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読書感想文‐希望の教育学part1
投稿日:2012/3/28
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希望の教育学
パウロ・フレイレ
蒔田 清子
ここに、フレイレの言葉を記しておきたい。
「誰かが誰かを教育するのではない。
自分を自分一人で教育するのでもない。
人は自らを教育し合うのだ、
相互の交わりの中で。」
私は、当初勘違いをしていた、ライフスタジオで語られる「人が人を人として」と言うものに対して、私自身が人になることが先決であり、その人に慣れていなことへの矛盾とそこから逃れる為の勉強をしてきた。しかし、フレイレの言葉にあるように、人は自らを教育し合う、相互の交わりの中で。
それが、別々に共に・・・の原点でもあり、相互関係の中で生まれること、刺激しあうこと、自分自身では破れない殻を破ることができるようになるのではないか。
この本は、ブラジルの教育学者パウロ・フレイレが残した本である。
<認識について>
フレイレは、被教育者との関係をこのように捉えている部分が出てくる、分の逸話にこんなことが書いてある、ある地域に行った時、被教育者はこんなことを言う「私は文字が読めないし、何も知らない、だから教えて欲しいと言う」フレイレは「ではゲームしましょう、黒板を二つに分けてお互いに質問をしていき、やり込めた方にマルを書いていきます」と始める場面、ここでお互いに相手の知らないそうなことを質問し、お互いに答えられない。そしておのゲームは引き分けを迎える。
最初は、多くの活発な議論がなされたいた場面、しかし沈黙が流れることがある。一人は知っているもの、一人は知らないものと決め付けるその原因からである。しかし知識というものは、何をいうのだろうか。
先日、社長がデザイン室にきて会議に参加した時のこと。知識はひとつの要素であって、解決策ではない。私たちは新しいことを始めるときに何を求めるか、デザイン室での会議でも、議論の多くは、知識の不足を嘆き、それをどうてに入れるのか、私たちはどうならなければならないのかの解決策を知識を得ることで、ごまかそうとしていた。
デザインの勉強とか写真の勉強とか、知識があったほうがいいに越したことはない、しかしここで重要なのは、その考え方を変えるべきなのだ。
人は、自らで教育されるわけでもなく、人との交わりの中で教育がなされる。知識を息ら詰め込んだからと行ってそれを実際に動かす術を考えつかないのだ。
全体を捉えることと、考え方をどう持っていくかのほうがはるかに今すべきことである。
<言葉の習得>
またこんな話も出てくる、農民たちの文化サークルに参加するようになった時のこと。
チリのイデオロギー闘争を身近に体験していた時のことである。夜な夜な文化サークルに参加し、農民たちの熱い討論の場を目撃した時に、農民たちは会合で、自分たちの現状を話し、実際の現場で地域の問題やチリの問題を分析していた。
文字を得る事で、彼らは単に語ることのできる自分を発見したわけではない、自らの世界について語る彼らの批判的な言説は、その世界を作り直すと言うスタイルについて語られてきた。
言葉を繰り出し、自らの現実を分析することが、その付くところ、より望ましい世界を予感し予知する想像力に道を開く。
この部分を考えて見ると、ライフスタジオに入ってきてまもないスタッフが討論等をしたことがなく、自分の言葉で話すことができないため、沈黙をとる場面を良く目にする。
討論の時間、何かを思ってはいるのだが言葉にできない、言葉が出てこない、話す人をみていると自分の同じような言葉を考えていた、だから話す必要がないのではないかと自分を戒める。
私も実際にはそうだった、しかし本に触れ、自分の言葉を持とうとするとき、多くの言葉を繰り出すようになる。そして自分自身に現実を直視するようになるだろう。言葉が出てこないうちはまだ自分の現実を直視することは難しいと考える。今回の主題である「嘔吐」を考えて見ても、嘔吐を自分自ら言葉にすることで自分自身を直視し現実を見る力になるのだろう。
嘔吐を感じるようなその日常を言葉にすること。文章に書くこと、話すこと、これが市民の創出への一歩であると考える。これがより望ましい世界を予関し、予知する想像力に道を開くことにつながると考える。
