人々は刹那の快楽への欲求により、恋愛の対象と性交の対象を混同し、錯覚する。
人間の性の欲求はこの世を動かしている根源的なエネルギー
「しょせん人間は動物」なら、どうして、恋愛の相手は特定の誰かなのか。
人が人を好きになるのに明確な理由なんてない。
これも無条件。
毎日同じ料理を食べていたら、飽きるから、違う料理も食べたい。
見た目にひかれたけど、あきちゃったから、違うひとと恋愛しよう。
遊びの恋愛は、本当の恋愛ではないから、遊ぶのだ。
好きでもない人ともセックスできるから、セックスだけ別にして売ろうというのが売春。
心は心、体は体と割り切る人
心が大事なら、体も大事なはず(同じものの裏表だから)
体を売るという行為がそのまま心を売ること。
「自分のしたいことをすることが心のため」
心も体も大事にしないで、それが悪くならない訳がない。
自分が悪くなることをすることが、どうしてしたいことと言える?
誰にもできるのではない、人間しかできないこと。
その人を愛することが自分を愛することである。そういう恋愛をすること。
自分を愛することができない人は、他人を愛することはできない。
恋愛こそ試されること。
<討論>
その人を愛することが自分を愛することである。そういう恋愛をすること。
自分を愛することができる人でなければ、他人を愛することができない。
池田さんの公式
「自分=他人」、「自分=心=体=世界」
どうして、恋愛対象はひとりなのか。なぜそのように決まっているのだろうか。
人間どうして、不倫は正しくないとわかるのか。
自分が愛するのが先か、相手に愛されるのが先か?
自分が愛されてからわかるのではないか。子どもの頃愛情をもらうことの大切さ。
自分を愛するのを他人から愛されることによって確信するのだと思う。
もとから、自分精神を愛する要素が自分の中にあるから、それを認められることで自分を愛することに抵抗がなくなるのだろう。
愛するということは難しい。本当の愛を知るために。
17.仕事と生活
<要約>
仕事をして、お金をかせぐということは、何かをあきらめることという考え。
仕事とはしなければならなもの。
「生活しなければならない」という法律。義務はない。
生きることを強制のように思っている人はその人でしかない。
生きたくて生きているのに、人のせいみたく、「生きなければならない」「しなければならない」の繰り返しが「生活」だと思い込む。
自分の人生は自分が生きたくて生きているという自覚、生活「しなければならない」、仕事「しなければならない」という心構えが生活や仕事をつまらなくしている元凶。
何のためにいきるのか、人生の意味や目的が明確でないから、生きるために生きている。
人生の覚悟が決まっていない証拠
意味を探そうとする→なんか違うと確信がない。
覚悟を決めることだ。
<討論>
私たちは「〜しなければならない」にとらわれているが、結局は自分が選択してやっているということを知ること。周りのせいにしてはいけない。
何のために生きているのか?人生の覚悟ができているのか?にたどり着く。
仕事の捉え方:しなければならないから / 自分が選択するもの 自分と他人との関係性が関わってくる。 やらされて生きているという感覚。受動的。
仕事の概念を変えるべき。どう捉えるか…
仕事は自己実現(人格形成)。仕事とはどう生きるかである。
労働の意味:生活のために仕事するのか / 仕事のために生活するのか
↓
生きる意味
労働概念の変化:財貨→神のみ旨→自己実現(才能、可能性、人格)
私たちは人生のうち、3分の2は働いているという。
土日休みのために生きる人生とは…
私たちはどのように仕事をするべきか。
それは、まさに自分とは何か、どんな存在かということ。
自分という存在の意義を見いだすこと。
これが自我の確立である、自立ではないか。
人生の定義=幸福の定義=労働の定義
18.品格と名誉
<要約>
「上品」「下品」人の内面、精神性を評価する言葉。
外見をいくらつくろってもダメ。それはあくまでもみかけのみ。げぼんであるかも。
内面を綺麗にする。精神を高めるとはどういうことなのか、考える。
自分を愛して大事にすること。
自分を自覚できるのは精神。
精神としての自分にとって何が大事かを考えて知ることができるのが、まさしくその精神。
自分を大事にするということは精神を大事にすること。
自尊心と虚栄心、嫉妬、自己主張(自身のなさの裏返し)
自分の価値を認められない時、起こってくる感情、行為
内面が外面であるように、他人から見られているのも自分である。
見られた恥ずかしいことは、自分にとっても恥ずかしいこと。
「卑しい」とは精神にとって最大の恥ずべきこと。
精神をなおざりに考え、自分の欲に走るならば、それは精神の死につながる。
人間には命よりも大事なものがある。それが精神。
命の価値について考えられるのは、精神があるからこそだ。
「自尊心」−自分を尊ぶ自分である精神を大事にする。
<討論>
命と精神どちらが大切か。正しい仕方で精神性を全うして死ぬ。
踏み絵の例は?
