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写真人文学: 第4章① 本文が読み解けない人向け解説
投稿日:2018/3/11
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さて今回は、写真人文学第4章「カントの主観」です。
いきなりですが、質問です。
Q. あなたはライフスタジオで写真を撮るときに、基準にしている考えは次のうちどちらでしょうか?
1.ライフスタジオで良いとされる写真を(なぜいいかはよくわからないけど)とにかく真似てみる。再現してみる。重要なのはライフスタジオで良いとされることから外れないことだ。
2.私自身が感じる美しさに忠実に写真を撮る。人と違うことはいとわない。重要なのは私がちゃんとその美しさを追求して自分自身の思う美しさを正確に写真に写せているかどうかである。
極端な質問ですが、いかがでしょうか?
ここまで極端な考えをしている人は少ないと思いますが、少しは当てはまる部分もあったのではないでしょうか。
これは、撮影者の視点が一体どこにあるのかを認識するためのものです。
1.を選んだ人は「客観的」かもしれませんし、「保守的・事実的・唯物論的」かもしれません。
2.を選んだ人は「主観的」かもしれませんし、「革新的・観念的・特殊的」かもしれません。
実はこの基準は、芸術作品や写真で何を撮るか、自らを職人として見るか芸術家として見るかにおいて、大きな違いが生じます。どちらが良くてどちらが悪いということもありません。これは傾向であり、タイプとも言えます。自分のタイプを知り、今後どのようにライフスタジオで自律的に写真の成長をしていくのか、歴史を紐解きながら考えてみましょう。
■古典主義とモダニズムについて
ヘーゲル(1770-1831)
美術館によく行く人はわかるかもしれませんが、ミロのビーナスなどのギリシャ芸術やミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチなどの作品など、少なくとも1800年代くらいまでの絵画や彫刻などの芸術作品を見てみると、面白いことに気が付きませんか?これらの多くは、ある一定の法則や規則の比率やバランスを再現しています。これは、かつての芸術の基準である美学が、「神の示した美しさこそが本質でありこれを発見し再現することが美である」という概念に基づいていました。これを「古典主義」の美学と言います。古典主義的な芸術が主流だったころは、芸術家の考えがどうであろうとそれ以外は認められなかった時代でした。なので、芸術家たちは売れるためにこの美の法則を再現する「職人」的な気質が必要でした。そのため、美学は体系化され秩序があり外れたものは出にくい反面、芸術家たちの内に宿る自由な発想を自由に出すことがしにくい時代でもありました。それを唱えたヘーゲルさんは、時代が変わるにつれて「本来の芸術の本質は無くなってしまうよ」と嘆いていました。
カント(1724-1804)
そのヘーゲルさんの嘆きのもとを作ったのは、カントさんの哲学でした。カントさんは、主に観念論という哲学が有名でそれは主観に基づいた生き方や考え方が存在の本質を決めるというものでした。これまでの、「美しいってこういうものなんだ~」的な認識のスタンスから、「他人にはどう見えるか知らないけど私にはこういうものが美しく見えるし、こういうのが好き!」という感覚であり個人の理性による判断によるものであるという概念に変化していきます。この流れはモダニズムの走りとも言えます。この流れから、芸術はヘーゲルの言う真理を再現しなくてもいいことになり晴れて自由の身になります。
※しかし、ひとつ疑問が…。「みんなちがって、みんないい」状態だと誰がどうやって美を評価するの?何でもありにならないの?むしろ個人は個人の間隔っていうことで、誰かとそれを共有することができないんじゃないの?なんて思ったあなた。私もそうですが、当然そのような疑問が沸きます。カントさんは、理性というものには「定言命法(ア・プリオリ)」があり、人は生まれながらにして善い(美しい)ことと悪いことを感じ取り見分ける能力があるということを言っております。カントの理論で言うと人はそこまで外れないと思うよということらしいのです。(そんなことばかりじゃないと思いますが…。)※
