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京都桂店
ライフスタジオの企業理念の話 『労働と人生の一致』
投稿日:2020/5/1
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さぁさぁ、やってまいりました。ライフスタジオの企業理念のお話、最後の項目ですね。
そして、これは多くの人が勘違いをする項目なのではないのではないでしょうか?そして、その内容を理解できていても、日本社会の固定概念から脱することがなかなか難しいのかもしれません。だけど、知っているかいないかではこれからの人生考えることが多くなるかもしれません。
では、レッツゴー!
仕事と余暇(=プライベート)
余暇って何だと思いますか?一応、wikipediaに書いてある余暇の定義は以下です。
『余暇(よか)は、一日のうち労働の合間に生じる空いた時間。休息時間。労働を中心とした一日の生活の中では、仕事の合間に生産労働の効率を維持するため肉体的疲労を癒す食事や休息の時間が設定される。食事時間は休息時間を兼ねることが多く、休息時間にも間食が行われることもある。
~中略~
現代では、その時間をどう自分のレクリエーションに使うかという事で、余暇の創造という事が語られる。その意味では、余暇は、人が自分自身を取り戻し、また活発に仕事や家庭での雑事に立ち向かうための活力を養うためのものである。ただ、仕事を定年退職した高齢者にとっては、毎日が日曜日、即ち、余暇であり、その余暇に何か自分の出来る事を見つけられるか、あるいは見つける事によって人生に生きがいを見出す事が出来るかどうかという事が、重大な問題になっている。』(wikipediaより抜粋。)
まぁ、一般的には当たり前っちゃ当たり前の認識ですかね。つまり世間一般的には、余暇(プライベート)の時間は、労働の疲れを癒すために休息したり、自分を取り戻す時間ということですね。
確かにそういう部分が大半を占めるのだと思います。毎日に仕事は疲れますし、休まないと体力が持ちませんよね。特に35歳を超えてから体力的にはなかなか厳しいので、休日はちゃんと休みたいと私も思います。また、頭の中が仕事だらけだとリフレッシュできずにイライラする気持ちもとってもよくわかります。私は健康的な思考を維持するためには、何も考えずにぼーっとする時間が必要不可欠なので、休日は必要です。
となると、ライフスタジオの理念である『労働と人生の一致』がすごく恐ろしいことのように感じてくる人がいるかもしれません。現代で言うところの「社畜」感漂う言葉に感じますでしょうし、「公私混同」とも取れる言葉かもしれません。日本語で「社畜」も「公私混同」も良い意味で使われることはないでしょう。果たして『労働と人生の一致』とは、24時間365日ずっと仕事のことを考えなくてはいけないというブラック企業精神のことなのでしょうか?
労働観を疑ってみよう。
労働と聞くとどんな印象を受けますか?どちらかというとネガティブな印象を受ける人が多いのではないでしょうか?実際私がそうでした。大学を出て就職しなきゃいけないものだと思っていましたし、その時の本音は社会に出たくないなぁというものでした。この時の私に問いたいのが、社会に出ることがなぜネガティブな印象を持つのか、ということです。何がそんなに社会に出ることがネガティブなのか。もちろん面倒臭いとか未経験なものが不安だとかそういう気持ちもありましたが、それは日本の現代社会に蔓延する固定概念を礎にして大人になったからだと思います。
以前、私のブログの『働き方の哲学』にも書きましたが、何事にも物事のとらえ方次第で意味合いや価値が変わってくるという話をしました。(詳しくはこちらをクリック) 物事や事象そのものに良いも悪いもなく、ただあるのは人の『観』次第であるということです。労働というものがなぜネガティブな印象があるのかというのは、日本国憲法で「労働は国民の義務」であると学校で教わるからであり、大変そうな大人の姿を見て育つからであり、メディアでも過労死やブラック企業の報道が多いので、悪い印象を強く持って育つのではないでしょうか。それも仕方ないことだと思います。たぶん、社会人の多く人がなぜ働くのかと問われれば「生活のため」「お金のため」と言うと思います。だから仕方なく就職をしてやりたくないけど働かなくてはいけないのだと、思い込んでいるのだと思います。
歴史的に見ても、労働はもともと貧困層がお金持ちのためにやることが始まりだと言われています。お金持ちや領主は、お金や権力を使ってやりたくないけど必要なことを貧困層や庶民にやらせて税や収入を得ていました。それが、資本主義が始まってからは、資本家即ちお金持ちが身分関係なく人の時間をお金で買って労働してもらうという形式に変わりました。封建制度の中では職業の自由はなかったけど、資本主義になってから知識や能力によって職業を選ぶことができるようになりました。また1980年代には男女雇用均等法も制定され男女差によって役職を狭められることも無くなりました。職業選択の自由を得て、男女差も無くなってきて、少しずつ労働も良くなってきているという印象がありますが、それでも私たちの意識から「やらされている」感が抜けないのは何故でしょうか?
それは一般的な労働観は変わっていないからではないでしょうか?確かに封建時代に比べれば今は何十倍もいいです。職業選択の自由は、言い換えれば好きなことを仕事にできるということです。なのに、多くの人が仕事をやらされていると感じている。これは何かおかしくないですか?
