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京都桂店
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いもうと。-形のないものを形にすること―
投稿日:2017/3/1
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Tokorozawa Photo
Photo: Sastuki Kudo
Coordinate: Kaori Kinoshita
想いを形に。
心の動きを形に。
見えないものを見えるように。
そうでないと、今たしかにここに在る私の想いも、あなたの心も、過ぎ去ったものとしていつかは忘れ去られてしまうのかもしれないから。
仕事が終わって家に帰ると、旅行鞄の中に白いストラップのやや小さい一眼レフの、青いレンズフィルターのふちが光っていて、ああそういえばこの間の旅行で撮った写真を整理していないな、なんて気付く。
大学生の頃に格安で買って、思えば10年以上使っている私の一眼レフ。
センサーが古くて、ピントなんかレンズがウィンウィンとせわしなく音を立てて不確定に外れるし、色だって1000万画素しか出ないし、ISOは1600が限界で。
そんな中途半端なデジタルのほとんど時代遅れでカメラだけど、長く使い込んでいるからか、なぜか愛着があって、旅行や猫の写真を撮るときには必ず持っていく。
そんな時代遅れの小さなカメラから取り出したデータは、見事なほどその時の記憶を留めていて、ピントなんかどうでも良くなるくらい私にとっては記憶の集合体であり、楽しいという感情が確かに存在しているという確認物である。
そのときみんなで見た桜をできるだけきれいに美しく撮ろうと努力してしまうのは、職業病なのか、それともやや濃いめのピンク色の世界から特別な感情を抱いていたからか。
感情が過ぎ去った今ではそれはどちらだったのか覚えてはいないけれど、桜というモノから何かを感じていたのは確かな証拠で。
私にとって、その旅行が、その桜が、誰かと過ごした時間が、ただの結果物ではなく、意味があったものであるということが、どこか記憶に体温を与える。
それはスタジオにいればなおさら、そんな毎日の連続であるということを、しみじみと感じる。
朝陽がスタジオに入ったばかりの土曜日、午前9時。
スタッフ以外でその日に最初に出会ったのは、その姉妹だった。
姉は背筋を伸ばし凛としていて、妹はおっとり笑顔が多かった。
対照的な二人。だからこそ仲が良く、スタジオに入ってすぐに二人のおしゃべりで空気が賑やかになったのを覚えている。
姉がヘアメイクをしている間、今日の撮影の話をママとしてるときに、妹が「お姉ちゃんはいつも可愛いなー」と言いながら、姉に向ける真剣な眼差しに気が付く。
この眼差しは、どこかで見覚えがある。
いや、見覚えがあるというよりは、自分の記憶を呼び覚ますもののようで。
ああ、そうか、この眼差しは、姉への憧れの眼差しだ。
この妹にとって姉は、センセーショナルで洗練された存在で憧れの対象。
自分もこうなりたいけれど、自分ではどうあってもかなわない。同じ存在になれない。
少しの悔しさが混じる眼差し。
私にも5歳上の姉がいる。私のとっても姉は先に人生を歩み、常に流行りやファッションをリードしている存在だった。
妹の眼差しを見ていると、私の幼いころの姉への想いと重なるようで、同調してしまうような感覚があった。
私を置いて、前へと走る姉の存在へ抱く憧れを通り越した悔しさを、口にしたところで負け惜しみにしか聞こえないし、それを口にする道理もないと思っていた。
私と姉は違う。だから、私は私の道を歩くと決めるまで、この想いが付いて回ったのを覚えている。
私が彼女を見ると、その思いと重なってしまうのは、彼女に記憶や想いを投影しているのは明らかで、彼女本人にはその気がなくても、私自身が彼女の眼差しや表情に感情を発生させて意味を持たせていることは確かである。
それが自分勝手なのか、そうで在るべきなのかはわからないが、ただの妹として見ることだけでは、彼女自身が写真で引き出すことができないのは経験で知っている。
だから、私の目で見て発生した感情で被写体である彼女に意味を持たせることが、写真を用途で見ることなく、生きたものとしての命を与えることであると、そう考えている。
彼女自身を撮りたいな。
そう思っているときに、彼女もドレスでソロ写真を撮るはこびになった。
私が彼女自身を何で見出したかは、眼差しである。
その眼差しから発せられたものは言葉にするにはとてもじゃないけれど繊細で、形が在るものから発せられた形のない何か。
それが彼女自身であると思った。
それを形で言うならば、伸びた睫毛、そこから覗く黒目、きゅっと少し力の入った口角。その形から発せられるものは、今この瞬間ここにしかいない彼女であって、今私が言葉にした形を他の誰かが同じようにしても、きっとこの情感を発せられるのは彼女しかいないだろう。
だから、言葉にするもどかしさを感じてしまう。