とにかくカントさんの提唱により、今まで鬱屈していた芸術家たちの炎は燃え上がります。「自分が思う美しさを自由に表現してもいい」「既存の美しさは重要ではない。重要なのは、創造的で自由であることだ」という人間的な欲求が溢れたかのように、モダニズムが始まります。
ここで勘違いしないために、注意しておきたいのは、カントさんは何もヘーゲルさんの言う「芸術とは真理を顕示することである」ということを否定しているわけではありません。表現の方法を知の蓄積や多数の経験からという外的に決められたものではなく、自分の主観から出る自分だけの表現でもいいのではないかと言いたいわけです。だから、古典主義のヘーゲルさんもモダニズムの元祖カントさんも「真理の顕示」という根本部分は違っていません。
サルトル(1905-1980)
モダニズムの発展において、もう一人欠かせない哲学者がいます。ジャン・ポール・・サルトルさんです。「嘔吐」という著書で有名なサルトルさんは古参ライフスタジオスタッフには有名なのでファンも多いのではないのでしょうか。かくいう私もファンです。サルトルさんのおかげで「生きる」ということを深く考えるようになりました。
さてさて、サルトルさんの言うことは、はカントさんの主観からの存在論すなわち存在とは個人的なものであるということ共通しています。「人は何に理由もなく一人である」というのは、誰に望まれても望まれなくても、理由なんかそこにはなくたった一人の人が存在しているという意味です。それは、誰の視点にも依存せずに自分の主観を基に自分の人生の意味や価値を作っていくことで自ら生きる意味を付与していくという力強い哲学です。人間という体だけがただ生きているだけでは何の意味も価値もなく、自らのせいに対して意味と価値を作るために、動き変化させ行動ししてくことがその人の実際の存在=実在であるという、惰性に依存せずに自律し絶えず自分の存在を顕していくための哲学です。
その考えのもと、サルトルさんが芸術について述べているのは芸術とは「内容」と「形式」があるよ、ということでした。実在の考えも、「人間の体・行動=形式」で「その人の意志・思考=内容」と言っています。なので、芸術作品も、物理的なオブジェそのものの美しさに感動しているというよりは、その作品に内包されている意志や思考・感性がそのオブジェに適切に表され滲み出ているから感動するのだと言っています。だから「内容」と「形式」が適切に一致する作品に私たちは感動を覚えるのだということです。
写真に置き換えるとどうでしょうか?形式はあくまでも写真。私たちの共通した媒介です。その内容は被写体を美しく写すことですが、そのために私たちは「被写体をどう規定し」「その美しさをどう表現するか」をまずは考えます。その「形式」と「内容」が一致しないと感動的な写真は生まれないので、まずは「内容」が重要ですが、「形式」が一番重要です。なにせ私たちの技術力がなければやみくもにシャッターを切ったところで、「内容」が表現できるはずもありませんから。だから、新人教育で必要最低限の技術は教えてくれますが、それはあくまで必要最低限であって、被写体を最大限美しく表現しようとすればすぐに足りなくなることに気が付きます。だから、新人だろうとベテランだろうと絶えず学び、歩みを止めず、最大限の表現をしていくことが私たち撮影者の使命であると言えます。人は知っているものしか撮れないなら、知っていくことを止めてはいけない。自分の世界と美しさに限界はないのですから。
そこがモダニズムの自由のしんどいところかもしれません。社会や文化の常識と構造に慣れてそれに依存して生きてきた人にとっては、これ以上新しいものなんてどう生まれるのかすらわかりません。私もそうやって生きてきたので、正直しんどいなぁと思ってしまいます。とてもじゃないけれどカントさんのいう「天才」にはなれません。自分の世界に限界はない。美しさが決められていない分、まだまだ足りないし求めれば求めるほど物理的に突飛なことをしなければいけないような気がする…。芸術の世界や写真の世界ではあるあるですね。作品の「内容」が第一に重要なのですが、「形式」に秩序も限界がない自由なものだとするともっとあるのではないか、既存のものではだめなのではないかというジレンマに憑りつかれます。
