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京都桂店
scrollable
-モノ・物・mono-
投稿日:2017/1/15
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-モノ・物・mono-
Tokorozawa Photo
Photo by Kudo
Coordinate by Kaori
いくら気持ちがいっぱいで、心が溢れ出しそうなほど情感が昂ぶっていても、
それが誰かに届かなければ、ただ胸が苦しくなるだけ。
だから、人は気持ちをたくさんの種類の言葉にしたり、形にしたり、歌にしたり、
目に見え、耳に聞こえ、肌で感じられるようにするのかもしれません。
高校時代、美術科にいました。
主に絵画と陶芸を教わっていましたが、一度だけフィルム写真に触れる機会がありました。
写真を撮るのは初めてではありませんでしたが、カメラのファインダーを覗き、
実際に在るものを絵画のように撮ろうと思っても、筆を滑らせるように写真を撮ろうと思っても、
なかなか自由にいかないものだと感じました。
真っ白なキャンバスの上で、自分が思う色を混ぜ、描きたいものを描くというシンプルなプロセスを踏むわけではなく、
写真は実際にそこに在るものをどのように撮るかというものです。
セッティングをして、捉えるのは一瞬。
絵画に慣れていた私にとって、写真という表現方法は、とても物理的で現実的で科学的で、
なによりも現実の物質的なものや時間的なものの制約が多いと感じました。
高校生の頃の写真という種類へ抱いた印象は制約ゆえの難しさでしたが、大人になり、
こうして写真を仕事にして毎日写真を撮り続ける毎日を送っていると、
だんだん写真という表現方法がいかに複雑であり、それゆえに自由になれるかがわかってきます。
物質的・時間的制約があるからこそ、その表現方法は写真の構成要素の組み合わせで、何百通りにもなります。
たとえば、まずは撮影者の意図と被写体の雰囲気の組み合わせだけでも人の数だけありますし、
目の前に広がる選択肢をひとつひとつ選んでいくことだけでも、無数に組み合わせがあります。
選択肢を選ぶということは、その物質的な要素ひとつひとつに意味をつけ、それらを選んだ理由をつけ、
組み合わせた意図を説明できることを意味します。
この写真で言うと、被写体は5歳と8歳の元気でがっちりした男の子2人に、
コーディネーターのかおりちゃんはその子たちに合うようなMA-1のブルゾンとニット帽を合わせてくれたので、
私はあえて光がシビアなガレージで撮るという選択をしました。
それは、被写体と衣装の二つの要素に自然に合うのはガレージであると判断したから。
さらに、光はスタンドライトの微弱な光を右側の弟の首筋に当たるようにすることで、
左側にいる兄の首筋に当たる光と揃えることで被写体二人に同じように光が当たるようにし、
画面全体の統一感を整えると同時に、それぞれの鼻筋に僅かに光を当て、表情をわかるようにしました。
車を全体的に入れないでフロントガラスの部分で切り、被写体をシートの上に立たせ、
背景左側の光が当たる壁にそこより露出が低い被写体を置くようにすることで、
自然に目が被写体の表情に行くようにします。
そして、右下の看板をいれることで、画面の重さのバランスを保ち、
右上に階段の斜めのラインを入れることで直線だらけの画面の角を取る意図があります。
構図は二分割と三分割の組み合わせ。
それは、絵的にバランスが美しくする意図もありますが、
この二人がここにいるとわかりやすく表現をすることで、映画の1シーンのような構成を作り、
この写真を見ている人にシナリオやストーリーを想像させる意図があります。
レンズは望遠200ミリ。それは、ガレージの硬質で複雑なラインで被写体の存在感を消さずに、
少しぼかすことで被写体を引き立たせています。
なによりも、モノクロという色の制約をつけることで、
様々な色が飛び交うガレージで光と被写体に集中させることができ、男性的な世界観を出すことができます。
それが、幼さが徐々に抜け出した2人を表現するのに適切な構成であると考えたからです。
写真を構成する要素ひとつひとつに意味を持たせ、撮影者が規定をすることで、
現実に在るもの、実際に見えるものを、さらに増幅させることともに、写真の中の世界を再構築させることができるのです。
絵画は創造。これには主観を重視しますが、
写真は現実世界の再構築。これは客観を得ていないとできないものです。
だから、絵画と違った物質的なリアリティがあり、制限があります。
その中で、人の意志を込めた再構築をするということは、その写真は共感を呼ぶとともに、
一種、何か生きたものを感じさせることができます。
それは、モノだけでは数値化できない何か。
人間ではないと感じられない何か。
そうして作られた世界観から、この写真の中身が見えてきます。
全ての構成要素が組み合わさったとき、この2人だけの、このタイミングだけの、
雰囲気と空気感が写真という四角い制約のあるフレームの中に広がり、
同じものはない特別な写真になるのです。
写真には制限が多く、不自由であるように思えます。
しかし、それは人も同じです。
なぜならば、写真を撮るということも人も現実に在るものだから。
人は感覚や意志、心も現実にはありますが現実にある物体を超えることがあります。
だから、現実の中でもっともっとと心が叫ぶことがありますが、
同時に現実の世界の有限性を理解し許すことが重要なのだと思います。
現実を超える感覚も必要ですが、そのものの有限性を許すことがなんにでも愛を持つということ。
人にも、スタジオにも、自分にも。
限りがあるから、私たちは考え、悩み、血の通った人として生きることができる。
写真はモノから構成されますが、
