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写真人文学:隠された存在の本質①

投稿日:2017/9/14

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写真人文学
第3章 ハイデガーの存在:事物の再現ではない存在の体験


 
 
 お待たせいたしました!
写真人文学第3章です。
今回は深くて、そして広い!
写真は芸術か否かという最大の関心ごとの話なのですが、
今回は芸術の在り方とは何かという話です。
いよいよ、哲学らしくなってきましたね!
哲学が苦手な人もLet's Try♡
今回はまずは解説からです^^
 

◆ヘーゲルの言う芸術とは?
「芸術の中の真理は、何かに“似る”ではなく、何かに“なる”こと」
“似る”というのは形式のみ真似をするという意味であり、“なる”というのは理念を形式にするということ。
近代の合理主義のもとでは、「真理が何か」ということを自ら求め生み出す姿勢というよりは、「真理とはこういうもの」という先人たちが生み出したものを知り、
“似せる”ことで自ら生み出す過程を省略しているようにヘーゲルには見えたのではないか・・・。
だから、近代の合理主義によって芸術は終焉すると思っていたのではないか、と思います。
 
・ヘーゲルの芸術論
ヘーゲルにとって芸術とは、形式の中に理念が内包されているものとして見ており、ロマン主義の芸術を称賛していました。
ロマン主義の芸術の特徴として感情や非合理性を称賛していることが挙げられます。
内容が形式を先行しているというヘーゲルの考え方から、理念が芸術の形式を決定しているということが芸術であるというように見ていたようです。
また非合理的であるという特徴から、精神が芸術の真理や理念を把握しているというのがヘーゲルの芸術への姿勢であります。
近代の合理主義(無駄を排除する・論理的である・学問的である)のような考え方が芸術の領域にも及び、これ以上の理念の発展が見込めず、芸術が単に学問的に論じられ、
問われることに合理主義への強迫観念を抱き、芸術の終焉を見据えていました。
→つまり、ロマン主義的な芸術とは実物と精神世界が混在していたと見ることができ、抽象的ではなく空想的で幻想的である描写が多いです。
 
 
とにかくマリア様とか天使とか女神とかが、現実世界に現われていることが多いですね。
あとは、実在の人物のイメージをたぶん結構盛っています…。
とにかく解釈するポイントが多い!!その作品の持つ理念や伝えたいことや、
いわゆる「真理」を感覚的に感情的に示唆させようとするポイントがとにかくやたらと多いのが特徴です。
精神世界や、宗教上の世界、感情の深さとかをとにかく形にしようとしているので、ごちゃごちゃで派手で装飾的な印象を受けるかも。
要は人間の非生産的な部分に訴えかけるような作品が多いのかも。
 
 
◆ハイデガーの芸術は?
「芸術の真理は“似る“ことにある。その”似る“は、真理を発生させるようなものであり、どのように再現することが真理を発生させるようになるのかが問題だ。」
似せているのか、そうではないのかは問題ではないということですね。
それはあくまで形式上の問題だということだと。
“似る”ということは、すでに在るものの中に真理が発生するということであり、実存の中からそのものの存在の真理が何かがわかり、
それをどのように再現し発生させることができるのかが重要だということですね。
ハイデガーの著書である『芸術作品の根源』では、ハイデガーはこのように述べています。
 
「芸術とは真理の生成である」
 
ハイデガーの考えでは、はっきりと「実存」と「それがなんなのかを意味するもの」が分かれていました。
実存するものから人の解釈によって、その実存の本当の存在が見えてくるものだと、それが真理を生成しているものではないかということですね。
ハイデガーはこのことを、「大地」と「世界」に例えた独特の言い回しをしています。
 
「世界は大地の上にそれ自体を基づけ、大地は世界中いたるところに突出する。〔中略〕世界は、大地の上に安らいつつ、大地をいっそう浮き立たせようとする。
世界は、それ自体を開けるものとして、どのような閉ざされたものをも容認しないのである。
しかし、大地は、保蔵するものとして、世界をそれ自体の内に引き入れ、留保する傾向がある。」

 
つまり、この「大地」というのは実存であり。「世界」というのが存在とは何かということになります。
「大地」も「世界」も、真理であるとも言えます。
しかし、「大地」はもう既に在り見慣れているのでそれ以上の存在として見ることができないものであり、
「世界」はその「大地」を礎にして開けていくものであるということになります。
その特性として「大地」は真理を隠し、「世界」は「大地」に根差しているため「大地」に隠された真理を明らかにします。
そのことが、「世界」が「大地」に隠された真理を生成するということです。
写真人文学の文章の中では、それを「存在者」「存在」という言葉で表されています。
 