もちろん、絶えず美しさを追求し本質を表現していく努力は必要です。それを無くしては人間は進歩することがありませんから。しかし、サルトルさんは何も新しいものを生み出すことを義務付けているわけではありません。サルトルさんが言うには、「模倣」すなわち実際に在るものでしか、「内容」は表現できないので要はその「内容」に適切であるかどうかだということです。そして、そういった芸術作品は道具としては存在することができないというのです。つまり、その作品を使用することが目的ではなく、その作品を存在させることが目的であるということです。これは、第3章でも「道具」と「作品」の違いでも述べましたね。例えば、ハサミや包丁は使われなければ意味を成さないものですが、モナリザは唯一無二のただそこにあるだけで感動を覚えるものです。それが、商業目的にステッカーとして何千枚も売られているのを見ると途端に価値が下がったような気がしますよね。モナリザという形式は変わっていないのに。芸術作品とは、使用目的で存在しているわけではなく、作成者の考える「真理」がそこに顕れているだけで、価値のあるものということですね。
ここでモダニズムという概念を定義します。
「モダニズムとは、芸術の真理の顕示という目的は変わらないが、主観から生じる自律的な美的表現の流れである。」
■既存という錯覚からの脱却・因習の踏破
写真人文学の文章には「すべての写真は近代的だ」なんて雑な定義をされ方をしています。それは、カメラという機器自体が、産業革命の流れを汲む文明の利器であり、近代化の象徴でした。人の手によって行われていた仕事の機械化・効率化・資本主義社会への変化をもたらした産業革命こそが古くからあった良くも悪くも人間臭い世の中を、根本から変えたからです。その流れの中にあるカメラという機械から生み出された写真という産物は、当初は目の前の光景を絵画に代わって記録するという道具でしたが、目の前にある現実が人の目によって写り方が異なるため、出来上がりの写真も人によって異なってくるからです。ここに主観の存在が証明されます。
写真をモダニズムの流れに参戦させたのが、スティーグリッツさんという写真家でした。スティーグリッツさんの写真を見ていただければわかる通り、現在の私たちが見れば特段珍しいものではないのかもしれません。しかし、当時は記録的意味合いの強い写真においてはこのように被写体の生命力を表現することは驚かれたそうです。それもそのはず。この生命力を感じているのは他の誰でもないスティーグリッツさん自身だからです。そのスティーグリッツさんのが見えている被写体の美しさを表現している。言い換えれば、スティーグリッツさんの目を借りてその被写体を見ることになるのです。当時、このような絵画のように生き生きとした写真は珍しいものでした。そんなスティーグリッツさんは、写真をモダニズム的な芸術の領域に引き上げた人として高く評価されます。スティーグリッツさんの写真の特徴は、古典的で絵画的な美しさを保ちながら日常的なものから生命力や美しさを再発見するといったもので、写真を見てわかる通り誰か見ても、今見ても、美しく生命力のあるもののように見えます。受け入れられやすかったのも評価された一つの理由だと思います。
既存のものに真っ向から反抗したのは、マン・レイでした。何か恨みでもあるのかと言わんばかりに、既存の美学や因習を破壊していきます。「破壊なしに創造なし」といったプロレスラーがいましたが、まさにそんな感じ。「レイヨグラフ」というカメラを使わない技法で何時間もかけて写真を撮ったり、ダリの絵のような写真を撮ったり今見ても無茶苦茶に見えますが、ちゃんと写真は美しいです。そもそも、この人は無理にモダニズム的なことをしなくても当時は結構有名な写真家でした。そんな大物はこのような無茶苦茶なことをしたので、当時は賛否両論でした。しかし、どんなに酷評をくらっても彼はめげませんでした。まるでめげてはいけない理由がそこにあるように。彼は、のちにこう言っています。「芸術家として、因習を踏破するのが使命でありそれが未来を創ることだ。」と。そう、彼が無理やりにでも既存のものから脱却をはかり、新しいものを創出しようとしたのには、時代による社会的な背景も強かったのです。