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他者について
投稿日:2016/6/2
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ぱっと考えると他者とは生きる理由と考えてしまうが、考えてみよう。
この世界は私と他者で構成されている。私以外は他者であり、他者という概念と融合すると私たちと言う概念に到達する。そして私たちという概念のもと生活を送っているのである。他者と私をあえて分けて考えることがあるのだろうか。
他者は自らの鏡であるとか、客観を得るために他者を通じて自らを見出すというようなこともあるのかもしれない。
スタジオにいると他者を感じることが良くある。それは自らが良くなりたいという表れのようにも感じる。どういうことかと言えば他者を正しく認識しようとするという事はその存在に対して正しく認識したい、自らの今までの固定概念やとらわれていることよりも正しく認識しようとすることが優先されている状態である。
それは逆に考えてみると私自身が良くなる道であるとも言える。他者を正しく認識しようと努める時、観察するようになるし、定義を普遍的でありまた特殊的に持とうとする。しかしやはり自らの主観に陥りそうになる為、その人と話をしたりしてさらに正しく認識をしようとする。
それが関係を築こうとするする事であり関係に立つという哲学入門の入口にあたいする。
そう考えてみると他者とは自らを正しくしてくれる存在であり、自らの外にある為自らを超えることができる、自らをこえるということは自由になるという事でもあるのかもしれない。
人は自らの思考を超える時、他者の思考にのることができるそうすることで狭い自分自身を超えることができる。
ライフスタジオは写真館として【存在の美しさ】を表現しようとしている。それは普遍的であり、そして他者を認識させてくれる。存在はそれ自体でも美しいが存在と存在が関係の中で共によくあろうとすることが美しさを際立たせ、そして自らを自らの範囲を超えて感じさせてくれる段階へと持って行ってくれるのだ。
この世界は私と他者で構成されている。私以外は他者であり、他者という概念と融合すると私たちと言う概念に到達する。そして私たちという概念のもと生活を送っているのである。他者と私をあえて分けて考えることがあるのだろうか。
他者は自らの鏡であるとか、客観を得るために他者を通じて自らを見出すというようなこともあるのかもしれない。
スタジオにいると他者を感じることが良くある。それは自らが良くなりたいという表れのようにも感じる。どういうことかと言えば他者を正しく認識しようとするという事はその存在に対して正しく認識したい、自らの今までの固定概念やとらわれていることよりも正しく認識しようとすることが優先されている状態である。
それは逆に考えてみると私自身が良くなる道であるとも言える。他者を正しく認識しようと努める時、観察するようになるし、定義を普遍的でありまた特殊的に持とうとする。しかしやはり自らの主観に陥りそうになる為、その人と話をしたりしてさらに正しく認識をしようとする。
それが関係を築こうとするする事であり関係に立つという哲学入門の入口にあたいする。
そう考えてみると他者とは自らを正しくしてくれる存在であり、自らの外にある為自らを超えることができる、自らをこえるということは自由になるという事でもあるのかもしれない。
人は自らの思考を超える時、他者の思考にのることができるそうすることで狭い自分自身を超えることができる。
ライフスタジオは写真館として【存在の美しさ】を表現しようとしている。それは普遍的であり、そして他者を認識させてくれる。存在はそれ自体でも美しいが存在と存在が関係の中で共によくあろうとすることが美しさを際立たせ、そして自らを自らの範囲を超えて感じさせてくれる段階へと持って行ってくれるのだ。
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