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京都桂店
【ひとりごと】最近の私について。
投稿日:2019/2/26
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少し写真分析をすることから離れていました。写真分析を休んでいたからと言って、写真へ向ける眼差しまでも止めるわけではありません。少し、静かに自らの心を見つめる時間が欲しかった。休んだ理由はただそれだけだったのですが、そうでもしないと、日々起きるたくさんの出来事の中で、心の水面の波と澱みが落ち着かず、自分が何者で自分の意志がどこにあるのか見失っていくところだったからです。
写真とは、撮影者の視点と意志の表れですから、自らの心の状態というものは非常に大きく関係しています。だからこういう時間も必要。なぜならば、写真も人生も、全ては自分の意志で決めるものだからです。
私にとっての写真の話を少ししようと思います。ライフスタジオに入社するより以前、私は自分が写真を撮る理由を、「自己証明」のためだと思っていました。そんな自分の考えが、入社して半年ほどに浅はかであると知るのですが、私個人の小ささを教えてくれたのは、周りにいてくれた「人」でした。愚かなことに私は、なぜ私が写真を撮るのかという理由は揺らがないものであると錯覚をしていました。しかし、実際は自問自答の連続で他者に触れることで「人」の存在の大きさと自分の小ささを知るということの繰り返しの中で、私は写真を撮ることになります。
独り善がりの私は、次第に「自己証明」をすることが写真を撮る理由ではなく、「他者の存在をより美しく際立たせること」が目的であり、そのためには時には自分の意志だと思っていた意地とプライドも無意味であることも知っていきました。
「私」という存在が、「人」と出会うことで自分の視界が拓けていき、自分から少し離れられる。最も重要であると勘違いし固執していた「私」自身に固執しなくて済むような、私から抜け出ていく感覚。「私」という存在は、目的を遂行するための媒介でありそれ以上ではないことを知っていきました。
うまく言えないのですが、良い意味で自分を捨てるという感覚を持っていくことだったのだと思います。
かといって、何もなくなってもいいわけではないので、私が生きている以上は自分の意志を明確に持ちながら、人生の中で撮影というものの認識が変わっていくことでしょうか。自分の視点は大切に。だけど、時には自分を手放して。目の前にいる人の、眼差しに拠り。
撮影を重ねていくたびに、たくさんの人に囲まれて、たくさんの人と関わることで、自分の証明なんてちっぽけなものはいつの間にかどうでもよくなってきて、大切なものは「人」がちゃんと「人」らしく生きることができているかどうかだったり。
ああ、だから写真を撮っているんだなって思う今日この頃。
ただの独り言メモでした。
ちゃんちゃん。
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