1960年代のことです。この時代は、人種・宗教・性別・文化・国家・階級など人を縛るあらゆる構造や制度が人の多様性に対応しきれなくなり、人々は限界を感じつつもそこから抜け出せないでいる現状がありました。内在的な不満を抱えつつも、自由になる勇気もなく、沈黙するしかないと多くの人が思っていた時代に、明るい未来を創るには自由になるためのきっかけが必要でした。それがマン・レイを始めとするモダニズムの芸術家たちでした。マン・レイは特に純粋で、人々に時代の変化をしていくための勇気をくれた芸術家であったのかもしれません。しかし、派手で形式的な表現ばかりが目立ってしまうことから、後世の芸術家たちは「意味」ではなく「差異」を求めてしまいがちになり、本来の意味のモダニズムは忘れ去られてしまうことになります。つまり、因習の打破ばかりに目が行き、本来の芸術の目的を見失ってしまったということです。ポストモダニズムの始まりです。
レイヨグラフ
■ドキュメンタリー写真
そんな激動の時代の中ベトナム戦争という近代の戦争が起き、第二次大戦以降、国家間の動きが次々と不穏な空気を帯びてき始めます。このままでは、国家間は分裂し人間という存在は悲しい社会の歯車であり同義でしかなくなってしまう。そんな危機感の中、社会に対して一石を投じたのが報道写真でした。しかしこの時代の報道写真は従来のただの記録装置としての報道写真ではなく、戦場にいる生身の人だからこそ感じる悲しさや不条理をふんだんに含んだ写真でした。そういった写真は、戦場からほど遠い場所に暮らしている人たちの心にも響きます。なぜならば、その写真という形式は、撮影者たちの隠しきれない「意志」と「感情」から生まれたものだったからです。ここから、人々は戦争の現実や惨状を現実感と人の感情を以て知ることになり反戦運動も高まります。自国の利益のためだけに戦争を起こすことが社会的に不正義であるという風潮を作ることに成功するのです。
この流れを汲み、ドキュメンタリー写真は社会と世界のあらゆることを撮影者の「意志」を以て表現し伝えるという領域を確保します。その写真は、美しく胸を打つものであり誰が見てもいつ見ても印象的な、普遍的なものになります。
そういった主観的で自律的な本質の顕示が成されていることから、ドキュメンタリー写真は純粋なモダニズムであると言えるのです。芸術家たちの領域で、今やモダニズムは無くなっているように見えます。しかし、社会や時代の流れの中にある現状の不満や不条理を明確にし、そして美しい未来を志向していく「意志」があるドキュメンタリー写真にこそモダニズムの精神は宿っています。
このように見てみると、古典主義もモダニズムも目的は同じなのです。古典主義では人間は皆同じであり世界は一つである事実を、モダニズムでは人間は皆違い多様性のもとに世界を広げていく意思を持っているだけのことです。人間は、「集」であり「個」である両面を持っているのが事実です。私の結論から言えば、古典的で歴史的なことを知らなければ道を外すし、自ら「意志」を持ち「意味」を付与していくために自由に変化しなければ自律できないと思います。ライフスタジオのスタッフはその両方をバランスよく持ち合わせた人に成長することを求められ。写真も人と同様にそうやって成長することを求められます。いや、自ら求めていくべきなのだと思います。
そう考えると、ライフスタジオで撮ろうとしている写真は、ドキュメンタリー写真に近いものであり芸術写真の意味合いも持っているのではないか…と思えます。
では、写真を撮るにあたってどのようにそれを考えていけばよいのでしょうか?
それはまた次回のお話。
今回はただの解説でした。
ここまで読んでくださってありがとうございました^^
いきなりですが、質問です。
Q. あなたはライフスタジオで写真を撮るときに、基準にしている考えは次のうちどちらでしょうか?
1.ライフスタジオで良いとされる写真を(なぜいいかはよくわからないけど)とにかく真似てみる。再現してみる。重要なのはライフスタジオで良いとされることから外れないことだ。
2.私自身が感じる美しさに忠実に写真を撮る。人と違うことはいとわない。重要なのは私がちゃんとその美しさを追求して自分自身の思う美しさを正確に写真に写せているかどうかである。
極端な質問ですが、いかがでしょうか?