<現実との戦いにコミットしない限り自分にとっての屈辱と思われる現実を否定し続ける>
フレイレが現場に出て、質問をする、この写真はどこの写真ですか?本当はNYの5番街であるが、人々は自分の地名を言う。エーリッヒ・フロムはこの現象に対してこういっている。「そういう教育実践というのは一種の精神分析ですね、歴史的、文化的そして政治的な精神分析」この現象はなぜ起こるのか。現実からの逃避、真実を糊塗することによってそれをてなずけようとする虚しい試み。
これは何を意味するのであろうか。
我々は現実や、自分の現状を正確に見ることができない限り、前に進むことは出来ない。変化発展をなぜしたいと思うのか、それは今の自分自身が目指すものではないという矛盾からかもしれないし、大きな夢があるからかもしれない、しかし私たちに今必要なのは、現実をどう捉えるであり、夢をどう描いていくかである。
<被教育者の「ここ」から出発することが必要なのであって、教師の「ここ」からであってはならない。>
当たりまえの事実であるが、これを忘れることは多い。
私も教育をしているとは言えないかもしれないが、教育を考える一人として、今の私自身のここからを見てしまうと、しばしば誤り違う方法論を提示してじまうことがある。
コーディ会で良い習慣として「読む・書く・討論する」と言う事を実践しようとしていた。」これは私自身がやってみての成功体験からだったが、うまくいかなかった。これは私は今やなんの為に変化発展するのかとか、ライフスタジオとかを考えられる段階にいるからであって、皆に強要すると言うことは、相手を見ていなかった事にほかならない、習慣をつけた先にあるものを提示するべきであったし、そこに至るプロセスをいそいでは、本当に機械の様にエスカレーターに乗るだけになってしまう、人間には自由意思があり、この自由意思が原動力にならなければ自分の身とはならないだろう。そしてつまらない人間ばかりの集団になってしまう。
以前、TVで見たのだが木を世界中で植えている日本人が紹介されていた。その人には「森脇システム」名前がしがっていたら申し訳ありません。。。と云うものがあり、森は多くの木の種類があったほうが良い森、強い森になるということだった、単一のものをただ植えるのではなく、多くの種類の苗を植えることで、その中で自分の役目を見つけ果たして行くらしい。
同じことではないか、森になっていこうと言ったこの言葉の意味は、同じ木を集めたひ弱な森ではなく、多くの種類の森が森を存続させそして子孫を残し繁栄を続けていくために役割を自ら見つけ強く生きていく。
こんな事が木にはインプットされている。自然とは偉大であり、多くのことを学ぶ事が出来る。私に今必要なのは、謙虚な心であるだろう。
教育とは何かを教えることではないのだ、お互いに生かし生かされているそのことを忘れずに生きていくことなのだ。
<中立的な教育実践などというものは、かつて存在したことはなかったし、いまも存在しない。。。>
これは教育者たるもの自分自身の主義がなく、ただいつも中立な立場で何かを語ると言うようなことはありえず、中立なものばかりで何も手を加えず生徒に伝達させるものだとしたら、なんの意味があるのか、教育者などの必要性はなく、ロボットか何かがテキストを読み上げれば済む話である。ライフスタジオはなぜ人が人を人としてと言うのだろうか、人は人によって学び、教えられ生かされる。これなくして教育や学習とは言えない。
そして人々がそういう主義や立場を持つことを良しとする一面もあるだろう、これは何もないロボットから教わったらロボットの様になるだろうし、人から教われば人としてもつ自由を得ることが出来る権利があるということを教わるであろう。そしてその中で自分の主張を押すことと共に、他の主張があるということ、他の選択もあるということを教えることでも在る
ライフスタジオには討論の文化が在る、果たしてこの意味とはなんだろうか、先日デザイン室に新人の子が入ってきて、ライフスタジオには討論の文化があると教えたのだが、討論とはなにか相手をやり込めて勝ち負けを決めることではない、人は今まで多くの時間を自分の世界で生きてきた、多くの環境があり、その中で人は形成されてきた。そのけいせされてきた人が一つのところに集まり、お互いを理解しようとする行為をするうえで、討論のような近道はないのではないかと今は考えている、皆が自分主張をするがそれを自分のものとして作ってきた誇りと、今までの自分を知る意味にもなるし、その中で出てくる多くの主義主張を感じることで、世界はまだまだ大きいのだと感じるだろうし、人を理解することは簡単なことではないと実感もすることになる。
