Staff Blog
京都桂店
Photo: 心を射貫くこと。
投稿日:2018/12/1
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Photographer: Satsuki Kudo
Coordinator: Takumi Yoshizawa
ライフスタジオの写真とは何か?
私たち撮影者はどのように在るべきか?
わたしはいつもこの課題が心の中にあります。
経験と知識を得て、自分で規定をして、討論をして、また写真を撮って。
その繰り返しの中でわかったことは、この過程には終わりがないということだと実感しています。いくら、撮影を重ねて写真分析をして知識を入れて自ら規定しようとも、いつも新しい面が見えて変化していくように思えるからです。
それはまるで写真というものは生きているかのように。
最近は、この終わりの無さをすごくありがたく感じています。
おかげで写真に関しては前だけを見ていられます。
今の時点で、私がわかることがあります。
それは、ライフスタジオの写真とは「心を射貫く写真」で、
ライフスタジオの撮影者とは「自由」であろうとするべきです。
すこし解説します。
まず写真です。
「心を射貫く」なんて抽象的な言葉を使いました。時に人は心の琴線に触れる写真を見た時に、心を射貫かれたような感覚を覚えます。それが「心を射貫く」という表現が適切ではないのかもしれませんが。私は初めてライフスタジオのホームページを見た時に、ある写真に心を射貫かれました。手をつないだ母娘の写真で、母の表情は穏やかな笑み、娘の表情は泣いていて、私はなぜかこの写真に心を射貫かれました。今見たら、ライフスタジオの写真を見慣れているからかそうでもないんですけれど、あのときの私にはあの一枚だけでライフスタジオの写真を感覚的に理解できたような気がしました。少なくとも、ライフスタジオが写真を見ている人に何をもたらしたいのかを垣間見れたような気がしたのです。
実際に、ライフスタジオの撮影者になってみて、たくさんの撮影に入らせていただきました。たくさんの人に触れて、たくさんのご家族に出会わせていただきました。その中で、私はいつも目の前の人の「心を射貫くような」写真を目指しているような気がします。
では「心を射貫く」にはどうしたらいいのか。以前、写真人文学を勉強したときにプンクトゥムという概念がありました。プンクトゥムとは「心を刺すような痛み」のことです。写真を見た時に、このプンクトゥムを覚えることがあるそうですが、プンクトゥムが人の心に表れることは、人にもよるし、タイミングにもよるそうです。私にはプンクトゥムを覚えても、隣にいる人には何も感じないかもしれない。あの時はプンクトゥムを感じなかったのに、今はなぜか感じる。それはなぜかと言うと、人によって人格も記憶も感覚も違いますし、その時々によって同じ人でも考えや環境は変化するからです。
例えば、その人が育ってきた環境や文化、家庭が違うので、人生は人によって違います。だから、同じものを見ても全く同じように見えることはないです。見える観点が違います。だから、人によって何に感動するのかは違ってきます。また、独身時代は自分の幸せしか見えなかったけれど、結婚して家族が増えれば幸せを考える範囲が広くなります。自分の領域しか見えなかったのが、家族、社会、世界と視野を広くし深く知るようになれば、見えて感じる情報量が多くなり、より深くより広く物事を考えることができるようになるかもしれないので、何か小さいことでも心が反応するようになるかもしれません。
このプンクトゥムを意図的に生み出すことができるでしょうか?それは私にもわかりませんが、少なくとも生み出そうと努力することがライフスタジオの撮影者には求められるのだと思います。それが、「心を射貫く写真」を撮ることだからです。
プンクトゥムを意図的に生み出そうとする方法は、とにかく目の前の人のことをよく見ることと撮影者自身の視点で把握すること、そして適切な要素で写真を構成することです。先ほど、視野が広がり知識を深くなれれば些細なことにも心が反応するようになると書きました。写真も同様です。まずは撮影者が目の前のご家族、被写体へ目を向け観察し、言葉を投げかけそこから返ってくる反応を受け取る。そこから目の前のご家族がどのような雰囲気を持っていて、何を大切にしていて、どういう人たちなのかを深く知れば知るほど、写真で何を写すのかがハッキリしてきます。写真の意図がハッキリすればするほど、写真の構成要素は整理されていきます。写真の四隅の端から端までが、その家族・被写体を表すための世界となります。構成要素という情報の明確さが、プンクトゥムを生み出す前提条件であると考えます。