ここまで極端な考えをしている人は少ないと思いますが、少しは当てはまる部分もあったのではないでしょうか。
これは、撮影者の視点が一体どこにあるのかを認識するためのものです。
1.を選んだ人は「客観的」かもしれませんし、「保守的・事実的・唯物論的」かもしれません。
2.を選んだ人は「主観的」かもしれませんし、「革新的・観念的・特殊的」かもしれません。
実はこの基準は、芸術作品や写真で何を撮るか、自らを職人として見るか芸術家として見るかにおいて、大きな違いが生じます。どちらが良くてどちらが悪いということもありません。これは傾向であり、タイプとも言えます。自分のタイプを知り、今後どのようにライフスタジオで自律的に写真の成長をしていくのか、歴史を紐解きながら考えてみましょう。
■古典主義とモダニズムについて
ヘーゲル(1770-1831)
カント(1724-1804)
※しかし、ひとつ疑問が…。「みんなちがって、みんないい」状態だと誰がどうやって美を評価するの?何でもありにならないの?むしろ個人は個人の間隔っていうことで、誰かとそれを共有することができないんじゃないの?なんて思ったあなた。私もそうですが、当然そのような疑問が沸きます。カントさんは、理性というものには「定言命法(ア・プリオリ)」があり、人は生まれながらにして善い(美しい)ことと悪いことを感じ取り見分ける能力があるということを言っております。カントの理論で言うと人はそこまで外れないと思うよということらしいのです。(そんなことばかりじゃないと思いますが…。)※
とにかくカントさんの提唱により、今まで鬱屈していた芸術家たちの炎は燃え上がります。「自分が思う美しさを自由に表現してもいい」「既存の美しさは重要ではない。重要なのは、創造的で自由であることだ」という人間的な欲求が溢れたかのように、モダニズムが始まります。
ここで勘違いしないために、注意しておきたいのは、カントさんは何もヘーゲルさんの言う「芸術とは真理を顕示することである」ということを否定しているわけではありません。表現の方法を知の蓄積や多数の経験からという外的に決められたものではなく、自分の主観から出る自分だけの表現でもいいのではないかと言いたいわけです。だから、古典主義のヘーゲルさんもモダニズムの元祖カントさんも「真理の顕示」という根本部分は違っていません。
サルトル(1905-1980)
さてさて、サルトルさんの言うことは、はカントさんの主観からの存在論すなわち存在とは個人的なものであるということ共通しています。「人は何に理由もなく一人である」というのは、誰に望まれても望まれなくても、理由なんかそこにはなくたった一人の人が存在しているという意味です。それは、誰の視点にも依存せずに自分の主観を基に自分の人生の意味や価値を作っていくことで自ら生きる意味を付与していくという力強い哲学です。人間という体だけがただ生きているだけでは何の意味も価値もなく、自らのせいに対して意味と価値を作るために、動き変化させ行動ししてくことがその人の実際の存在=実在であるという、惰性に依存せずに自律し絶えず自分の存在を顕していくための哲学です。
その考えのもと、サルトルさんが芸術について述べているのは芸術とは「内容」と「形式」があるよ、ということでした。実在の考えも、「人間の体・行動=形式」で「その人の意志・思考=内容」と言っています。なので、芸術作品も、物理的なオブジェそのものの美しさに感動しているというよりは、その作品に内包されている意志や思考・感性がそのオブジェに適切に表され滲み出ているから感動するのだと言っています。だから「内容」と「形式」が適切に一致する作品に私たちは感動を覚えるのだということです。
写真に置き換えるとどうでしょうか?形式はあくまでも写真。私たちの共通した媒介です。その内容は被写体を美しく写すことですが、そのために私たちは「被写体をどう規定し」「その美しさをどう表現するか」をまずは考えます。その「形式」と「内容」が一致しないと感動的な写真は生まれないので、まずは「内容」が重要ですが、「形式」が一番重要です。なにせ私たちの技術力がなければやみくもにシャッターを切ったところで、「内容」が表現できるはずもありませんから。だから、新人教育で必要最低限の技術は教えてくれますが、それはあくまで必要最低限であって、被写体を最大限美しく表現しようとすればすぐに足りなくなることに気が付きます。だから、新人だろうとベテランだろうと絶えず学び、歩みを止めず、最大限の表現をしていくことが私たち撮影者の使命であると言えます。人は知っているものしか撮れないなら、知っていくことを止めてはいけない。自分の世界と美しさに限界はないのですから。