良い写真に体温を感じるのはモノの有限性を知っている人が撮影したからかもしれないなと。
現実を愛する人なのかもしれないと、そう感じるのです。
Tokorozawa Photo
Photo by Kudo
Coordinate by Kaori
いくら気持ちがいっぱいで、心が溢れ出しそうなほど情感が昂ぶっていても、
それが誰かに届かなければ、ただ胸が苦しくなるだけ。
だから、人は気持ちをたくさんの種類の言葉にしたり、形にしたり、歌にしたり、
目に見え、耳に聞こえ、肌で感じられるようにするのかもしれません。
高校時代、美術科にいました。
主に絵画と陶芸を教わっていましたが、一度だけフィルム写真に触れる機会がありました。
写真を撮るのは初めてではありませんでしたが、カメラのファインダーを覗き、
実際に在るものを絵画のように撮ろうと思っても、筆を滑らせるように写真を撮ろうと思っても、
なかなか自由にいかないものだと感じました。
真っ白なキャンバスの上で、自分が思う色を混ぜ、描きたいものを描くというシンプルなプロセスを踏むわけではなく、
写真は実際にそこに在るものをどのように撮るかというものです。
セッティングをして、捉えるのは一瞬。
絵画に慣れていた私にとって、写真という表現方法は、とても物理的で現実的で科学的で、
なによりも現実の物質的なものや時間的なものの制約が多いと感じました。
高校生の頃の写真という種類へ抱いた印象は制約ゆえの難しさでしたが、大人になり、
こうして写真を仕事にして毎日写真を撮り続ける毎日を送っていると、
だんだん写真という表現方法がいかに複雑であり、それゆえに自由になれるかがわかってきます。
物質的・時間的制約があるからこそ、その表現方法は写真の構成要素の組み合わせで、何百通りにもなります。
たとえば、まずは撮影者の意図と被写体の雰囲気の組み合わせだけでも人の数だけありますし、
目の前に広がる選択肢をひとつひとつ選んでいくことだけでも、無数に組み合わせがあります。
選択肢を選ぶということは、その物質的な要素ひとつひとつに意味をつけ、それらを選んだ理由をつけ、
組み合わせた意図を説明できることを意味します。
この写真で言うと、被写体は5歳と8歳の元気でがっちりした男の子2人に、
コーディネーターのかおりちゃんはその子たちに合うようなMA-1のブルゾンとニット帽を合わせてくれたので、
私はあえて光がシビアなガレージで撮るという選択をしました。
それは、被写体と衣装の二つの要素に自然に合うのはガレージであると判断したから。
さらに、光はスタンドライトの微弱な光を右側の弟の首筋に当たるようにすることで、
左側にいる兄の首筋に当たる光と揃えることで被写体二人に同じように光が当たるようにし、
画面全体の統一感を整えると同時に、それぞれの鼻筋に僅かに光を当て、表情をわかるようにしました。
車を全体的に入れないでフロントガラスの部分で切り、被写体をシートの上に立たせ、
背景左側の光が当たる壁にそこより露出が低い被写体を置くようにすることで、
自然に目が被写体の表情に行くようにします。
そして、右下の看板をいれることで、画面の重さのバランスを保ち、
右上に階段の斜めのラインを入れることで直線だらけの画面の角を取る意図があります。
構図は二分割と三分割の組み合わせ。
それは、絵的にバランスが美しくする意図もありますが、
この二人がここにいるとわかりやすく表現をすることで、映画の1シーンのような構成を作り、
この写真を見ている人にシナリオやストーリーを想像させる意図があります。
レンズは望遠200ミリ。それは、ガレージの硬質で複雑なラインで被写体の存在感を消さずに、
少しぼかすことで被写体を引き立たせています。
なによりも、モノクロという色の制約をつけることで、
様々な色が飛び交うガレージで光と被写体に集中させることができ、男性的な世界観を出すことができます。
それが、幼さが徐々に抜け出した2人を表現するのに適切な構成であると考えたからです。
写真を構成する要素ひとつひとつに意味を持たせ、撮影者が規定をすることで、
現実に在るもの、実際に見えるものを、さらに増幅させることともに、写真の中の世界を再構築させることができるのです。
絵画は創造。これには主観を重視しますが、
写真は現実世界の再構築。これは客観を得ていないとできないものです。
だから、絵画と違った物質的なリアリティがあり、制限があります。
その中で、人の意志を込めた再構築をするということは、その写真は共感を呼ぶとともに、
一種、何か生きたものを感じさせることができます。
それは、モノだけでは数値化できない何か。
人間ではないと感じられない何か。
そうして作られた世界観から、この写真の中身が見えてきます。
全ての構成要素が組み合わさったとき、この2人だけの、このタイミングだけの、
雰囲気と空気感が写真という四角い制約のあるフレームの中に広がり、
同じものはない特別な写真になるのです。
写真には制限が多く、不自由であるように思えます。
しかし、それは人も同じです。
なぜならば、写真を撮るということも人も現実に在るものだから。
人は感覚や意志、心も現実にはありますが現実にある物体を超えることがあります。
だから、現実の中でもっともっとと心が叫ぶことがありますが、
同時に現実の世界の有限性を理解し許すことが重要なのだと思います。
現実を超える感覚も必要ですが、そのものの有限性を許すことがなんにでも愛を持つということ。
人にも、スタジオにも、自分にも。
限りがあるから、私たちは考え、悩み、血の通った人として生きることができる。
写真はモノから構成されますが、
良い写真に体温を感じるのはモノの有限性を知っている人が撮影したからかもしれないなと。
現実を愛する人なのかもしれないと、そう感じるのです。
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