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公共性

投稿日:2012/5/29

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6月主題

公共性

 

蒔田 清子

 

公共性について考えるとき、私たちは公と共にある性質と見ることができる。私的なものから世界を公的なものとみなすとき、現れてくることともいえる。

ブレインセンターを掲げた時に考えたものは、いかに公的であるかということも含まれていた。私的な一組織の変化から、全体を動かして行ける公共としての変化を見るからこそ、ブレインセンターと言うものを掲げた。

公共性を読んで、私自身の思考を考える様になった。

言葉では、ブレインセンターを掲げ本社にいる私たちが何をできるかと語り合いながら過ごしてはいるが、果たして私の中の個人の思考はどうなっているのかと今一度考える機会になった。

ここで、今回の主題にある問題にぶつかることとなる。

 

主題①私たちが日常的に他者を「排除」すること(認識していたができなかった)は何があるか。

 

前回の主題、社会正義の中で社会正義とは「人が人らしく生きること」であると言う結論を導き出したが、そこに人という概念を深く考える必要性とそして、そこに自分の世界観をどう反映させ、再構築していくかが少し抜けてしまった事を感じる。

この排除をすると言うことは、自らが人をどう捉え自分自身をどう捉えていくかと言う問題にぶつかる。認識していたができなかったこととして考えていくと、人間が人間らしくと言う根底には、人類を私個人の中でも平等であり、権利を有し、そして同じく考えて行動する一人の人としてみなす事がある。しかし私たちは言葉ではそう語りながら実際にはどうだろうか。

例えば、どこかのうたの歌詞にもあったが外国で何かが起こった時、ニュースでは日本人は含まれていませんと安堵の顔で語る。他者を語るときに、偏見の目で見るとか、マスメディアを鵜呑みにして、真実かはわかならいが偏見をうみ、自分自身の世界観として受け止めること。

等々、考えると多くの事がうかがえる。

これらは何をもって起こることだろう。それは一つには自分の世界観の欠如、そして自分自身への保護、投影の拒否等が含まれると考える。

世界観の欠如に関しては、自らが人に対して、自らと平等であると言うこと、そして人として生きれる世界への渇望を忘れないこと等、自らを形成している事への定義付ができているか否かにかかってくると考える。

その定義づけが曖昧な場合、何かが起こった時に考えるようになり、その物事に左右されるようになる。そして影響を受け易い為に流されていく傾向が生まれる。

世界観があれば、その世界観を正す事を自分自身に戒め、その世界観を磨く事をしていけば道をそれる事が少なくなるだろう。そして物事に左右されるのでは無く、その本質を見て世界観で判断を下せる人間になっていくだろう。そうした場合、世界と自分を切り離すこと、そして他者を排除すると言うものを自らが意識を持って、公共性を追求するフィールドに自分自身を持っていくことができるようになる。

排除をするということは、即ち自らをも排除しかねない現象を生むことにもつながる。

また自分自身への保護、これは保護していると思っているだけで保護にはつながっていないと考えるのだが、自らが弱いといういことから目を背け、他社を排除することである優越感や自らのアイデンティティー構築と言う名目を掲げているだけの様に感じる。一度人が属するものを得ると、そこから自らを特別視する傾向があるのではないか、属すると言うことである、充足感と排他的な言動等、私自身もこれは大いにあるのではないかいと感じている。

特に、中心にいたり何かを主導していく立場に立てばなおさらのことである。何かが優れているわけでもないが、立場上の上での位置を利用し、属すると言うことに対して優越感に浸る傾向がある。

こちらも排除と言うことにつながることになるだろう。

また投影の拒否と言ったのは、優越感とも重なる部分であるのだが、同じことへの恐怖である。人が全く同じことは無い、人は個性と言うものを持った唯一無二の個であると言う世界観の欠如ともいえる。人は人であることで平等なのであって、同じということ同一ということはないのだが、同一視をしてしまうということがある。人は自分を特別であると感じたいとう欲求があるだろうし、同じということが何か価値を下げるような気さえするのかもしれない。他者に自分を投影する事を恐れ、排除をしてしまう。

これらを見るときに、全てに共通するのは、人間というものに対する世界観の欠如といえよう。

自分自身と他者との関係性を築く上で最も重要であるはずの人間というものへの、世界観を確立させていくこと。これが公共性を語る上で議論されるべきであり、焦点を持っていくべき問題になるだろう。

 

主題②我々の組織ではどんな「排除」が存在しているか。

 

我々の組織は「排除」と言う呪縛から自らを解き放つために毎日を切磋琢磨しているように思える。

排除が人間に対する世界観の欠如だと上でいったが、それをなくすために、我々組織は世界観の確立を促し、その部分に対して焦点を当て、討論の文化を作って来た。教育に関して読む本も、討論の主題もそれらを確率する為の多くの時間と投資を行なってきた。

そしてこれからもそれを続けていくだろう。

人を中心とする組織をいうことは、人がなにか自分中心に世界をとらえ、生きたいようにタダ生きることを強要するわけではなく、自らの世界観を確立し、その世界観を確立するために、多くの人との討論をして本を読み、文章を書いている。

そんな中、今我々が取り組むべき「排除の排除」はいかなるものであろうか。

それは、個人としての人間観の欠如を組織レベルにどう持って行くかと言うことでもあり、文化を作り組織としてその排除とどう向き合って行くかということだろう。

ただ、個人の為の排除をなくするということは、自らが何か悟りを開くとかそういう次元にとどまって個人任せになりうるのだが、それらの排除を組織レベル文化レベルに引き上げ、人間に対する世界観を備えるための教育や、討論、本、文章等のシステムとも言うべきカリキュラムの実践である。

その為の、活動が盛んに行われ人を中心とする組織への実践を進めつつある。

私は、それをどう捉え、自分自身に適応させ、そして世界観を確立するべくどう歩むべきであろうか。

私は、基本となる読む・書く・討論するを実践し、周りを巻き込んで行く事ができればと考えている。

そしてこのシステムを自分自身に適用し、確立すること。

これをしていくことが、近道であり、王道なのではないかと考えている。

 

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