私が、彼女自身を感じているのはその形になっているものからなんだけれど、実際に感じ取っているのは形じゃない何か。
それを表現するのも形である写真でしかないから、写真で私の感じているものを、写実的に、でも人の感情に触れるように撮ること。それが、私の写真であり、ライフスタジオの写真なのだと思っている。
ある程度、写真を流れで撮っていく中で、会話をし、端々に感じる彼女の姉への憧れとコンプレックス。
彼女には彼女の魅力があって、二人とも十分魅力的だ。
二人はもともと違う人だから、違っていていい。
それを伝えたいなんて、驕った考えはないけれど、私は姉とは違う魅力を持った彼女を最大限美しく、彼女らしく撮りたいと思っただけ。
彼女が姉への憧れを持っていることを否定するつもりはないし、それも彼女の存在の一部だ。だから、その羨望の眼差しから彼女自身を感じたのは確かだし、それが今の彼女自身の自然な魅力であると言える。
姉の魅力を寂しそうな笑顔でつらつらと話す彼女の話に相槌を打ちながら、
だからその表情、睫毛と、少しかたく結んだ口もと。
彼女の健気な感情は、遠くだと見落としてしまうから。
なるべく、近くで。
だけど、彼女の胸を締め付ける少しの苦しさは、左の空間に任せて。
控えめで、健気な彼女の心情を表すのは寒色のラベンダー。
透き通るような感情と、届かない想いは、心を滲ませるような色味で表せるような気がして、私との距離感を表現するのも兼ねてぼかして空間に散らす。
髪を透かして、頬と鼻筋まで届く光は、美しく彼女の輪郭を作るように。
そしてまるであの日の名残のように。
形を作るということは、そのために、瞬時に構成するものを判断し選択し、組み立てること。
想いを形作るには、写真を形作るものを、料理の材料のように、絵画の絵の具のように、その要素ひとつひとつに意味を付け、写真全体に意味を作り価値を生むこと。
見えないものをできるだけ見えるように、カメラを通し、被写体と話し、自分の主観を信じて、組み立てること。
それは形だけど、その意味さえ知らなければ、何の意図もなければ、それはただのモノと同じだから。
想いを形にするには、写真というモノに人を表すことをすること。
中身を、外側から作ること。
そのために、形を構成するフレーミング・光・露出・インテリア・ポージング・表情というものたちを駆使し、ただそこに在るものという結果物としてだけではなく、それを超えた唯一無二の存在として、被写体を際立たせること。
それが私の考える、形のないものを形にする方法。
こうして彼女から発せられるものを形作り、彼女だけの特別な存在を示すことで、写真がただの写真としてではなく、永遠に心に残る何かになったらいいと心から望んでいる。
写真が、生きているように。
写真を見るだけで、鼓動が聞こえるように。
Photo: Sastuki Kudo
Coordinate: Kaori Kinoshita
想いを形に。
心の動きを形に。
見えないものを見えるように。
そうでないと、今たしかにここに在る私の想いも、あなたの心も、過ぎ去ったものとしていつかは忘れ去られてしまうのかもしれないから。
仕事が終わって家に帰ると、旅行鞄の中に白いストラップのやや小さい一眼レフの、青いレンズフィルターのふちが光っていて、ああそういえばこの間の旅行で撮った写真を整理していないな、なんて気付く。
大学生の頃に格安で買って、思えば10年以上使っている私の一眼レフ。
センサーが古くて、ピントなんかレンズがウィンウィンとせわしなく音を立てて不確定に外れるし、色だって1000万画素しか出ないし、ISOは1600が限界で。
そんな中途半端なデジタルのほとんど時代遅れでカメラだけど、長く使い込んでいるからか、なぜか愛着があって、旅行や猫の写真を撮るときには必ず持っていく。
そんな時代遅れの小さなカメラから取り出したデータは、見事なほどその時の記憶を留めていて、ピントなんかどうでも良くなるくらい私にとっては記憶の集合体であり、楽しいという感情が確かに存在しているという確認物である。
そのときみんなで見た桜をできるだけきれいに美しく撮ろうと努力してしまうのは、職業病なのか、それともやや濃いめのピンク色の世界から特別な感情を抱いていたからか。
感情が過ぎ去った今ではそれはどちらだったのか覚えてはいないけれど、桜というモノから何かを感じていたのは確かな証拠で。
私にとって、その旅行が、その桜が、誰かと過ごした時間が、ただの結果物ではなく、意味があったものであるということが、どこか記憶に体温を与える。
それはスタジオにいればなおさら、そんな毎日の連続であるということを、しみじみと感じる。
朝陽がスタジオに入ったばかりの土曜日、午前9時。
スタッフ以外でその日に最初に出会ったのは、その姉妹だった。
姉は背筋を伸ばし凛としていて、妹はおっとり笑顔が多かった。
対照的な二人。だからこそ仲が良く、スタジオに入ってすぐに二人のおしゃべりで空気が賑やかになったのを覚えている。
姉がヘアメイクをしている間、今日の撮影の話をママとしてるときに、妹が「お姉ちゃんはいつも可愛いなー」と言いながら、姉に向ける真剣な眼差しに気が付く。