そこがモダニズムの自由のしんどいところかもしれません。社会や文化の常識と構造に慣れてそれに依存して生きてきた人にとっては、これ以上新しいものなんてどう生まれるのかすらわかりません。私もそうやって生きてきたので、正直しんどいなぁと思ってしまいます。とてもじゃないけれどカントさんのいう「天才」にはなれません。自分の世界に限界はない。美しさが決められていない分、まだまだ足りないし求めれば求めるほど物理的に突飛なことをしなければいけないような気がする…。芸術の世界や写真の世界ではあるあるですね。作品の「内容」が第一に重要なのですが、「形式」に秩序も限界がない自由なものだとするともっとあるのではないか、既存のものではだめなのではないかというジレンマに憑りつかれます。
もちろん、絶えず美しさを追求し本質を表現していく努力は必要です。それを無くしては人間は進歩することがありませんから。しかし、サルトルさんは何も新しいものを生み出すことを義務付けているわけではありません。サルトルさんが言うには、「模倣」すなわち実際に在るものでしか、「内容」は表現できないので要はその「内容」に適切であるかどうかだということです。そして、そういった芸術作品は道具としては存在することができないというのです。つまり、その作品を使用することが目的ではなく、その作品を存在させることが目的であるということです。これは、第3章でも「道具」と「作品」の違いでも述べましたね。例えば、ハサミや包丁は使われなければ意味を成さないものですが、モナリザは唯一無二のただそこにあるだけで感動を覚えるものです。それが、商業目的にステッカーとして何千枚も売られているのを見ると途端に価値が下がったような気がしますよね。モナリザという形式は変わっていないのに。芸術作品とは、使用目的で存在しているわけではなく、作成者の考える「真理」がそこに顕れているだけで、価値のあるものということですね。
ここでモダニズムという概念を定義します。
「モダニズムとは、芸術の真理の顕示という目的は変わらないが、主観から生じる自律的な美的表現の流れである。」
■既存という錯覚からの脱却・因習の踏破
写真人文学の文章には「すべての写真は近代的だ」なんて雑な定義をされ方をしています。それは、カメラという機器自体が、産業革命の流れを汲む文明の利器であり、近代化の象徴でした。人の手によって行われていた仕事の機械化・効率化・資本主義社会への変化をもたらした産業革命こそが古くからあった良くも悪くも人間臭い世の中を、根本から変えたからです。その流れの中にあるカメラという機械から生み出された写真という産物は、当初は目の前の光景を絵画に代わって記録するという道具でしたが、目の前にある現実が人の目によって写り方が異なるため、出来上がりの写真も人によって異なってくるからです。ここに主観の存在が証明されます。
写真をモダニズムの流れに参戦させたのが、スティーグリッツさんという写真家でした。スティーグリッツさんの写真を見ていただければわかる通り、現在の私たちが見れば特段珍しいものではないのかもしれません。しかし、当時は記録的意味合いの強い写真においてはこのように被写体の生命力を表現することは驚かれたそうです。それもそのはず。この生命力を感じているのは他の誰でもないスティーグリッツさん自身だからです。そのスティーグリッツさんのが見えている被写体の美しさを表現している。言い換えれば、スティーグリッツさんの目を借りてその被写体を見ることになるのです。当時、このような絵画のように生き生きとした写真は珍しいものでした。そんなスティーグリッツさんは、写真をモダニズム的な芸術の領域に引き上げた人として高く評価されます。スティーグリッツさんの写真の特徴は、古典的で絵画的な美しさを保ちながら日常的なものから生命力や美しさを再発見するといったもので、写真を見てわかる通り誰か見ても、今見ても、美しく生命力のあるもののように見えます。受け入れられやすかったのも評価された一つの理由だと思います。