もちろん、撮影者の自分勝手ではいけません。自己満足でもいけません。プンクトゥムとは撮影者の中に生まれることが前提条件ですが、それを見ている人の中にも生まれなくてはライフスタジオの伝えようとしている価値は明確には伝わりません。だから、常にご家族と被写体と投げかけと受け取りの中に身を置かなければいけないと思います。その過程が、写真の中に表れて深く関われば関わるほど「心を射貫く」ことができる可能性は大きくなると私は信じています。
次に、ライフスタジオの撮影者は「自由」であること。
「自由」と言っても、何でもOK、どんな写真をとってもいいということではありません。それは自分の中でしか生きられない不自由なことです。自由というのは、自分だけではなくその場にいる人すべてが自由になることを言います。お互いがお互いのことを考え、何を写すのかという意志を発し続ける自由です。写真を撮るときに、「このほうが流行っているだろう」とか、「こういうパターンだから」とかで写真を撮っていては外部の基準に自分の写真を預けることになるので、とても不自由です。真の自由とは、自律をしていくことだと思っています。目の前の被写体を表現するのに、一番必要なのは撮影者の自由意思です。撮影者が撮影を、写真をどのようなものを望むのか、そしてそれをご家族や被写体本人へ伝え共有することができるのか。そこに撮影者の自由さがどれほど確保できるのかがかかってくると思います。それは、撮影している過程の中でその場にいる人たちが撮影者たちとの関係性を共有しているかどうか。撮影の空間の中は楽しくないと、集中はできません。だから、撮影の過程こそが楽しみの空間として創り上げられているかどうか重要です。その中で被写体は自由になり、そこで初めて撮影者もその被写体の内面を撮る自由を得るのです。
難しいことですか?少なくとも私には、とても途方もないことのように感じます。そして同時に、自由になろうとするその過程が、果てしなければ果てしないほど、私自身の内面を広げ写真を広げられるい可能性としてみることができ、少しほっとするのです。
長々と理屈ばかりを述べてしまいました。
「心を射貫く」ことと「自由」であることを両立しようと、今回の撮影でもそのように臨みました。
「お兄ちゃんは少し年ごろかもしれないけど、あんまり居づらくさせたくない。」コーディネーターであるたくみはそう言ったのを覚えています。被写体であるこの少年は、たしかに年ごろで、照れくさくて素直に大人の言うことを聞きたくないような、できることなら脱力したいというような、そんな意思表示を彼から受けました。今回は彼の弟の七五三で来店してくれましたが、彼のソロ写真も撮ることになったときに、彼を撮影にできるだけ集中してもらえるように、身近な大人の目である親御さんが見ている場ではなく、撮影者である私とたくみ、そして彼だけの空間になるように配慮し、わくわくするような秘密基地であるガレージに連れていきました。
薄暗く、ほのかに自然光が入るガレージという空間は、妙に居心地がよく、少し心を緩め解放させるにはいい雰囲気です。立ってポーズをするのは仰々しくて照れくさくなる。だから、ソファーに座ってもらって学校の話や遊びの話をしながら、少しずつ彼から言葉を引き出す。引き出せば引き出すほど、動きも姿勢も柔らかくなってくる。かれの魅力はその脱力感と、それに反した切れ長の目。そのギャップがマッチして、少年らしいしなやかさと少し将来を感じさせるような背伸びをしたような大人びた雰囲気がある。その魅力に、気付いているのは私だけかもしれない。だから、私はその彼の姿を今の彼の真実だと規定をしたのです。その魅力を引き出すには、ポーズを付けているように指示をしないように、足を組んでみてと言うだけでいいと思いました。狙い通り、脱力をしてくれてしなやかな雰囲気のまま足を組んでくれました。あとは、光です。ガレージは明暗差を美しくつけやすい場所ですが、彼の表情がわかるかどうかぎりぎりのラインの逆光を選択しました。逆光が彼の輪郭のエッジを鋭くし、涼やかな切れ長の目を逆に強調すると思ったからです。
そうして撮られたこの写真は、彼の目には、ご家族の目にはどう映ったのでしょうか。
それは、彼らの心の中に。私は決して知ることのない領域なのかもしれません。
私は「心を射貫く」ことができたのか。
私は「自由」であったのか。
そうであったかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。
それはわからないから、また私は写真を撮り続けたいと思うのかもしれません。
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