「自尊心」が重要。他人との関係の中で見つけるのは、二次的なもの。
一時的は、自分を尊ぶ部分があるから。自分の価値を知っている。
そして、他人と自分の関係の中で、お互いを認め合うこと。
ブッタになる!謙虚になる気持ちが大切。
アウシュビッツのビクトルフランクの例
吉本の社長さん、「40歳までは親から受け継いだ顔、40歳過ぎたら自分の顔になる。」
ないめん、精神を大切にすること。
19.本物と偽物
<要約>
本物と偽物を分けるのは、作者の心構え。独自であるということが本物、その人の心構え、その人が本物が偽物かである。本物と偽物を見ぬける人間になろう。自分が本物にならなくてはならない。
人と違うことをすることが個性的なのではない。
本当にしたいこと、どうしてもしたいことがその人に無いか、わからないからだ。
ある人の仕事、ある人の姿が他人に感動をもたらした。その人のしごあと、姿がその人を超えた何か大きなものに触れているからだ。だから他の人にも感動を与える。
他人が人に感動するのは、その人もその人と同じ、自分を超えた何か大きなものを知っている
共にそれを感じているのではなければならない。
「天才」自分を超えた大きなものを見ている人である。ちっぽけな自分を捨てて無私の人であること。自分を捨てて、無私の人であればあるほど、個性的な人になる。
個に徹するほど、点に通じることになる。宇宙はそうなっている。
<討論>
どうなりたいかが無いときに走りやすいのが、他人と違うことをすることにコダワルこと。
他人と違うことが個性的ととられがちだが、それは本物の個性ではない。
個に徹するほど天に通じる。
(自己本位になるのではなく、天を見た上で、冷静に自分をみること)
ブッタ…自分を超えた人間自体を突きつめていった。
アリストテレス…人間幸福のために生きている。
各業界のトップの会話。成し遂げるまでのプロセスには必ず、カタルミスという
天と通じた体験、誇りを持っている。こう見られる、こうしたら儲かるという考えない。
本物になるにはどうしたらいいだろうか。
偽物だと気づかずにいるか、本物になろうとしている偽物か。
本物とは、自分がやりたいことをしているかどうか。大宮店を本物にするのは私たちが本物になることである。
メディアと書物
<要約>
現代は情報の時代、これは「進歩」なのか。
戦争からお笑いまで、全部が一律に電波で流され大事なことと大事でないことの区別つかない。
目に見える映像を追うのではなくて、目に見えない観念の動きを捉えること。
自分はその中で、いかに正しく生きるかが重要。
真実は外から与えられてしるものではなく、自分で考えて知ること。
情報は情報、それを自分の血肉の知識とするのは、考えなければならない。
メディアは手段、人生を生きていくにおいて大事なことを知るきっかけになる。
何のために何を知りたいのかを考えず、情報追いかけ奔走している。手段の目的化。
情報は変化するが、知識は変化しないもの。
「何のためにいきているのか」という問いを答えとしての知識は変わらない。
昔も今も生きて、死ぬという事実については、何一つ変わってない。
それを表す言葉、それ自体が価値あるもの。言葉を大事に生きることが、人生を大事に生きるということ。
言葉が無ければ何も言うこともできない。本を読むことで賢い人間になる。
古典…考える人類が長い時間をかけて見抜いた本物、本物の言葉。
<討論>
メディア…ミディアルの複数形。現実を材料として提供する中間業者
ただ相対に立つだけだと、何が大事かわからなくなる。
目に見える映像を追う(情報)だけから、
目に見えない観念の動き見る(知識)=知恵と考えればわかりやすい。
物事を見極めるため。
本当の歴史は絶対知ることはできない。歴史の観念を知っているだけ。
人の主観で書かれたもの。都合のいい内容だけ。→鵜呑みにしたら自分を失っていく。
情報の恐ろしさをしらなくてはならない。
何のために知りたいのか?が重要。何をもって取り入れていくのか。
知に対する欲望→考えることが重要、自分にとってどんな影響を与えるのか。
私たちの姿勢はどのようなものでなければならないか。
背景にあるもの、得るべき情報わかる、鵜呑みにしない。疑う。
21.宇宙と科学
<要約>
目の前に花があるということは、どうやって本当に確実だと言えるのだろうか。
すべて目が覚めたら。きえてしまうのではないか。
物質としてあることの確実さ(肉体の知覚によって知る確実さ)
→時間と共に変化し、なくなるもの →実は不確実である!
