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ライフスタジオの企業理念の話 vol.1 『美しさを表現し、思い出を記憶する、楽しい遊びの空間を通して、日本の写真文化を変えること。』①
投稿日:2020/4/17
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改めて企業理念の話をこのブログ上で書くことはなかったですが、勤続9年目にして一度初心に帰ってみようと思います。
思ったことを全部アウトプットするためにダラダラと書いてますが、スッキリ簡潔に読みたい方は、ボルボさんがさすがのまとめ力で書いた同じ題材のブログがあるので、それを読んでみてください☆
「美しさを表現する」
・カメラマンとコーディネーターの本当の能力とは、被写体の美しさを表現することと被写体を動かすことである。
私たちは写真館のスタッフなので、お客様へ商業写真を提供している以上、「美しい写真」を撮ることは当たり前です。こういう風な固定概念があると、この言葉の深さにはあまり気が付かないかもしれません。
この言葉を精読してみましょう。「美しさを表現する」と書いてあります。「美しさ」を「表現する」と書いてあるのであって、「美しい写真を撮る」とは書いてありません。さて、少し理屈っぽくなりましたが、「美しさ」を「表現する」とは、撮影者が認識する被写体の「美しさ」を撮影者自身の視点と技術で「表現する」ということです。
2015年の年明けごろ、私は草加店にいました。そのときにちょうどプロジェクトで論文を書いていて、そのテーマが写真哲学でした。私が担当した項目は「被写体」でした。その時に、ヘヨンさんから聞いた忘れられない言葉があります。
「私たちは美しい被写体の姿を撮るのではなく、被写体の美しさを表現するのだ。」
この言葉を聞いたとき私はハッとした記憶があります。
なぜなら、ライフスタジオで撮影をすることに何かしら特別なものを感じ始めていて、それでいてその特別な何かをうまく定義できないでいる時期だったからです。そのときに、この言葉こそが私たち撮影者がいついかなるときも決して忘れてはいけないことだと思いました。この言葉を軸に私たちは被写体を観なければいけないのです。
「美しさ」とは何か?
哲学を勉強していた時に、芸術学上美しさとは2つあるということを知りました。
ひとつは「存在論的把握による美しさ」。これは、だれが見ても、どこで見ても、いつの時代に見ても、「美しい」と感じるもの。人間の共通感覚によるものであり、数値で表せるものであり、法則があるものです。例えば、ルネサンス時代に創られた芸術作品は今見ても美しいと思いますし、レオナルド・ダ・ヴィンチが創った芸術作品にはフィボナッチ数列に基づいた法則性があるといいます。この普遍的美しさは、明確な基準のもとに在るものであり、物質的で唯物的なものであり、私たちが疑問を挟む余地のないものです。なぜなら、その事象自体が美しいとされ、美しさとはその存在に帰属するものだからです。
もうひとつは、「認識論的把握による美しさ」です。これは、人の知覚と認識が対象を見たり、感知したりしたときに、個々が感じる美しさのことです。これは人によって美しいと感じるものが違うということを意味します。同じものを見て美しいと思うか思わないかということもそうですし、同じものを美しいと思うと言っても、何の、どこの部分の、何を以て美しいと思ったのかは違います。例えば、音楽の好みでいうと私は洋楽ロックが好きですが、私の姉は昔からJ-POPが好きですし、私は水彩のような透き通ったカラフルな色味が好きですが、ボルボさんは落ち着いたセピア調のくすんだ色味が好きかもしれません。このように、その個人が認識する美しさはどこに潜んでるかは、その個人の知覚や価値観によって異なります。そんなの統一できないじゃないかと思われるかもしれませんし、そもそも美なんて概念は人によって違うなら、無いともいえるし、在るともいえるんじゃないか、曖昧なものなんじゃないかと思う人もいるかと思います。しかし、美は人の認識次第というのであれば、その裏を返せば美は至る所に潜んでいると言えます。認識できないものには気が付かないだけで。だから、意識してこの世の全てに美しさを見出そうと思えば、見出せるのが人間ではないかと思います。
長くなりましたが、何を言いたいかというと、「被写体の美しさ」を表現するとは、この二つの「美しさ」を論理的にでも感覚的にでも知る必要があります。ライフスタジオの最重要事項は「人」です。「人」であることが最重要だということは、まず個人が個別の考えを持ち個性があることを求めること、次にその個別に違うものを持ちながら、「人」の中で生きていくこと。だからこそ、撮影者が「人」としての視点で被写体に内在する「美」を認識し、その「美」をだれが見ても良いと思うように表現することが求められます。
そのためには、被写体を外見だけでなくその内面も見て、目に見えるものと目に見えないものの両方を見ようとすることが重要です。それは被写体によって違うものですし、佐生英社によってもその被写体の何を美しいと思うかは違います。認識はそれでいいと思います。それが「人」として当然のことだと思いますし、それこそが「人」の美しさだと思います。認識が違えば表現方法が違う。それもいいと思いますし、認識が違うのでどう表現するかは違います。それこそが「人」の自由さだと思います。
撮影者の視点で被写体の美しさを認識し、それを誰もが美しいと思う方法で表現するという思考回路を常に持っていることが、ライフスタジオの撮影者に求められるものです。なので、自分の意図を持つことも重要ですし、独り善がりの美しさにならないことも重要です。
「存在」と「認識」の両方の視点から見て、誰に向けてもその存在自体が「美しい」と観る視点と、それに適した表現力を持つことこそが、ライフスタジオのプロの撮影者なんじゃないかと思います。
「被写体を動かす」
被写体を何のために動かすのでしょうか?動いたら写真に撮りにくいですよね?ですがライフスタジオでは、敢えて被写体を動かしながら撮影をします。なぜでしょうか?
理由は簡単です。動いたほうがその人らしさが出るからです。所作には個性が宿ります。私たちライフスタジオの撮影者は、被写体の唯一無二感を撮ろうとしているので、この個性が出るような誘発が必要です。そのために、コーディネーターとカメラマンでその動きを誘発するような撮影空間を作ります。そのためにはリラックスしてもらう工夫もしますし、遊びながら撮影をすることもあります。年齢的に10代以上の人には、話をしながらその人となりを引き出す努力をしながら撮影をします。
しかしいくら動きを引き出すと言っても、何でもかんでも動かせばいいってものでもありません。兄弟写真でバラバラに個々が勝手に動くことを良しとしているわけではありません。重要なのは、その撮影空間にいる誰もが一緒に撮影をしていくということです。撮影者であるカメラマンとコーディネーターのみならず、ご家族と被写体も、一緒に共通の空気感と誰もが居心地がいいとされるように、セッティングをして、撮影者の呼びかけに同意のもと動いてもらうことが理想的だと思います。
まとめると、被写体を動かすことでその人となりを引き出すこと。そのうえで、撮影者の視点でその人ならではの美しさを定義し、撮影者の技術を以て誰もが美しいと感じるように表現していくこと。これが「美しさを表現する」ことだと思います。
「人を美しいと思うこと=愛」と定義することもできますが、これは「愛するということは技術である」と定義したエーリッヒ・フロムと似たような考え方です。私はそれよりも、「人を美しいと思うこと=人として当たり前のこと」と言いたいです。人は、人の長所を見るよりも人の欠点を見抜くほうが簡単だと言われています。だからこそ、欠点も含めて人は美しいと言えるようになってから、私自身はやっと人になれたかなと言えそうです。まだまだ修行が足りません…。
To Be Continued…
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