 
◆「存在者」と「存在」
写真人文学の言葉を使って「存在者」と「存在」の概念を整理してみます。
 
「存在者」→“目に見えるもの。秋になると木の枝から落ちる落ち葉を見ながら雨水に濡れているときの、その落ち葉のことを言う。”
つまり「存在者」とは、実際に存在しているもので、それが誰にどう思われようと、とにかくここに存在していることは変わらないものです。
例えば、私がAさんからは尊敬されていて、Bさんからは嫌われているとします。
私という存在の本質は、Aさんから思われている私の存在が正しいのか、それともBさんから思われている私の存在が正しいのか。
しかし、この二人の私の存在をどう思われていようと、私は私でしかなく、それは変わらない事実です。
誰にどう思われようと、なにが正しかろうと、私という存在がここにいて生きていることは変わりません。
誰にどう思われようと、その誰かの思ったように変化はしないということです。
これは、哲学用語で「唯物論」と言い換えることもできるのかもしれません。
「唯物論」とは、観念的にどのような思索をしようとも「唯(ただ)、物が在る」という事実からは逃れることができないということです。
(詳しく知りたい人は、私に聞いてね♡)
 
・「存在」→“目に見えないもの。オーヘンリーの小説に出てくる、最後の葉を見ながら生命と死の本質を体験させること。
「存在」とは、目に見えている事象や現象からその本質を探ろうとしたところで見えてくるものとも言えるし、
文章中にも出てきた、ロラン・バルトの母親の例やハンウンヨンの歌にもあるように、実際にそのものや人がどうであれ、
それを見ている人に何かを体験させ、意味を持たせるもの。そういったその人の主観によって、対象の存在が規定されること。
それが対象の存在を決めるものになるのです。
「存在者」の概念を唯物論というのと対照的に、「存在」の概念は観念論というのかもしれません。
観念論とはその人の観念によって、見るものの存在が変わってくるという概念です。
例えば、自らの人生を悲しく寂しいものだと嘆くと人生は悲観的に見えるし、楽しく希望に満ち溢れていると見れば、
人生は命の煌めきに満ちた素晴らしいものだと認識できるのです。
その認識がその人の人生の在り方を決めます。これは観念論的認識の為せるものかもしれませんね。
 
これらの言葉の意味を整理したところで、「存在者」と「存在」の関係について、少し考えてみたいと思います。
ハイデガーはその関係性を、「道具」と「作品」に分けて説明していると文中にあります。
 
「道具」…徹底して何かの目的のために作られたもの。実用性と用途。
「作品」…何の目的も無く、存在そのものに異議を持つもの。どんな意味も含んではいけない。純粋な顕示。

 
ハイデガーがヘーゲルの芸術論を批判したのは、ヘーゲルの考え方にはこの「存在者」と「存在」が混在していたからです。
ヘーゲルの考え方には、哲学と美学が混在してしたため、芸術の解釈を論じることを良しとしない傾向がありました。
つまり、芸術を学問とすることを否定しておきながら真理を規定しようとしていたからです。
芸術作品の真理としての在り方はハイデガーもヘーゲルに似ていたのだけれど、ハイデガーの方はより具体的であり、整理されていると言った方がいいのかもしれません。
 
今、私の手元に在るペンも紅茶の入っているカップも、その目的はマーカーを引くための「道具」であり、紅茶という液体を入れる入れ物としてとしての「道具」です。
それが、当然のようですがペンもカップもそれ自体を見たことが無い人にとってはただの物かもしれないし、それ自体の意味が分からないかもしれませんね
。今、私たちは当然のようにその道具を使っているのは、その存在者に対し目的と用途を本質として意味付けして存在としているからです。
作品とは、それが在るだけで意義があるもの。絵画も彫刻も、それは実用性がありませんし実用性や用途を問う人もいないでしょう。
それは、在るだけで存在意義があり、そのものを見て見る人の中に何かしらを真理や本質を生むかもしれないし生まないかもしれないもの。
芸術作品とは、そういうものであり、美術館へ行くとわかるように対象を見て、何かを受け取り、その人が何を経験的に連想させるのかによって生まれるものが変わります。
作品とは、そのものが何の意図で作られたのかは、見ている人にとってはあまり関係のないものなのかもしれません。
そこには、作品を見た人にとっての本質である存在が残るのみです。
 
文章中で出てきた「ゴッホの靴の絵」の話がいい例だと思います。
ゴッホがその靴の絵をどういう意図で描いたのかということとは関係なく、その靴の絵を見たときに筆者のように父親の境遇と重ねて絵を通して
父の人生の経験をする人もいるでしょうし、まったく違う本質を見る人もいるでしょう。(→存在)
しかしその「絵」がそのものであることは変わらずそこにあります。(→存在者)
 
ミュシャの絵を見てみましょう。
彼は最初、ポスターや広告のイラストを描くイラストレーターでした。
彼の描く絵は彼の生まれた育った文化である古き良きスラブ民族の香りと、古典的な世界観と近代的なイラストが混在しています。
彼の絵はもともとポスターや広告としての用途と目的があったので、作品として見なされず「道具」としての絵の役割を果たしていました。
彼の画力や表現力の高さにも関わらず、彼の絵が「道具」としての存在しかなかったからです。しかし、時代は変わります。
ただの街のポスターだった彼の絵が芸術として評価されるようになってから、ミュシャの絵として画集が出るようになりました。
美術展も頻繁に開かれるようになりました。
それは、ポスターとしての用途と目的が無くなった時に、彼の死後に、その絵の価値を再考したときに、芸術としての意味付けをされたからです。
これは、ミュシャの絵であるという存在者は変わっていませんが、その作品自体の評価という存在が時代によって変わったからです。
 

 
長いので②へ続く…

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