この眼差しは、どこかで見覚えがある。
いや、見覚えがあるというよりは、自分の記憶を呼び覚ますもののようで。
ああ、そうか、この眼差しは、姉への憧れの眼差しだ。
この妹にとって姉は、センセーショナルで洗練された存在で憧れの対象。
自分もこうなりたいけれど、自分ではどうあってもかなわない。同じ存在になれない。
少しの悔しさが混じる眼差し。
私にも5歳上の姉がいる。私のとっても姉は先に人生を歩み、常に流行りやファッションをリードしている存在だった。
妹の眼差しを見ていると、私の幼いころの姉への想いと重なるようで、同調してしまうような感覚があった。
私を置いて、前へと走る姉の存在へ抱く憧れを通り越した悔しさを、口にしたところで負け惜しみにしか聞こえないし、それを口にする道理もないと思っていた。
私と姉は違う。だから、私は私の道を歩くと決めるまで、この想いが付いて回ったのを覚えている。
私が彼女を見ると、その思いと重なってしまうのは、彼女に記憶や想いを投影しているのは明らかで、彼女本人にはその気がなくても、私自身が彼女の眼差しや表情に感情を発生させて意味を持たせていることは確かである。
それが自分勝手なのか、そうで在るべきなのかはわからないが、ただの妹として見ることだけでは、彼女自身が写真で引き出すことができないのは経験で知っている。
だから、私の目で見て発生した感情で被写体である彼女に意味を持たせることが、写真を用途で見ることなく、生きたものとしての命を与えることであると、そう考えている。
彼女自身を撮りたいな。
そう思っているときに、彼女もドレスでソロ写真を撮るはこびになった。
私が彼女自身を何で見出したかは、眼差しである。
その眼差しから発せられたものは言葉にするにはとてもじゃないけれど繊細で、形が在るものから発せられた形のない何か。
それが彼女自身であると思った。
それを形で言うならば、伸びた睫毛、そこから覗く黒目、きゅっと少し力の入った口角。その形から発せられるものは、今この瞬間ここにしかいない彼女であって、今私が言葉にした形を他の誰かが同じようにしても、きっとこの情感を発せられるのは彼女しかいないだろう。
だから、言葉にするもどかしさを感じてしまう。
私が、彼女自身を感じているのはその形になっているものからなんだけれど、実際に感じ取っているのは形じゃない何か。
それを表現するのも形である写真でしかないから、写真で私の感じているものを、写実的に、でも人の感情に触れるように撮ること。それが、私の写真であり、ライフスタジオの写真なのだと思っている。
ある程度、写真を流れで撮っていく中で、会話をし、端々に感じる彼女の姉への憧れとコンプレックス。
彼女には彼女の魅力があって、二人とも十分魅力的だ。
二人はもともと違う人だから、違っていていい。
それを伝えたいなんて、驕った考えはないけれど、私は姉とは違う魅力を持った彼女を最大限美しく、彼女らしく撮りたいと思っただけ。
彼女が姉への憧れを持っていることを否定するつもりはないし、それも彼女の存在の一部だ。だから、その羨望の眼差しから彼女自身を感じたのは確かだし、それが今の彼女自身の自然な魅力であると言える。
姉の魅力を寂しそうな笑顔でつらつらと話す彼女の話に相槌を打ちながら、
だからその表情、睫毛と、少しかたく結んだ口もと。
彼女の健気な感情は、遠くだと見落としてしまうから。
なるべく、近くで。
だけど、彼女の胸を締め付ける少しの苦しさは、左の空間に任せて。
控えめで、健気な彼女の心情を表すのは寒色のラベンダー。
透き通るような感情と、届かない想いは、心を滲ませるような色味で表せるような気がして、私との距離感を表現するのも兼ねてぼかして空間に散らす。
髪を透かして、頬と鼻筋まで届く光は、美しく彼女の輪郭を作るように。
そしてまるであの日の名残のように。
形を作るということは、そのために、瞬時に構成するものを判断し選択し、組み立てること。
想いを形作るには、写真を形作るものを、料理の材料のように、絵画の絵の具のように、その要素ひとつひとつに意味を付け、写真全体に意味を作り価値を生むこと。
見えないものをできるだけ見えるように、カメラを通し、被写体と話し、自分の主観を信じて、組み立てること。
それは形だけど、その意味さえ知らなければ、何の意図もなければ、それはただのモノと同じだから。
想いを形にするには、写真というモノに人を表すことをすること。
中身を、外側から作ること。
そのために、形を構成するフレーミング・光・露出・インテリア・ポージング・表情というものたちを駆使し、ただそこに在るものという結果物としてだけではなく、それを超えた唯一無二の存在として、被写体を際立たせること。
それが私の考える、形のないものを形にする方法。
こうして彼女から発せられるものを形作り、彼女だけの特別な存在を示すことで、写真がただの写真としてではなく、永遠に心に残る何かになったらいいと心から望んでいる。
写真が、生きているように。
写真を見るだけで、鼓動が聞こえるように。
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