既存のものに真っ向から反抗したのは、マン・レイでした。何か恨みでもあるのかと言わんばかりに、既存の美学や因習を破壊していきます。「破壊なしに創造なし」といったプロレスラーがいましたが、まさにそんな感じ。「レイヨグラフ」というカメラを使わない技法で何時間もかけて写真を撮ったり、ダリの絵のような写真を撮ったり今見ても無茶苦茶に見えますが、ちゃんと写真は美しいです。そもそも、この人は無理にモダニズム的なことをしなくても当時は結構有名な写真家でした。そんな大物はこのような無茶苦茶なことをしたので、当時は賛否両論でした。しかし、どんなに酷評をくらっても彼はめげませんでした。まるでめげてはいけない理由がそこにあるように。彼は、のちにこう言っています。「芸術家として、因習を踏破するのが使命でありそれが未来を創ることだ。」と。そう、彼が無理やりにでも既存のものから脱却をはかり、新しいものを創出しようとしたのには、時代による社会的な背景も強かったのです。1960年代のことです。この時代は、人種・宗教・性別・文化・国家・階級など人を縛るあらゆる構造や制度が人の多様性に対応しきれなくなり、人々は限界を感じつつもそこから抜け出せないでいる現状がありました。内在的な不満を抱えつつも、自由になる勇気もなく、沈黙するしかないと多くの人が思っていた時代に、明るい未来を創るには自由になるためのきっかけが必要でした。それがマン・レイを始めとするモダニズムの芸術家たちでした。マン・レイは特に純粋で、人々に時代の変化をしていくための勇気をくれた芸術家であったのかもしれません。しかし、派手で形式的な表現ばかりが目立ってしまうことから、後世の芸術家たちは「意味」ではなく「差異」を求めてしまいがちになり、本来の意味のモダニズムは忘れ去られてしまうことになります。つまり、因習の打破ばかりに目が行き、本来の芸術の目的を見失ってしまったということです。ポストモダニズムの始まりです。
レイヨグラフ
■ドキュメンタリー写真
そんな激動の時代の中ベトナム戦争という近代の戦争が起き、第二次大戦以降、国家間の動きが次々と不穏な空気を帯びてき始めます。このままでは、国家間は分裂し人間という存在は悲しい社会の歯車であり同義でしかなくなってしまう。そんな危機感の中、社会に対して一石を投じたのが報道写真でした。しかしこの時代の報道写真は従来のただの記録装置としての報道写真ではなく、戦場にいる生身の人だからこそ感じる悲しさや不条理をふんだんに含んだ写真でした。そういった写真は、戦場からほど遠い場所に暮らしている人たちの心にも響きます。なぜならば、その写真という形式は、撮影者たちの隠しきれない「意志」と「感情」から生まれたものだったからです。ここから、人々は戦争の現実や惨状を現実感と人の感情を以て知ることになり反戦運動も高まります。自国の利益のためだけに戦争を起こすことが社会的に不正義であるという風潮を作ることに成功するのです。
この流れを汲み、ドキュメンタリー写真は社会と世界のあらゆることを撮影者の「意志」を以て表現し伝えるという領域を確保します。その写真は、美しく胸を打つものであり誰が見てもいつ見ても印象的な、普遍的なものになります。
このように見てみると、古典主義もモダニズムも目的は同じなのです。古典主義では人間は皆同じであり世界は一つである事実を、モダニズムでは人間は皆違い多様性のもとに世界を広げていく意思を持っているだけのことです。人間は、「集」であり「個」である両面を持っているのが事実です。私の結論から言えば、古典的で歴史的なことを知らなければ道を外すし、自ら「意志」を持ち「意味」を付与していくために自由に変化しなければ自律できないと思います。ライフスタジオのスタッフはその両方をバランスよく持ち合わせた人に成長することを求められ。写真も人と同様にそうやって成長することを求められます。いや、自ら求めていくべきなのだと思います。
そう考えると、ライフスタジオで撮ろうとしている写真は、ドキュメンタリー写真に近いものであり芸術写真の意味合いも持っているのではないか…と思えます。
では、写真を撮るにあたってどのようにそれを考えていけばよいのでしょうか?
それはまた次回のお話。
今回はただの解説でした。
ここまで読んでくださってありがとうございました^^
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