精神が知る確実さ→ 精神は年老い変わっても、変わらない。
同じ「ある」でも違う存在の仕方をしている?
物質としての宇宙 < 考えている精神がより確実!
考えている今この自分よりも確実なものはない。→変わらない。物質は生成消滅するけど。
全宇宙は存在を疑うことができるので、
もしかしたら、考える精神としての自分が、
そう考えることによって存在しているものではないか。
ビックバン…物質としての宇宙の始まりと言われている。
ビックバンの前は物質ではない!
でも何かが「ある」「ある」と考える精神(自分)によって。
自分=神?
「ある」ということはどういうこと。
これを解かずに自然の不思議、宇宙の謎知れない。
物事が「客観的に」あるということはない。
全宇宙は瞬時に自分であるとするなら、宇宙である自分は主観的な存在ではない。
主観と客観は、物質は物質、自分は自分という考える際の便宜に過ぎない。
物質ではない「精神」はどこから来たのだろう・科学は答えることはできない!
神様である自分はなぜ「今」「ここに」いるのだろうか。
なぜ自分であって、他人ではないのだろうか。
<討論>
今?時空?自分とは?
自分が思うからある。(単純そうで単純ではない考え)もっと深いものがある。
神という概念(主体)、森羅万象(対象)未だに解明できていない。自分は宇宙、神である。
思考は現実になる。
素粒子(光でできてる、物質ではない)
当たり前にあるもの→不確実。声に意味がのっかているだけ
22.人類と歴史
<要約>
人類は「進歩」してきた?
・便利…道具を使う人の精神は進歩していると言える?
・豊か…楽しみを追うことが生活の目的になっている。置き去りにされた精神は?
精神が貧しくなる生活豊かさがどうして人類の進歩であるか?
人類が自然から脱して、自然に対する知識と技術を所有したその時から間違った方向へ。
「科学」という考え方の登場。
自然を自分の「外」にある物質と見ることで、それらを観察、実験して、客観的な法則性を見いだすことが可能になった。
その結果、自然は全てが物質であると思い込んでしまった。
全てを自分の外にある物質と捉えることで、人は自分の「内」にある精神のことを忘れる。
精神は物質であると思い込んでしまった精神は、
自分が目に見えない精神であることを忘れ、見えて触れる物質だけが存在するもの、生きるために大事なものとして、深く思い込んでしまった。
これが物質主義的世界観を生んだ。
「何のために生きるのか」「何のために生きたいと願うのか」は考えない。
精神を貧しくする快楽や欲得のために生きたいのだったら、人生に何の意味があるか?
精神が豊かであることが、人生が豊かであるということの意味だから。
人生の意味や死の恐怖などが、自覚できていないから、そこから逃げようとそうやって走っている。だから、人間は精神によって、自分の行為を自覚することこそが必要。
人類は有史以来、この地上で何をしてきたのだろうか。進歩とはなにか。何を残したいのか。
未だに克服できないものがある。死への恐怖、憎しみと争い合う心。
精神であるというまさにそのことにおいて、自分とは人類、人類の歴史そのもの。
歴史とは精神の歴史。
自分が精神であるとはっきり自覚するとき、そこには、「内」も「外」もない壮大な眺めが開けることになる。
<討論>
精神置き去り事件!(たえちゃん)
人間は何のために生きるのか、死とは何かということを、自覚できず物質の進歩に頼った。
自分の行為を自覚することが重要。各時代の精神を作っているのは、各々の精神。
精神である自分とは、人類の歴史そのもの。精神を変えるためには、自分で考えることが必要。
人類史をどう捉えるか?