<人間は自らの歴史の中で自らの自然を制御し、それゆえに容体であることとともに主体となる存在>
この項目はフレイレの人間に対する考えたを一番良く表した項目であると言える。
人間をたんに生存するだけの存在と考えることは出来ない。人間は歴史的・文化的・社会的に「実存」する存在なのだ。自らの道を作り、その道におのれをおき、引き渡しながらも、同時にその道をつくりかえ、自らを作り直していく存在なのだ。
生存を実存に変えていく能力を持たないたの動物とは異なって、我々は実存者として人格の平等を求め主張して、そのたたかう資源を形づくってきた。だからこそ我々はいける存在として、一人一人が根本的に異なっているのだ。
我々は誰もがそれぞれに異なっている。いける存在が再生される仕方というものは、そう有るべくプログラムされている。それゆえいに人間は、いつかは必ず平等という概念を作成する必要性をもって生まれついているのである。もし我々がバクテリアの様にどの個体も同一のものだとすれば、平等という観念は無用の長物であっただろう。
我々が実存した巨大な飛躍とは、たんに生得的なものだけを発動させるのではなく、また獲得形質だけを機能させるのでもなく、両者の関係を活かして活動する、ということの中に存ずる。
人間のプログラ化については、半分は賛成で半分は賛成では無いが、ここで言えることは、人間は実存するということである。今月の主題である嘔吐にもあるが、実存するから嘔吐では苦しむのかもしれないが、ここでは実存する存在であるから夢を、もち希望を語っている、そして人は違うことのゆえに平等を主張する。
ひとりひとりが根本的に異なっていることにより、その矛盾をどこに向けるのかそれを良しとするために平等を定めようと歴史上多くの時間が費やされてきた。人は異なるということを認め、両者の関係を活かして行動する事が出来ると云う希望の中に人間を捉えている。
教育学とは詰まることろ人間をどう捉えるかに尽きるかと思うのだが、フレイレはとても希望的で肯定的に捉えている、これがブラジルを動かし今も多くの人々に支持される所以でもあるのだろう。
また実存の部分をもう少し考えてみたいが、他の生物と人間を違うものとして捉えている。ではなぜ違うのだろうか、人間は歴史的・文化的・社会的に「実存」する存在なのだ。自らの道を作り、その道におのれをおき、引き渡しながらも、同時にその道をつくりかえ、自らを作り直していく存在なのだ。フレイレはこのように語っている。これをなんと表現するべきだろうか、自由意思とも考えた、責任か、人間をこの道に突き動かすものは果たしてなんであろうか。自らを作り直していく存在として実存しているとは、未来を作っていける唯一の存在であると言う人間への希望か、それとも与えられた使命ともいうべきか。
人間は創造力と好奇心を働かせる事によって「自分から離れて」自分自身を捉え、自分の生のありようについて何かを知る事ができるようになった。我々はある段階において、単に「生きる」だけではなく、自分が生きているということを「知る」事を始めたのである。知ることを知り、それ故にもっと多くを知ることが可能だと知るにいたったのだ。我々は想像力と好奇心を持つ存在であるが故に、一時も学ぶこと、探求することを物事がかくある理由を探査することを、やめることができない存在になった。
我々は明日を、物事の行方を、とうことなしには存在することが出来ない。未来の何に組みし、何に逆らうか、誰を利し、誰を不利にスルノカ「未然の可能性」を現実にするために、我々はどうしたらいいか。それを問い、その為に戦うことなしには、我々は自らの存在を全うすることは出来ない。
我々は絶えず探求する、好奇心に満ちた存在だ。自らと自らの生に「距離を置く」存在だ。我々は冒険と「知る情熱」に身を投じ、それ故に自由を不可欠のものをして求める存在だ。自由はその為の戦いの中で形作られる。まさにそういうものとして我々が存在しているのはそのように我々の存在がプログラムかされているからであり、しかし同時にそうあるべく決定されているわけではないからである。かくして「人間になっていく(人間化していく)」こと、その氏名からの逸脱である「非人間化」をいたみ恐ることが、うなわち我々の使命なのだ。