現代では労働は義務ですが、納税と生きていくためだけの資金があれば罪に問われることはありません。それどころか、とやかく言ってくる他人もいないのではないでしょうか?もし「生活のため」・「お金のため」に労働という手段を選ばざるを得ないのであれば、それは固定観念かもしれません。実際、労働でのストレスが人間関係や職場に行くこと自体であれば、直接人に会わないで済む投資や株などで自宅にいたままお金を稼ぐことはできますし、もっと割がいい仕事はこの世にはたくさん存在します。会社のことをやらされたくないのであれば、銀行から融資をしてもらってフリーランスとして起業して好きなことをやってお金を稼ぐことだってできます。今はブロガーやインスタグラマー、ユーチューバーなどでもお金が稼げる時代です。その道も厳しいのかもしれませんが、少なくとも会社勤めがストレスなのであれば、SNSでお金を稼いだ方が自分で決めた道というのがわかりやすいのでずっと健全なストレスの受け方をするかもしれません。むしろそちらを選んでいる人も増えてきましたね。そう、だから苦しいならそこから脱出する手立てはいくらでもあります。ではそれを阻害しているのは一体誰なのでしょうか?
ここで疑問なのは、仕事って「やらされる」ものなのでしょうか?ということです。私たちはある程度良い時代と良い国に生きていると思います。物理的な不自由はそこまでありませんし、そこまで大きな貧富の差もありません。ならば何が不自由なのか、と言えば私たちの認識だけなのかもしれません。認識次第で、人生の全てが変化します。自分はアレがだめだ、コレがだめだと思えば何もできませんし、反対に自分ができると思い込めばできるまで努力するかもしれません。労働も「やらされているから、やりたくないことをやっているんだ」と思えば苦役ですし、「生き甲斐だ」と思えば自己実現なのかもしれません。何よりも恐ろしいことは、そう思い込ませてプライベートだけが自分の人生だと思い込ませようとする社会の風潮です。プライベートでお金を過剰に使わせようとすることで経済が潤い、慢性的な欠乏感が私たちに仕事を「やらせる」強迫観念なのかもしれません。『働き方の哲学』のブログにも書きましたが、週2回の休日のみが自分を出せる「自分の人生」の時間だとしたら、週5日は「自分の人生じゃない」時間なのでしょうか?それとも、自分の人生だけど「やりたくないことをやらされる時間」なのでしょうか?私はそのどちらも生きた心地がしないと思ってしまいます。
私は27歳まで、他企業にいました。そのときに、当たり前だと思っていた「やらされる仕事」がいつしか苦しくなって、退職し半年ほど人生の迷い道に入り込みました。たかが仕事なのに大袈裟だと思う人もいるでしょう。私もそう思っていました。だけどいざ、自分が仕事をしている意味や価値がわからなくなると、人生どうしようと思い、やがて自分はどう生きたかったんだろうと考えました。半年さまよった末に、「やりたいことを仕事にしよう」と思い写真業界にたどり着きました。私が知っている写真業界の平均給与は私がかつて在籍していた企業よりもはるかに低く、ボーナスもない、休暇も多くない世界でした。でも不思議と前職よりは苦にならなかったのは、「やらされている」感覚よりも「やりたいからやっている」感覚が強かったからだと思います。そのあとにライフスタジオに来て、「人生と労働の一致」という概念を教えてもらいましたが、当時の私にはとても沁みました。しかも、ライフスタジオの理念だけではなく、撮影体系やシステム、給与基準もすべて「人」でした。人が豊かに生きられるための給与と休暇がもらえて、その人がその人らしく生きるかのように働ける職場がある。それだけで、この会社は何なんだろうと思ったものでした。でも少なくとも言っていることはシンプルでした。「自らの人生を、自らの手で苦しくさせることなく、自由で豊かに生きること。」そのためには、労働すらも自分の人生のように生きることで、人生が丸ごと生き生きと生きられるのではないかということです。
ライフスタジオにはそれなりの給与と休暇があります。それでは、労働と人生の一致と矛盾しているのではないかとお思いの方もいるかもしれません。労働と人生が一致しているとは、ずっと仕事のことを考えなくてはいけないということではなく、人生を丸ごと生き生きと生きることであるならば、毎日の撮影業務だけでは変化が生まれずそれこそ苦しくなってしまいます。それは不自由なので、その不自由を取り除くには変化が必要です。その変化を自分で起こすためには、資本主義社会で生きていることは否定できないので時間とお金がある程度は必要かもしれません。その変化を起こす能力をライフスタジオは「人」という基準のもとサポートをしてくれます。そのため、ある程度の給料と長めの休暇があるのです。そう考えると、一般的ではありませんが少なくとも固定概念にとらわれている会社ではなさそうです。
では、ライフスタジオで働く意味とは?それは自分にしかわからないと思います。
労働と人生の一致とは?
ここまでいろいろ書きましたが、労働の人生の一致とは結局は一人一人に与えられた権限と責任であるということです。労働を自己実現の場と観るか苦役と観るかは、その人一人一人がどう生きたいかということを反映します。この概念を理解するには自分を縛り付けている固定観念から自由になることがまず必要ではないでしょうか。少なくともライフスタジオでは、そのために人にお金も時間も不自由がない程度には投資しています。そのお金と時間をただいたずらに消費するのか、それとも人生をより自由にするために使うのかは使い手である自分自身に委ねられているのだと思います。もちろん、休息を取って旅行に行くことも自己投資ですし、勉強する時間や教材を購入するのも自己投資です。どう使うかは、個々の自由な意志と倫理によって違います。ライフスタジオでは、人が人らしく生きるために労働と人生を一致させることを提唱しているのだと思います。
労働と人生を一致させていくには、まずは自分自身が「何をしたくて」「何が課題で」「どうしていくのか」が明確でなくてはいけませんね。
さて、あなたの主題は何ですか?私もこの期間にちゃんと考えていきます…。
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