歴史とは精神の歴史なので、自分がよくならなければ、人類の歴史もよくならない。
自分さえいいという考え、自分に良いことではない
いくら進歩したと言っても、克服できていないものがある。
死への恐怖、憎しみ、争い合う心。だから、人間は外的な進歩に目を向けるだけではなく、
精神を進歩させる歴史を築かなくてはならない。
23.善悪
<要約>
人を殺すのはいけないことか?
理由:殺された人が可哀想だから。(生きている人が思っているだけ?)
殺された人の家族が悲しむから。(家族がいない人は殺してもいいのか?)
自分が殺されるのが嫌だから。(嫌だからいけないという訳ではない)
t
人を殺してはいけない絶対的な理由は存在しない。見つからない。
法律で決まっているから…どうしたらいいかわからないから、規則で決めているにすぎない。
規則であろうがなかろうが、人を殺してはいけないと感じるものが、
自分の内にないかどうかである。
いけないという社会や法律に従うのではなく、自分の内側に問うため
「なぜ人を殺すのは悪いか」と言い換える。
「悪い」という言葉の意味は?
法律で決まっている悪いといわれるものも、罰せられるとしても
自分がよければそれでいいということになる。
しかし、人がするのはそれが必ず自分にとってよいものだからするのであって、
よくないと思っていることをするはずがない。
自分がよいと思っていても、本当はものすごく悪い場合もある。
悪いということを本当には知らない場合がある。
本当に知らないことを知るためには考えることである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「なぜひとは、悪いことは悪いことだと知っているのだろうか」
絶対に「悪い」ということはあるのか、ないのかということを問うことがどうして可能なのか
絶対によい、悪いということなどないと言うことができる限り、絶対的に「ある」ということ
「よい悪い」をあれこれの事柄を示すことができるように相対的なものだと思い込んでいる。
しかし、よい悪いと思われることをそのようにしているのは「よい悪い」という意味以外のものではない。絶対的なものである。
善悪の基準を自分の外に求めるという思い込みの根は、とても深い。
道徳や法律は時代や環境によって相対的なもの。
自分の外側にある道徳や法律でよい悪いを決めるのはどうか….。
「よい」「悪い」という言葉があり、それらの意味をすべての人が知っているということは、絶対的なこと。その絶対的な価値の言葉を、自分の内に確実に所有しているということ。
だから、それぞれ人によって全部が違う相対的な状況において
絶対的な善悪を実現していくことができる。
善悪は外には無くて、自分のうちにあるという事実をはっきり気づいたなら、
よいことは「しなければならないこと」ではなくて、よいことだけが「したいこと」、そんな風に変わるはずだ本当によいことって、すごく気持ちのいいものだ。
<討論>
どうして人には共通した「よい」「悪い」があるのか?
なぜ悪いことはしてはいけないとみんな知っているのか?不思議である。
自殺をしてはいけないのはなぜか?
その理由を本当の意味で知らない。考えれば考えるほどわからない。
先祖代々受け継いだ体だからという理由。わかるけど、なぜか納得できない。
もっと違う理由があるべきではないか。
知らないと子どもの教育ができない。全ての人に普遍的なもの、あてはまる基準。
しかし、それは他人に教わるものではないのではないか。(ちーさん)
外から教わってわかるのは、外的要因もあるけど、それは二次的要因一時的要因はは内にそうわかる要素があるからである。
内に答えがあるのだ。自分で答え探さないといけない。
やっぱり、全ての人に共通して、「よい、悪い」という意味があるから可能。
つまり、精神があるからであるのでは。
善悪はどこにあるのか?
→事柄のように相対的に存在するかのように思い込んでいる、変わるものである。
→共通の精神にある。全ての人にある精神が媒体になり、人々の行動を引き起こしてきた。(たえ)
自閉症の人は善悪を判断することが難しい。(脳の障害といわれているが...)
相手の立場に立てないので、なぜ人を叩いてはいけないのか一つ一つ教えなくてはならない。
サイコパス−−−最近多く出てきた精神の問題。善悪がないから、異常な考え、行動をする。
精神は法律では裁けないね。(すーさん)
精神があるから善悪を判断できるということがわかる。
どうして、善悪があるのか?
→変化、発展の原理。善は発展するもの。悪は滅びる。どこかにしてないけないという思いがある。
善悪の判断→自分の内にしかない。
精神で考えなくてはならない。(宗教、常識、政治、ヒトラー、大東亜共栄圏、天皇のために)
自分で判断せず、考えずそれを人生の指針とする。危ない。本当の生き方ではない。
善悪=快苦?