フレイレの言うある段階とはいつの事を行っているのだろうか。それは産業革命か、人は
生きるために働くことをやめた時からか、食べるために、今を生きるために必死に生き
ていた時代から、「知る」段階に入り、「自分から離れて」自分自身を捉えると言うこ
とは、認識の段せる階で、自分の世界を比較する術を持ったからだろうか。その時まで自
分自身がどうして生きるべきかを捉えるよりも、今を安全に生きるということを最高の
目的として生きてきた。
そんな時代から、人は余ったものをどうするべきかを考え出した、そして平等を求めるつもりが格差を生み出してきた。
人間には、想像力と好奇心がある、この言葉は私たちに人間に対する価値とそして希望を感じさせる。想像力は私たちを人間たらしめ、道を作って行くことを許し、好奇心は冒険に駆り立て、私たちが人ところにとどまることを許さない。
我々は絶えず探求する、好奇心に満ちた存在だ。自らと自らの生に「距離を置く」存在だ。我々は冒険と「知る情熱」に身を投じ、それ故に自由を不可欠のものをして求める存在だ。自由はその為の戦いの中で形作られる。まさにそういうものとして我々が存在しているのはそのように我々の存在がプログラムかされているからであり、しかし同時にそうあるべく決定されているわけではないからである。かくして「人間になっていく(人間化していく)」こと、その使命からの逸脱である「非人間化」をいたみ恐ることが、うなわち我々の使命なのだ。
自らと自らの生に「距離を置く」これは、自分自身を客観的に捉えることであり、他者を許容し、自らを戒め、過ちを正すことの出来る存在であることを示しているのではないか。そして自由を不可欠のものとして求める存在である。自由とは、我々が我々たらしめる根幹であり、私たちは自らの意思で生きていくことを求め、そして変化発展することを求めている。プログラミングされていようといまいと人間は自らで動くことができる存在である。
実存に対して多くの先人が考えてきた、それは私たちには好奇心や想像力があるからで、自由を求めそして発展しようとする欲望があるからだ。実存を語れない限り人間に対する希望は語れない。
<教え学ぶという行為、この中心をなす認識と言う行為は、教育自選の本質をなすものだ・・・>
フレイレは教育者たあるもの、教育をしながら実践から距離を置くことの重要性を語っている。これは、実践をしながら自らを認識し、相手を認識する行為というものにこそ教育の本質があるからと考えているからだ。
この本のなかには認識に関する事柄が多く出てくる。ここでいっているのは教育をするうえで中心におくべきは認識に対する考え方であり、これを抜きにして語れないということである。教育とは誰かが誰かを教える為にあるものではない。
認識に対する考えを持ってこそ、人は自分自身をとらえ他者をとらえそして世界を捉えることができる。
まず自らに対する認識であるが、これはライフスタジオでも多く語られる内容である、自分自身がなにものであるのか、ししてどうあるべきなのかを適切に捉える必要がある。
この方法として上記にも載せた、自らから距離を置くと行くことを日々行なって行くことではないだろうか。人は、この行為をしない限り視野は狭まり自らが全てであるかのように捉えがちである、では距離を置くということの実践はいかなるものであろうか。昔から取られてきた方法としては日記を書いたり自叙伝を書いたりする行為が挙げられるだろう、精神分析をしてみたり、多くの事をこの行為についてしてきたように考える。
私は、日記を書いたこともなければ自叙伝を書いたことも無いが、今こうして文章を書くと言う行為が自分を距離をおいて捉える事に非常に有効であると考える。
そして他者への認識であるが、これは討論という形をとることだろうか、また相手を理解するそのツールやルールを自分の中で持っているかも重要な要素であると考える。人は想定外の事に動揺しがちである、しかしその想定外を乗り越える力を持っていることも事実である。
認識をする行為を、共有する時間と距離を置く時間でやりくりをしていければいいのではないか。そして教育の場とはこういうものであると言う認識自体が私たちを作って行けるのではないだろうか。
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