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ノルウェイの森
投稿日:2011/5/11
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ノルウェイの森
死という出来事を通じて、人生‐生きる‐という事に対する姿勢の変化、成長を綴った長編小説
と定義した。
読めば読むほどに人生に対する姿勢を、出来事や登場人物によって少しずつ変化し、成長していく姿が描かれており、生と死を考えるであろう10代後半から20歳になる時を喪失と再生を通じて描いた。
冒頭にもあるように、この出来事は時を経てもなお、多くを語りかける。
死は生の一部であるから、離れるものでもなく生きているということは死に近づき死を感じることにより、生きているということを強く感じ生きる意味を見出す。
私は読むポイントを人生に対する姿勢の変化と成長に絞って見ていこうと思う。
17歳高校時代は友達はキズキしかおらずそれでもいいと思っていたし、自分を普通だと捉えていた、しかしキズキの死を通じまわりの世界の中にじぶんの位置をはっきりと定めることが出来なかったとしている。
そして高校を卒業し、誰も知ることのない東京の大学に進学する。
特に何かをしたい訳ではなく、演劇を専攻する。そして決めたことは「あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事を自分の間にしかるべき距離を置くことーそれだけだった。」と言っている、しかし忘れようと思っても心にかたまりが残る、それを言葉にするとこうなる「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」と。
しかしそんなことを感じつつも深刻になるまいと努力をしていた。
深刻になる事は必ずしも真実に近づくことではないと感じていた。死を中心に回転をしていた。人は、周りで衝撃的な耐え難いことが起こると生きるという事に対して距離を置こうとするのではないか、なぜなら生きていくために、囚われてしまわないように。そうしないと自分が自分であるということ自体があやふやになってしまう。
しかし、そのままでは結局変わりはしない、ゆっくりと囚われていくだけだ。
新しい環境で、渡辺は何人かの人と出会い別れを経験する。
ここでは人との関わりと変化を見ていきたい。
まず、直子と偶然に山手線で出会い、歩く。「どこに生きたいという目的など何も無かった。ただ歩けばよかったのだ。まるで魂を癒すための宗教儀式みたいに」そして、少しずつ慣れていく、キズキの話しはするわけではないが、なんとなく同じ痛みを抱えたもの同士歩くのだ。
どうしようもない気持ちを共有できるのは直子だけではないのかと思ったのであろう。何もすることのない日曜日、毎週の様に同じときを過ごす。
囚われの身からの変化は無いが、人との関わりが少しだけあったかいと思えたのではないだろうか。しかしこの二人だけの関係ではキズキをあえて会話には出さず、直子も姉のことを話しに出すわけでもなく2人だけでは前に進むことは出来ない。
次に突撃隊。
彼は、渡辺にとってはもっとも平和で生きているという行為を繰り返す姿勢が多くの意味を持つのではでいか、彼はみんなの話しの種になり、彼の話しをして笑える間平和なときが流れる。
しかし彼もいなくなってしまう。
彼とのやりとりの中で、蛍をもらう場面で蛍が飛び去ってしまった後、‐僕はそんな闇の中に何度もてを伸ばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光はいつも僕の指の本の少し先にあった‐とある。
これは喪失の時代にいる渡辺が東京で少しずつでも喪失の時代からの脱出をはかろうとてを伸ばしてはいるが、光はまだ先にあることを表しているのではないかと考える。
永沢さんは、自分なりに多くを解決できるように見えるが、あまりにも自分なりの成長をしてしまい、こうはなるまいという現われのようでもあるし、はつみさんを見るときには人のどうしようもない気もちをそうすることも出来ない人間の弱さをあらわしている。
彼も地獄を抱えていると渡辺は言うが、他の人にはそれがみえない、渡辺も人生をある面冷めてみている部分がある為、ここにきずいたのではないか。
緑との出会いは、彼にとっては生と向きあう部分になると考える。
直子が死なら、緑は生ではないか。
直子と緑の間で揺れながら、これからどうするかを決めていくのだが、渡辺は自殺などをするようには見えないので、永沢さんのようにゆがんだ成長を遂げるかの境目であった。
みどりとのやり取りは、父の病院にいったり火事を共有したり、ここでも生を感じるのだ。
危険をともなわない訳ではないのだが、危険やしに行く人をかんじることにより、自分の位置をこの正解に少しずつ取り戻していく。
緑も多くの痛みを乗り越えてきたが生きているのだ。
そしてれいこである。
れいこは、あみりょうで人々を迎い入れ自分も患者だが治療にも携わる。ある意味人としての行き方をとうあみりょうは、悩める人にとってははっとさせられる部分でもある。解決策が書いてあるし、生きていくためのすべを、精神の世界のもろさ、そして強さをあらわしている。
れいこのあみりょうに対する部分で、こんな一文がある、-あなたは開ける人よ。正確に言えば、開こうと思えば開ける人よね・開くとどうなるんですか?回復するのよ-
回復するのには心を開かなければならないし、痛みを伴うが、ともに助けあうということを理解するのだ。
あみりょうは、第一に助け助けられる。第二に正直になる事。
れいこはこの理想とも言える生き方を実践している人だ。
人とのかかわりによって少しずつ強くなっていく渡辺、その中で、自分への決意そしてキズキへの宣戦布告とでもいえる文を見る。
なおこの具合がよくないとの知らせを受けとりこう思う。
-もちろん僕が強くなったところで問題のすべてが解決する訳ではないことは良く分かっていたが、いずれにせよ僕に出来ることといえば自分の士気を高めることくらいしかないのだ。そして彼女の回復をじっと待ち続けるしかない。
おいキズキ、と僕は思った。お前をちがっておれは生きると決めたし、それも俺なりにきちんといきると決めたのだ。お前だってきっと辛かっただろうけど、俺だって辛いんだ。本当だよ、―中略-おれはもう二十歳になったんだよ。そしておれはおきるための代償を
きちっとはならなけりゃならないんだよ-
そして、みどりに反応しみどりとならうまくやっていけるのではないかと思い始める。
生きることを決め始めたとき、人は生に強く反応するのではないかと。
しかし、直子が自ら死を求めたとき囚われそうになったし死んだように旅行もした。そこでれいことの葬儀を通じ、喪失の時代から抜け出す。
人は、そんなにすぐには変われないし変わろうと思って動くことがどんどん億劫になってくる。そこが居心地がよくなるだろうし、変わることへの労力はとても大きいものだから、しかし生きていくと自分の中で納得し決めた渡辺は、みどりを求め、電話をする。
みどりはこう聞く「どこにいるのか」「どこにいるのだ」その答えを求めて人は生きていくし、それを問わなくなったとき死に近づくのかもしれない。
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