同じではないことはある。薬は苦いが体に良い。
精神でわかる。薬は体によいから飲むことは正しいということを。だから、飲む。
子どもはわからないから嫌がる。
本当の快苦あるのだろうか?善悪と快苦は一致するものである。
答えは自分が見つける。教えられても本当の答えにはならない。
24.自由
<要約>
「自由」とは「自分がしたいことをする」ということだろうか。
人がしたいことをするのは、それが自分にとってよいと思われるから。
してはならないという法律に制限されているのは不自由?
そもそも悪いことをする自由はあるのか?
悪いことをするとき、自分のしたいことだから自由だと思っていても、
本当は自分にとってものすごく悪いことで、したいことなんかではないのに
気づかないからするのだ。
本当は自分がしたいことではないから、悪いことをする自由なんて無いということになる。
法律や制度が禁止するから自由が無いのではなく、それは自分にとって悪いことだから、自由なことではないという事実。この違いを知っているかが自由に生きれるかどうかの分かれ目。
言論、表現の自由は自分にも他人にもよいことを言い、伝えようとするかた、あるのである。
人には正しい言葉を使う自由だけがあって、正しくない言葉を言う自由は無い。
「自由」はそれを自由だと主張することによって自由でなくなる。
他人に自分の判断基準を求めているからだ。他人から与えられるものは自由ではない。
自由とは、他人や社会に求めるものではなく、自分で気がつくこと。
自由は判断する精神の内にしかない。
精神さえ自由であれば、人間は完全に自由であり得るという普遍の原理。
精神には生存よりも大事なものがある。それが自由。
不正な生存が不自由なことを精神は知っている。
(正しい言葉を語って殺されたとしてもそれは自由)
精神の自由のために死を選ぶということでなない。
生に対するものとして死が在るかのようだ。死というものが何であるか
考えれば考えるほどわからないもの。わからないものは怖れられない。
考えることによって、そのことを知っているからこそ、精神は自由。
自由のために死を選ぶのでは、あべこべだ。
精神の自由とは何よりもまず「怖れがない」ということ。怖れがあるところに自由は無い。
怖れが人生を不自由にしている。一番大きい「死に対する怖れ」も怖れるべきではないということに人は必ず気づく。
精神は考えて自由になるためにこそ存在している。
人間はあらゆる「思い込み」によって生きている。
人によって違う相対的な価値観を絶対だと思い込むこと、指針とすることによって生きる。
外側の価値観に自分の判断をゆだね、自分で考えることをしない人。
思い込むことで自分で自分を不自由にする。
それ以外に自分の自由を制限するものなんて、この宇宙には存在しない。
精神は考えることで、自分の思い込みから自分を解き放つ。
あらゆる思い込みから自分を解放した精神とはとらわれのない精神だ。
つまり、自由とは精神に捉われがないということだ。
自由になるためには、人は自分で考えなければならない。
思い込みこそ不自由だなんて、言われた通りで思い込んでいたら、その不自由は変わらない。
<討論>
「誰にも迷惑かけてない」「自分がいいならいいじゃないか」
という主張は、本当の意味で考えず、見て見ぬふりをしている。
悪=不自由、善=自由
社会が見せかけの「自由」を作り出し、求めるようにしむけている。
本当の自由を知り得ないように。北朝鮮。
「自由のために死ぬ」→本当の自由? より大きな自由のために自分を不自由にしたが、精神的には自由。
「怖れ」
死を怖れるということが不自由という考えが自分を不自由にしてはいないのか?
怖れて、考えられなくなったり、捉われてしまうのなら、問題。
家族を失う怖れによって、強く生きれる場合もある。
ある意味生きるために必要。不自由にする一つの要素にすぎない。
どういう観点で見るかによって対応変わる。
重要なのは捉われないということ。つまり、思い込みがない。
自由だと思い込むのは違う。本当は自由ではない。
思い込むと考えるは違う。考え、知った上で、自由だと結論づけたならよい。
不自由を感じるということは悪いことか?(ゆうちゃん)
よい、悪いではないのでは。
不自由というのは、自由ではない、なんか引っかかる状態をいう。
不自由であるということに気づくこと。もっと自由な状態があるということ。
思い込みや、不自由に捉われない生き方をするために。
ヒーリングキャンプをしている。
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